第8話 結婚指輪
七月二十日 午後二時三十二分
吉崎さんのスペインバルに来た俺は赤いソファのいつもの個室に案内されたが、室内に違和感を覚えた。案内をしてくれた女性スタッフは少し眉根を寄せている。
「お飲み物は、何をご用意いたしますか?」
「烏龍茶、お願い」
「かしこまりました」
俺はテーブルではなくソファに座って吉崎さんを待っていると、吉崎さんが氷を入れたグラス二つとおしぼりを乗せたトレーを持ち、ペットボトルの烏龍茶の蓋を掴んで個室へ入って来た。だが入った瞬間、表情が強張った。
「よう、久しぶり。悪いな、呼び出して」
「とんでもないです。お疲れ様です」
「面白い頭してんな」
「ええ。左右で分量が違うので顔が左に傾きます」
「公務員なのに?」
「んふふふっ……」
ウイングチップの黒い革靴、黒いスラックスにシルバーグレーのベスト、白い長袖シャツを腕まくりしたノーネクタイの吉崎さんは俺をちらりと見て、小さく息を吐いた。
「人の顔見て溜め息やめて下さいよ」
「あのさ……」
「……この臭い、ですか?」
「そう! そうだよ!」
向かいのソファに座った吉崎さんはグラスを置き、ペットボトルの烏龍茶を注ぐ。トレーは投げつけるように自分の横に置き、膝に肘を乗せて前のめりになって俺を見上げた。
「加藤がよ、『納豆ごはん食べたいです』って言うからよ、納豆ごはん出してやった」
「どおりで納豆臭いと思った」
「テメー加藤にどんな教育してんだよ! スペインバルに納豆あるわけねえだろ!?」
――そりゃそうだ。
「えっと、加藤には『スペインバルに納豆ごはんは無いよ』と伝えておきます。すみませんでした」
「……俺、納豆買いに行ったんだよ」
「吉崎さんが?」
「そうだよ。昼時のクソ忙しい時間にスタッフ使えねえだろ? 加藤は『ひきわり納豆がいいでーす』なんて言いやがるし」
「大変でしたねー」
今日の昼、加藤と葉梨はここに来た。吉崎さんは結婚の祝いとして二人をもてなしたようだが、なぜか俺がキレられている。監督責任か。なら仕方ない。
「あの女、パエリア二人分を一人で食った後に納豆食いたいって言ったんだぜ? よく食うよな」
「ねー、ホントにねー」
吉崎さんから呼び出されたのは今朝だった。
だから呼び出しの理由は加藤が納豆を食ったからではない。たとえ加藤の納豆ごはんが昨日でも、吉崎さんはそんなことで俺を呼び出さない。多分。
俺は姿勢を正して吉崎さんの言葉の続きを待った。吉崎さんはグラスの烏龍茶を一気に飲み、俺を鋭い眼差しで見据えた。
――懐かしいな、この顔。
吉崎さんは空になったグラスに再び烏龍茶を注ぎ、烏龍茶の半分程を一気に飲み、ゆっくりとグラスを置いた。
俺は静かに待っている。吉崎さんが話し始めるのを待っていた。
三秒程だっただろうか、吉崎さんは両肘を膝に乗せて指を組み合わせ、目を瞑り大きく息を吐き出した。そして再び俺を見た。
口を開いた吉崎さんの表情は真剣そのものだった。
「須藤から、俺が会社辞めた理由を聞いたんだろ?」
「はい。聞きました」
――なんだ、その話か。
「須藤には、お前が会社辞めたいと言い出したら話せって、言ってあった」
「……そうだったんですか。でも俺、辞めませんよ」
「そうなの?」
鋭い目線は和らぎ、頬を緩ませた。だがまだ吉崎さんは俺に何かを言おうとしている。
吉崎さんは慎重に言葉を選ぶように唇を噛みしめ、そしてゆっくりと言葉を紡いだ。
「どう、思った?」
「えっ……」
「俺のこと。最低だと思ったろ?」
吉崎さんはどんな言葉を返して欲しいのだろうか。
奥さんが命を絶とうとしたのに自分の立場しか考えなかった吉崎さんは最低だと思う。だが結局は『家族のためなら泥水でもすする』と言って警察を辞めたのだから、俺は吉崎さんに何も言えない。
「ずっとさ、松永さんには、『家庭を大切にしろ。嫁を第一に考えろ』って言われてたのに、俺はしなかった」
――父はそんなことを言っていたのか。
「今は違うよな。俺らの時代とは違う。働き方改革で休まなきゃなんねえんだもんな。男も育児休暇を取らされるんだろ?」
「そうですね」
吉崎さんは残りの烏龍茶を一気に飲み干した。そして大きく息を吐き出す。
「最初はな、転属も考えた。けどよ、ずっと刑事課で無茶してた俺に、他の居場所は無かった」
「そんなことは……」
「ふふっ、俺がまだ現職だったら、ハラスメントで懲戒処分食らう自信ある。パワハラモラハラセクハラ。俺はもう、変わる組織に合わせられないって、思った。だから辞めた」
確かにここ数年で警察組織は変わった。
若い世代と未来の警察官志望者のために、上の世代は変えようとしている。
「敬志、お前は何やらせても卒無くこなす。何でも出来る。でもよ、出来ない奴もいる。一つのことしか出来ない奴もいる。だから自分がやれることをやれ。今の仕事は、お前にしか出来ないだろ?」
吉崎さんの目は優しい。
吉崎さんが言いたいことは、なんとなくわかる。
俺が出来ることで必要とされるならばその場所に留まりたいとも思う。そんな俺を引き留めようとしているのだろう。辞める気は無いが、説得されているようなものか。だが俺は何も言えずに黙っていた。
