41_元いた世界で起きたこと_その3
ナイアラトテップはヨグ=ソトースと同じく、外なる神と呼ばれる邪神の一柱だ。
外なる神はそのスケールの大きさ故、人間などに興味を示すことは無い。しかしナイアラトテップだけは例外で、人間はもちろん、あらゆる生命に悪意を向けているとされる。
ナイアラトテップに目をつけられた者の未来には破滅しかない。そんな神がここにいるということは、僕とヒカルの命運はここで尽きたということだ。
いっそ地球の命運が尽きたと言うべきだろうか。だからこそ、レーヴァテインで世界が滅ぼされようとしているのだろう。
……僕はそんなことを考えていた。けれどクルーシュチャは楽しそうに僕に話しかけてくる。
「うふふ、私の正体を見抜くなんてさすがね。でも半分正解で、半分はずれ。確かに私はナイアラトテップだけど、純粋なナイアラトテップではないから」
「純粋じゃない……?」
「クルーシュチャ方程式って知ってるかな。解いてしまうとナイアラトテップと化してしまう、そういった方程式の総称なんだけどね。私、解いたのよ。だからさ、実は私ってナイアラトテップとしては下位もいいところなの。ナイアラトテップの化身になる前と能力もほぼ変わらないしね」
能力がほぼ変わっていないとクルーシュチャは言ったが、信じられなかった。
なぜなら彼女から感じる魔力の量と質が、常軌を逸していたからだ。ルベドを比較対象とするとその凄まじさがよくわかる。
僕の今までの経験から考えると、ルベドは魔力の量および技量の両面において、魔術師として人類の最高峰にいる。僕と同じくエインフェリア数人を相手取れるとルベドは語っていたが、本当のことなのだろう。
しかし、クルーシュチャはそんなルベドを遥かに凌駕していた。僕では全てを計り知ることはできないほどだ。
「お前の持つ力は異常だ。人間が持てる魔力ではないし、ナイアラトテップと化したときに力を得たとした思えない」
「嘘なんかついてないわ。私は元から神なのよ。北欧の神の一人なの。だからナイアラトテップになる前から強いわけ。化身になって変わったことと言えば、少し人格が歪んだことと、魔術の知識が増えたことくらいかしら」
神がナイアラトテップに汚染されることがあるのか……!?
驚愕する僕だったが、少し考えて納得した。北欧の神と外なる神の格を考えれば、人間と北欧の神の方がまだ近い。
外なる神が圧倒的に格上であるため、北欧の神が汚染されることもありえるだろう。
クルーシュチャの話を聞いているうちに、僕は冷静さを取り戻し始めていた。
ナイアラトテップの化身といえども、クルーシュチャはヨグ=ソトースのような無限に等しい力を持つわけではないらしい。
ナイアラトテップの発言を信用することはできない。しかし、先ほどの彼女の言葉に嘘は無かったと僕は感じていた。
そう思わせることこそが、クルーシュチャの狙いなのかもしれないが……。
ここから反撃する手立ては無いだろうか?
勝つことは無理でも、ヒカルを連れて逃げるくらいはできるかもしれない。
そう思った直後、僕が察知できないほどの速度で胸部に掌底が撃ち込まれた。
あまりの衝撃に呼吸が止まり、うずくまってしまう。骨も何本か折れ、内臓もやられたのか少量だが血が込み上げてくる。
「何をしようとしていたのかしら? もしかして、下位の化身だと聞いて希望を持っちゃった? でもさすがに相手が悪かったわね。これでも私、北欧の神の中でも2番目に強いの。いっそのこと、今すぐ貴方を殺してあげてもいいのよ」
クルーシュチャが嘲笑うようにそう告げる。ここで僕が踏ん張らなければ、ヒカルがどうなるかわからない。
僕は歯を食いしばって立ち上がると、意外なことにクルーシュチャは恍惚とした表情を浮かべた。
「うふふ。こんな状況でも戦意を失わないその精神力、愛しのオーディンに似ていて大好きよ」
クルーシュチャはそう言って笑うと、ルベドに声をかけた。
「ねえルベド、もう作業は終わった頃よね。さっきの女の子、まだ生きてる?」
「まだ生きているが……どうした? 首飾りを取り出した以上、その娘は用済みだと思うが」
「この人に女の子は返してあげて。もういらないでしょ?」
「別に構わんが、お前がそういったことに気を回すのは珍しいな」
「だって気に入っちゃったんだもん」
「お前がそう言っているときは碌なことにならん。まあいいか。幸せな家族は一緒にいた方がいい。こいつらの祖父母を殺すように部下に命じた私が言えた義理ではないがな」
ルベドは気を失っているヒカルを抱えると、僕へ受け渡してくる。
何かしてくるのではないかと警戒していたが、ルベドとクルーシュチャは何もしてこなかった。
「どうせ数十分後には世界が滅ぶ。それまでの間くらいは、一緒にいてやるといい。恨むならオーディンを恨むんだな」
そう言ってルベドは去っていく。世界を滅ぼす神具レーヴァテインを封じた箱、レーギャルンを開けに行ったのだろう。
それにしても、『オーディンを恨め』とは? ムスペル教団が世界を滅ぼそうとしているのは、オーディンが関係しているってことか?
