第6話 急変
午後十時五十三分
俺は今、しょんぼりしている。
俺が風呂に入っている間、優衣香はトイレに行って気づいたという。腰に違和感があり、トイレに行ったらやっぱりそうだったと。
――ぼく、この半年間お仕事がんばったのに。
生理中はエッチ出来ないのかなと思い、ネットで調べるとダメだと書いてあった。まあ、そうだろう。体に負担がかかるし、まあ、良くないだろう。良くない、だろう。でも負担がかからないやり方はあるのかな……。いや、ダメだ。優衣香に負担をかけてはいけない。
初めて俺は優衣香と長く一緒に過ごすのに、エッチ出来ないなんて哀しい。でも、優衣香だってそう思っているはずだ。
だが俺は思った。
おっぱいを全て覆うパットと戦ってないでベッドに押し倒してしまえば良かったじゃないかと。玲緒奈さんを送った後、夕飯が先だと一歩も引かない優衣香に強気に出れば良かったじゃないかと。
――無理。出れない。絶対に無理。
優衣香の生理痛はどんなものなのだろうか。ロキソプロフェンナトリウム錠を服用するくらいだから、辛いのだろうか。男の俺にはよくわからないことだが、生理痛は人それぞれで皆同じではないことだけは知っている。
以前、加藤に女性の生理について教えてもらおうとしたことがある。
女性警察官は全体の二割程度で少ないが、これからは増えるだろうし、そうなると男よりもさらに体調を気遣わなければならない。だが男の俺には生理のことはわからない。だから加藤に頭を下げて教えてもらうことにしたのだが、結論から言えば『人それぞれだからネットで調べろ』で終わった。
俺は丁寧にお願いをした。
女性に生理のことを聞くのはセクハラにあたることは重々承知しているが、同僚女性の体調管理として知識を得たいとお願いをした。だが加藤は『松永さんは私にパンツ見せてとかストッキングが伝線したら俺が破くから言えとか土下座するからケツ揉ませてとかいつもロクでもないことを言うのにそれはセクハラだと認識していないんですか?』と言ったのだ。
確かにそれはセクハラだ。だが俺は言い返した。警察組織は男社会だ。そこに二割、女がいる。セクハラがあっても仕方ないだろうと。その代わりに姐さんやお前からパワハラされるのを俺らは我慢している、と。
だが加藤は『パワハラが嫌ならセクハラしなければ良いじゃないですか。セクハラされるからパワハラしてるんです』と言っていた。俺はムカついて『無理矢理おっぱい揉むわけじゃないんだからセクハラ発言くらい許せよ』と言うと、裏拳をお見舞いされた。
痛かったし、『同意なく胸を揉むのは強制わいせつです』と、警察官の俺は警察官から至極真っ当な説教を食らった。そして、『ネットで調べてわからないことがあったら玲緒奈さんに聞け』と言われた。
――怖くて聞けないから優衣ちゃんに聞いてみよう。
でも優衣香も嫌がるかも知れない。お願いしてダメなら、俺はネットで調べて、もう一度加藤にお願いしてみようと思った。
――加藤、か……。
缶チューハイの残りを飲みながら、俺は隣の加藤と葉梨を思い浮かべていた。きっと二人は今頃、熱い夜を過ごしているのだろう。何回戦目かな。いいな。羨ましいな。
二ヶ月ぶりに会うと葉梨は言っていた。加藤は一度しか経験が無いから、それを知った葉梨は驚いただろう。だが葉梨はこう、なんかねちっこそうな気がするから、加藤を優しく抱いたんだろうな、加藤は満足しているんだろうな。
仕事中の加藤は相変わらず葉梨を手の甲で引っ叩いてるし、何となく以前より厳しくなった気がするが、加藤個人を見ると葉梨に夢中な恋する乙女っぷりは増している。幸せそうで俺は嬉しい。
加藤は優しい女性になりつつある。玲緒奈さんの目論見通りだ。葉梨も言っていた。加藤は優しい女性だと。そう言って頬を緩めた葉梨が、加藤のどんなことに優しさを感じたのかは聞かなくても良いと思った。
加藤が優しくなったことは俺も知っている。
その優しさは裏拳を食らった時に感じた。葉梨と付き合う以前は鼻血が噴き出しても狂犬のままだったから。
