第3話 透明と不透明
午後一時四十五分
理志におまかせした髪型は右側だけ耳上十センチというか、頭の中央から二センチ下あたりまで四ミリで刈上げられた。
左側は耳が出る三センチ程の長さ、トップは十五センチで、フワッとセットされている。スタイリングが面倒くさそうだが、理志は簡単だと言っていた。
美容師の言う『簡単スタイリング』は素人にとっては簡単じゃないといつも思うが、練習すれば良いだろう。
理志は今日の髪型について、こうも言っていた。
『サイドパートモヒカン以外の言い方だと、パンサイドパートマッシュとか、スリックバックとか、まあ確実に伝わるのはハイレイヤーウルフスタイルのマット仕上げローフェードパーマだね』
お兄ちゃんは理くんの説明が一ミリも理解出来なかったが、ヘアセットが終わってケープを外した時に驚いた。
今日の俺は胡散臭いサラリーマンの格好をしているせいもあり、そのハイレイヤーウルフスタイルのマット仕上げローフェードパーマとやらの髪型がびっくりするほどよく似合っていて、歴代胡散臭さランキング一位どころかぶっちぎりの殿堂入りだった。
さすが理くんだとは思ったが、今、俺がいる場所ではとても浮いている。
平日昼間、駅前商店街にあるドラッグストアに胡散臭いサラリーマンが入浴剤コーナーにいる。
時間も場所も間違えてる胡散臭いサラリーマンは入浴剤を手にしている。
母親と手を繋ぎ、入浴剤コーナーを訪れた幼い子供は、まるで野生動物と遭遇したかのようにピタっと止まって母親にしがみついている。
そんな愛らしい幼子は、入浴剤を手に取って選んでいる胡散臭いサラリーマン風の俺がロクでもないことを考えているなんて思いもしないだろう。
――透明タイプなら優衣ちゃんのおっぱいが見れるな。
そう、優衣香が風邪をひいて一緒に風呂に入ったあの日から半年。俺はもう一度優衣香と一緒に風呂に入りたいと思っている。透明タイプの入浴剤の風呂に。
あの日の入浴剤は白色で濁るタイプだった。優衣香が振り向いたから優衣香のおっぱいが見えたが、俺がガン見したせいですぐに気づかれて隠されてしまった。でも透明タイプならおっぱいが見えるというかおっぱい以外も全部見える。
――全部……か。ヤバいな。
優衣ちゃんのおっぱいどころか……ああ、マズいな。今の俺は完全に不審者だ。妄想カタログに数ページある優衣ちゃんの入浴シーンのページがまた増えちゃった。だって優衣ちゃんが浴槽の縁に片足を上げて、優衣ちゃんは俺の頭に手を置いてて、優衣ちゃんの甘い声が漏れて、響いて、優衣ちゃんが腰を引いちゃうから腕で抑えてってヤバいな俺、インしてないのにゴーゴーヘブンしちゃいそ――。
「――さん、松――、松永さん!」
「んんっ!?」
「不審者がいるなと思ったら松永さんでした」
「あら……奈緒ちゃん……」
「凄い頭してますね」
「おかげさまで」
加藤は昨夜から休みで夜十時に横浜へ戻るが、買い物中なようだ。水色のゆったりとしたワンピースに白のフード付き長袖カーディガンを羽織り、黒いリボンの付いたつばの広い麦わら帽子を被っている。
「奈緒ちゃんって、そういう格好もするんだね」
「こんな暑い日はこんな格好もしますよ」
「ふふ……葉梨に可愛いって言われたから、じゃないの?」
目が動き少し唇を噛む加藤は頬を緩めた。葉梨はきっと褒めたのだろう。加藤は葉梨と付き合い始めてから表情が明るくなり、笑顔を見せることが多くなった。
俺は、加藤に男を寄せ付けないようなキツい化粧をさせ、服装は女教師モノをさせていたが、加藤は美人だからどんな格好でもよく似合う。本当は可愛らしい格好をしたかったのだろう。
「入浴剤は笹倉さんから頼まれたんですか?」
「うん。買って来てって」
「それって、商品名を指定されました?」
