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幕間 逆転KO(前編)

 今、俺は奈緒美さんに指定された場所に着いたが、まさかここでとは考えもせず困惑している。出来ることならここではない方が良かった。でも、奈緒美さんが望むのなら仕方ない。


 ――別れたくないんだけどな。


 奈緒美さんに二通目の手紙が届いたと昨夜、玲緒奈さんから連絡が来た。優衣香ちゃん経由で玲緒奈さんに連絡があったという。俺はあれから奈緒美さんに連絡することもなく、奈緒美さんからも来ていない。

 直接会って別れ話をしようと思った俺は奈緒美さんに電話をして、会えないかと伝えた。詳細を聞きたがる奈緒美さんに会ってから話すと伝えたが、奈緒美さんの動揺して焦った様子に胸がしめつけられた。


 夕方、捜査員用のマンションを出てデパートに寄り、官舎に戻ってスーツを着替えた。

 黒いスーツに白い長袖ワイシャツ、ネクタイは濃紺で良いと思ったが、青の方が良かったのかも知れない。暗がりでは礼服に見えてしまう。



 ◇



 午後九時三分


「こんばんは。夜分にすみません」


 奈緒美さんの自宅マンションの玄関で俺を迎えた奈緒美さんに、俺は笑顔で言った。

 少しやつれたような気がする。

 仕事から帰って来て間もないのかスーツ姿のままだが、化粧は直してある。奈緒美さんが纏う香水はいつもより強く香る。

 白いボートネックの五分袖カットソーにライトグレーのフレアースカート。頭上のダウンライトに照らされた奈緒美さんの長いまつ毛が目の下に影を作る。大きな瞳は俺を見て、伏せられた。


 築十年のマンションは綺麗だ。

 左手のシューズボックスの上にはレース編みのマットがある。縁に葉のビーズを付けたものだった。フローリングはワックスが掛かり、幅木に汚れは一切無い。三和土は磨かれ天井も壁も綺麗だ。


 ――もう二度と来ないんだから見なくていいのに。


 俺は何をしているのだろうか。

 視界に収まるものを全て記憶しようとしている。

 もう二度と来ないのに。

 意味の無いことなのに。


「お招きしたのは私ですから」


 固い表情の奈緒美さんはそう言った。

 最後は笑顔で別れたいけど、そうもいかないか。


 石川さんは俺をリビングに案内する。

 前を歩くハーフアップの奈緒美さんは、俺が作ったレース編みのクリップで髪を留めている。その姿に少し、頬が緩んだ。



 ◇



 十畳の正方形のリビングルームは片付いた部屋だった。殺風景ともいえるリビングは、奈緒美さんのイメージとはかけ離れていて意外だなと思う。キッチンとダイニングは別なようだ。


 掃き出し窓と腰高窓には幅広のウッドブラインド。ライトイエローの三人掛けソファ、ダークブラウンのテレビボードにはテレビの横に小さな観葉植物が三つ並んでいる。優衣香ちゃんの部屋にある観葉植物と同じ鉢植だ。

 天板がガラスのテーブルにはレース編みのテーブルクロスが掛けられ、アクリル板が乗せてある。壁際には造り付けのカウンター収納、その上にはレース編みのカバーを掛けたカゴと電話機だけが置いてある。


 ――お仏壇はどこかな。


 隣接する和室か。閉じられた引き戸はおそらく和室なのだろう。俺をソファに案内する奈緒美さんに声をかけた。


「奈緒美さん。先に、ご主人にお線香を……」

「えっ……ありがとうございます……こちらです」


 奈緒美さんはやはり引き戸の方へ行った。引き戸を開け、電気を点けると板張りに半畳の琉球畳が敷き詰められた和室だった。ダウンライトの淡い光が部屋を照らす。

 お仏壇の傍らに座った奈緒美さんはライターで蝋燭に火を付けた。


 ――ご主人、相当なイケメンだな。


 思わず笑いそうになる。遺影のご主人は優しく微笑んでいた。でも俺は、大切な奥様を傷つけた。お詫びをしなくてはならない。


「奈緒美さん、御仏前にお供え下さい。お線香です」

「えっ……ありがとうございます」


 座布団を当てずに正座する奈緒美さんは線香を前に、手をついて俺に頭を下げた。伽羅と白檀の線香だが、仏花の方が良かったのだろうか。奈緒美さんは少し困惑している。


「宗派は浄土真宗本願寺派でお間違いはございませんか?」

「えっ、はい。左様でございます」


 俺はジャケットのポケットから袱紗(ふくさ)に包んだ数珠を取り出して左手に持ち、お仏壇に一礼し合掌して、線香を折り、火を付け線香を横に寝かせ、手を合わせた。


 その間、奈緒美さんは俺の横顔をずっと見ていた。


「奈緒美さん、お話をしましょう」

「はい」


 奈緒美さんは立ち上がり、蝋燭の火を消した。俺はお仏壇に一礼してから、立ち上がった。



 ◇



 奈緒美さんは届いた手紙を俺に差し出した。手紙を見ると、一通目の続きだった。手紙を読んでいる俺を奈緒美さんは見ている。


 奈緒美さんは二通の手紙をどんな気持ちで読んだのか。女から情報を引き、用が済めば捨てる。簡単に言えばそういうことだが、結論に至る経緯を読んだ奈緒美さんは、同じ女性として俺に怒りが湧くと思う。

