第5話 0.003%
午後五時三十一分
俺は今、この状況の打開策を脳内会議している。
ナス味噌炒めを作っているが、ナスが油を全部吸い取っちゃって火が通らない。ナス味噌炒めの素のパッケージ裏に書いてある作り方通りに作っているのにどうして。どうすればいいんだ。追い油か。
――ナスも試合前に潰しておくべきだったのかな。でも多分これ、豚肉のせいだと思う。
優衣香から豚バラ肉は冷凍庫にあると言われて冷凍庫を見たが、無かった。引き出しを開けたまま探すのは良くないから五回に分けて豚バラ肉を探したが、無かった。あったのは豚モモ薄切りだった。
優衣香にメッセージで確認すると、『ごめん豚バラ買った記憶ないや』と返って来たが、『油多めで炒めればいいよ』とも返って来た。さすが優衣ちゃんだと思った。
そうして俺はナスを切って油多めで炒め始めたが、本来であれば豚バラ肉からの脂も加わっていい感じに炒められるとメーカーは想定していたのだろうが、いかんせんモモ薄切りだ。脂が無い。全く油が足りていない。困った。
――どうしよう。もう十分は炒めてる。七分炒めろって書いてあるのに。
俺はナスを炒めながらもう一度パッケージを手に取ると、目に入ったある記述に膝から崩れ落ちそうになった。
『ナスを三センチの拍子切り』
俺は作り方を見たはずなのにナスを乱切りにしてしまっていた。これじゃ火が通るわけがない。
――もうっ! ポンコツ敬ちゃんめ!
俺はガスの火を止め、優衣香が帰って来るまでナスは保留することに決めた。
◇
午後五時五十分
優衣香が帰って来た。鍵を開ける音がする。
玄関まで行くと、俺の顔を見た優衣香は笑った。
ネイビーのスラックスに白いブラウスを着て、カバンと大きなナイロンバックを持っている。
疲れているようだ。無理もない。中山からメッセージが来たが、炎天下の中で一時間半も実況見分を見ていたという。
「おかえり、優衣ちゃん」
「ただいま」
俺は優衣香に近づいて抱きしめようとしたが、拒まれた。暑くて肌がベタベタするからと。俺は気にしないが、優衣香は嫌がるなら仕方ない。でも体を寄せないまま、そっと顔を近づけて唇を重ねた。
「美容院に行ったの?」
「うん、今朝ね」
「んふふ……カッコいい髪型だね」
「あ、ねえ優衣ちゃん、風呂入る? お湯張りするよ」
俺は風呂洗いのついでにシャワーは浴びたが、髪は洗っていない。セットした髪型を見せるという大義名分があれば、『頭洗わなきゃ』とでも適当に言って優衣香と風呂に入れるから。
「ありがとう。でもシャワーでいいや。暑いし」
――ぼくが考えた最強の作戦、大失敗!
「うん、そうだよね。わかるー」
俺の脇をすり抜け、玄関向かいの部屋に入る優衣香の後ろ姿を、俺はしょんぼりしながら見つめていた。
◇
午後六時三十三分
シャワーを浴びた優衣香は髪を乾かしているようだ。ドライヤーの音がする。
帰って来て風呂に入り、夕飯が出来ていたら優衣香は喜ぶだろうか。
ナスは結局、取り出して電子レンジでグッタリさせてからまた炒めた。一生懸命炒めるなど無駄な抵抗はやめて、さっさと潰しておけばよかったんだ。
「あー涼しい!」
優衣香がリビングのドアを開けた。
グレーの麻のロングワンピース姿で、髪の毛は後ろでまとめているようだが、顔が赤い。
「何飲む? 酒?」
「お水にするよ」
そう言って優衣香は俺の後ろを通り冷蔵庫へ行った。
ちらりと振り向いて優衣香を見ると、ワンピースの背中には汗が滲んでいる。
グラスに氷を入れた優衣香は振り向いた。
「暑いの?」
「うーん、ドライヤーの熱で汗だくになるんだよね。せっかくシャワー浴びたのに」
そうだ。理志が言っていた。優衣香は髪を切りたいと。どこまでが許容範囲なのか聞けと。
「理志から聞いたけど……」
「ん? 何を?」
優衣香は浄水器から水を注ぎ、飲みながら俺を見ている。
「髪を切りたいと」
「ああっ! んふふ……そのうちね」
「でも暑いなら……」
「んふふ……いいの」
優衣香はフライパンにあるナス味噌炒めと片手鍋の味噌汁を見て微笑んでいる。
「敬ちゃんありがとうね、もう私がやるから座ってて」
「でも……」
「いいの。座ってて」
グラスをシンクに置いた優衣香は、冷蔵庫から何かを取り出している。
俺はキッチンを出て、ダイニングチェアに座った。
◇
午後八時四十七分
