62_クルーシュチャの正体
季桃さんが口を開く。
「全然違うかもしれないんだけど、みんなの話を聞いてみて思ったんだよね。……もしかして、クルーシュチャの正体ってロキじゃない?」
「は……? ロキだと!?」
ヴァーリが驚愕の声を上げる。ロキはオーディンの義兄弟とされる神で、神話の時代に神々を裏切って、あらゆる生命が死に絶える大戦争を起こした神でもある。
でも、クルーシュチャとは性別が違う。
「ロキは男だよね!? クルーシュチャは女だよ? しかも出産経験もあるとか言ってたし!」
「すっごくマイナーなんだけど、ロキは雌雄同体って説があるんだよ」
伝承によってばらつきがあるものの、そういった説があるらしい。
由来としてはいろいろあるらしいが、例えば、とある男神を偽の花嫁に仕立てる伝承があるという。筋骨隆々の男性に無理やり花嫁衣裳を着せるコメディチックな話なのだが、そのときにロキは何の注釈もなく侍女として同行するらしい。
そもそもロキが母親として子供を産んだことがある、という話も2つくらいあるそうだ。設定だけ存在するようなレベルで、まともな伝承は残っていないらしいが……。
ヒカちゃんは大いに混乱しながらも、真剣に悩み始める。
「ロキが雌雄同体……? 雌雄同体……。どうだろう、わかんないや。言われてみれば、レギンレイヴの記憶に残ってるロキは中性的なんだよね。ずっと男性だと思ってたけど、雌雄同体って言われたらそうかも……? って感じ」
容姿的にもありえなくはないのか。クルーシュチャはどうだろう。声の高さや髪の長さ、服装から女性だと思い込んでいたけど、男装すれば男性に、女装すれば女性に見えるかもしれない。
季桃さんがさらに追加で根拠を述べる。
「伝承によると、ロキって戦争の前後で急に性格が変わってるんだよ。戦争の前はいたずら好きなところはあっても、巨人から神々の国を守る城砦を築いたり、すごい武具を集めてきたりして神々に貢献していたんだ。でもあるとき急に神々を裏切って戦争を始めるんだ。クルーシュチャってナイアラトテップに汚染されて人格が歪んだって言っていたんだよね……? 急に裏切ったのって、これが原因じゃない?」
突如挙がってきた、クルーシュチャの正体はオーディンの義兄弟ロキという説。これを否定する材料が見当たらない。
もし本当にロキだとすれば、オーディンに次いで強いという話も、オーディンを慕っているという話も説明がついてしまう。
ロキが神話時代の戦争を生き残っていた可能性はあるのか? 僕はヴァーリに確認する。
「戦争のときに、ロキの死体は見つかってる? 見つかってないなら、本当に生きている可能性があるよ!」
「できてねぇ……。最後に行方がわかってるのはビフレストっていう橋の上だ。そこには神々の国を守るための門番がいたんだが、実力的にもロキはその門番と相打ちになったって思われてたんだよ。最後はレーヴァテインで全部燃えちまったから、戦争後に確認することもできなかったんだ」
伝承でもロキは門番と相打ちになって死んだと語られているらしい。しかし実際には相打ちではなく、ロキが勝ったのだろう。そのあとはおそらく、ロキは幻夢境へと逃げ込んだ。
「そう考えると、オーディンもロキも他の神々が知らない方法で自分の死を偽装してきたんだね」
「念のために似顔絵の照合もしておきましょうか。ロキの顔立ちについて教えてください」