「うん。いつも使ってる液体のって」
「でも、お手持ちの入浴剤は炭酸二倍のボブですよね?」
――だって透明じゃないとおっぱい見えないんだもん。
「パチもんのボブじゃないし、こっちの方が高いんだからいいじゃん。俺がカネ出す――」
「松永さん」
――あ、なんか怒ってる。狂犬寸前くらいの顔してる。どうして。
加藤は続ける。
商品名を指定されたらそれを買わないとダメだと。グラム単価が安いからとか個数が多いとかそういう思いやりはだいたい失敗する、と。
「まあ、ポン酢を買って来いと言われたご主人がポン酢を買って帰ったら奥さんの言うポン酢は実は味付ポン酢でひと悶着のパターンもありますけどね」
「何だそのクソ嫁。最悪だな」
「玲緒奈さんのことですけどね」
――かわいそうなお兄ちゃん。
優衣香は頼んだものと違うものを買って帰ったら何と言うだろうか。試してみたいけど、怒られるパターンだと嫌だから液体の白い濁る入浴剤を買うしかないか。でも透明タイプでおっぱいを見たい。俺は透明タイプが良い。でも優衣香が怒るのは嫌だな、そんなことを考えていると加藤の小さな笑い声が聞こえた。
「透明タイプならこの入浴剤が良いですよ。松永さんは、透明タイプが、良いんでしょう?」
――なんでバレてるのかな。
「いや、別にそんな……」
「んふふ……松永さんって、そんな人だとは思いませんでした」
「何よ、どういう意味よ」
「んふふ……ほら、この入浴剤なら、笹倉さんも喜ぶと思いますよ」
そう言った加藤は、商品什器の一番上にある個包装の入浴剤の元に行った。手招きする加藤に近寄ると、その中のオススメを手に取った。
それはドイツのメーカーのバスソルトだった。エンジ色のパッケージで、香りの名前をカタカナで書いてあるが、読みづらい。
「これ、湿布臭くて良いですよ」
「湿布」
「ぐっすり眠れるんですよ」
――でも優衣ちゃんと入るのに湿布臭いのは嫌だよ。
「他は?」
「んふふ……笹倉さんと一緒なら、湿布臭いのは嫌ですもんね」
――どうしてバレてるの?
加藤は笑いを堪えながら、可愛らしいイラストのハニーミルクの香りを手に取って俺に渡した。
「んふふ……」
「なんだよ、ムカつくな」
「ふふっ……だって松永さんが幸せそうだから……」
加藤は、俺が病院の談話室で泣いたことを謝罪した際、こう言っていた。
『八年経って、やっと松永さんが私に心を許してくれたんだと思えて、嬉しかったです』
今日の俺を見た加藤は、問題は解決したと思っているのだろう。何も解決してないのに。
液体の入浴剤と加藤が勧めてくれた二つのバスソルトを持ち、加藤と一緒にレジへ向かった。
◇
ドラッグストアを出て商店街を抜け、信号を渡っていると、左にいる加藤は指でサインを送って来た。俺は隣の加藤にしか聞こえない発声法で答える。
「どうした?」
「尾行……二人、いますよね?」
「そうだね」
「一人は誰の、でしょうか?」
信号が青になった際、俺を右から追い抜いて行ったのは俺の手元にいる男だった。加藤とも面識はあるから気づいた。彼は何も連絡事項は無いようで、もう姿は見えない。だがもう一人はまだ後方にいる。
「誰の、かなー」
「えっ、松永さんもご存知ない、ということですか?」
「いや、違うよ」
少し怯えた目で俺を見る加藤は、藤川充さんの駒だとは思いもしないのだろう。
「加藤。大丈夫だよ、問題無いから」
「そうですか」
「でもよく気づいたね。偉いね。さすが奈緒ちゃん」
「んふふ……」
加藤は息を吸って、吐いて、背筋を伸ばした。
アスファルトからは太陽に熱された空気が立ち上り、肌には容赦なく熱気がまとわりつく。ジリジリと照りつける太陽を見上げるように、俺は現実から目を背けた。
加藤が、もう一人いると気づかないなんて思いもしなかったから。




