幕間 お嬢様官僚が恋した相手は御曹司系警察官―今夜、キミの瞳を逮捕する―(後編)
午前三時四十一分
――時間だ。
「行きましょう」
そう言って車を出そうとシフトレバーに触れようとした時、麻衣子さんが俺の左手を掴んだ。麻衣子さんの小さな手が、微かに震える細い指先が、俺の手の動きを阻む。
「あの、岡島さん」
「……はい」
俺は麻衣子さんを見れなかった。
正面を向いたまま、麻衣子さんが何を言うのか、待った。俺の左手に触れていた麻衣子さんの手はもう彼女の膝に置かれている。
「私は、岡島さんが息子さんを一番に考えている、そういった誠実なところを、お慕いしています」
――お慕い。好きじゃなくて、お慕い。
尊敬しているという意味かな。でも多分、違うだろうな。でも今はそんなことどうでもいい。あとで検索すればいいから。
――麻衣子さんはどうしてそこまで俺のことを……。
思わずため息が出そうになるのをグッと飲み込んだ。
俺は麻衣子さんの方を向き、シートベルトを外して体を麻衣子さんの方に向けるように座り直した。そして麻衣子さんの手を、膝の上に置いた手を、右手で上から包み込むように重ねた。
小さな手は小刻みに震えている。
俺と目が合うのを怖がっているのか、目は伏せられたまま。俺はゆっくりと、できるだけ穏やかに見えるように、微笑みながら麻衣子さんの目を見た。
麻衣子さんの潤んだ瞳は、何かを訴えるような切なさがあった。でもその視線は真っすぐで俺からそらされることはない。
俺は麻衣子さんの言葉を待たずに続けた。
ここで言葉を間違えると、俺たちの未来は変わってしまう。それだけは絶対に避けたかった。
俺と付き合って、麻衣子さんには後悔して欲しくない。麻衣子さんには、もっといい男がいる。それは俺じゃないから。
俺は重ねた手を麻衣子さんの腰に回して引き寄せた。
「ねえ、ヤラせてよ」
「えっ……」
声音も変えた。目つきも変えた。
今はインテリヤクザみたいな見た目にしているけど、元々は昭和のチンピラだった。その時に染み付いた習慣はいつでも出せる。
「夜中にさ、男と車で二人きり。それってオッケーってことなんでしょ?」
「そんな……」
「ヤラせてよ。ヤリたい」
――俺を、嫌いになって。お願いだから。
麻衣子さんは何も言わない。
ただ俺を見るだけで、瞬きさえ忘れているようだ。
俺は麻衣子さんの答えを待たなかった。ただ黙って顔を近づけた。
「いいってことなの? ふふっ、ねえ、何か言いなよ」
唇が触れるまで数センチの距離。
麻衣子さんの顔が近づき、唇が触れると思ったが、麻衣子さんは唇を固く結んでいて、目を瞑ってはいなかった。俺を見ている。
「俺、警察官だから同意が無いなら止める。懲戒処分食らいたくないし」
――俺を嫌いになってよ。それで終わらせようよ。
俺をじっと見つめる麻衣子さんの目は、何かを訴えている。涙が今にも零れ落ちそうだけど、それを堪えていた。
――嫌だと言ってよ。俺を蔑んでよ。お願いだから。
「ふふっ、だから嫌ならハッキリ言い――」
言い切らないうちに、麻衣子さんは震えながら俺の首の後ろに腕を回してきて、俺を抱き寄せてきた。
――なに? なにこれ? どういうこと?
麻衣子さんの腕は、ぎゅっと力が入り俺を離さなかった。俺にしがみつく麻衣子さんは小さな声で、震える声で言った。
「――は、岡島さんが、いいです」
――え、なに? 最初に何て言った?
「明日……今日です、休みを取りました」
――休み? 休みがどうしたの? 会うのは明日が良かったってこと?