ヴァーリとヒカちゃんの証言を聞きながら、心子さんはロキの似顔絵を描き上げていく。確かにクルーシュチャと似ているような……。でも認識阻害魔術のせいか、別人にしか見えない。
でも認識阻害魔術の影響を受けない心子さんは、ロキとクルーシュチャを正しく認識することができる。
「間違いないです。片目が抉られていること以外は、クルーシュチャの顔立ちはロキと一致しています」
一致してしまったか……。
ロキは神話の時代に終末戦争を起こした張本人。アングルボザなんかよりもずっと格の高い、恐ろしい悪神だ。
そんな神と戦わなければならないことがわかった僕たちは、しばらく声を出せずにいた。
「ルベドについても確認しておこうか。クルーシュチャのインパクトが強いせいでそっちに意識が行きがちだけど、ルベドにも謎が多いよね」
「はい、ムスペル教団の他の構成員とは明らかに一線を画しているのは間違いないですよね。しかもエインフェリアではないにも関わらず、一般的なエインフェリア数人と渡り合える実力を持っています。僕たちにとって大きな障害となることは間違いありません」
ナイアラトテップであるクルーシュチャに軽口を叩けるって、それだけで僕としては衝撃的だ。クルーシュチャは純粋なナイアラトテップじゃないから、純粋なナイアラトテップに比べればハードルが低いというのは間違いないけれど。
ヒカちゃんが意見を述べる。
「軽口を叩けるほど長く一緒にいるってことなのかな。もしかして神話の時代から生きてる人だったりする? 黄金の林檎で寿命を克服できるんだから、そういう人がムスペル教団にいてもおかしくないよね」
「そういえば確か、ルベドは竜の血を浴びているらしいんだ。偽バルドルからの情報だから信頼できるとは限らないけど、この話からルベドの正体を絞り込むことってできないかな?」
僕がみんなに尋ねると、何か心当たりがあるようで季桃さんが発言してくれる。
「竜の血といったら竜殺しの英雄シグルドかな。ジークフリートって別名で呼ばれることもあるよ。北欧神話に伝わる人間の中で、一番有名で一番強いのがシグルドじゃないかな。戦乙女ブリュンヒルデと関わりがあって、剣の腕前はもちろん、ルーン魔術にも長けていたって言われているよ。でも最後はブリュンヒルデを発端とする動乱に巻き込まれて、命を落としてしまうの。その動乱はオーディンも深く関わっているから、シグルドはオーディンの被害者と言えるかな」
ルベドの剣の腕前は知らないが、彼はルーン魔術の達人だ。それにオーディンの被害者ならば、オーディンを憎んでいるという特徴にも合致する。
シグルドの話は有名なようで、ヒカちゃんもレギンレイヴの記憶を通じて知っているようだ。
「記憶喪失の間に婚約者以外の人と結婚しちゃって、最後に刺されて死んだ人がいるって話をユウ兄にしたことあるでしょ? その刺されて死んだ人っていうのがシグルドだよ。シグルドはとある国の王子だったんだけど、オーディンに王家を掻き回されて、その動乱で死んじゃったの。オーディンは強いエインフェリアが欲しかったから、そのためにシグルドが死ぬように仕向けたって説もあるみたい」
「まあその割に、シグルドがエインフェリアとして活躍した話って、伝承に全く残ってないけどね」
季桃さんが最後にそんな補足を入れた。人間としての武勇は凄まじかったけれど、エインフェリアとしてはいまいちだったということだろうか?
