44_雫と相談_その2
雫がやや不安気に僕に尋ねる。
「ナイアラトテップという存在を正直よくわかっていないんだけどさ。外なる神ということは、ヨグ=ソトースの同類なんだろう? 勝てる相手なのか?」
「結論から言うけど、クルーシュチャに対しては勝算があると考えてるよ」
「頼もしいけど、その根拠は?」
「まずはナイアラトテップに関する基礎知識から説明しようか」
ナイアラトテップは這い寄る混沌とも呼ばれていて、あらゆる存在を見下し嘲笑っている存在と言われている。
あらゆる存在を見下すというのは伊達ではなく、ヨグ=ソトースのような外なる神すらも見下しているのだ。
ナイアラトテップはまさに全知全能の存在と言っても過言ではない。
だけどそれは本体の話で、化身はそうじゃない。
「ナイアラトテップの化身は、個体によって強さに大きな差があるんだ。強い化身だと銀河の破壊すら造作もないだろうけど、弱い化身だとそこらのネズミにも負けると思う」
「差が酷すぎないか? 意味がわからないんだが……」
「ナイアラトテップはあらゆる可能性を内包した混沌の神なんだ。その無限の可能性の中から化身が生み出されると言われているね」
数学の知識があるなら理解しやすいと思う。例えるなら、ナイアラトテップが全集合で化身が部分集合だ。
銀河という特性が抽出されれば銀河の化身になるし、虫という特性が抽出されれば虫の化身になる。
クルーシュチャを汚染したクルーシュチャ方程式は、汚染と方程式が抽出された化身と言えるだろう。
「要するに、ヨグ=ソトースのような強大な存在と同等にもなれるし、路傍を這う虫のような矮小な存在にもなれると。でもさ、負けそうになったら姿を変えればいいんじゃないか? 虫のままで戦い続ける必要もないだろう」
「いや、化身にそれはできないらしい。もちろん変身能力を持った化身もいるだろうけどね? でも基本的にはできないそうだよ」
魔術師の間で有名な話として、人間として生まれたナイアラトテップの化身の話がある。
その化身は人間として生み出され、人間と同等の能力しか持っていなかったという。最終的にその化身がどうなったかといえば、隣人と喧嘩になって刺されて死んだ。
人間として生まれたナイアラトテップの化身は、最後まで人間と同じだったということだ。
また、関連する話として、ナイアラトテップは同時に複数の化身を生み出せるという特徴がある。しかし、ある化身が別の化身を、化身だと気づかず殺してしまった例もあるらしい。化身同士が間違って殺しあってしまうなんて、滑稽な話にも思える。
「ナイアラトテップの化身は、本体とは独立した存在になるんだろうね。たぶん、本体にとっては自分が生み出した化身すら見下す対象なんだと思う。だから化身の1つ1つは万能じゃないんだ」
「なるほど。クルーシュチャが持っている力は、俺たちが倒せる範疇に収まっている可能性があるということか」
「でもクルーシュチャはナイアラトテップの化身になる前から強い神だったようだし、いくら警戒してもし過ぎることはないだろうね」
優紗ちゃんが生きていれば心強かったんだけどな。トートの剣は、クルーシュチャにも効果があっただろうから。
銀の鍵で過去に戻って優紗ちゃんを救出することはできない。銀の鍵では、同じパラレルワールドの過去へ直接行くことはできないのだ。
同じパラレルワールドではなく、他のパラレルワールドの過去へ行くことはできる。だから理屈の上では他のパラレルワールドを一度経由すれば、同じパラレルワールドの過去へ行くこともできるんだけど……。
銀の鍵での転移は、移動先のパラレルワールドを指定できない。パラレルワールドを跨ぐ場合は転移というか、どちらかといえば漂流に近い。
銀の鍵よりもさらに優れた力でヨグ=ソトースに干渉できれば可能かもしれないが、僕たちを毒の洪水から救ってくれたあの優紗ちゃんを助ける力を僕は持っていなかった。