今年二月、加藤の手元が狂って鼻に裏拳がクリーンヒットして鼻血が噴き出した時、加藤は焦って『ごめんなさいごめんなさい』と繰返し、ティッシュペーパーを指に巻き、指ごと俺の鼻の穴に突っ込みやがった。しかも人差し指だった。裏拳も痛かったが、鼻の穴にティッシュで直径の増した人差し指を突っ込まれた方が痛かった。
加藤はすごくしょんぼりとした顔をして、謝罪を繰返し、指を突っ込んだまま俺の頭をポンポンしているから俺は何も言えなかった。
優しさの方向性が明後日だなと思ったが、優しくなったのは事実だから黙っていた。
おそらく、葉梨が感じた加藤の優しさはそれじゃ無いと思う。そうであって欲しい。鼻血を出して指を突っ込まれるようなことが起きたのでは無いのなら、俺は安心だ。被害者は、俺だけでいい。あれはホントに痛いから。
二人には幸せになって欲しい。
二人で熱い夜を過ごして欲しい。
だが――。
――ぼくはおあずけ。
しょんぼりしていると、洗面所から声がした。優衣香が俺を呼んでいるのか――そう思った俺はドアを開け廊下に出ると、優衣香が倒れたのかと思うような音がして、奇声も聞こえた。
生理痛か、薬の副作用か。
俺はノックせず洗面所のドアを開けると、優衣香がへたり込んでいた。
「優衣ちゃん! どうしたの!?」
振り向いた優衣香は顔を歪め、赤い顔をして涙を浮かべていた。
優衣香を抱き寄せると、優衣香は不明瞭な言葉を発した。手にしたものを俺に掲げ、俺の胸に顔を埋めながら多分、こう言ったのだと思う。
『敬ちゃんどうしてこんなパンツ履いてるの? いつもは黒いボクサーパンツなのにこんな派手な柄物パンツも持ってたんだね。さっき短パンに手を入れた時に手触りがいつものパンツじゃないとは思ったけど、まさかオレンジ色でパイナップル柄のパンツだと思わなかったから私びっくりして笑っちゃった』
同期の中山陸と飲みに行く時に必ず使うクラブのママからプレゼントされた派手なパンツを、優衣香は手に持って笑っている。笑っているというか、過呼吸寸前くらいになっている。そんなにツボに入ったんだ。
「たまにね、気合い入れる時に、派手なパンツを履くんだよ」
「そっ……ふふっ……そうな、んふっ……」
クラブのママによる謎チョイスの派手なパンツを俺は気に入っている。だって自分で買うのは恥ずかしいし。だが中山は好きではないのか、特別任務の時に加藤の枕元に置き去りにする。
呼吸の落ち着いた優衣香は、他にどんな派手なパンツを持っているのか聞いてきた。俺は正直に答えたが、優衣香の返答に動揺してしまった。
「女性からもらったんでしょ?」
――どうしてわかるのかな。ゲイバーのママだけど。
「自分で買ったんだよ」
「敬ちゃんは私がパンツ買うって言った時はメーカー指定したよね? 色も品番も」
「……うん」
「それなら何でも良いって、言うんじゃないの?」
――取調べ、かな。
優衣香は俺のパンツがくたびれてそろそろ破けると言った時に、買っておくと言ってくれた。その時俺は、そのパンツと同じ物をお願いした。そのパンツは国産メーカーで、ウエストゴムのフィット感が好きで、俺が買うのは長いことそれだけだから。
「クラブのママからもらった」
「んふっ……そうなんだ」
優衣香は笑っている。目を見ても、怒りを押さえているようには見えなかった。
「派手なパンツを履いてる敬ちゃんを見たいな」
「んっ!?」
そう言って立ち上がった優衣香はパンツを脱衣カゴに入れて、『お風呂入るから待っててね』と言って俺を追い出した。
俺は洗面所のドアの前で、正直に答えて良かったのか悩んでいると、優衣香の笑い声が聞こえた。
――また俺のパンツを見て笑っているのかな。
優衣香が笑顔なら俺は嬉しいが、パンツであんなに笑うとは思わなかった。
◇
午後十一時五十分
優衣香と手を繋いで寝室に入ると、ダブルベッドがあった。優衣香は前回、前々回と、セミダブルベッドで寝る俺が窮屈そうだったからダブルベッドに買い替えたという。
「ダブルベッドなら斜めに寝ても足が出ないからね」
背の高い俺は布団からはみ出すのが普通だ。だがダブルベッドなら優衣香の言う通り、斜めになれば布団から足が出ない。
「優衣ちゃんありがとう」
