第6話 一途に執着
優衣香の出したデータで俺は見事に黙らされた。
交通事故死と殉職をはるかに超える高い確率は入浴中の死亡だと、データ黙らされた。
「交通事故の死者数は三千四百人くらいで、半分以上は高齢者だけど、六十五歳以下の死者数は約千四百人。火災でも約千五百人が亡くなってる。自然災害と、山岳事故とか水難事故では約千人が亡くなってる。でもヒートショックは約二万人だよ。それぞれ二十歳から六十歳までの人数を調べて計算してみる?」
俺は、『いえ、結構です』としか言えなかった。想定問答のイメトレをしていたのに、見事に黙らされて何も言えないでいる。警察官は激務ゆえに過労死のリスクが高いとかケガが多いとかも、理詰めで黙らせるだろう。敬ちゃんはちょっと哀しい。
「敬ちゃんは、どうして自分が先に死ぬ前提で話してるの?」
「えっ!?」
「私が先に死ぬって、考えないの? 私、車に乗るし、走行距離もそこそこだよ? 年間四万キロ以上だし」
「うん……」
「交通事故って、気をつけてても起きるよ? 車が中央分離帯を飛び越えて来るし、信号無視して突っ込んで来るバ……イクとか車とかいるし」
――もしかしてバカって言おうとした?
「警察官の殉職って、ほとんどが交通課だよね? 違反車の取締りに起因する交通事故」
「うん……」
「おじさんは、違うけど……」
優衣香は手を解いた。
俺の手のひらに重ねて、力を込める。
優衣香のその行動は何なのか、手のひらから視線を上げて優衣香の顔を見ると、真剣な眼差しで俺を見ていた。
「敬ちゃんは警察官だから、刃物を振り回す人に立ち向かって行かなきゃならないよね」
「うん」
「怖い?」
「まあ……怖いよ」
「なら、警察辞めたら?」
「えっ……」
「私の扶養に入ればいい。養ってあげる」
――俺が、優衣香の扶養家族に?
一瞬、良いかもしれないと思ってしまったが、優衣香はなぜそんなことを言うのだろう。優衣香の真意がわからない。今の話は俺の聞き間違いなのだろうかと思えてしまうほど、優衣香はいつもの優衣香だった。
「敬ちゃん、ムカついた?」
「んっ?」
「男のプライドが傷ついた?」
――いえ、全く。なんなら専業主夫で優衣香の帰りを待ってたいし。
「男だから警察官だからって、世間は女は、多くを求め過ぎだと思う」
握る手に力を込めた優衣香は加藤のことを話し始めた。
事件の時、すぐ後ろには男性警察官三人が走って来ていたのに、なぜ逃げなかったのかと加藤に訊ねたという。制服なら防刃ベストも着用しているし拳銃もあるが、丸腰なのに、女性なのになぜ逃げなかったのかと。だが加藤は微笑み、こう言ったという。
『警察官に男も女も関係ないですよ。私は警察官です。だからです』
優衣香は、加藤の鋭い眼差しに圧倒されたという。警察官と結婚したら、玄関で見送ってそれっきりになるかも知れない。でもその覚悟が無いなら警察官と結婚してはいけないと思ったという。
優衣香ちゃんの夫は絶対に生きて帰って来るから――。
母の言葉を思い出す。
優衣香は、俺が警察を辞めても怒らないし、文句を言うことも無い。俺を責めることも無いだろう。
優衣香は警察官の妻になる覚悟は出来ているのに、俺の覚悟が足りなかったことを痛感する。
「敬ちゃんは、どうして私と結婚したいの?」
「えっ……えっと……」
優衣香はいつも言っている。なぜ、私なのかと。俺が中学の時からずっと好きでいることが不思議だと。
俺だってわからない。好きな気持ちはあるが、なぜ優衣香なのかと問われると、上手く答えられない。
顔がタイプなのではない。体型だってそうだ。優衣香は背が高いが、優衣香の背が低かったとしても俺は何も気にしない。だからどうして優衣香なのか、わからない。
