第3話 強敵
おっぱいを全て覆うパットは俺の敵だ。
胸のふくらみの先端をどうしても触りたい俺と元の位置に戻ろうとするパットは優衣香のおっぱいの上で熱い戦いを繰り広げたが、優衣香が『玲緒奈さん来るよ?』と言ったから試合は中断された。
俺はおっぱいを全て覆うパットを許さない。絶対に――。
優衣香と初めて結ばれて、俺はその記憶だけでこの半年を過ごして来た。仕事が辛い時は優衣香の肌身の柔らかさと優衣香の香りを思い出していたし、会いたくても会えない辛さは妄想カタログが癒やしてくれた。
あの夜、十四歳の時に手にした妄想カタログは二十三年の時を経てやっと無修正になった。ページも増えた。
優衣香は、優衣香は俺のものになったんだ。なのに俺は、新たな敵と戦わなければならなくなった。
でも俺は、負けない。絶対に負けない。
俺はおっぱいを全て覆うパットを滅びれ、滅び、滅びろ、んー、あ、撲滅だ。おっぱいを全て覆うパットを撲滅させ――
「――ちゃん、敬――、敬ちゃん!」
「えっ、ん? なに?」
「玲緒奈さんがいらしたよ」
俺にとって強敵なはずの玲緒奈さんの訪問を俺はすっかり忘れていた。そう、俺にとっておっぱいを全て覆うパットは玲緒奈さんより強敵、ということだ。
俺はおっぱいを全て覆うパットを許さない。絶対に――。
◇
今、玄関で玲緒奈さんを出迎えている。
緩くパーマをかけたミディアムヘアで前髪を横に流す玲緒奈さんは、いつもと違ってただの美人なアラフォー女性だ。
玲緒奈さんは『暑いね』と言ってジャケットを脱いだが、ノースリーブの袖から伸びる鍛えられた上腕三頭筋が見事だと、素直に思った。
身長は一メートル七十二センチでネイビーのパンツスーツを着ている。ヒールを履いて颯爽と歩く姿は格好いいと思っているが、今日は仕事の時に見せる狂犬の親玉でもなく、松永家に集まった時の長男の嫁の顔でもなく、俺が初めて見る顔をしている。方向性としては、初めて玲緒奈さんに会った時と雰囲気が同じだな、と思った。
リビングに通された玲緒奈さんは、お仏壇にお参りを済ませた後にダイニングテーブルの席に着いた。
俺は優衣香からメロンとアイスティーを乗せたトレーを受け取り、玲緒奈さんにお出しすると、玲緒奈さんは俺を優しい笑顔で見ていた。それを不思議に思って顔を見ると、玲緒奈さんの目に涙が浮かんでいた。
天変地異の前触れかな、と思ったが、玲緒奈さんは俺が優衣香の隣にいることが嬉しいと言って、涙が一筋、頬を伝った。
ハンカチで涙を拭う玲緒奈さんの話を優衣香と聞いていたが、俺が知らなかったことが次々と飛び出して、俺は何とも言えない気持ちになった。
母や玲緒奈さんだけじゃなく、兄ちゃんもチンパンジー須藤も優衣香と頻繁に会っているだなんて、ぼく知らなかったよ。
「別れた彼女がお門違いの署に来て暴れたことがあったんだってね」
「……何の話かな」
「彼女に嘘をついてたの?」
大好きな優衣ちゃんに半年ぶりに会えたのに、どうしてぼくはこんなにしょんぼりしているのだろうか。
天変地異はぼくだけに起きたみたいだ。
◇
午後七時四十五分
俺は玲緒奈さんを駅まで送って行くことにした。
優衣香の部屋の隣は加藤が住んでいるから、部屋の出入りにこれまで以上に気を遣わなければならない。
今日は葉梨が来ているから連絡を取り合うことは出来るから、葉梨に連絡して加藤が外に出ないように伝えておいた。
「優衣香ちゃん、また連絡するね」
「はい。お気をつけて」
優衣香に疑念を抱かせないようにそっと玄関ドアを開け、玲緒奈さんと一緒に外へ出た。