「いよいよ最後の議題だね、結人君。キミが自分のパラレルワールドから連れてきたヒカルの話だ。この話をキミは一番したかったんじゃないかい?」
「否定はしないよ。本当にどこにいるんだろう……。このパラレルワールドにいることは間違いないんだけど」
「探知魔術だったかな。それには反応するんだろう? それでもわからないのか?」
「そうなんだよね。探知魔術についても軽く説明しようか」
探知魔術とは、事前に魔術を仕掛けた対象の場所を知ることができる、時空操作魔術の一種だ。
事前に仕掛ける必要があるという欠点はあるが、追跡なんかにはかなり重宝する。
ただし効果範囲は限られており、本来であれば熟練した魔術師でも3000km程度しか探知できない。
でも僕は銀の鍵を持っているから、もっと遠くまで探知できる。実際に試したことは無いけれど冥王星くらい、距離にして約50億km程度まで探知可能だ。
それに加えて、限定的ではあるが異空間の探知もできる。
「対象が同じ空間にいる場合は距離と方角がわかるんだけど、異空間にいる場合はわからないんだ。時代やパラレルワールドが異なる場合は、そもそも探知魔術に反応すらしないはずだね」
「なるほど。この空間からだと、キミの世界のヒカルがこのパラレルワールドに存在することだけはわかるけど、それ以上のことは全くわからないのか」
雫の問いかけに僕は頷いて答える。すると雫は疑問に思う箇所があったようで、追及してきた。
「でもそれなら、異空間に転移してから探知魔術を使えば居場所を特定できるんじゃないか? 同じ空間で使えば、距離と方角もわかるんだろう?」
「それがそう単純な話ではなくてね。僕は幻夢境と呼ばれる異空間を知ってる。というか、幻夢境以外の異空間を知らないんだけど、幻夢境で探知魔術を使っても結果は”異空間に反応あり”だったんだ」
「つまりキミの世界のヒカルはこの空間でも幻夢境でもない、第三の異空間に迷い込んでしまったわけか。……そんなところに迷い込んで、ヒカルは生きていられるのか?」
「たぶんだけど、生きていると思う」
根拠もなく言っているわけではない。
探知魔術は物体を対象として行使する魔術なので、魔術をかけた状態から大きく形を変えた場合は探知に引っかからなくなる。
でもヒカルは探知に引っかかっているので、少なくとも肉体は無事なのだ。
肉体が無事なのだから、化け物に襲われたりはしていないと思う。
食事を取れなくて餓死している場合でも、日数から考えると腐敗が進行して探知に引っかからなくなる頃のはず。
以上の理由から、僕の世界のヒカルはまだ生きている可能性が高いのだ。
「ところで、キミのヒカルがいる異空間に心当たりはあるのかい?」
「それがまったく無いんだよな……。だけど打つ手がないわけじゃない。探知魔術と組み合わせて転移を行うことで、ヒカルがいる異空間に力技で転移が可能なはずなんだ。そのための設定は既にできているから、あとは銀の鍵に必要な魔力を込めるだけで転移できる」
「でもまたやっていないということは、何か問題があるんだね」
「うん……。転移に必要な魔力が全く足りていないんだ」
魔力が足りない状態で転移魔術を発動すると、予想もしなかった場所へたどり着くことになる。
この状態で無理やり行こうとすると、失敗して、異なるパラレルワールドのどこかの時代にたどり着くだろう。
優紗ちゃんが毒の洪水に飲み込まれる直前、記憶を失っている僕は銀の鍵に魔力を込めようとした。
もし本当に魔術を込めてしまっていたら、もうこのパラレルワールドには戻ってこれなかったはずだ。
「僕の世界のヒカルがいる異空間に無理やり転移するなら、黄金の首飾りや黄金の林檎が持っている魔力が必要だね。それでも確実に成功するかは微妙だけど」
