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幕間 後悔

 窓の外を見ながら女は煙草を口にくわえた。火をつけ、ぼんやりと外を眺める女の姿を俺は目に焼きつけるように見ている。

 ソファに座る俺は目の前に置かれたグラスに手を伸ばした。


 水を飲みながら、一年に渡りこの部屋で女と交わした言葉の数々を思い出していた。その中には、ずっと心の奥底にしまい込んでいる言葉がある。


 私、諒輔(りょうすけ)の子供を産みたいな――。


 俺と結婚したいではなく俺の子を産みたいと言った女に、俺の心は揺れ動いた。だが、俺にはこの女を選ぶことは出来ない。


 ふと視線を感じ視線をやると、女が微笑みを浮かべながらこちらを見ていた。俺はグラスを置き、女に向かって手を伸ばす。女は一方の手に持っていた煙草を灰皿に置くと、腰を屈めて俺の首に腕を巻きつけて来た。そして唇が重なる。その柔らかさと温かさに酔いしれながら、俺は女の背中に回した手に力を込めた。


「おいで」


 俺の横に座った女は微笑む。俺は応えるように笑い返して、肩を抱き寄せて、腕の中の女に囁いた。


絵里(えり)。もう逃げられないよ。わかってるよね?」

「バレてたんだ……いつから知ってたの?」

「最初から」


 ――だから後悔するって、俺は、言ったんだよ。


 目を見開いて俺を見上げる絵里を見ていると、目の奥に小さな痛みを感じる。俺は涙を堪えようと息を吸い込み、視線をわずかに上げると、絵里と過ごした日々が色鮮やかに蘇ってきた。



 ◇◇◇



 八年前、離婚して間もない頃に吉原(よしわら)絵里(えり)と出会った。

 同期の松永(まつなが)敦志(あつし)と久しぶりに飲みに行った際、二軒目は自分の息がかかるクラブへ行こうと誘われたが、俺と目を合わせた敦志は微笑んでいた。

 何かがある――それが何なのかは、店にいた新人の絵里の姿を見た瞬間に理解した。絵里は俺のタイプのド真ん中だったから。だから敦志は微笑んだのかと思っていたが、そうではないと知るのは、もっと後になってからだった。


 当時は別のママがいたが、体調を崩してお店に出られない日が続いていて、店をどうするかママは敦志に相談していた。

 その時はそれっきりだったが、敦志から連絡が来てまたクラブへ行くことになった。初めての来店から一年近くが経っていたが、絵里はママから店を譲られ、ママとして店にいた。


 その日から月に一度は絵里の店に行っていたが、関係が変化したのは一年前だった。

 客のいない深夜の店内で、カウンター越しにグラスに入った琥珀色の液体を口に含んだ絵里は、『あの人とはね、もう終わったよ』と、静かに言った。

 そう言ったきり彼女は口をつぐみ、氷がカランと鳴り響いて沈黙を強調していた。俺は言葉を発することが出来ないまま、俺の反応を楽しむかのように妖しく光る彼女の瞳を見ていた。


 絵里は、『ねえ須藤さん。私が水商売辞めて昼の仕事したら、付き合ってくれる?』と言い、俺が『警察官(サツカン)の女なんてやめとけよ。面倒なだけだよ』と返すと、唇をわずかに尖らせ、上目遣いで『面倒な思いをさせた女がいるような言葉ね』と拗ねたように答えた。

 可愛いところもあるんだなと思いながら、俺は『だから離婚したんだよ。それが嫌になったんだと』と目を合わせずに返し、ウイスキーを飲み干すと、絵里はクスッと笑って『嘘吐き』と言い、テーブルの上に置かれた俺の手の上に自分の手を重ね、俺を見つめるその目は潤んでいるように見えた。


 照明が暗いから、そう見えるだけだと自分に言い聞かせた。だが、重ねられた手の指先がゆっくりと俺の手の甲を撫でるように滑り降りて行き、俺は慌てて手を引き抜いた。そんな俺を見て絵里は悪戯っぽく笑っていた。