「うん。これで私はベッドから落とされる心配もないし」
「……ん?」
前々回、初めて優衣香のベッドで寝た時は優衣香は先に起きていたが、どうやら寝ている俺が優衣香を蹴ったらしく、優衣香はベッドから落ちかけて目が覚めたという。
「……ごめんなさい」
「んふふっ、寝ている時だから仕方ないよ」
優衣香は繋いだ手を離し、ベッドの右側に行った。俺は左側に行くと、優衣香はスマートフォンをその丸椅子に置くようにと言った。
前は仕事用とプライベート用の二台を優衣香側にあるナイトテーブルに置いていたが、優衣香は丸椅子を俺用のナイトテーブル代わりに用意してくれていた。俺はその丸椅子にスマートフォン二台を置き、ベッドに入った。
ネイビーのパジャマを着た優衣香は髪をサイドで結んでいる。優衣香を腕枕しようと左腕を伸ばすと、優衣香は笑顔で隣に来た。肩を抱き、右腕を腰に回して抱きしめた。
――優衣ちゃんのいい匂い。
優衣香の肌身の柔らかさも匂いも、半年前と同じで嬉しかった。優衣香は俺を見つめ、頬にキスをしてくれた。俺も優衣香の額にキスをする。それから唇を重ね、優衣香の柔らかい体を抱きしめながら俺は幸せを感じていた。だが体が反応してしまい、俺はどうしようかと思った。すると優衣香が俺の耳元で囁いた。
「今日は、私がするね」
俺が何かを言う前に、優衣香は短パンの中に手を入れて、パンツの上から触ってきた。
「口でしても、いい?」
――いいけど、でも……。
なぞる指先の刺激に耐えられなくなって短パンを脱ぐと、優衣香はパンツに手を伸ばした。
パンツを脱がされた俺は優衣香を眺めていると、笑みを浮かべる優衣香は指先でそっと触れ、唇を這わせた。根元から先へゆっくりと。その刺激だけで俺は果ててしまいそうになる。舌先で先を舐める優衣香は上目遣いで俺を見た。
口に含んだ優衣香は、舌を動かして俺を奥まで誘う。優衣香の柔らかな舌は執拗に俺を攻める。
このシチュエーションは妄想カタログにある。十数ページに渡る大作だ。だがリアルでは初めてで――。
――ダメだ、もう無理だ。
優衣香に負担がかかるのは嫌だが、もう我慢が出来ない。
◇
俺は今、優衣香と見つめ合っている。
仰向けの俺の足の間で正座している優衣香は、『もうイッたの?』と言いたいのだろう。だがそれは俺のセリフだ。半年ぶりの俺をナメんなよ、とも言いたい。ああ、そうだ。正しい意味でも違う意味でもだ。
――秒で、出ちゃった。
俺はこれまでの人生で口でイッたことが無い。口だけでイクのは至難の技だと俺は思っていた。だが今、俺は優衣香にイカされた。優衣香が俺のを口に含んでいる姿を初めて見たのだ。無理もないだろう。
半年ぶり、大好きな優衣ちゃん、初めてのフェラ。
何も起きないはずがなく……。
――そんなの秒でゴーゴーヘブンに決まってる。
優衣香の口に出してしまったから、ティッシュを渡そうとしたが見当たらない。部屋を見回して探していると、優衣香の声が耳に流れ込んだ。『何を探してるの?』と。俺は『ティッシュだよ』と返そうとして気づいた。なんでしゃべれるの――そう思って優衣香を見ると、飲んだようだった。ゴックン、と。
――妄想カタログに、また、一ページ。
「優衣ちゃん……」
「……飲んじゃった」
パンツと短パンを履いた俺は、なんとも言えない気持ちのまま、また優衣香を強く抱きしめた。
腕の中の優衣香は「敬ちゃん、スッキリした?」と問うが、そこは『気持ち良かった?』じゃないのかなと思ったが言えるわけもなく、優衣香の髪を撫でながら目を閉じた。
◇
六月八日 午後十一時五十八分
俺は今、この状況の打開策を脳内会議している。
十二時になったら昼休憩を取る優衣香のために焼きそばを作っていて、焼きそばの袋に書いてある作り方通りに野菜を炒めている。
火が通ったら麺を入れる。入れたい。
だが二十四センチの深型フライパンにこんもりと盛られたキャベツに火が通らない。麺を入れられない。どうしよう。
キャベツ半玉を使って良いと優衣香が言ったから俺は適当に切って、モヤシと人参、ピーマンも切って炒め始めた。だがキャベツの硬い所が、絶対に柔らかくならないという強い意志を持って俺に抵抗している。