ポーチを出て廊下を抜けて非常階段で降りている時、玲緒奈さんは『加藤にバレたら教えてね』と笑いながら言った。
――なんでこんなことになったんだ。
「まさか同じマンションだとは思わなかったねー」
「……そうですね」
だが俺は思った。加藤は俺の恋人の名前が『ユイカ』だと知っている。漢字と名字は知らないから大丈夫だとは思うが、バレるのは時間の問題だろうなと思う。
「あの、玲緒奈さん」
「なにー?」
「なんで、優衣香と会ってるんですか?」
玲緒奈さんにとって優衣香は、夫の実家の隣に住んでいた義弟と同い年の女性だ。もちろん兄とも幼なじみだが、警察官となって家を出た兄は優衣香と連絡を取ることは無かった。だから俺は、玲緒奈さんが優衣香と仲良くしていることが不思議だった。
「ふふっ、優衣香ちゃんは私の友達だから」
「友達、ですか」
玲緒奈さんの話は、兄嫁と義弟の関係なら聞けなかっただろうと思わされるものだった。
警察官、警察官の妻、母、一人の女性として、優衣香は心の支えだったと玲緒奈さんは言った。
二十二歳で結婚して二十三歳と二十五歳の時に子を産んだ玲緒奈さんは警察官を辞めたかったという。
当時四十代だった玲緒奈さんの母とうちの母はタッグを組んで子育てを支援した。それは有難いことだから感謝しているが、自分で子育てをしたかったそうだ。
警察官のままだから仕事も勉強も後輩の育成もしなくてはならず、もちろん今でも辛いが、二十代の頃はもっと辛かった、と。
友達は独身で人生を楽しんでいる。早く結婚して子を産んだのは自分の選択だが、自分には別の人生だってあったのではと思うこともあったという。
優衣香は大学を卒業して民間企業に勤め、一般の社会人として人生を送っていた。玲緒奈さんは優衣香が自分を少し年上の女性として接してくれることが嬉しかったという。
警察官だと知ると人は距離を置いてしまうから、優衣香の存在が心の支えだったそうだ。
優衣香とはどんなファッションが流行っているのか、人気の美味しいスイーツはどんなものなのか、民間企業の組織や仕事はどんなものなのかなど、他愛もない話をするだけだったが、高校卒業後に警察組織に染まった玲緒奈さんには知らないことばかりで、優衣香の話を聞くだけで、それだけで楽しくて、息抜きになったという。
何よりも身元のはっきりした人で、家族も知っていて、警察官であることを理解してくれることが安心だったと。
俺が優衣香をずっと好きだと玲緒奈さんが知ったのは六年前だった。
玲緒奈さんから、優衣香に恋人がいる時は一人暮らしの優衣香の部屋を訪ねてはならない、遠慮すべきだと叱責された際、表情の変化を感じ取った玲緒奈さんに俺は尋問されて正直に答えた。
十四歳の時からずっと好きで、デキ婚する時に優衣香の前で泣いたことも正直に話した。優衣香が恋人と別れた後に何度も想いを伝えていることも、その都度断られていることも話した。電話をすることが怖くて、いつも宛名だけ書いた葉書を送っていることも話した。
玲緒奈さんはそれを聞き、俺が離婚した後に女を食い散らかす時と女と一切関わらない時があるのを以前から疑問に思っていたが、それが優衣香の恋人の有無と関連があることに気づいた。
玲緒奈さんは笑っていた。
それからは、当時優衣香に恋人がいなかったから俺と付き合わないかと説得していたという。
たが、その後すぐ優衣香に恋人が出来た。
これまで優衣香に恋人が出来ると、俺は相手の身元を調べていた。十年前から六年前までで三人だったが、最初の二人は問題は無かった。だが最後の一人は、結果として優衣香の母親を、実家を、家族の記憶を、全て奪った。




