第8話 本業(前編)
七月十八日 午後三時二十分
玲緒奈さんの本業のお供でラブホに来ている。
カウンター下にあるガラス扉を開け、カップ二客とインスタントコーヒーや砂糖、ミルクが入ったカゴを取り出した。
小分けパックに入ったインスタントコーヒーをカップに入れ、電気ポットのロックを解除してカップに湯を注いでいると、微かな物音がした。
帰って来たのか――遅かったな……手間が掛かったのだろうか。そんなことを考えていると、小さな声だが良く通る声が耳に流れ込んだ。
「痛っ! ちょっ……あっ!! 諒ちゃーん! 助けてー!」
玲緒奈さんが俺を呼んでいる。
電気ポットを戻していると、また聞こえた。
「諒ちゃーん! ブラジャー外してー!」
――なんで俺が友達の嫁のブラジャーを外さなきゃならねえんだよ。
全ては自分のせいだ。
敬志と飯倉とでやったジャンケンに負けたからだ。
『オッサンになると関節が痛くてチョキが出せないらしいですよー』
勝ち誇った顔をした敬志はそう言いながら、ニヤリと笑っていた。オッサンの俺はグーを出したまま、深い溜め息を吐いて玲緒奈さんとラブホに行くことを受け入れた。
――だからって友達の嫁のブラジャーは外したくないんだけど。
「諒ちゃーん!」
「はーい! 行きまーす!」
――どうせ引っかかってんだろ。入ったんなら出られるだろうが。
俺は溜め息を吐きながら、浴室に向かった。
◇
浴室のガラスドアの向こうで、点検口に胸が引っかかっている玲緒奈さんがぶら下がっていた。どうにかしようと藻掻いているが、どうにもなりそうにもない。
二十代の玲緒奈さんは加藤並に細くて折れそうな体型だった。だが三人目を産んだ後は二十代の頃の体型に戻すことは無理だったようで、胸が大きいまま今に至る。
『おっぱい大きいとさ、真っすぐ立ってる時に下を見てもつま先が見えないのよ』
育休明け後、夫の友達である俺に返答しづらいことを言っていた玲緒奈さんだったが、しばらくすると『おっぱい重い。肩が凝る』とまた返答しづらいことを言っていた。
「さすがに友達の奥さんの下着は外せませんよ」
「じゃあ、おっぱい押さえてくれる?」
「外します」
「よろしくー!」
――だからなんで俺がブラジャーを外さなきゃならないんだよ。
浴槽の縁に乗り、玲緒奈さんの長袖Tシャツを引き出して、背中に右手を差し入れた。
「くすぐったい!」
「我慢して下さい」
ホックを外して浴槽の縁から降りると、玲緒奈さんは点検口に手を付いて俺の前に降りて来た。
「お疲れ様です」
「諒ちゃんは片手で外せるんだねー」
「敦志だって出来るでしょ?」
「無理だよ。両手で外してる」
「夫婦円満でなによりですね」
「んふふ……」
玲緒奈さんは浴室を出た。
俺は後ろをついて行くが、玲緒奈さんは背中に両手を差し入れ、ブラジャーのホックを止めている。くびれた細い腰から目をそらしたが、玲緒奈さんが前に手を入れたところで声を掛けた。
「玲緒奈さん、そういうのは隠れてやってもらえませんか」
「もー、ホント諒ちゃんは面倒くさいなー」
自分がやってることがセクハラに該当するとは思いもしないのだろう。そんなもんだ。女は弱者で被害者だと思ってるから。
「コーヒー淹れますね」
「ありがとー」
玲緒奈さんの脇をすり抜け、俺は廊下に出た。
◇
玲緒奈さんと俺はソファに座っているが、離れている。
ソファを含む室内と洗面所、玄関などには死角が出来ないようにカメラを設置済だ。俺と玲緒奈さんに何も無いと証明しないとならないから。
玲緒奈さんは、職員の不適切な関係の内偵を本業としている。
情報が入れば行動確認をして、相手の身元を洗う。そこで問題が無ければ上席に伝えるだけ。目的がただの肉体関係なら放置だが、相手に企みがあると、そこから派生する諸問題が厄介だから玲緒奈さんの仕事が始まる。
相手が独身だろうと既婚だろうと家にカメラと盗聴器を仕掛け、職員のスマートフォンにも細工して、私有車にGPSを仕掛け、ラブホに行くのなら部屋に忍び込む。全ての証拠を押さえたら、職員と話し合いをする。
「どうでした?」
「四台のカメラを仕掛けてたよ」
「あーあ」