俺は訳がわからずに固まってしまった。そんな俺に、麻衣子さんは少しだけ顔をずらすと、耳元に口を寄せて呟いた。
その囁きはあまりにも小さくて、俺は聞き取れなくて、思わず顔を離した。
麻衣子さんはそのタイミングで、俺をまた引き寄せるようにして抱きついてくると、唇が重なった。
ほんの一瞬の出来事だった。
「両親には、帰らないと、言いました」
――何を言ってるの? 今日は国会対応で完徹する予定だったの? でも多分、違う……。
俺は思い出した。
記憶が鮮やかに、蘇ってきた。
葉梨と葉梨の親父さんだ。
横浜の事務所にいる葉梨は昨夜、メッセージを送ってきた。
俺は麻衣子さんをヤン車で迎えに行って、自宅に送り届けるとメッセージを送ったが、葉梨は『麻衣子のことをよろしくお願いします』と返して来た。
葉梨の親父さんには電話をかけた。
麻衣子さんを迎えに行って家に送り届けますと伝えると、親父さんはこう言っていた。
『岡島さんになら、麻衣子を安心して託せます。よろしくお願いします』
俺はてっきり、警察官だから安全運転で送って来るだろうと、そういう意味だと思っていた。葉梨も葉梨の親父さんも、車で送ることに対して言っているのだと思っていた。
――完全に、意味が違ってた。
兄ちゃんも父ちゃんも、妹が、愛娘が、俺と一夜を共にすることを念頭に置いてたんだ。二人とも何考えてんだよ。奈緒ちゃんなら絶対に『バカなの?』って言うパターンのやつだよ。もうっ。
俺の首に腕を回してしがみついたままの麻衣子さんは、震えながら小さな声で俺の名を呼んでいる。
「麻衣子さ――」
「最後だから……お願いです、初めては岡島さんが、いいんです。お願いします……」
――あーあ。言っちゃったよ……。
好きな女が俺を求めてる。
好きな女が俺を誘ってる。
ここで何もしない男なんていないのに。
俺はもう止まらない。
麻衣子さんのシートベルトを外して背中に腕を回して抱きしめた。そして再び唇を重ねた。今度は俺の方から深く貪るように。
俺は唇を重ねたまま麻衣子さんに覆い被さり、助手席に押しつけた。麻衣子さんの手は俺のシャツを掴むように握られる。
何度も角度を変えて、お互いを確かめ合うような激しいキスをすると、麻衣子さんの息遣いも荒くなり、俺の舌の動きに応えるようになった。
こんな風に、麻衣子さんと触れ合いたかった。
ずっと我慢していた。
俺だって男だから。
――ああ、ダメだ。もう無理。
こんなんじゃ足りない。もっと欲しい。俺は麻衣子さんの首筋に唇を這わせた。ビクッと反応する麻衣子さんは、俺の頭を抱え込むようにして首を振る。その仕草は俺を煽る。
髪から肌から漂う甘い香りに俺は夢中になった。
声のような吐息を漏らす麻衣子さんは、俺の頭を両手で抱え込むようにしているせいか、俺の耳を塞ぐような形になっている。
俺は自分の左手を麻衣子さんの右手の下に差し入れて指を絡めて、ヘッドレストに押しつけた。小さな細い指先はやがて俺の手を握り返してきた。
右手で麻衣子さんの細い腰を撫でて、太もも、膝へと手のひらを添わせていくと、麻衣子さんが声を出した。その声は、艶のある声だった。
――今のって麻衣子さんの声……なの?
俺は思わず動きを止めた。
麻衣子さんの顔を見ると、その顔は真っ赤に染まっていて、目は潤み、唇は半開きのまま、荒い呼吸を繰り返していた。
そんな姿を見ていたら俺はさらに欲情してしまう。
もっと、もっと麻衣子さんの声が聴きたい。
――麻衣子さんのすべてが欲しい。
俺は麻衣子さんを抱き起こして引き寄せた。
俺の腕の中にいる麻衣子さんは緊張しているのか微かに震えている。優しくしてあげたいと思う反面、めちゃくちゃにしてやりたい衝動にも駆られる。
――ごめんね、優しくできないかも……。
麻衣子さんを抱きしめながら、何度も何度も唇を重ねた。
◇
麻衣子さんは息苦しくなったのか、俺の肩に手を置いて離れようとしてきた。それでも止めずに続けると、俺の胸に両手を当ててもがき出した。
俺は仕方なく唇を離して、荒い息遣いの麻衣子さんを見た。その瞳は潤み、目尻から涙が一筋、頬を伝った。
俺が親指の腹でその雫を拭うと、麻衣子さんは恥ずかしそうに笑う。その瞳はとても綺麗で、俺の心臓はトクンと跳ねた。
――キミの瞳を逮捕する。
俺は決めた。
好きなんだから、しょうがないよね。
「麻衣子さん、好きです。ずっと好きでした」
そう言うと、麻衣子さんは嬉しそうな顔を見せた。
そして、俺の首に手を回すとぎゅっと力をいれて俺を引き寄せた。私も好きです――。
耳に流れ込む麻衣子さんの声に、俺の頬は緩む。
ラブストーリーは最終話じゃなかったんだ。
文を重ねて想いを募らせる男のプロローグを経て、夜空に浮かぶ月を一緒に眺めたいと願った男が、愛しい女性と初めて唇を重ねる、そんな第一話だった。
――嬉しいな。
俺は麻衣子さんを強く強く、抱きしめた。




