第5話 折り合い(後編)
六月二十一日 午前一時十三分
俺の腕の中にいる優衣香は不安そうな目をしている。テーブルランプが淡く灯る寝室で、俺は優衣香の頬に手を添えて親指で目元をなぞっていた。
「優衣ちゃん、俺の恋人になって……幸せ?」
驚いて目を見開いた優衣香は言葉が出て来ない。
俺は優衣香が恋人になってくれて、長い片思いが叶って幸せだ。だが優衣香はどうなのか。俺の幸せが優衣香の犠牲の元に成り立つのならそんな幸せは要らない。
「幸せだよ、敬ちゃん、私は幸せ。だから……」
優衣香は俺の首に腕を回して、泣き出しそうな表情で言った。俺が優衣香を幸せにしてやりたい。でも俺のこの気持ちは独りよがりなのかも知れない。
――話してしまおう。
「優衣ちゃん。石川さんに届いた手紙を俺も見たよ」
おそらく優衣香は、事実を告げられると想定している。でも話してしまおう。それでダメなら、もう諦める。
「優衣ちゃんも手紙は読んだよね?」
「うん……」
「手紙に書かれていたことが事実なのか、俺は否定も肯定もしない」
「えっ」
「俺もやっていたのかも、否定も肯定もしない」
石川さんに届いた手紙は事実を告げるものだった。
全てではないが、書かれていたことは全て事実だった。優衣香の目には、須藤さんが非道な男だと映っただろう。
優衣香は仕事なら仕方ないと中山へ言っていた。だが、事実を告げられたら同じように言うとは思わない。
――もう二度と優衣香に会えなくなってもいい。
「優衣ちゃん。俺と関係を続けるか、優衣ちゃんが決めて」
優衣香は腕を俺の背中に回した。俺の胸元に顔を埋めて、強く抱きしめて、嫌だと、一緒にいたいと言う。
俺だって嫌だ。一緒にいたい。目の前の幸せを逃したくない。俺が俺でいられるのは優衣香がいるからだ。他の女じゃダメだ。優衣香じゃないとダメなんだ。
俺は警察官の息子だから警察官になった。だが警察官を拝命してから、ずっと逃げたいと思っている。この仕事をするようになってからは逃げられない現実に心がもたないときもある。
やりたくないなら警察辞めろ。でも組織はお前を生かしておかないけどね――。
須藤さんは俺にそう言った。中山にも加藤にも言ってあるはずだ。
「敬ちゃん」
「ん? なに?」
――優衣香が結婚して誰かのものになってしまえば良かったのに。
「敬ちゃんは仕事をしていて、辛い、苦しいと思う時はある?」
「うん。あるよ。警察辞めたいといつも思ってる」
「そうなんだ……それでも辞めない理由は何?」
――逃げられないから。逃げたら命が無いから。
すぐに辞められる警察官だったら、俺は辞めない。若い時は俸給が安くて生活が大変だったが、今は民間の中央値を超えている。この先は差がつくだけ。公務員の身分と俸給を今さら捨てるわけがない。だが今の仕事をしている俺は、公務員の安定も俸給も全て捨ててしまいたい。
誰かがやらなきゃならないからやってるだけ――。
それなら俺じゃなくたって良いはずだ。だがその誰かが俺なんだから、やるしかないと思っている。
「人が好きな仕事、楽な仕事だけをしたら、世の中回らなくなるから。それに日本は資源が無くて海洋国家だから、日本人全員が知恵と労働力を出し合って協力しないといけない。だから俺は、警察官になっちゃったから警察官をやるしかないと思ってる。警察官なんて日本で一番割に合わない仕事だけどね」
優衣香は微笑んだ。優しい笑みが顔いっぱいに広がる。
「敬ちゃんがカッコイイこと言ってる!」
「えー? んふふ……」
優衣香は俺の顔に手を添えて、頬をゆっくりと撫でている。優衣香は自分の仕事について話し始めた。
