89_ニブルヘイムへ続く道
ニブルヘイムは死者が辿り着く場所と言われている。だけど日本人が一般的に考えているような天国や地獄とは違って、ニブルヘイムは人間たちが暮らすミッドガルドと地続きになっている場所だ。
その辺りがどうにも不思議な感じがするけれど、神話時代の人々は死者がニブルヘイムにいると信じていた。
でも死者が本当にニブルヘイムにいるのか、実際に確かめようとした者はいなかったのか? そう思ったが、ニブルヘイムの寒さはエインフェリアですら耐えることが難しい。確かめたくても、確かめられなかったのだろう。
僕たちも心子さんが用意した黄金の蜂蜜酒がなければ、途中で断念せざるを得なかったかもしれない。
ニブルヘイムのことを神話時代の人々はどう考えていたのか。それをヴァーリに聞いてみる。
「……ヴァーリはさ、ニブルヘイムに死んだヘズやお母さんがいるって考えたことはある?」
「昔はそう信じてた。実際、ヘズと母上に会おうとして途中まで来たこともあるしな」
言われてみれば、ヴァーリはニブルヘイムへ続く道を、やけに正確に知っていた。途中まで来たことがあるなら納得だった。
神話時代の人々は、死者について次のような話を信じていた。戦いの才能がある人間は、戦乙女に選定されてエインフェリアになる。それ以外は神も人間も区別なく、ニブルヘイムで冥府の女王ヘルに支配される、と。
エインフェリアの正体は生き返った死者なんかじゃないけれど、パラレルワールドのことを知らなければ、本当に蘇ったように見えただろう。そしてエインフェリアの存在はみんな知っていたから、ニブルヘイムに辿り着ける人間がいなくても、ニブルヘイムの話も信じられていたそうだ。
ただし一応、何の根拠もなく信じられていたわけではなく、ニブルヘイムの死者についても裏付けるような出来事はあったらしい。ヴァーリが語ってくれる。
「戦争の終盤のことなんだが、ヘルが死者を引き連れて巨人たちに加勢するんだ。ヘルが従える死者の中にかつての友人を見つけて恐慌するやつもいてさ、死後は本当にニブルヘイムに行くんだと思ったよ」
「死者を引き連れるって場面をうまく想像できないな……。ヘルが従えている死者ってどんな感じなの?」
「見た目には綺麗なもんだぜ。外見とかじゃ判別できねぇ。能力面は結構違うけどな。物理攻撃が全然効かなかったり、炎を吸収したり……。まあユウトが会った偽バルドルと同じだな」
偽バルドルと同じか……。そうなるとヘルが引き連れていた死者の軍勢も、その正体は何らかの邪神の一部を利用した偽物の軍勢だったのだろう。
少し気になったことがあったので、ヴァーリに再度尋ねる。
「神話時代の戦争は最終的に神が6人、人間が2人生き残った……ってことは、ヴァーリたちはヘルが連れていた死者の軍勢を倒したんだよね? どうやって倒したの?」
「ニブルヘイムが氷に閉ざされてるくせして、死者たちは氷に弱いんだよな。氷の塊をぶち込んでやると崩れて黒い鉱石みたいになって動かなくなるぜ」
氷に弱い? 偽バルドルは僕の目の前で、氷を大量に食べて見せたけどな……。
僕が悩んでいると、心子さんが意見をくれる。
「結人さんに誤った印象を抱かせるために、許容量の範囲でパフォーマンスを行ったのではないでしょうか? 見える部分は取り繕っていても、身体の内側はぐちゃぐちゃだったかもしれませんね」
確かに言われてみればそうかもしれない。さすがに細部まで覚えていないけれど、心子さんの推理を否定できそうな要素は無かったと思う。
「ヘルが支配する死者も炎って吸収できるの? 偽バルドルは吸収していたんだよね。吸収できる量に上限があるとか言ってたけど」
「死者も炎を吸収できるぜ。炎を吸いすぎた死者は様子がおかしくなって暴れだすから、上限があるのも本当だ。っていうか、生き返ったバルドルとヘズが死者と同じ特性を持っているのは、戦争が終わった時点でもわかってたんだよな……。ヤドリギ以外で傷を負わないっていうバルドルの契約が失われてたのもわかってた」
「わかってたんだ!? じゃあどうしてバルドルとヘズを本物だと思ってたの?」
「だって偽バルドルと偽ヘズは本物と同じ姿で、同じ声なんだぜ? 疑問すら全く浮かばなかった。しかも生き残ったメンバーでこういうことに詳しいのはヴィーダルしかいなかったからさ、あいつがそういうものだって説明したから誰も疑わなかったんだよ。俺も含めて、他のやつには疑うための知識を持ってなかったんだ」
確かに生前と一部の能力が違うからって、偽物と疑ってかかるのは難しいか。特に、ヴィーダルは神々から信頼されていた神だったという。信頼が厚く、知識も豊富な人物に断定されたら信じてしまうのも無理はない。
例えばこの場で僕と心子さんが時空操作魔術について嘘を言っても、ヒカちゃんたちが僕たちを疑うことはできないだろう。もちろんそんなことをするつもりはないけど、今まで築いてきた信頼と、持っている知識の格差があるから、欺くことは簡単だ。
嘘をついて偽バルドルを本物だと言ったヴィーダルは、偽バルドルが活動しやすいようにお膳立てするためにオーディンが用意した人物だったんだろう。