――みんなこれ、どうしてるんだろう。
「わー、美味しそうな匂いがする」
玄関の向かいの部屋で仕事をしていた優衣香がリビングに入って来たが、俺を見てからフライパンに目線を動かして、笑った。
キッチンに入った優衣香は笑いながら俺の背を叩き、「お疲れさま」と言った。
「優衣ちゃんこれ、どうすればいい?」
「あきらめないで!」
「ええっ!?」
「んふふ……キャベツとモヤシをレンチン」
「ん!? 電子レンジ?」
「うん。三分くらい」
俺は優衣香の説明を聞いて納得した。
要は、試合前に敵を潰しておけ、ということだった。さすが武闘派の優衣ちゃんだなと思った。
◇
優衣香にちくわもあるから入れてと言われ、俺は野菜と一緒に炒めたが、ふと気づいた。家で食べる焼きそばはちくわが入っているが、屋台やコンビニの焼きそばにはちくわは入っていないな、と。
「優衣ちゃんの家も焼きそばにちくわは入ってた?」
「うん。かまぼこも。適当に冷蔵庫の残り物を入れてたよ」
――どこの家庭も一緒なんだな。
優衣香の家では、焼きそばはおじさんが作っていたという。野菜と麺三玉を菜箸で炒めるのは力がいるからおじさんが日曜日の昼に作っていたと話してくれた。
俺が作った焼きそばを嬉しそうに食べる優衣香は昔を思い出しているのだろうか。
焼きそばくらいなら俺だって作れる。
これからは来る度に作ってあげたいと思った。
「ああ、そうだ。敬ちゃん、午後は出かけることになったんだけど、敬ちゃんはどうする? お昼寝してる?」
「えっ……どこに行くの?」
「東京地検」
「霞が関?」
「ううん、区検。立川の」
優衣香は車で行くから一緒でも良いと言う。俺は立川の地検に行ったことがあるが、誰かいた時に面倒だからどうしようかと悩んだ。
――でも、優衣ちゃんと離れたくないな。
俺は一緒に行くと優衣香に伝えた。
優衣香は嬉しそうに笑い、一時半に出ると言った。
◇
都西部にある立川の地検の隣には大型の家具店がある。優衣香が地検で用事を済ませる間、その家具店でホットドッグを食べていれば良いと優衣香は言っていた。
俺は家具店でホットドッグが食べられるとは知らずワクワクしながら家具店に入ったが、ホットドッグは無かった。無い代わりに何かお洒落なレストランみたいなのならあった。
――多分これ、優衣ちゃんはコストコと間違えてる。
外国資本の大型店舗という括りなら合ってるから、俺はオシャレなレストランでサンドイッチみたいな巻いてあるものを食べることにした。
◇
食べ終わり、席を立とうとした時だった。俺の背面に座った男がいた。
その男の存在には入店時から気づいていたが、俺は無視した。何もサインを送らなかったその男とは今は違う仕事をしているから、無視しなければならない。だが今、彼は俺の背面にいる。
――何だろうか。
そう思っていると、俺にだけ聞こえる声が耳に流れ込んだ。
「二時。女。見覚えあるだろ?」
「ああ」
俺から見て二時方向の奥の席に、見覚えのある女がいた。その女は正面に座る女と話している。
「もう一人の女、背を向けてる女だけど、誰かわかる?」
「……もしかして」
「そう、山野花緒里」
その男、中山陸は、「そのうちお前と仕事するだろうな」と言って立ち去った。
◇
用事を済ませた優衣香は店舗入口で俺を探していた。声をかけて駐車場へ行き、俺は助手席ではなく後ろのシートに乗り込んだが、優衣香は理由を聞くことなく車を発進させた。
家具店の駐車場を出て家路につく間、俺はずっと無言だった。優衣香もそんな俺に気づいていたが、敢えて何も聞かなかった。俺は窓の外を見つめていた。
優衣香のマンションに着いても俺は喋らなかった。
俺を心配そうな顔で見る優衣香は俺が眠いのだと思ったようで、横になるようにと言った。俺は優衣香の言葉に甘えて、寝室に入りベッドの上に横になった。
だが眠れるわけもなく、起き上がってスマートフォンを手に取って着信履歴にある須藤さんをタップした。
「もしもし、敬志です」
「ん? 中山の件か?」
「はい」
「デート中、嫌なの見ちゃったな」
――中山は優衣香も見てたのか。