 いつもの表情に戻ったことに少しホッとしながらも、やっぱり俺は絵里が好きだと思い知らされた。

 絵里が長いこと俺に好意を持っていることは知っていたし、彼女もそれを隠そうとはしなかった。だが、俺は彼女の気持ちに応えることは出来なかった。その理由はいくつかあるが、一番大きな理由は俺が警察官だからだ。

 それでも、彼女が本気で俺を好きになってくれていることは伝わって来たし、彼女の真っ直ぐな想いに心を揺さぶられたのも事実だった。だがそれはそれとして、俺には俺の人生があるように彼女にだって彼女の人生があって当然なのだから、このままで良いと、その時の俺は思っていた。


 その夜は、しばらく他愛もない会話を続けていたが、気づくと午前二時になっていた。

 店を閉めて、店のあるビルを出て二人で歩道を歩いていると絵里が急に立ち止まり、俺が振り返ると、彼女は真剣な表情を浮かべていた。切迫感に似た緊張感を身に纏っているように見え、まるで今にも泣き出しそうな子供のように俺を見ていた。

 俺はそんな彼女を前にして、何も言うことが出来なかった。


 彼女はそのままゆっくりと近づいて来ると、俺の顔を見上げた。そして次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。

 ほんの数秒のことだったと思う。

 唇を重ねた彼女と目が合うと、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。俺の腕に手を添えて、もう一度唇を重ねた後、彼女はそっと体を離した。


 彼女は黙ったまま俯いていた。

 俺はどんな顔をすればいいのかわからず、ただ立ち尽くしていた。しばらくしてから顔を上げた彼女と見つめ合った後、どちらからともなく抱き合い再び唇を重ねた。長く、深く。


 それからどれくらい時間が経ったのか、長い抱擁の後、ようやく俺たちは互いの体を解放したが、反対側の歩道から車道を横断する長身の男が視界に入った。その男は俺を見るとすぐに目をそらしたが、視界には入れている目の動きをしていた。

 俺は男の後ろ姿を視界に入れながら、再び絵里へ目を向けると、彼女はもういつも通りに戻っていた。

 絵里は俺に背を向け足早に歩いて行ってしまい、俺は慌ててその後を追った。そして、俺は覚悟を決めて絵里に伝えた。


『ねえ、絵里。俺といたら、後悔するよ』

『それでもいいって言ったら?』

『一生離さない』


 絵里のわずかに緩んだ頬を見て、俺の恋は、そこで終わった。

 俺に与えられた仕事(・・)は、絵里と恋仲になることだったから。その日から絵里の背後にいる輩を絵里を通して探る日々が始まったから。


 あの夜、俺の前に現れた男は松永(まつなが)敬志(たかし)で、敬志の目の動きとハンドサインは『女の家に行け』だった。それはすでに吉原絵里の内偵は済んでいて、準備(・・)は完了したという意味だった。

 絵里に伴われ、絵里のマンションに行くとマンションの内外には暗闇に溶け込んだ捜査員数名がいて、彼女の部屋の隣と、一階のエレベーターと非常階段に近い部屋には既に捜査員が常駐していた。


 俺は何も知らされていなかった。

 絵里に惚れ込んで店に通っていたが、敦志から絵里のことを問われ、俺は正直に答えていた。敦志からは『吉原絵里は問題ないよ。そろそろ再婚も視野に入れろよ』と言われていたから、営業を終えた深夜に二人きりで過ごしていた。それ以上の関係にはならないようにはしていたが。


 先代のママはこちらの人間(・・・・・・)だったが、新人の吉原絵里に不審な点があり内偵すると、目的は敦志(あつし)だと判明した。だがその後一度も敦志が来店しないことから絵里は俺を利用した。絵里を飼っている(・・・・・)男は、過去の因縁から敦志を何度も襲撃していたが、絵里はハニートラップ要員として敦志と接触するよう指示を受けていた。


