第5話 捨てた男
午後十一時十三分
マンションを出て横断歩道で信号待ちをしていると、誰かが俺に近寄る気配がして、隣に来たその女は「お疲れさま」と言って俺の顔を見た。
「お疲れさまです」
「夕飯は食べた?」
「いえ。でもアイスは食べましたよ」
「ふふっ、いいね、アイス」
岡島とマンションの周囲を歩いている時からこの女の気配は感じていたが、姿は見えなかった。だがこのタイミング、この場所で声をかけてくるのはどういうことだろうかと思っていると、女は口を開いた。
「マンション行ったらさ、加藤が甘えた声出してるし葉梨は『奈緒』って呼び捨てだし、びっくりしてマンションから逃げてきたんだよ」
「ええっ!? 本当ですか!?」
葉梨が加藤を呼び捨てか。意外だな。
でも隣の玲緒奈さんの方が驚いている。
「でもさ、すごく幸せそうで嬉しい」
「ふふっ、そうですね。微笑ましいです」
信号が変わり、歩き出した玲緒奈さんは俺の耳元で囁いた。胸ポケットを見ろ――。
――何か入れたのか。
ネックストラップを付けたスマートフォンとボールペンを入れたワイシャツの胸ポケットを確認すると五センチ角の紙が入っていた。
そこには数字が書いてある。解読すると――。
『二十二時三十五分にマンションへ行く』
――いつ入れたんだよ。
「もー、あんたが気づかないから加藤と葉梨の邪魔しちゃったんだけど」
「すみませんでした」
「おかげで良いもの聞けたけどね」
「ふふっ……そうですね」
玲緒奈さんは明朝に会社へ来る予定なのになぜこの時間にいるのだろうか。
――絵里の件か。
吉崎さんから山野花緒里が吉原絵里と接触していると連絡を受けたのは五月初めだった。
俺は玲緒奈さんにだけ話を通して玲緒奈さんと調べていたが、双方の駒だけでは限界があった。そこで中山と飯倉も加えると、なんとなく見えて来たものがあった。
「吉原絵里は、敦志が目的じゃない」
――やっぱりその話か。
「俺、ですかね?」
そう言ってちらりと玲緒奈さんを見ると、微かに唇を噛んで目線が彷徨っている。歩みを止めた玲緒奈さんは俺を呼び止めた。
「そっから先が、わかんないの」
「でも、敦志じゃないと確定しただけでも良いじゃないですか」
「そうだけど……」
自分の夫が危うく命を落としかけた事件から五年近く経つ。警察官の妻として覚悟はしていただろう。だが、いざそれが差し迫った時の玲緒奈さんの取り乱した姿は今でも目に焼きついている。
――やっぱり俺、なのか。
あの日で全て終わった。
そう思っていたが、絵里を駒にしていた男は絵里を捨てた。
それを知らせてくれた中山は、『気をつけて下さいね』とは言っていたが、何も起きないまま時は過ぎた。
「俺の身に何かあっても、悲しむのは親兄弟だけですから」
「そんなことないでしょ」
玲緒奈さんは奈緒美さんの存在を知っている。
敦志経由で、奈緒美さんとデートしたこと、その後も関係は続いていることを又聞きして恋人だと玲緒奈さんは思っている。
話してしまおうか――。
話した方が良いかも知れない。
「あの、玲緒奈さん」
「なにー?」
「彼女なんですけど」
「うん、なに?」
「彼女は、恋人じゃなくて友達、なんです」
そう言って歩き出した俺の腕を玲緒奈さんは掴んだ。眉根を寄せて「なにそれ?」と言う。
「会うようになってちょうど二年経ちますが、体の関係どころか指一本触れてません。だから交際報告も上げてません」
「……そうなんだ」
「彼女は素敵な女性ですから俺は好意を寄せてます。でも、無理なんですよ」
「ん? 独身でしょ? 他に男がいるの?」
「いえ……ああ、そうですね、います」
「んんっ? 何よ、教えてよ」