「吉崎さんは知ってるんですか?」
「ああ、情報は吉崎さんからだった」
山野花緒里は会社のカネに手を付けたが、山野の親が返したから依願退職している。
山野はホストに入れ上げ、最初のうちは自分の預金を取り崩して貢いでいたが、そのうち親に金を借り、消費者金融に手を出し、同僚へ金を借り出した。
その後、公休日にデリヘルで働くようになり、会社はそれを把握して処分を検討し始めたとほぼ同時に山野は会社の金に手を付けた。
消費者金融や同僚への借金返済は退職金でほぼ消え、山野にはホストクラブの売掛金が残った。
その金については、俺の指導員であり、兄と須藤さんもお世話になった先輩の吉崎さんが店と話をつけた。
吉崎さんは六年前に警察を辞めて、手広く事業を行っている。警備会社、レストラン経営、キャバクラなどだ。
今、その吉崎さんが山野の面倒を見ている。
警備会社の正社員として働かせ、副業としてレストランでも働き、山野はホストクラブへ返済をしている。借金の返済をしているとはいえ、自分の生活には困らない程度の稼ぎは残ると吉崎さんは言っていた。
だが、野川里奈が誘拐されたのは山野が情報を売ったことが原因だと確定した四月、吉崎さんから山野を風俗に沈めると連絡があった。
吉崎さんが話をつける前の元々のホストクラブの売掛金を全額返済させるまで沈めておく、と。
元同業として吉崎さんは山野に目を掛けた。俺たちは山野に監視が必要だから吉崎さんに任せた。
だが情報を売ったとなれば守ってやる理由も無い。
そして、その山野は今日、須藤さんの昔の女と会っていた。
須藤さんの昔の女とは吉原絵里のことだ。
兄の息が掛かったクラブのママが引退して、チーママだった吉原絵里がその店のママとなった。須藤さんは定期的にクラブへ行っていて、二人は恋仲になった。すでに関係は解消している。
「絵里の目的は、まだはっきりしない。敦志か俺か、それとも別にあるのか」
「……そうですか」
「敬志」
「はい。何でしょうか」
「優衣香ちゃんも対象なの、わかってるよね?」
「……もちろんです」
――須藤さんの今の女は優衣香の知り合いだ。
玲緒奈さんは俺が知っていると思っていた。だが俺は知らなかった。優衣香が俺に話さなかった理由は何だろうか。同席していた兄からも何も聞いていない。
須藤さんのプライベートに関わることだから優衣香は秘密にしていたのだろう。でも玲緒奈さんは知っていた。玲緒奈さんは兄から聞いたのか。どうして俺には話してくれなかったのか。
「あの、須藤さん。須藤さんが今お付き合いしている女性についてお聞きしたいです」
「ふっ、やっとお前は知ったのか」
「はい」
「優衣香ちゃんから聞いたのか?」
「いえ、姐さんからです」
「そっちか。ふふっ……俺もさ、絵里の件は、正直、引きずった。けど彼女と出会って忘れてた。ふふっ……それなのにさ……酷くね? また、俺の恋は終わっちゃうの?」
須藤さんの声が微かに上擦った。
今は優衣香の知人であるその恋人を大切にしているのだろう。
優衣香の実家の事件後、須藤さんは兄と定期的に優衣香と会っていた。
二年前、兄が予約しようとした店のメニューが四人から予約可能で優衣香が一人連れて行くことになり、そこで二人は初めて会った。
その女性は優衣香が新卒で入った会社の同期で、優衣香も兄も須藤さんと彼女をくっつけようという魂胆があったわけではないのだが、その後二人は会うようになったという。
「町沢署の隣のブロックにある会社ってさ、優衣香ちゃんが勤めてた会社の支社だろ?」
「ああ、そうですね」
署は町内会の要請で防犯講話を開催しているが、会場はその会社の講堂を借りている。彼女は総務課勤務で、社内報に防犯講話の記事を載せる為に担当者として出席していたという。
「お互いにすぐ気づいてさ、話してる間に趣味が同じだと知って、それから会うようになったんだよ」
「えっと、手芸?」
「レース編みね」
彼女には婚姻歴はあるが、ご主人を亡くされている。子供はおらず、新しい人生を選択することも出来るが、彼女は婚家の名字のままで婚族関係終了届も出していないという。
