最終話 37歳の夏
最終話は横浜のみなとみらいを舞台にしています。よかったらストリートビューでご覧下さい。
『万国橋』
神奈川県横浜市中区新港
七月二十一日 午前六時十分
昨夜十時から五時まで、俺と中山、岡島と飯倉はベイサイドファクトリーで作業をしていた。
作業を終えて横浜の事務所に戻るはずが、帰り道にしては遠回りな、みなとみらいの端にある運河にかかる万国橋で俺だけ車から降ろされた。
俺を置いて白いワンボックスカーは去って行く。
同じ視界の中には、コンクリート橋の欄干に手をついて朝焼けに輝く水面を眺める男がいる。須藤さんだった。
ライトブルーのデニムに白のポロシャツを着た須藤さんは、顔を上げて右方にある神奈川県警本部を見上げた。建物上部にある円弧状に張り出たガラスに朝日が反射している。
近づく俺の気配に気づいたのか、ちらりと視線を俺に向け、微笑んだ。
「お疲れ」
振り返った須藤さんは欄干に背を預け、正面のみなとみらい側を向いた。俺は須藤さんの右側で、同じように欄干へ背を預けた。
「ランドマークタワーの横にある背の違う白い三つのビル、クイーンズタワーだっけ? ビルの真ん中に廊下があって、こっち側は海側で、廊下の向こう側は山側って言ってて、山側の賃料は安いんだって。ふふっ」
「あー、海側は眼下に遊園地ですもんね。みなとみらいって感じですもんね」
「山側は向かいのビルしか見えないから安いんだって」
――そんなこと、話すために俺を呼んだわけないよな。
ちらりと須藤さんに視線を向けると、須藤さんは俺に顔を向けた。その顔はただ穏やかな表情だった。
「結果を、教えて」
優衣香との話し合いの結果か。吉崎さんからは聞いていないのか。
「辞めません。転属も希望しません。今のままで、います」
そう答えると、須藤さんは微笑みを崩さず、俺の目をじっと見つめた。
俺はその目を真っすぐに見返し、そして言った。
優衣香や吉崎さんに説得されたからじゃない。俺が決めたことだ。そう伝えるためにも、目をそらさずにいようと思った。
「須藤さんについていきます。今後とも、ご指導の程、よろしくお願いいたします」
須藤さんの目は俺を見据えている。
俺は嘘は吐いていない。本心だ。自分がやれることを一生懸命やろうと思う。
見つめ合ったまま数秒経った頃、須藤さんは目を伏せて、溜め息を吐いた。俺は須藤さんに喜んでもらおうとかそんなことは考えていなかったが、思っていたものとは違う反応に困惑してしまった。
「敬志、俺はお前に幸せになってもらいたい。このまま続けて、いいのか? 本当に、いいのか?」
欄干に背を預けている俺の前に、須藤さんは立った。顔を上げて俺を見る須藤さんは、真剣な眼差しだった。
「続けます。俺にしか出来ないですから」
俺は強い意思を持って見つめ返すと、須藤さんは目を伏せて俯き、そしてまた、溜め息を吐いた。だがその目は悲しみや呆れという表情ではないように思える。須藤さんは何かを迷っているような、そんな気がした。ただ、何を迷っているのか俺にはわからない。
「この仕事は誰でも出来る仕事じゃない。それでも、下が辞めたい、離れたいと言い出したら、お前はどうする?」
「出来ることは、してやります」
この話の流れなら、そう言うしかないだろう。須藤さんが望む答えを俺は返したと思ったが、違ったようだった。
目を伏せる須藤さんは唇を少し噛んでいる。
「俺らの、上の世代は家庭を犠牲にした。でも偉くなって、地ならししてレールを敷いた。でもまだガッタガタだけどな。それに乗りながら整備、修繕するのはお前らの世代だけど、お前は次の世代が安心して乗れるようにしてやれるか?」
俺がやれるかどうか試しているのか――そう感じた俺は、真っすぐに須藤さんの目を見つめた。
「やります。でも、須藤さんに指導していただかないとならないと思っています」
そう言うと、須藤さんは頬を緩ませ、何かふっきれたような、そんな表情のまま背後にある海側を向き、手すりに肘を置いた。
俺も同じようにして、運河に反射する朝焼けを見た。
「いつ、入籍するの?」
「八月二十五日の予定です」
「二十五日? どうして?」
輝く水面を見ながら須藤さんは訊ねる。