でも、多分、執着だと思う。俺は優衣香に執着している。俺は優衣香じゃないとダメだから。ずっとそうだった。俺は優衣香以外に甘えることが出来ないから。心を許すことが出来ないから。
優衣香の手は優しく俺の手のひらを撫ぜている。俺は何と返事すればいいか考えていると、優衣香は思ってもみなかった言葉を続けた。
「十八歳で父親を亡くして、婚約者に母を殺されて、実家は全焼して何もかも失った私は不幸な女だから、可哀想な女だから結婚してあげようって思ってるの?」
――なんでそんなこと言うの。
「違うよ! 違う! 優衣ちゃん! そんなんじゃない!」
俺は優衣香の手を解いて抱き寄せた。強く抱きしめて、『違う』と何度も言い続けた。優衣香は背中に腕を回して、優しく叩いている。そして耳元で囁く。
だが、俺の心臓は鷲掴みされたように、締めつけられた。
「敬ちゃん、身元調査……玲緒奈さんが、おばさんに言ったんだってね。調査会社も紹介してくれたって、お母さんは言ってたよ」
――優衣香は知ってたのか。知ってたのに黙ってたのか。
事件当日深夜に玲緒奈さんは優衣香に会いに来て、『守ってあげられなくてごめんなさい』と言ったことから、優衣香は身元調査に至る経緯は黙ってようと決めたという。
「私、ずっとね、身元調査したせいで事件が起きたと、松永家は責任を感じてるんだと思ってた。だから敬ちゃんは私と結婚して責任取ろうとしてるんだって思ってた」
「優衣ちゃん、それは違う」
「うん、わかってる」
優衣香は話し続けるが、それは松永家の誰もが知らなかったことだった。
「相澤さんが事情聴取の時、質問の仕方を変えて何度も同じことを聞くから、私、困っちゃって……須藤さんに相談したの」
交際開始から事件までの経緯を事件担当の相澤に話す中で、身元調査について問われた優衣香の動揺に気づいた相澤が何度も聞いてきたという。
「須藤さんには全てお話した。その時、敬ちゃんは出張中で仕事を切り上げて戻ることは無理だとも聞いた」
「そうなんだ」
「須藤さんは黙っててって言った。私が話したら記録に残るからって」
――多分、須藤さんは相澤に知られたくなかったからだ。
相澤はもし優衣香から聞いたとしても、松永家に関わることだから記録には残さない。だが、俺や玲緒奈さんが問い詰めたら相澤は話してしまう。それを須藤さんは恐れたのだろう。
「私は敬ちゃんがいれば幸せだから、一緒にいたい」
「うん……俺は優衣ちゃんの笑顔が大好きだから、結婚したい。ずっと一緒にいたい」
十四歳の時、優衣香の髪が風に吹かれて揺れた。その姿に恋を覚えた俺は、十五歳の夏休みに優衣香へラブレターを書いた。優衣ちゃんの笑顔が大好きです、と。その気持ちは二十三年経っても変わらない。
「ありがとう。私は今のままでいいし、敬ちゃんが異動してもいい。警察を辞めてもいい。どんなことがあっても、敬ちゃんを支えるよ」
そうか、須藤さんは優衣香が今のままでいいと知っていたのか。だから……。
『お前が転属願いを出す理由は何だ? 優衣香ちゃんと話し合え。それでもお前がどうしても続けられないなら、そう言え。最後ぐらい、俺にお前を守らせてよ』
俺は、ずっと須藤さんに守られていたんだ。
須藤さんは優衣香の母だけじゃなく、父親の命日にも線香を御供えしていた。後輩に目をかけ、恋人にも気配りしていた。
俺はなんて愚かな男なのだろう。須藤さんは俺を守ってくれていたのに、俺は自分のことしか考えていなかった。
須藤さんに守られてきた俺は、今度は俺が守る番だ。俺は異動願いを保留にすることを決め、腕の中にいる優衣香を強く抱きしめた。だが――。
「敬ちゃん……ちょっと待っててね」
優衣香は俺の腕から離れ、立ち上がり、部屋を出て行った。




