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第1話 尾行

 六月七日 午後四時二十分


 薄暮の時間、太陽はまだ地平線の下に沈んではいない。


 重い灰色の雲に覆われた空の下、湿気を帯びた生ぬるい風が吹いている。じっとりとした不快感が肌に纏わりつく。

 見上げる俺の視線は、すぐに正面へと引き戻された。それは目の前にそびえ立つ建物のせいだ。十階建ての鉄筋コンクリートの建物には四角く区切られた窓。上階の三階分は官舎だ。


 こんな天気だと気分も沈んでしまいそうになる。

 湿っぽい風がまた吹き抜けて、肌に纏わりついた。



 ◇



 約三ヶ月間の傷病休暇明けに異動した野川(のがわ)里奈(りな)に会いに、俺は野川の勤める署に来ている。事前に課長へ話は通してあり、三十分ほど時間を与えられた。


 あの日、本城(ほんじょう)昇太(しょうた)は野川を守れなかった。兄と同じ場所に傷を負い、両肩の関節を外され、右太腿を刺され、左大腿にナイフが突き刺さったままの本城は、野川を乗せた車の車種もナンバーも現認出来ずに、ただそこにいた。


 野川は身体拘束はされていたが何もされずにいた。ただ、服は脱がされていた。理由は野川の所在地を示す機器類を身につけている可能性があったからだ。だが野川は、体表(・・)には身につけていなかった。何もされなかったから、野川を事件発生の翌々日未明に救出出来た。


 裸で拘束され、部屋の片隅に捨て置かれていた野川を救出したのは俺の同期の中山陸(なかやまりく)加藤(かとう)奈緒(なお)だった。

 俺は保護シートに簀巻きにされた野川を彼から受け取ったが、小さくて軽いことに驚いた。


 ただでさえ少ない女性警察官なのに、女性だからという理由でこんな屈辱を味わうなんて、そんな不条理があって良いのかと俺は思った。出来ることなら代わってあげたかった。

 医師の元へ搬送する車内では、簀巻きのままの野川を、薬で眠り続ける野川を、加藤は泣きながら抱きしめていた。



 ◇



 面談室に向かって来る足音がする。おそらく野川だろう。歩幅と足の運びから身長と体重が推測出来る。体重は元に戻ったようだ。それでも小さい野川の姿が目に浮かぶ。


 ドアがノックされ、良く通る大きな声が聞こえた。数ヶ月聞かなかった野川の声だ。ドアを開けた野川は、立ち上がって迎える俺を見上げて、笑った。


「ご無沙汰しております!」


 野川とは実質二週間ほどしか仕事をしていない。だが、若い彼女の辛抱強さも黙々と目の前の課題をこなす努力家なことも知っている。ポンコツさに振り回されたのは事実だが、俺にとっては可愛い後輩だ。


「久しぶり。元気そうだね」

「はいっ!」


 面談室は二人掛けソファと一人掛けソファ二つが正対して設置してある。俺たちは一人掛けソファで横に並んで座った。


 野川の身に起きたことは最低限の人間しか知らないが、神奈川県横浜市にある捜査員用のマンションを管轄する所轄も非常招集が掛かり、本城と野川が大怪我を負ったにしては大がかりだと気づく人間もいた。それでも野川の心を守れるよう、実害が及ばないよう、俺たちは動いた。


 野川の入院中と実家での療養中に俺は会いに行った。その時よりも、元気になっていて俺は嬉しかった。


「相澤とは相変わらず、連絡してるの?」


 事件前、野川が相澤(あいざわ)裕典(ゆうすけ)に告白したことと相澤が答えを保留にしたことは相澤から聞いていた。

 野川からは、相澤から毎日欠かさずにメッセージが来ると聞いている。相澤は、野川が好きだと言ったメッセージアプリのスタンプを購入し、それを日々のメッセージに合せて送っているという。それが嬉しいと、野川は言っていた。


「連絡してますっ!」

「そうか」


 俺はカバンから白い二重封筒を取り出して、テーブルの野川の前に置いた。


「野川、これは俺の気持ちだ。受け取って欲しい」


 何のことかわからないのか、封筒と俺を交互に見る野川を微笑みながら眺めていた。

 二重封筒の中は五十万円が入っている。本城が野川を守れなかったのは、俺の責任だ。だからお詫びとしての五十万円だった。


 封筒を手に取った野川は気づいた。

 俺に返そうとするが、俺は拒否した。それでも受け取れないと固辞する野川へ俺は言った。


「ならさ、弟の美容院で使ってよ。サロン専売品のヘアケア商品だって、高いでしょ? 安月給にはキツい金額だよ。だから弟の美容院で買えばいい。それなら、いいでしょ?」


 野川が納得しかけていた時、この面談室に向かって来る足音がした。背の高い、男。体格が良くて柔道でも剣道でもない足の運び。指定した時間通りに到着した男が、面談室をノックした。

 野川に封筒をしまうように言い、その男に入るように応えると、その男は大きな声で『失礼します』と言って、ドアを開けた。


「葉梨だよ。俺が呼んだ」

「そうですか!」


 葉梨(はなし)将由(まさよし)はソファから身を捩って自分を見ている野川の姿を、笑顔を見ると破顔した。

 立ち上がって葉梨に駆け寄る野川に、葉梨は手に持った土産を渡している。

 俺も立ち上がり、二人に着席を促した。


 俺と葉梨は二人掛けソファに座り、正対する野川と時間まで他愛もない話を続けた。

 翳りのない笑顔の野川に、あの日の事件を彼女は乗り越えたのだと思えて、安堵とともに頬が緩んだ。



 ◇



 署を後にした俺と葉梨は一緒に駅へ向かったが、葉梨は官舎ではなく実家に帰るという。

 実家のある駅名を聞くと俺の目的地だった。

 俺は葉梨に『女と会う』とだけ言い、特に何も考えずに葉梨と一緒に電車に乗り、降りて、改札口を通り、駅を出た。だが、葉梨の目的地は実家ではない気がする。


「なあ葉梨、実家じゃなくて、加藤の家に行くんだろ?」

「……はい」


 俺は優衣香(ゆいか)の新居に向かっている。あの日以来、約半年ぶりに会える。

 優衣香から連絡は元から無いが、四月に母経由で優衣香が引っ越したと聞いていた。優衣香から住所を俺に教えるよう言付かったという。

 俺は優衣香の新居を玲緒奈(れおな)さんに伝え、調べてもらった。一般市民の優衣香にとっての住環境の良さと、俺の仕事にとって良い(・・)のかは別の問題だから。


 五日程で玲緒奈さんから問題無しと連絡を受けて、それから俺は手元の駒に頼んでいろいろと調べてもらった。だが報告を受けた俺は何とも言えない気持ちになった。

 それを玲緒奈さんに電話をすると笑っていた。玲緒奈さんは住所を聞いた時に驚いたが、俺には黙っていたという。


 俺は今日、初めて優衣香の新居へ行くが、手駒が俺を先導している。その男に俺はついて行っているが、葉梨は気づいているだろうか。


「葉梨、尾行されてるの、気づいてる?」

「はい」

「どこに何人?」

「それは一人、ではない、と?」

「……で?」

「八時に、一人います」


 一時方向に先導者がいて、八時も俺の手駒だと伝えると、葉梨の緊張は和らいだ。だが――。


「葉梨、もう二人、いるよ」

「えっ……」


 俺の言葉に、葉梨の体は強張っていた。






 

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