長い沈黙の後、口を開いたのは吉崎さんの方だった。
「笹倉さんに会ったよ。意外だったけど、ちゃんとした女性で安心した」
「えっ……会ったって……」
「この前、須藤が連れて来た。俺が呼んだ」
「そうだったんですか」
何も報告は受けていないし、優衣香からも聞いていない。こんなことはいつものことだ。嫌な気分になるが、仕方ない。
「須藤からお前が結婚するって聞いて、相手の名前聞いて思い出したよ。警察手帳のプリクラ。まさかその子だとは思わなかった」
吉崎さんは少し笑いながら、また烏龍茶を注いでいる。注ぎ終わると俺を見て小さく息を吐いた。
吉崎さんの目は真っ直ぐで、その表情は穏やかだ。
「おめでとう」
「ありがとうございます……けど、あの、『意外』って、どういう意味ですか?」
「あ? 俺はてっきり加藤みたいな女かと思ってたんだよ」
「あー、ふふふ、そうですか」
「連れて来い。笹倉さんにも伝えてある。祝わせてよ」
「はい。ありがとうございます」
頬を緩ませた吉崎さんは、なみなみと注がれた烏龍茶をまた飲み干した。
きっと、吉崎さんは奥さんに関わることを俺に知られたくなかったのだろう。緊張と安堵が綯交ぜになった表情は、それを物語っている。
吉崎さんは俺の六歳上で今年四十四歳になる。
地域課の指導員として初めて会った時には既に結婚していて、第一子が産まれた頃だった。
携帯電話で撮った写真を待受にして目を細めて眺めていたが、家にはほとんど帰っていなかった。飲む打つ買うの昭和の男みたいなロクでもない生活で、奥さんは何度も実家に帰っていた。
飲むとなれば新人の俺はついて行くしかなかったが、吉崎さんの家で飲むのだけは嫌だった。奥さんは育児疲れで生気のない表情をしていて、それでも俺をもてなそうと必死な姿を、俺は見たくなかったから。
俺は記憶にないが、兄はあるという。官舎住まいだった頃は、父は上司、先輩、後輩を招いて宅飲みしていたと。母は嫌がることなく働いていたと。あの時代は、それが当たり前だった。
吉崎さんの奥さんは何度も離婚届を置いて子供を連れて実家に帰っていたが、その都度吉崎さんは引き取りに行っていた。俺は離婚して奥さんを自由にしてやればいいのにと思っていたが、言えなかった。
『子供の箸とかスプーンとか茶碗とか、食器棚に増えていってさ、それ見るとさ、俺は家族を手に入れたんだって、幸せだなって、思うんだよ』
吉崎さんは小学校に上がる頃、父子家庭になった。母親は妹の出産時に母子ともに命を落としたそうだ。家族が父親と自分だけになり、家族が増えることの無かった吉崎さんにとって、子供の誕生はこの上ない幸せだったのだろう。
それなら、もっと家庭を大切にすればいいのにと俺は思ったが、吉崎さんが若手だった頃は、家庭は奥さんに任せ、仕事に全てを捧げなければ組織で生き抜けなかった時代だった。
「奥さんはお元気ですか?」
「ああ、元気だよ」
吉崎さんは辞めた後に離婚したと思っていた。退職金は借金返済に回り、ほとんど残っていなかったという。別居だが婚姻は続いていると聞いたのは一年ほど経ってからだった。
「相変わらず、帰っていいのは月に一回。でも、今年入ってからかな、ビーフシチューを、また作ってくれるようになった」
「えっ?」
吉崎さんの目は微かに動く。だがすぐに俺の目を見て微笑んだ。
「そう。ビーフシチュー。現職の頃は給料入った後、嫁はビーフシチュー作ってくれてたんだよ。俺が好きだから」
吉崎さんは続ける。
奥さんは安い給料と借金返済の中、なんとかやりくりしながら、吉崎さんの好きなビーフシチューを月に一度作っていたが、奥さんはいつも牛肉無しのビーフシチューを食べていたという。
それを吉崎さんは知らず、兄に指摘されて初めて知ったと。
――なんで兄ちゃんが知ってたの?
目線を外した吉崎さんは寂しげな表情をした。だがすぐに笑みが広がる。
「敦志に言われて、俺のビーフシチューにあった牛肉を全部嫁にやって、俺が肉無しのを食ったらさ、嫁が笑ったんだよ。久しぶりに見たんだよ、嫁の嬉しそうな顔」
そう言って吉崎さんは天井を見上げ、ソファの背もたれにもたれた。手のひらで目を覆っている。
俺は吉崎さんを見ないように烏龍茶に手を伸ばした。水滴をおしぼりで拭い、グラスに口を付けた時、吉崎さんの上擦った声が耳に流れ込んだ。
「家庭を大切にしろ、嫁を第一に考えろ……その時にやっとわかったんだよ。嫁が笑ってると、男として肯定された気がするんだよ。間違ってないって。生き方は間違ってないって……もっと早く、知ってたらなあ……」
目元は見えないが口元は笑っていて、冗談を言っているような軽い口調だった。
目を覆っていた手のひらを外した吉崎さんは俺に向き直り、いつもの表情に戻った。目尻が少し赤いが、泣いてはいない。
俺はグラスを置いて、居住まいを正した。
「だから辞めたんだよ。警察官のままなら俺は全て失くすって思ってな。俺はお前の父親と兄貴のおかげで、家族を失くさずに済んだ。本当に感謝してる」
そう言った吉崎さんは俺の目を真っすぐ見て歯を見せて笑い、左手薬指の結婚指輪を右手の指先で包むように触れた。重ねづけしている傷ついたプラチナリングと輝くプラチナリングの二本を。