「黄金の林檎の魔力をレーヴァテインで爆発させれば、世界を滅ぼせるんだろう? それほどの魔力を使っても、"かもしれない"レベルの話なのか」
「正式な行き方じゃないから、魔力のロスも大きくて……。博打みたいな方法は取りたくないから、もっと効率の良い方法を探したいところだね」
ひとまず、現状の整理に関する議題はこれで以上だ。
これらの情報をもとに、これからの行動について考える必要がある。
「ムスペル教団と戦うにあたって知りたいんだけど、北欧の神々はどれくらいの戦力を持っているの?」
「エインフェリアは20人を超えないくらいかな。戦える神は2人だけで、そのうち片方は半神半人だから、戦力としてはエインフェリアと同等だね」
「想像以上に戦力が少ないな!?」
「ムスペル教団のエインフェリアは40人くらいだと思うよ。つい最近、ヒカルをめぐって大きな衝突があったから、ほとんどのエインフェリアが死んだんだよね。先代が死んでからヒカルが戦乙女になるまで、新たなエインフェリアも生まれなかったし」
もともとはムスペル教団のエインフェリアの方が少なかったらしい。けれど、北欧の神々陣営にムスペル教団側のスパイが紛れ込んでいたせいで、一気に逆転されたのだとか。
「生き残ったエインフェリアの中にまだ裏切り者が潜んでいる可能性もある。正直なところ、誰を信じていいのかもわからない状況なのさ」
「信用できそうなエインフェリアは何人いるの?」
「確実と言えるのはキミとヒカルくらいじゃないかな? 晴野季桃も大丈夫だと思っているけどね」
「雫も入れて4人か。少ないな……」
戦力が少ないからといって、エインフェリアを新しく増やすこともしたくない。
パラレルワールドから拉致される被害者が増えるだけだ。
「そもそもの話なんだが、どうもヒカルがレギンレイヴからうまく力を引き出せていないようでね。エインフェリアを新しく増やすことは難しそうなんだ」
「どういうこと? 相性の問題とかあるのかな」
「わからない。戦乙女という仕組みはブラックボックスが多いからさ。実は今、ヒカルはヴィーダルのところへ向かっていてね。ヴィーダルに原因を調べてもらうことになっているんだ」
探知魔術でヒカルと季桃さんの位置を確認する。どうやら2人はここから北西に向かって8000kmほどの距離にいるらしい。
距離と方角を考えると、2人は北欧に向かっているのか? 北欧の神に会いに行くのだから、北欧に向かうのは当然か。
エインフェリアはスコルの子のせいで、公共交通機関を使えない。おそらくは北欧の神々が独自に持っている移動手段があるのだろう。
ルーン魔術では空間転移はできないはずだが、移動に使える道具や魔術があってもおかしくはない。伝承でも魔法の船とか出てくるらしいし。
「ヴィーダルってオーディンが最も信頼していた息子だっけ?」
「そうだよ。生き残りの中だと、彼が一番ルーン魔術に詳しいんだ。エインフェリアに配っている、ルーン魔術起動装置を作ったのもヴィーダルだね」
「なるほど。……装置って便利だけど、ムスペル教団に寝返ったエインフェリアも持ち逃げしてるよね? 向こうのエインフェリアは使えないような仕組みになっていたりしないの?」
「もちろん対策はしているとも。バルドルかヴィーダルなら即座に停止できるようにしてある。……まあ、その対策はルベドに破られてしまっているんだけどね」
そうなると、ムスペル教団のエインフェリアもルーン魔術を使ってくるのか……。
僕が元々いたパラレルワールドでもルーン魔術を使ってきたから、念のための確認だったんだけど気が滅入る。
ルーン魔術が使えるかどうかは、戦闘力に大きく関係する。
ムスペル教団のエインフェリアがルーン魔術を使えなかったら、もっと楽だったんだけど。
「戦える神は2人だけと言っていたよね。そっちも聞いていい?」