 今、俺はやっていない。やる必要もない。でも過去にしていた事実は消えない。


 俺は手紙を封筒に入れ、顔を上げて、奈緒美さんの名を呼び、目を合わせて言った。


「二通の手紙の内容は、全て事実です」


 二人で三人掛けソファに座っているが、相対するように座っていて距離がある。

 奈緒美さんは俺を見ていたが目を伏せた。


「石川さん。防犯講話で年に数回会う所轄の警察官と担当者の関係に戻りましょう。でも、こんな私と仕事とはいえ顔を合わせるのは嫌でしょうから、以後は間宮と本城に行かせるようにしますね」


 奈緒美さんは俺が呼び名を変えたことが気になるのか、目が揺らいでいる。何かを言おうとしているが上手く言葉に出来ないようだが、少し時間が経つと口を開いた。


 俺の目を見ずに話す奈緒美さんの言葉を聞く。

 奈緒美さんは自分と出会った以降のことではない、過去のことだと言う。なぜ、問題無いと思うのか。自分が同じ扱いをされたら嫌なはずなのに。


「諒輔さんを信じています。私にとって諒輔さんは大切な人です」

「ありがとうございます」

「別れたくないです」


 俺は、最後の言葉だけは受け入れられなかった。

 奈緒美さんはもう何も言ってくれない。

 俺だって奈緒美さんと別れたくない。目の前にいるのに手が届かなくても、心を通わせる人がいることがどれだけ心強いか、お互いに良い関係でいられることがどれだけ幸せか気づかされた。でも……。


「石川さん。これから先も、知りたくなかった事実を知ることになりますよ。それでも、いいんですか?」


 奈緒美さんは顔を上げず、膝の上の手のひらを重ねた。


「いいです。私は諒輔さんを信じています」


 膝の上で手を握りしめる奈緒美さんは俺の言葉を待っている。なら――。


「石川さん、これを見て頂けますか?」


 カバンから取り出した報告書を奈緒美さんに渡した。二百ページを超す報告書は奈緒美さんに関するものだ。

 奈緒美さんは表紙を見て、文字を指先でなぞっている。だがその指先を折り曲げて、手を握りしめた。


「警察官に関わると、こんなこともされるんですよ。嫌でしょう? ですからもう、終わりにしましょう」


 顔を上げて俺を見た奈緒美さんは、下を向いてしまった。



 ◇



 奈緒美さんは報告書を一枚一枚、流し読みしている。

 身辺調査は資産にも及ぶ。奈緒美さんの会社は正社員の募集要項に国籍条件はもちろん無いが、実質日本国籍以外は従事出来ない業種の業界だから、奈緒美さんの出自に問題は無い。従姉妹が山野花緒里なのは別問題だ。金銭状況にも問題は無い。だが素行調査のページを開いた瞬間、奈緒美さんの手が止まった。


 毎週土曜日の夜に行くプールバーでの写真も複数枚貼付してある。ページをめくり、書かれた文字をゆっくりと目で追っている。


 飯倉から報告が上がり、写真を見た時は驚いた。加藤と雰囲気の似た、これまで見たことの無い奈緒美さんの姿に笑いが込み上げた。喫煙者であることも、俺は何も気づかなかった。

 言われてみればこの二年間、土曜日は絶対に会わなかった。いつも平日の夜か日曜の昼過ぎに奈緒美さんを車で迎えに行って食事をするだけだったが、土曜日だけは確かに会えなかった。でも写真の中の奈緒美さんに俺の心は騒いだ。


「須藤さん」

「はい」


 ――諒輔さん、じゃないんだ。


「この報告書をご覧になって、私の評価は変わりました?」

「評価、というのは?」

「プールバーでの私の服装や、立ち振る舞いです。あ、タバコを吸ってることも含めて」


 そう言って、顔を上げた奈緒美さんの目は、俺を真っすぐ見ていた。

 憤りなのか、失望なのか。睨みつけているわけではないが、見たことの無い強い目線だった。声音もいつもより幾らか低い。


 この二年間、目の前にいても距離が縮まることもなかったが、心を通わせて、お互いを信頼していた。俺は欺いていたつもりはないが、奈緒美さんにとっては裏切りだと思う。奈緒美さんの土曜日の顔は、ただ俺が知らなかっただけだ。何ら問題は無い。新しい一面を知っただけのこと。


 ――喫煙者は嫌だとでも言えば良いかな。でも、俺も喫煙者だし気にしないけど。


「何も、変わりませんよ」


 俺の言葉に答えもせず、顔を上げることもなく、奈緒美さんはレポートを最後まで目を通して、閉じた。





 

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