エインフェリアとしての強さは、元々の身体能力に影響されるけど、それが全てではない。エインフェリアになったときに、どのくらい強化されるのかにも才能のような個人差があるのだ。そうじゃないと、女性がエインフェリアになるはずがないし。
とはいえ、エインフェリアになる前から名を上げるような猛者であれば、よほどじゃなければエインフェリアになっても活躍できると思うんだけど……。
その疑問にはヴァーリが答えてくれる。
「エインフェリアになったシグルドが伝承に残ってないのは当然だろうな。だってあいつ、エインフェリアになった直後に自殺したからさ」
「自殺!? どうして……!?」
「『オーディンなんかのために戦ってられるか!』ってね。まあ無理もねぇ。家族や親友を失ったシグルドには、もう守りたいものなんか残ってなかったしな」
エインフェリアの遺体を使って、さらにエインフェリアを呼び出すことはできない。このパラレルワールド出身のシグルドと、エインフェリアのシグルドの両方が死んでいる以上、もうこのパラレルワールドにシグルドはいないと考えるべきだろう。
「シグルドが死んでるのは間違いねぇよ、これは断言できる。あいつの自殺を目撃したやつもたくさんいるんだ。オーディンに対する憎悪の言葉を吐きながら死んだところをな」
「だとするとやっぱり、ルベドはシグルドとは別人?」
「オーディンに狂わされたやつは大勢いるからな。恨みの内容から考えるのも難しいだろうよ」
ルベドはオーディンに家庭をめちゃくちゃにされたらしいし、王家を崩壊させられたシグルドと被る部分は多い。ルベドの強さも、彼の正体が神話の時代において最強の人間とされたシグルドなら納得もできそうなものだけど……。シグルドはもういないのだから、やはり別人なのだろう。
他の可能性について僕たちは議論するが、有効そうな意見は出てこない。そんな中で、ヒカちゃんが縋るような声で小さく呟いた。
「一度死んだ後、蘇った可能性ってあるのかな……? 今のところはエインフェリアもバルドルも、生き返ったと思われていた人たちは本当は生き返ってなかったけどさ。もしルベドの正体がシグルドで、本当に死んで生き返ったのなら……。優紗ちゃんを生き返らせる方法もあるのかな……」
ヒカちゃんがその可能性に縋りたくなる気持ちは痛いほどにわかるけれど……。やはりルベドはシグルドとは別人と考える方が、現状では筋が通っているだろう。
「念のため、ルベドとシグルドの似顔絵も比較してみましょうか」
そういって心子さんは僕たちの証言から似顔絵を作成してくれる。けれど残念ながら、2人の顔は一致しなかったようだ。
「似ていると言われれば似ている気もしますが、別人ですね。ルベドはシグルドでは無いようです」
そもそもこれは写真ではなく、あくまで僕たちの証言から作成したものだ。一部似ている箇所があるといった程度では、証言の曖昧さや心子さんの筆致から生まれた類似性と区別できないだろう。
ここまで長いこと意見を出し合ってきたが、予想以上にいろいろと収穫があった。タウィル・アト=ウムルのことや、戦乙女のこと。そしてクルーシュチャの正体がロキであること……。
「ロキ……。絶対にぶっ殺してやる……」
ヴァーリがそう決意を新たにする。彼がヘズを殺すように画策したのはオーディンだが、そのきっかけを作ったのはロキだ。だからヴァーリはオーディンだけでなく、ロキのことも憎んでいるのだろう。
そもそもロキがヘズ殺しを計画しなければ、ヴァーリは生まれてこなかったという皮肉な話でもあるけれど。
「クルーシュチャの正体がロキである可能性は極めて高いとはいえ、確定した話ではありません。それに結局わからなかったこともまだあります」
「偽バルドルは何の邪神の一部なのか、別世界の僕は何を目的にしているのか、とかね」
「レギンレイヴの本体はどこにあるのかとか、オーディンがどこに隠れているのかもわかってないよ。ユウ兄の世界の私も見つかってないし、本当にどこにいるのかな?」
わからなかったことは、これから調べていくしかないだろう。どう調べて行けばいいのかって問題もあるけれど、様々な問題はおそらく裏で繋がっている。
1つ1つ謎を紐解いていけば、いつかは僕の世界のヒカルの所まで辿り着けるはずだ。
「まずは晴渡神社へ行って、季桃さんのお祖母さんの研究成果を調べてみようか。タウィル・アト=ウムルについて知ることができれば、ヨグ=ソトースからさらに力を引き出せるかもしれないしね。季桃さんが出身パラレルワールドに帰る手がかりだけじゃなくて、ムスペル教団に対抗するための力も見つかるかもしれない」
僕の言葉にみんなが頷き返してくれる。具体的な潜入方法は、魔術結社としての晴渡神社を熟知している心子さんに考えてもらうことになるだろう。
「潜入の手はずは僕が整えておきます。近いうちに声をおかけしますので、心構えをしておいてください」
準備には数日かかるそうなので、それまで僕たちは少しでも戦闘能力を高めるために訓練をしたり、模擬戦をしたりして過ごした。