優衣香が新卒で入った会社を辞めて、今の仕事を始めたのは四年前だった。
事件が起きた後、直属の上司や同僚は優衣香の身を守ろうとして、警察と消防のOBがいる会社はマスコミに優衣香の個人情報が漏れないように手を回した。
だが優衣香をよく知らない他の奴らは、噂話で回ってきた事実と反することをネットに書いたり、マスコミに漏らした。優衣香が会社を辞めた理由はそれが原因だった。
優衣香はその後、雇用保険の教育訓練給付制度で勉強して今の仕事を始めた。基本的に自動車保険だが、損害保険金額算定に係る調査業務をしている。
「私はね、人の不幸が自分の給料になる現実が辛い時がある」
保険金額の算定に求められるものはいかに支払額を少なくするかだ。その算定に係る査定を優衣香はやっている。保険会社は慈善事業ではないから。
保険金詐欺の疑義があれば優衣香の手を離れるが、現場、病院、修理工場、警察、検察、裁判所へ出向き、弁護士との折衝や加害者と被害者の聴取等も優衣香はやっている。
「公務員で公安職の敬ちゃんと民間の仕事を同列に語るのはおこがましいとは思うんだけど……」
優衣香は俺に気を遣って話をしている。俺は優衣香を優しく抱きしめて、頭を撫でた。
「営利企業だから、『保険金額の適正な算定』を大義名分に、被害者側の非を突かないとならない。契約者側ももちろんそう」
「……そっか」
「でもそれは敬ちゃんも同じでしょう? 目的のために良心を捨てる時だってあるでしょう? 公務員の職務遂行なら常に、だよね?」
「……そうだね」
公務員には職務命令服従義務がありますから、上司の命令なら、職務遂行は当然だと思います――。
「だから手紙の件は必要なことだったんでしょう?」
「ふふっ、優衣ちゃん。俺は否定も肯定もしないと、言ったよ」
「あっ、そうだ。んふふ、ごめん」
優衣香は俺を引っかけようとしたのか。だが、所属を明らかに出来ない俺を理解してくれているようだ。
「あのね、私は保険会社に保険金を満額支給させるための調査もやっているから、心の均衡は保たれてる」
「そうなんだ」
「その両輪で、私は心に折り合いをつけてる。敬ちゃんは、どうやって折り合いをつけてるの?」
――折り合い、か。
「俺は、優衣ちゃんだよ」
「えっ?」
「優衣ちゃんがいるから俺は俺でいられる」
――笑顔だけど、納得してない顔してるな。
仕事で折り合いをつけるのは、俺の仕事では無理だ。俺は音楽隊で楽器を拭く係だから。
「それじゃ、ダメかな?」
「ううん、良い。嬉しいよ」
「俺の仕事内容は言えない。でもね、一つだけ言えるのは、俺の仕事は治安維持だよ」
「警察官って全員そうじゃない?」
「んふふ……そうだね」
「あー、でも、私の存在が治安維持の一端を担ってるだね。ふふっ、なんだか出世した気分だなー」
俺は優衣香を抱きしめて、そのまま仰向けにして髪を撫でた。
耳に触れ、首筋をなぞり、顔を近づける。
唇と唇が触れる直前で動きを止めて、優衣香の目を見て、俺は訊ねた。
「優衣ちゃん、俺の恋人のままで、いてくれる?」
優衣香は頷く。
俺は覆い被さるように抱きついて、優衣香のパジャマのボタンに手をかけた。
「したい……いい? 優衣ちゃんが欲しい」
優衣香が返事をする前に、唇を重ねた。
俺はもう優衣香しか見えない。
優衣香を幸せにするのは俺でありたい。俺以外の男には絶対に渡さない。
俺が優衣香を幸せにする。
「優衣ちゃん、俺とずっと、一緒にいて」
俺は優衣香の体中に唇を這わせて、優衣香の甘い声を聞きながら、愛おしくてたまらない気持ちをぶつけた。
優衣香がこの世で一番大切な人だと、俺は改めて思った。