「体の関係は無いよ」
「えっ……」
「指一本触れたことが無い」
「そうなんですか。ではただの友人、ということですか?」
「うーん、去年までのお前と優衣香ちゃんみたいなもんだよ」
「じゃあ、須藤さんは……」
「ふふっ、そりゃね……彼女の名前は石川奈緒美さん」
「漢字は加藤の奈緒に美しい、ですか?」
「うん」
優衣香の前の会社の同期で奈緒美と言えば彼女だ。
俺は彼女の話を聞いていたし、結婚式の写真を見せてもらったこともある。
「旧姓は山野さん、ですか?」
「ふふっ、そうなんだよ」
「まさか……それはないですよね?」
「ふふっ、そのまさかなんだよ。優衣香ちゃんは石川さんの従姉妹が警視庁の警察官だと知ってて、身元に問題ないだろうと思って石川さんを連れて来たんだよ」
須藤さんの恋人の従姉妹が山野なのか。
そうなると須藤さんの情報は恋人経由で漏れていることも有り得る。
須藤さんは彼女から山野が従姉妹であることを早い段階で知らされていた。だが彼女と山野は親戚付き合いはもちろんあるが、親しくしているわけではないという。
「敬志、優衣香ちゃんは口が固いだろ?」
「はい」
「何で口が固いか、考えたことはあるか?」
「えっ……あの、仕事で守秘義務があるから、それで慣れてるのかと思いますけど……」
「違うよ。元々姐さんが注意してたみたいだけど、俺も敦志もかなり脅したんだよ」
「えっ……」
「ごめんな、でも大事なことだからさ」
須藤さんは、優衣香が俺のことを誰かに話すと俺が危険だと言っていたそうだ。話が漏れると、そこから兄や玲緒奈さん、理志も危険だとして注意していたという。
「おかげでさ、優衣香ちゃんはお前と会ったことすらも漏らさないようになっちゃったんだよ、ふふっ」
「そうなんですか」
「良いんだけどね、それくらい警戒してくれるの」
◇
午後六時十五分
須藤さんとの電話を終えた俺は寝室を出たが、優衣香はいなかった。キッチンを覗こうとした時、ダイニングテーブルの上にメモがあることに気づいた。書斎で仕事しているから声をかけて欲しいと書いてある。
廊下に出て、玄関の向かいにある部屋をノックすると、声がして優衣香がドアを開けた。
俺は優衣香の顔を見た途端に心臓を掴まれたような感覚に襲われ、思わず優衣香を抱き寄せてしまった。
――こんな気持ちになったのはいつ以来だろう。
事件後に優衣香に初めて会った時だ。
玄関のドアを開けた優衣香の顔を見た瞬間に俺は、優衣香を守りたいと思った。この先何があっても守ってみせると。だが今は恐怖も感じている。
優衣香は突然の出来事に最初は驚いていたが、すぐに背中へ腕を回してきた。優衣香は何かを言いたそうだが、それを遮るように優衣香の顎に手を添えて、顔を上に向かせた。そしてゆっくりと優衣香に近づきながら目を閉じた。
その時、スマートフォンが鳴った。
俺は目を開けると、鳴り続けるスマートフォンを手に取り、画面に表示されている名前を見て、慌てて通話ボタンを押したが電話は切れた。
「優衣ちゃんごめん、邪魔されちゃった」
「ふふっ、電話をしておいで」
優衣香と軽く唇を重ねて、俺は電話を折り返す為に寝室に戻った。
◇
寝室へ行き、スマートフォンの画面を見ると、中山陸からメッセージアプリにメッセージが届いていた。
『もしかしてヤッてる最中?』
『折り返しは終わったらで良いからねー』
――バーカバーカ!!
中山陸とは同期で仲良くしているが、俺は中山の恋人の話を一度も聞いたことが無い。お互いに女を食い散らす男と認識しているが、俺に『特別な女』がいることを察しているようだとは思っている。俺も中山には俺と同じような女がいるような気がしている。
呼び出し音は三回目が鳴ること無く、中山の声が聞こえた。
「終わった?」
「ヤッてない」
「ふふっ……」
「で? 用件は?」
続けた中山の話に俺は息が詰まった。中山は須藤さんの指示で既に優衣香に接触済だという。
「お前の女、俺に連絡先教えてくれたよ」
俺は一瞬目眩を覚えた。
中山は優衣香に手を出したのか。俺の怒りを感じ取ったように、電話口の向こうの中山は満足そうに笑っていた。




