66_お祖母さんの研究成果_その3
おそらくお祖母さんは、タウィル・アト=ウムルに会って何をするのかきちんと決めていると思う。だけど、研究ノートには具体的に書いていなかった。研究ノートはあくまでも自分用のメモのような存在であり、他人に発表するためのものではない。核心部分はお祖母さんの頭の中にしかない様子だった。
研究ノートはヨグ=ソトースに関連する研究と、召喚と従属の魔術に関する研究に分けて保管されている。だが既にヨグ=ソトースに関する研究には全て目を通してしまった。見落としがないか再度精査してみたが、新たにわかることもなかった。
残念だが、タウィル・アト=ウムルについてこれ以上知ることはできないだろう。
念のために、僕は召喚と従属の魔術に関する研究ノートも読み始める。そこで僕は気になる記述を見つけてしまった。
「ナイアラトテップの召喚と従属に関する研究……?」
僕がそう呟いた途端、心子さんの気配が張り詰めたのがわかった。お祖母さんはナイアラトテップの化身を従えている可能性がある、そう理解したための反応なのかもしれない。
ヒカちゃんが心配そうに尋ねてくる。
「ナイアラトテップってクルーシュチャみたいなやばいやつなんだよね? そんなやつを召喚って大丈夫なの?」
「化身によっては大丈夫……かな。最下級の化身は人間でも普通に倒せるような相手だからさ。もし召喚と従属に成功していたとしたら、どのくらいの強さの化身なのかが問題かな」
ナイアラトテップの本質は混沌であり、あらゆる事象を内包する神性だ。それ故に、ナイアラトテップの化身はあらゆる可能性の中から生まれる。
例えばクルーシュチャを例に挙げると、彼女は特殊な方程式を解いてナイアラトテップに憑依された者だ。その憑依元、クルーシュチャ方程式という化身は数式と洗脳という事象が具現化して生まれた化身だと言える。
化身の中でも特に強いものは、身動き1つするだけで銀河が滅ぶと言われているが……。一方で最下級の化身は、そこらの虫以下の存在で、放っておくだけで自壊するような脆弱なもの理論上はいるはずだ。まあそこまで強い化身も、弱い化身も実際に観測されたことはないけれど。
「実在が確認されている中で最弱なのは、人間として生まれた化身かな。見た目も中身も人間と同じで、人間社会で普通に生活をしていたんだけど、隣人に刺されて死んだらしいよ」
「人間として生まれた化身なんているんだ!? じゃあ私たちの中にナイアラトテップがいる可能性もあるの?」
僕の話を聞いてヒカちゃんが面白い考察をしているが、心子さんにやんわりと否定される。
「無いとは言えませんが、さすがにその可能性は低いでしょうね。そもそも化身は滅多にいるものではありませんので」
心子さんのいう通りだ。僕たちの中にナイアラトテップがいる可能性を否定することはできないが、可能性が低すぎて考慮するに値しない。
この地球上には約80億の人間が存在するが、その中に1人か2人いるかどうかといったところだ。今は0人である可能性すらかなり高い。
僕と心子さんはヒカちゃんたちに、そういったことを説明した。
「なんだ、心配して損したかも」
とヒカちゃんは安心した様子で呟く。そこにヴァーリがからかいの言葉をヒカちゃんにかける。
「案外、そういうヒカルがナイアラトテップだったりしてな」
「えっ私!? 違う、違うよ!!」
まあヒカちゃんがナイアラトテップである可能性だってゼロじゃない。まずありえないと断言していいほど確率は低いが、確かめる術は無いのだ。
「自分がナイアラトテップだと気づいていない化身もいるらしいよ。最後まで気づかない場合もあるし、途中で気づく場合もあるとか。だから自分がナイアラトテップじゃないって証明することはなかなか難しいね」
「でも結局、可能性としては低すぎるから気にするだけ損ってことだよね?」
季桃さんがそうまとめてくれる。可能性はゼロじゃないとか、自分がナイアラトテップではないことを証明できないとか言ってきたけど、結局は気にするだけ損なのだ。隕石が命中して死亡する確率より遥かに低い。
「そうそう。ちょっと脱線したけど、研究ノートの続きを読んでみるよ」
ナイアラトテップの召喚と従属に関する研究について要約すると、以下の通りになる。
『今から約15年前、ふと気まぐれに研究を始めた。上位の化身には手が出せないものの、下位の化身であれば従属可能ではないかと考えたのがきっかけだ。少しでもナイアラトテップの化身について解明し、やがては上位の化身を従えることを目的としていた。
しかし、いざ実行してみたところで問題が発生した。下位の化身の召喚には成功したのだが、予定とは異なる性質を持つ化身を呼び出してしまったのだ。
さらに下位とはいえナイアラトテップの化身だからなのか、従属の魔術にも失敗してしまう。だが幸いにも、呼び出した化身はお祖母さんよりも遥かに弱く、脅威にはならなかった。
