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幕間 桐箱

 六月十日 午前九時五十分


「岡島さん。今日は九時半には戻りますから」


 月に一度は必ず実家に帰る葉梨を官舎の玄関で見送っている。今日は俺も葉梨のご両親から食事に招かれていたが断った。

 靴を履きながら帰宅時刻を伝える葉梨の背中に向けて「ご家族や伊都子(いつこ)さんによろしく」と言うと、俺に向き直った葉梨は落ち着かない様子で口を開いた。


「はい、ありがとうございます」


 そう言って振り向いて出て行くのかと思ったが、葉梨は何かを言いたそうにしている。妹の麻衣子(まいこ)さんのことだろう。

 麻衣子さんとは文通をして一年半ほど経つが、会わなくなって二年経つ。葉梨が実家に帰る時は二回に一回はついて行っていたが、麻衣子さんの変化にマズいと思った俺は行かなくなった。


 それは俺が昭和のチンピラからインテリヤクザの風貌に変えた頃だった。

 チンピラ時代は目を合わせずに挨拶をして、会話も最低限だった麻衣子さんは、初めてインテリヤクザの俺を見た時に顔を赤くしていた。何事かと思ったが、右手で左腕を掴み、震える手を誤魔化していた。


 イケメンな俺に、キミはフォーリンラブ――。


 そんなふざけたことを思い浮かべたが、俺はマズいと思った。

 俺は清楚系が好きで、熊の葉梨に一ミリも似ていない可愛い麻衣子さんを好ましくは思っていた。でも、松永さんに言われて考えを改めたところだった。


『社会生活において、清楚系を演じた方が良いと合理的な判断をした女性と、男ウケ狙いで貞操観念がガバガバなクソ女を見分けろ。本質を見抜け』


 松永さんは加藤を見ろと言っていた。男ウケなど一ミリも考えていない、と。

 確かに奈緒ちゃんはそうだ。キャリアウーマン風のカチッとしたタイトスカートのスーツで美容部員とか客室乗務員みたいなまとめ髪で濃い化粧、大ぶりなアクセサリーをつけた姿が多い。よっぽどの男じゃなければ近寄れない雰囲気に俺も怖くて近寄れない。


 その姿は奈緒ちゃんに悪い男がつかないようにするためにやらせていると松永さんは言っていた。でも実際は松永さんの個人的な好みというか性的嗜好だと知ったのは後になってからだったが、松永さんが言った言葉には納得出来たから何も聞かなかったことにした。

 ストッキングにはデニールという単位があると懇切丁寧に教えてくれて勉強になったことは別としても、松永さんは奈緒ちゃんのストッキングを破きたいから意図的にストッキングを伝線させようと頑張ってるとか、俺は何も見ていないし聞いていないことにしている。


 そういえば、松永さんは奈緒ちゃんに穿かせる光沢のある黒いストッキングをネットで買って手触りとかを確かめていたが、ついに至高の黒ストを見つけた喜びをスマートフォンの画面が埋まるほどの長文メッセージで送られて来た時は少しだけ警察官になったことを後悔したなと考えていると、葉梨が俺の名を呼んだ。


「ん? なに?」

「両親には、ご都合が悪いようだったと俺から言っておきます」

「うん……ごめんね」


 ただ食事に招かれたのなら、俺は喜び勇んでスキップしながら葉梨の実家に行く。お手伝いさんの伊都子さんの料理はすごく美味しいし、ポメラニアンのクルミちゃんとウニちゃんに会いたい。でも、食事だけじゃないと葉梨は知っているから、断っておくと言った。


 本当は後輩に気を遣わせることはしたくない。でも麻衣子さんはマズいと思う。俺なんかと付き合うなんて彼女にとって良いことでは無いから。麻衣子さんは家柄に見合った男性とお付き合いするのが良いに決まってる。