「いいとも。現代まで生き残っているのはバルドル、ヴィーダル、ヴァーリ、ヘズの4人だ。そのうち戦えるのはバルドルとヴァーリだな。先に戦えない2人の方を説明するか」
簡単にだが、雫が話してくれる。
まずはヴィーダルについて。
オーディンが最も信頼していたというだけあって、ヴィーダルは非常に優秀な神らしい。そのためコールドスリープから何度も目覚めさせられており、老化をしないバルドルに次いで活動時間が長い。
しかし北欧の神は、人間のように老化する。長い活動期間のせいで、ヴィーダルは既にかなりの高齢となっているそうだ。
若い頃は本人も非常に強かったらしいが、今は直接戦う力は残っていない。
続いて盲目の神ヘズ。彼は元々戦神で、強い力を持つ神だったという。伝承でもバルドルにヤドリギを投げつけて一撃で殺しているくらい、腕力も強い。
しかし盲目の神と言われている通り、彼はある時期から目が見えなくなった。今も目は治っていないため、まともな戦力にはならないだろう。
「バルドルについては今さら説明不要だよね? 最後は半神半人のヴァーリだね。彼は五体満足だし、コールドスリープからあまり目覚めさせていないからまだ若い。でも神なのは半分だけだから、戦力としてはエインフェリアと同じくらいなんだ」
「そうなると、確実に戦力になるのは僕、ヒカル、季桃さん、雫、バルドル、ヴァーリの6人なんだね」
雫とバルドルは同一人物の疑惑があるから、5人だと思っていた方がいいか。まあ、僕には銀の鍵があるし、バルドルはエインフェリアよりずっと強いはずだ。
それとヴィーダルが高齢という話から考えると、雫の正体はヴィーダル説が否定された。雫は盲目じゃないからヘズじゃないだろうし、強さから考えるとヴァーリ説も無い。残っているのはバルドル説だけになった。
やっぱり雫はバルドルと考えるのが自然か……? 問いただしても答えないだろうし、とりあえずは保留にしておこう。
「戦力はだいぶ心もとないね。北欧の神々がこんなに疲弊しているとは思ってなかったよ」
「まあね。だからこそ、キミにはすごく期待しているんだよ。ムスペル教団を倒すためにはキミの力が不可欠だ」
とにかく、現状の戦力について知ることができた。
大きな問題は
・戦える人数が単純に少ない
・味方のエインフェリアを信頼できない
の2つだろう。
「使える戦力は使っていかないとね。北欧の神々って今は全員目覚めさせているの? 眠っているなら目覚めさせたいな」
「ヴァーリとヘズはコールドスリープ中だね。目覚めさせるのはヒカルに任せるといいよ。既にそういう手はずになっているし、コールドスリープはバルドルか戦乙女にしかできない仕組みになっているからね」
僕が解くことはできないのか。
転移魔術を使えばコールドスリープされている場所まで一瞬で行けるから、僕が解ければすぐだったんだけど。
雫がバルドルだとしたら彼もコールドスリープを解けるだろうけど、ヒカルが向かっているなら任せてもいいだろう。
「じゃあ僕たちはどうしようかな。ムスペル教団の拠点でも襲撃してみる? ほら、ヒカルが攫われたときに監禁されていた拠点なら場所もわかっているし」
「エインフェリアが相手なら遅れを取るつもりはないけどさ、ルベドとクルーシュチャがいたらどうするんだい?」
「僕たち2人なら、勝つことはできなくても逃げることはできるんじゃないかな。楽観的に言っているんじゃなくて、エインフェリアになった今の僕ならそれくらいできると思う。エインフェリアになる前の僕はクルーシュチャに一方的にやられていたけどね」
僕の提案に雫は悩んでいたが、しばらくして首を縦に振った。
「俺とキミなら大丈夫か。こっちの陣営は負け続きだからね。ムスペル教団の弱点や計画の1つでも探っておかないと、逆転の目もないんだよね」
「じゃあ決まりだ。銀の鍵で転移をすれば奇襲にもなる。準備が整ったらすぐにでも行こう」