夕飯を食べ終えた後、優衣香は仕事を始めた。
俺は洗い物をして、一人でダイニングにいる。
玄関の向かいの部屋にいる優衣香に一緒にいても良いかと訊ねたが、ダメだと言われてしまった。ちょっとしょんぼりだ。優衣香が近くにいるのに寂しい。
テーブルに置いたプライベート用のスマートフォンを手に取ると、メッセージが届いていた。通知をタップすると、岡島からだった。
『笹倉さんにご挨拶の件はお伝えしていただけましたか?』
――忘れてた。
マッチョしかいないジムで岡島の彼女と優衣香が一緒にトレーニングしている。優衣香は平日夜と土曜の昼に行っているから、加藤が紹介したという。
『これから話すよ』
そう送ってスマートフォンを置くと、優衣香が戻って来た。俺の背から抱きしめ、振り向いた俺と唇を重ね、『おまたせ』と囁く。
「ねえ優衣ちゃん、加藤の紹介で知り合った女性のこと」
「ああ、葉梨さんね。加藤さんの彼の妹さんなんだってね」
「うん。どんなトレーニングしてるの?」
「……えっと……下半身を重点的に」
――嘘吐いてる。
目が細かい動きをする。優衣香は嘘を吐くと真っすぐ俺を見るが、目は動く。
「優衣ちゃん」
「んー! 土曜日にヨガやってる」
――また嘘吐いてる。武闘派の優衣ちゃんがヨガなんてするわけない。
「優衣ちゃん」
「んー! 一緒にキックボクシングしてます!」
――さすが武闘派の優衣ちゃんだね!
「どうして嘘吐くの?」
「だって……敬ちゃんが嫌がるから」
「でも嘘はダメだよ」
「うん。ごめんなさい」
しょんぼり顔の優衣香に微笑んで、顔を近づけた。唇を重ね、優衣香を隣の椅子に座らせる。
「優衣ちゃん、話があるんだ」
隣に座った優衣香に体を向けて、優衣香の手を握った。転属の話をしないとならない。
「仕事をね、異動願いを出そうと思うんだ」
「えっ……どうして?」
「優衣ちゃんは毎日帰って来て欲しいって、思ってるでしょ? 今のままだと難しいから……」
優衣香は俺を見ているが、首を傾げている。
このままでいたら月に一、二回しか帰れない。出張もある。そうなると優衣香は寂しいだろう。俺は優衣香の夫として、してあげられることは何でもしてあげたいと思うが、今のままでは難しい。
「ねえ敬ちゃん」
「ん?」
「敬ちゃんが、仕事が辛いから、異動したいんじゃないの?」
俺を見つめる優衣香に、思わず目を伏せてしまった。確かにこの仕事は辛い。俺はもう離れたい。でも、無理だ。下が育っていない。
「私に会えなくて辛いからかな?」
「えっ……」
優衣香は俺の頬に手を添え、優しく撫でている。
そうなのかも知れない。優衣香に会えないから、俺は転属して普通の人になりたいだけなのかも知れない。
「私は、敬ちゃんとメッセージのやり取りが出来るようになったし、電話も出来るし、今までより敬ちゃんがそばにいるから、いいんだけど……」
「いいって?」
「敬ちゃんがどんな仕事していてもいいってこと」
「……でも警察官は嫌じゃない?」
「何で?」
本当は警察を辞めたい。
給料が高かろうと、命には代えられない。でも辞めるのは無理だ。それだけは絶対に無理だからせめて転属したい。それが優衣香に対する責任だと思う。
「警察官は襲撃対象だから」
「それは……」
「俺は、優衣ちゃんがもう二度と家族を失くして欲しくないの」
「敬ちゃん……」
俺の頬を撫でる指先、手を握る手のひら。
動揺もせず、手のひらに汗もかかず、何も変わらない優衣香の手は、俺を安心させてくれる。でも俺は、優衣香を不安にさせてばっかりだ。情けない。
優衣香は俺から離れないでいてくれるだろうか。今のままでもついて来てくれるのだろうか。
「ねえ敬ちゃん」
「ん?」
「職に殉じた警察官は、年間何人?」
「えっと……十人くらい」
「警察官って、全国に三十万人いるよね?」
「うん」
「三十万人で、十人。殉職する確率は?」
――数学苦手なぼくに計算させないでよ。
「優衣ちゃん……」
「あのさ」
――マズいな、優衣香のこの顔は理詰めで黙らせる気だ。
「敬ちゃん、電卓出して」
――ああ、やっぱり。
俺は黙ってスマートフォンを引き寄せ、電卓アプリをタップした。こういう時の優衣香に無駄な抵抗はしてはいけないから。
――完全に、負け試合だ。
指先で数字を入力する優衣香の横顔を、俺はしょんぼりしながら眺めていた。