お祖母さんはこの研究を失敗として、これ以降はナイアラトテップの化身の召喚と従属を行っていない。ただし、この研究で召喚した化身の経過観察は続けており、化身は成長すると共に力を付けている』
僕が内容をみんなに伝えると、ヴァーリが詳しく聞いてくる。
「その化身がどんな見た目をしてるのか、弱点が何かとか、そういうことは書いてねぇのか?」
「書いていないみたいだね。従属に失敗してから興味を失ったようで、あまりノートにまとめられていないんだよ。召喚時点では弱かったらしいけど、力を付けているっていうのが少し怖いね」
今はどのくらいの強さなのだろう? 野放しにしているようだから、そこまで強くは無いと思うけれど……。
いざとなれば実力行使で潰せるとお祖母さんは思っているわけだ。その程度の強さなら、エインフェリアである僕たちでも倒せると思いたい。
「ここで調べられることは以上かな。他に何か気になることはある?」
僕がみんなにそう尋ねると、心子さんが口を開いた。
「ここにあると思っていた魔道具が見当たらないんですよね。夢のクリスタライザーという魔道具なんですが」
「それってどういう魔道具なの?」
「本来の用途とは違うんですが、使い方次第では情報収集に使えるんですよ。無いなら仕方ありませんので、拠点へ帰りましょう」
ちょうどお祖母さんが持ち出していたのかもしれないな。残念だけど、タイミングが悪かったと考えて諦めるしかないだろう。
「じゃあ銀の鍵で転移するから、少し集まってもらえるかな」
僕がそう呼びかけると、みんなが僕の近くに集まってくる。全員が揃ったことを確認して、僕は幻夢境にある心子さんの拠点へ向かって転移を試みた。
……しかし、転移魔術は打ち消されてしまう。
この感覚はクルーシュチャや別世界の僕によって、銀の鍵との繋がりを絶たれた時と同じものだった。ヨグ=ソトースとの干渉そのものが妨害されているため、銀の鍵だけでなく、呪文による転移も困難になる。
幸いそこまで強力なものではないので、障壁を張るくらいならいつも通りにできそうだけど……。
「誰かの空間転移を邪魔されているみたいだ。しかもこれ、2重に邪魔が入っているな……」
「強引に突破しますか? 僕と結人さんが協力して、2本の銀の鍵を組み合わせれば突破可能だと思います」
心子さんがそう言った直後、外の方から大きな音が響いた。何者かが争っているような、そんな物音だ。
まさか、僕たち以外にも晴渡神社にやってきた部外者がいるのか? その部外者とお祖母さんが争っていると考えるのが、音の正体としては自然だろう。
安全を考えるなら、ここで転移して逃げた方がいい。だけど、僕たちは手探りで情報を集めている最中だ。多少のリスクを冒してでも、何が起きているのか把握したほうがいい。
「状況を確認しに行こう。妨害している力よりも、僕たちの方が総合的な出力は上だ。確認してから離脱の判断をしても遅くない」
「わかりました。異論ありません」
心子さんも納得したようで、同意してくれた。
いつ戦闘になってもおかしくない。僕たちは隊列を整えてから階段を上り、地上へと出る。今僕たちは社務所にいるが、騒ぎはここから少し離れた境内の方で起きているようだ。
社務所から境内まではさほど遠くはないというのに、二度三度と化け物たちから襲撃されることとなった。
研究室の前で戦った星の精はもちろん、他にも車ほどの体長を誇る玉虫色に光る粘液状生物や、人間の倍くらい大きいアリとコウモリの合成怪獣のような怪物がいる。それぞれショゴス、ビヤーキーと呼ばれる怪物で、星の精と同程度に強い。
そんな怪物たちが神社を闊歩しているのは、恐ろしいまでの異常事態を僕たちに感じさせた。戦場に立った経験の長いヴァーリが辺りを警戒してくれなければ、怪我を負う者も出ていたかもしれない。
けれど転移は封じられたとはいえ障壁を張ることはできたし、事前の対策を心子さんが用意してくれていたおかげで、僕たちは問題なく先へ進むことができた。
心子さんが途中で何かに気づいたようで、報告してくれる。
「僕が解除したはずの魔術的な警報装置が、1つだけ復旧されているようですね。僕たちとは別の侵入者がわざと装置を作動させたのでしょう」
「それを察知したお祖母さんがやってきて、大量の怪物を神社に放って侵入者を炙り出しているってこと?」
「おそらく、そういうことですね」
侵入者は正面からお祖母さんを打ち倒す自信があるのだろうか。並大抵の魔術師では、お祖母さんを倒すことはできないはずなのに。
僕たちは化け物が多い方へ向かう。きっとそっちに、お祖母さんと侵入者がいるはずだ。そうして境内までやってきた僕たちは、大量の化け物の死骸に囲まれながら佇む2人の女性を発見する。
1人はもちろん、季桃さんのお祖母さん。そしてもう一人はクルーシュチャだった。