 合理的な判断で清楚系にしているのでもなく、ましてや男ウケ狙いの清楚系でも無い。麻衣子さんは本物の清楚な令嬢だ。相手が俺ではダメだ。


 閉じられた玄関ドアに施錠して、俺は息を吐いた。



 ◇



 先月、葉梨のご両親が官舎に来て、葉梨同席の上で麻衣子さんについて話をしたが、葉梨の親父さんは末娘が初めて自己主張したと言っていた。麻衣子さんは『私は岡島さんが好きです』と言ったそうだ。

 葉梨の両親は俺の身辺調査を済ませていた。全て知っている。別れた嫁とも会ったと言っていた。

 俺は何も知らなかったが、別れた嫁はいろいろとバラしたようで、離婚を切り出された時に俺が警察を辞めると即答したことをご両親は知っていた。


 嫁は警察を辞めることを望んでいたから俺は即答したのに、その時にはもう遅かった。『養育費払えなくなるから警察辞めんなバーカ!』を捨て台詞に、嫁は息子を連れて出て行った。


 葉梨の親父さんは、別れた嫁に俺が誠実なところを評価していると言っていた。息子が俺を好きでいることや、月に一度の面会交流は実家で行うが、俺が仕事でも息子は祖父母、伯父伯母、いとこと面会をするために嫁が連れて来てくれるのは、俺が誠実だからこそ嫁が応じてくれるのだと言った。


 傍から見れば俺は誠実かも知れない。

 嫁に不要不急のわりとどうでもいい連絡をすると、『所轄に相談実績作ってお前をストーカー規制法で潰す。監察にもタレ込む』と、正攻法で一番イタいところを突いてくる嫁だ。しかも現住居は埼玉県だ。義父は埼玉県警の同業だし現職でずっと生安畑のまあまあ偉い人だ。いろんな意味で、誠実にならざるを得ない。


 ご両親は、俺が養育費以外に金銭援助をしていることも知っていた。高卒警察官で年齢と階級から俸給はわかっている。

 交際、結婚を考えると俺は優良物件でないことから、初めの頃は身辺調査の結果を踏まえて諦めろと言ったようだ。でも、麻衣子さんは諦めなかった。


 その想いを綴った手紙は葉梨からもらったが、美しい文字で紡ぐ想いに俺は心を揺さぶられた。でも俺は想いを受け入れてはいけないと思って、関係が進まないように、他愛の無い手紙のやり取りをしようと考えた。麻衣子さんは葉梨の妹だし、遊びで手を付けるわけにはいかないから。


 初めて手紙をもらったのは昨年の二月だった。あれから一年四ヶ月が経つ。届いた手紙はカステラが入っていた桐箱に収めてあるが、桐箱は三個目になった。


 いつからか、官舎に帰り、ポストに麻衣子さんからの手紙があると頬が緩むようになった。それではいけないと思っているが、麻衣子さんの手紙は俺の楽しみになっていた。


 鉛筆で下書きしていること、筆圧が強い時があること、書きたいことが増えた時に字がだんだんと小さくなること、追伸の行数が本文を超えた時もあることなど、毎回違う便箋の上で麻衣子さんの気持ちが溢れる様に、俺はもっと麻衣子さんを知りたいと思うようになった。多分、俺は麻衣子さんに恋をしたのだと思う。


 これまでの手紙のやり取りの内容を、メッセージアプリでしたら、三十分で終わると思う。でも、手紙に込めた麻衣子さんの気持ちは、テキストでは見えない。



 ◇



 今、手元にある手紙は先週届いたものだ。

 いつもは部屋で読むが、今日は葉梨がいないからリビングで読み返している。返事を書かないといけない。


 薄い黄色の便箋の隅に葉っぱがデザインされたものだが、確か以前にも同じ便箋があった。俺はそれを探して、レースのカーテンから日が差し込むリビングで、寝っ転がりながら読んだ。