言いたくない――言いたくない理由は恥ずかしいからだか、言ってしまおう。俺は須藤さんについていくと決めたのだから。
「中三の夏休み、優衣香にラブレターを渡した日だからです」
俺がそう答えると、須藤さんは俺を見た。そして徐々に頬を緩ませ、口元を緩ませていく。俺も頬が熱くなるのを感じたが、運河を見続けた。きっと、にやけているのだろう。
俺は横目で須藤さんを見ると、横顔は口角を上げて微笑んでいた。
「話し合って、優衣香ちゃんは何て言ってた?」
「えっ? ご存知なんじゃ……」
「……話し合う中で考えが変わることだってあり得る。どうだった?」
俺は優衣香との話し合いを思い返した。
交通事故死より殉職より多いのは入浴中の事故、食後1時間以内は風呂に入るな、疲れている時は風呂に沈むからシャワーだけにしろ、寝る前にメシを食うな、健康診断の結果が悪ければさっさと病院へ行け、砂糖の入った飲み物を飲むな、毎日全力でラジオ体操第一と第二をやれ――違う、そうじゃない。
「何かあったら養ってやると」
「そんなこと言われたの?」
「はい。扶養に入れてやると」
「ふふ……時代は変わったな。優衣香ちゃんの元々の性格なんだろうけど」
優衣香の元々の性格か――まあ、思いやりはあるが大雑把なところはある。それにしても優衣香のことを話題にすると、自然と微笑んでしまう自分がいる。恥ずかしい。
「なあ、敬志。お前の世代は、まだ家庭を犠牲にしないとならないよ。でも、やらないとならないよな」
「はい」
「敬志、それでも家庭を大切にしろ。嫁を第一に考えろ。俺は出来なかったけど、お前には出来るから」
――その言葉は、どっちから聞いたのかな。
須藤さんは微笑み、俺を置いて歩き始めた。俺は須藤さんの後ろ姿を追う。
――石川さんとはどうなったのかな。
優衣香に石川さんのことを訊ねても、上手くいってるようだよとしか言わなかった。須藤さんのプライベートだから優衣香は話したがらなかったが、石川さんのことを一つだけ教えてくれた。
「須藤さん」
「ん?」
「石川さんとは会いました?」
「いや」
「連絡は?」
「してない」
俺の顔を見ることなく、正面を向いたまま声音も変わらずに話す須藤さんの表情はわからないが、どこか寂しさを感じる。
――なら知らないのかな。
もちろん他人のプライベートを易々と踏み込んでいいものではないとわかっている。だが俺にとっては須藤さんは特別な人だ。俺が、言えばいい。
「須藤さん。お願いがあるんですけど」
「ん?」
歩きながら振り向いた須藤さんは俺を見上げ、目を見た。
「家庭を大切にしろ、嫁を第一に考えろというの、どんな風にすればいいのか、お手本を見せてもらえませんか?」
すぐに鋭い目線を向けた須藤さんだったが、口元は緩んでいる。
「言ったな」
「だって優衣香から聞きましたよ。石川さん、亡くなったご主人のご両親に――」
俺の言葉に目が彷徨った須藤さんは立ち止まり、俺を見上げた。だが目を合わせない。目を伏せてしまった。やっぱり何も知らないのか。
「――恋人が出来たと報告したら、『もう自由になっていい、その男性と幸せになりなさい』と言われたそうですね。再婚、すればいいんじゃないですか?」
須藤さんは何かを思い出しているようだ。
唇を軽く噛みしめて、小さく息を吐いた。
俺を見て頬を緩ませた須藤さんは「そっか」と呟き、また歩き出した。
背筋を伸ばした後ろ姿は夏の陽光に包まれ、白いポロシャツが輝いている。太陽の光が反射して。
――待って、待ってよ。
十五歳の夏、俺は前を歩く優衣香を見ていた。二十三年の時を経た、これからの俺は、須藤さんの背を追いかける。
「須藤さーん!」
セミの鳴き声と照りつける太陽と身体にまとわりつく熱い空気。後ろから名を呼ぶ俺に、須藤さんは振り向いた。
― ファーレンハイト・完 ―
最後までご覧いただきありがとうございました。ファーレンハイトは第一部と第二部で完結です。
松永敬志の片思いが叶った日から結婚までの日々を最後まで見守っていただき本当にありがとうございました。
明日からは『後日譚・8/20編』を公開します。
全12話、ロクでもない奴らのロクでもない夏休み初日です。第1話は敬志の荷物が優衣香の家に届いたものの……ロクでもないことが起きます。ぜひご覧下さい。