「そんなことよりさ、ここさ、コスプレ衣装を貸してくれるみたいでさー」
玲緒奈さんは対象者が滞在する室内にカメラを仕掛けて戻って来たが、戻りが遅かったのは楽しかったからだろう。
「何を着てました?」
「チアリーダー! フロントに頼んでた」
「んふふふっ……」
「あっ! 来た来た!」
テーブルにはノートパソコンがあり、画面には生中継の動画が再生されている。
ベッドに座る男の足の間にチアリーダーがいて、太ももを撫で、もう片方の手は胸を揉んでいるのだろう。女の甘い声が聞こえる。
「諒ちゃんと来るのは久しぶりだよね」
「そうですね、三年……くらい?」
「えっ、もうそんな経つ?」
コーヒーを飲む玲緒奈さんは画面を見たまま答える。
このところ玲緒奈さんは本業が忙しい。一人では無理だとして、加藤にも本業もやらせることになった。だが、『不倫すると松永玲緒奈が出て来る』と水面下で噂が回っているから、夫である敦志にハニートラップを仕掛けるバカがいる。そのうち葉梨もターゲットにされるだろう。
元から慎重な敦志は一度たりとも引っかかったことは無いが、敦志の好みのタイプの女はフェイクを混ぜて岡島が流している。誰が宛がった女なのかを判断するためだ。
だから女ならまだいい。女ならどうにでもなる。だが、性犯罪の冤罪をでっち上げられると困る。
「あっ! もう脱がせてるー!」
「ふふふ……」
「なんで脱がすかなー。女心わかってないなー」
「えー?」
「だってさ、せっかく着たんだよ? そのままヤればいいのに」
今日の対象者は玲緒奈さんも俺も面識が無いから、AVを見ているようなものだ。だが、敬志は同期の性行為を見るハメになった時にしばらく心の置きどころに悩んでいた。無理もない。同性愛者だとは知らなかったのだから。
同業の性行為中継を食い入るように見ている玲緒奈さんはこの仕事以外にピーポくんもやっている。
ロクでもない同業のロクでもない証拠を積み重ねる本業をしていたらストレスが溜まるからと、ピーポくんをたまにやっているが、イベントで幼い子供たちがキラキラした目で自分を見る姿に浄化されると言っていた。
これは中山も同じだ。警察官であることは言えても、何をしているか言えない自分に嫌気がさす瞬間があるから、アクロバティックなピーポくんで子供たちの羨望の眼差しを受けて浄化されている。
「でもさ、エロ漫画見てると女のパンツが丸まって膝に引っかかってる描写があるよね?」
「視覚情報は大切ですから」
「ならなんでチアリーダーは脱がすのよ」
「邪魔ですから」
「それはわかるけどさー」
俺を見ることなく画面を見ながらロクでもないことを言う玲緒奈さんの姿を、俺は背もたれに身を預け、眺めていた。
玲緒奈さんは二十二歳で結婚して二十三歳と二十五歳の時に子を産み、次男の育休明けは地域課に戻り新人だった加藤の指導員となった。
家庭があって二児の子持ち、新人の指導に昇任試験勉強と忙しく過ごす日々は、松永家を嫌う奴らからハラスメントを受ける日々でもあった。
玲緒奈さんはその矛先が加藤に向かないように、加藤を守るために自分の家庭を犠牲にした。
今は夫婦円満だが、二十代の頃はそうではなかった。
先輩後輩の上下関係が家庭に入り、幼い子がいて子育てに悩み、上司や先輩にこき使われる敦志は帰宅しない。
夫婦間の不和は敦志にも玲緒奈さんにも言い分がある。きっかけは些細なことだが、双方が腹に据えかねることが爆発して言い争うこともあり、その都度どちらかが家を出て、離婚して一人になっていた俺の部屋に来ていた。
ある日、玲緒奈さんが来たが、いつもと様子が違っていた。玲緒奈さんは俺の顔を見るなり涙を流したのだ。
いつもは敦志への不満を俺にぶつけ、後輩の俺はただ黙ってサンドバッグになっていた。だがその日は泣き始めたから俺はどうすれば良いのかわからず、玄関に蹲り嗚咽を漏らす玲緒奈さんの姿を見ているしか俺には出来なかった。
思い通りに行かないことでも今ならいくらでも対処出来る。それは年齢を重ねた分、知識と経験を積み重ねたからだ。
若かった敦志も玲緒奈さんも俺も、目の前の問題に正面からぶつかって打ちのめされるしかなかった。