 全てを知ったのは翌朝にマンションを出た後だった。俺は敦志にも絵里にも利用されていた。



 ◇◇◇



 俺の腕の中で身動きひとつせず、俺を見上げる絵里に、俺は微笑んだ。


「絵里、手荒なことはしたくない」

「うん」

「もう、ベランダにも玄関の外にも捜査員はいる」


 絵里の体が強張る。

 俺から離れ、小さく息を吐いた絵里は部屋を出て行こうとした。


「絵里、待てよ」


 その言葉に絵里は不思議そうに振り返り、首を傾げている。ソファから立ち上がった俺は絵里の元へ行き、手を掴み抱き寄せた。


「ずっと、好きだった。それだけは覚えていて」


 そう言って力を込めると、絵里は抵抗しなかった。

 ゆっくりと体を離すと、絵里は優しい声で言った。


「私もよ」


 絵里の目を見た瞬間、俺の中で何かが弾けたような気がして、もう一度抱き寄せていた。絵里が嘘を吐いてなかったから。

 だが俺にはどうすることも出来ない。絵里を手に入れることも出来ない。全てが今、終わった。この部屋で何度も体を重ねても、絵里が自分のものにならない諦めに似た感情を抱き続けた日々がやっと終わった。


 ならばこれが最後だと、唇を重ねようとして絵里の目を見ると、泣きそうな表情を浮かべていることに気づいて我に返った。これ以上はダメだ。

 俺は自分に言い聞かせるようにして、絵里に別れを告げた。「さようなら」と。絵里は小さく頷き、「元気でいてね」と言った。


 俺は玄関ドアの向こうにいた捜査員を引き入れ、部屋に戻って行く絵里の後ろ姿から目をそらし、部屋を出た。

 外廊下には敬志がいた。

 彼に俺の内面を気取られてはならないと、いつもより低い声音で「行くぞ」と声をかけると、敬志はジャケットのポケットから鍵を取り出しながら「車は下に回してあります」と言い、俺に背を向けて歩き出した。


 署に向かう公用車の中では、運転する敬志は何も話さなかった。彼なりの優しさなのだろう。だが、俺は無言の空間から逃げたかった。気持ちを切り替えることなど不可能で、何か話そうとしたが、考えが纏まらないまま言葉が吐いて出ていた。


「敬志、今日の俺のことは、秘密にしてくれるか?」

「えっ?」

「この……今ここの、公用車の中でのこと。俺とお前しかいない、ここでのこと」

「はい。秘密は守ります」

「ありがとう」


 そう言い切らないうちに頬に涙が伝った。

 敬志が明らかに動揺する姿に口元は緩むが、涙が止まらない。


 ――絵里、俺はずっと好きだったんだよ。


 警察官だから惚れた女でも利用しなきゃいけないなんて嫌だよ。嫌だったんだよ。逃げたいよ。逃げたかったんだよ。でも俺だって利用されたんだ。

 だから情に流されず職務を全うした。

 当たり前のことを俺はやった。

 だから褒めて。誰か俺を褒めてよ。


「俺は、幸せになっちゃいけないんだよ」


 ちらりと敬志を見ると、視線に気づいたのか敬志も視線を向けるが、すぐに前を見た。

 こんな感情を(あらわ)にする上司など敬志は見損なっただろう。だが男としてなら、俺はまだ敬志に言ってやれることはある。


「敬志、お前は幸せになれ。お前は、幸せになって欲しいんだよ。だから優衣香(ゆいか)ちゃんに会いに行け。お願いだから」


 ――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。


 流れる街並みを眺めながら、俺は絵里があの日言った言葉を思い出していた。


 後悔は後でするものよ――。


 きっと絵里も後悔しているだろう。そうであって欲しいと俺は思う。正しいことをしても誰も褒めてくれないが、絵里がそう思っていてくれるなら、俺はこれからも警察官として正しく生きていけると思うから。





 

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