クルーシュチャはこの部屋に残り、片方しか無い瞳で僕をまじまじと見つめてくる。ナイアラトテップに見つめられても、恐怖の感情しか湧いて出てこない。
自分で言うのも何だが、常人であればそれだけで発狂するだろう。ナイアラトテップと見つめ合って正気を保っている自分を褒め称えたいくらいだ。
どうやら気に入られてしまったようだが、抗議の声を上げるだけで気力を消費する。
「そんなに見られると困るんだけど」
「固いこと言わずにさ、世界が終わるまでお話しましょうよ。最後に話すのがあの人と同じ銀の鍵の使い手だなんて、少し嬉しくなっちゃって」
正直、ナイアラトテップと会話をするなんてご免こうむる。
だがそれ以上に、銀の鍵の使い手という言葉に興味を引かれた。
「あの人って誰のこと? 銀の鍵の使い手っていつの話?」
「愛しのオーディンのことに決まっているじゃない! あの戦争の前だから3000年以上は前だと思うんだけど……。正確には覚えてないわね」
そこからのクルーシュチャは饒舌だった。
「私がオーディンに銀の鍵を贈ったのよ。いつも戦争に役立つ道具を欲しがっていたから。お腹を痛めてヨグ=ソトースの子供を産んでね。あの人を銀の鍵の使い手にするようにその子に言い聞かせてね。銀の鍵をあげたときの喜びようは凄かったなぁ。オーディンが嬉しそうで、私もすごく幸せだった」
オーディンについて話し始めたクルーシュチャは、僕が聞いてもいないことまで幸せそうに語り続ける。
どこか焦点が定まっていないような目で、頬を染めながら語るクルーシュチャの姿は異様だった。
◇
クルーシュチャが一方的に話し続けて、しばらくした頃。
彼女がふと我に返って、話を止める。
「あら、もうこんな時間? 楽しい時間はあっという間ね。じゃあ、私たちも行こっか」
「行こうってどこへ?」
「それはもちろん、世界が終わる瞬間を見に。ルベドが準備してくれたはずだからね」
ナイアラトテップに逆らえるはずもなく、僕はクルーシュチャについていく。
移動の途中で、僕はムスペル教団について尋ねる。
「どうしてお前たちはこんなことをしているんだ」
「どうして、と言われても困るわね。私たちはみんな同じ目的を持っているわけじゃないから。まあでも、一番多いのは復讐かしら。ルベドもそうだしね」
「復讐?」
「オーディンへの復讐よ。あの人が壊したり狂わせたりした人生って星の数ほどあるし。他の人もほとんどはそうかな。北欧の神から反感を買っちゃって、ここ以外に居場所が無いエインフェリアとかもいるけどね」
クルーシュチャは僕が抱えたヒカルを見つめながら、話を続ける。
「というか、その子もオーディンに人生を狂わされた1人じゃない? あの人が戦乙女なんて仕組みを作らなければ、その子が呪いで苦しむこともなかったのに。もしかして変に攫ったりせずに『一緒に復讐しましょ!』って誘えばよかったのかしら?」
「ヒカルは復讐を望む子じゃないよ」
「だよねー。言っただけ。そもそもレギンレイヴがそういう子じゃないし。私はよく知らないけど、似たような子を依り代に選んでるっぽいのよね。その方が戦乙女として覚醒させたときに、同調させやすいからだろうけど」
クルーシュチャの口からは、僕の知らないことが次々と出てくる。いろいろと聞き出したいが、おそらく目的の場所まではあと少ししかない。
クルーシュチャが話につきあってくれるのもそこまでだろう。僕はクルーシュチャに対して、最も矛盾を感じていたことについて尋ねることにした。
「愛しのオーディンとキミは言っていたけど、どうしてキミはムスペル教団に協力しているんだ? ムスペル教団はオーディンに復讐を遂げるための集まりなんだろう」
「だってオーディンは戦争が大好きなんだもん。私はオーディンの戦争相手をしてあげているの。私が参謀で、ルベドがリーダー。だからムスペル教団とは利害が一致しているのね」
「ムスペル教団はオーディンと戦争をするための組織ってことか。じゃあなんで世界を滅ぼすんだ?」
「世界を滅ぼすのは目的じゃなくて、付随する結果なのよね。あの人は今、通常じゃ手を出せない場所にいるからさ。あの人を殺すために一番確実なのが、レーヴァテインを使った攻撃なの。神話の時代に炎の巨人がレーヴァテインを使って、北欧で生きる生命と引き換えに似たようなことをしたのよ。まあそれは火力が足りなくて、オーディンには届かなかったらしいけど」
それからクルーシュチャは、とびっきりの笑顔で僕に告げた。
「でも今回は大丈夫! 燃料として黄金の林檎を用意してるしね。これなら絶対にあの人までレーヴァテインの炎が届くはず! 神話時代は北欧の辺りだけで済んだけど、今回は地球上の生命がみんな焼け死ぬ規模になるけどね!」