 葉梨と奈緒ちゃんとポンコツ野川の四人でスイーツブッフェに行った話をした後の手紙。

 追伸には小さな文字で、庭で四つ葉のクローバーを見つけたと書いてある。でもウニちゃんが踏みつけたと。


 文字が詰まった小さな文字に頬が緩む。だが俺はあることに気づいた。麻衣子さんは鉛筆の下書きとは違う言葉を書いていると。下書きなのに筆圧が強い。


 何だろう――麻衣子さんは何を書いたのか。俺は便箋を陽にかざした。


 『手紙が御迷惑なら御返事はなさらないでください』


 ――ウソだろ。


 もしかして、これまでの手紙にも何かを書いたのか。本当の気持ちを言えなくて他の言葉に置き換えたのか。


 ――便箋、黄色の便箋は二回目だ。


 先週届いた手紙にも麻衣子さんは何かを書いたのか。

 俺は便箋を陽にかざした。文頭から読むが、筆圧が弱くてわからない。


 ――筆圧が強いところ……あった。


『来週、岡島さんにお会い出来なかったら、私は諦めます』


 ――今日のことだ。


 でも下書きに書いただけでペンでは書いていない。だから問題ないはずだ。手紙を返せば良いはずた。でも――。


 俺はスマートフォンを手に取った。葉梨に電話をする。電話しないと。


 呼び出し音が鳴った。

 心臓がドキドキする。

 出てくれ、頼む。そう祈るように待っていると、留守番電話サービスに繋がった。

 だがすぐに葉梨からメッセージが届いた。


『電車です。折り返します』


 ――でも、俺は葉梨に何を言えばいいんだ。


 葉梨に麻衣子さんの手紙の内容など言えない。なら葉梨に何を、どう伝えればいいんだ。


 ――俺は何をしているんだろうか。


 麻衣子さんはいつまでも進展しない関係を終わらせようとしている。多分、今年二十九歳になる麻衣子さんは人生の岐路に立たされている。焦りがあるのだろう。奈緒ちゃんだってそうだった。二十九歳の奈緒ちゃんは心が浮ついていた。

 男と違って女性の二十九歳は特別な年齢だ。でもだからといって、麻衣子さんの相手は俺ではダメだ。でも――。


 着信音が鳴った。

 画面に表示されたのは葉梨だった。

 俺は慌てて応答した。


「もしもし、ごめんね」

「いいんです……お話を聞かせて下さい」


 ――葉梨は知ってるな。


「麻衣子さんの手紙のことでね」

「はい」

「下書きの」

「……下書き、ですか?」


 ――やっぱり知ってた。でも書いていないとは知らなかったのか。


 少しの無言の後、最初に口を開いたのは葉梨だった。だが思いがけないその言葉に、俺は何も言えなくなった。


「麻衣子の兄として岡島さんに申し上げます。私は、麻衣子が恋をした男性が岡島さんで良かったと心から思っています」


 ――叶わぬ恋でも良いと思っているのか。


「……麻衣子さんに伝えて欲しい」

「はい。伺います。聞かせて下さい」


 ――俺は何を言っているんだ。何を伝えればいいんだ。


「……俺の電話番号を教えて、電話をかけて欲しいって、伝えて」

「わかりました。えっと、ありがとうございます、でよろしいのでしょうか」


 ――わかんないよ。俺だってどうしたらいいかわかんないよ。


「葉梨……それは俺が決めることじゃないよ」

「そうですか……」


 電話を切り、少しだけ息を吐いて、また手紙を読み返した。麻衣子さんに何を話せば良いのだろうか。


 俺は麻衣子さんを好きになった。

 でも、結婚は出来ない。麻衣子さんはそれでも良いと言うだろうか。きっと言うと思う。でも、今年二十九歳になる麻衣子さんは焦る。焦っている。


 ――でも俺との未来が無いと受け入れる日がいつか来る。


 麻衣子さんの想いを受け入れた誠実な俺は、結婚を拒む不誠実な男だ。


 ――俺じゃない人と幸せになって欲しいんだよ。


 でも、俺は麻衣子さんが好きだ。

 どうすればいいんだろう。

 レースカーテンの向こうに広がる青い空を眺めながら、俺は溜め息を吐いていた。





 

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