表情を見ても本当に知らないのだろう。優衣香ちゃんは話してなかったのか。優衣香ちゃんは本当に口が固い。俺は敬志の顔を思い浮かべて頬が緩んだ。
「玲緒奈さん」
「ん?」
「もし、万が一、敦志があの時……殉職していたら、玲緒奈さんは再婚してたと思いますか?」
「はあっ!?」
「再婚、考えます?」
「無理。しない。絶対」
「なぜですか?」
「えっ……」
目を伏せた玲緒奈さんは、敦志以外の男など考えもしないのだろう。それに玲緒奈さんも警察官だ。仕事をしているから男に縋らなくても生きていける。
「実は、彼女はご主人を亡くされてましてね、再婚は考えていないそうです」
「ああ……お子さんいるから、か」
「いえ、いませんよ」
「えっ……なら問題ないでしょ?」
「ふふっ、玲緒奈さんが再婚しない理由って、何ですか?」
「あ……」
ああ、やっぱり玲緒奈さんは敦志以外の男など眼中にないんだ。夫婦円満だとは知っているが、それは玲緒奈さんが今でも敦志を好きだからなのだろう。
「ふふふ……ごちそうさまです」
「殴るよ?」
敦志は結婚してからずっと、玲緒奈さんの誕生日と結婚記念日に赤い薔薇十二本と手紙を贈っている。父親がそうしていたから、世の既婚男性がやる年中行事だと思っていたそうだ。
「好意は伝えてあります。でも恋人としては無理だとはっきり言われてます」
「そうなんだ……」
「でも、それでも、そばにいても良いと言ってくれました」
「それなら……」
「去年までの敬志と優衣香ちゃんの関係みたいですよね、ふふっ」
「あー、ふふっ、そうだね」
昨夏、連絡が途絶えたことがあった。
俺は仕事が忙しく、二ヶ月ほど連絡したくても出来なかった。奈緒美さんからも来なかった。
期間中にあった町内会の防犯講話は刑事課の間宮と加藤が対応したが、いつも俺が奈緒美さんの会社に来るはずなのに来なかったことから当日の夜に奈緒美さんはメッセージを送ってきた。『お元気ですか』と。
身も心も疲れ切っていた俺はメッセージが嬉しくてすぐに返事を返した。すると奈緒美さんは電話をしたいと返して来たからすぐに電話をした。
だが電話口の向こうの奈緒美さんは俺の名を呼んだきり何も言わず、どうしたのかと思っていると、すすり泣く声が聞こえて『生きているならいいんです』と言った。
俺は連絡をしなかったことを詫びて、何かを言おうとして言いよどむ奈緒美さんの言葉を待ったが、少ししてから奈緒美さんが言った言葉に、涙声のその言葉に俺の胸はトクンと跳ねた。
会いたいです――。
奈緒美さんは今、俺との関係を大切にしてくれている。俺はそれが嬉しい。もう、それだけでいい。
「ねえ、諒ちゃんさ……」
「えっ、はい。何でしょうか」
――諒ちゃん、か。久しぶりに言われたな。
「もし、万が一、吉原絵里の狙いが彼女なら……どうするの?」
山野花緒里に接触した時点で、もちろんそれは念頭に置いてある。手も打ってある。
「終わりにします。当然でしょう」
立ち止まり、俺を正面から見据える玲緒奈さんを見上げた。
俺より二センチ背が高く、五センチのヒールを履く玲緒奈さんは唇を噛んでいる。俺の目の奥を見据えるその目は伏せられた。
「敬志なら、優衣香ちゃんを選ぶでしょうね」
「……うん」
「羨ましいです」
部下の命を預かり、その命の選別もする立場の俺に選択肢は無い。
誰かがやらなきゃならないからやってるだけ――。
捨てろ、全部捨てなきゃ出世は出来ねえよ――。
そう言って家庭を顧みなかった先輩は『家族のためなら泥水でもすする』と言い残し、警察を辞めた。出世した俺は警察を辞めても欲しいものは手に入らない。
だから今のままで、いい。