111_タウィル・アト=ウムルへ続く道
やはり邪悪な心子さんは"夢見"で異形の姿になっていたらしい。力を全て使い果たした彼女は異形の姿を維持できなくなって、元の人間の姿に戻っていた。
「どうして、どうして貴方たちなんかに……! 僕はナイアラトテップなのに! 弱い、最弱の化身だとしてもナイアラトテップなのに! 強い化身に生まれたかった……。なんでこんな脆弱に生まれたんだ……」
邪悪な心子さんは元の心子さんよりも優れていた。でもそれはあくまで人間にできる範疇の話でしかない。人類最高の身体能力や戦闘センス、魔術の適正や夢見の才能まで持っていたけれど、どうしてもそこ止まりだった。
「きっと……出来損ないの化身として僕を嘲笑うために……、そのためだけに……ナイアラトテップの本体が僕を生んだんだ。こうして何も成せずに死んでいく僕を見て、どこかで嗤っているんだ。惨めだ……」
そんな生まれへの不平を吐きながら、邪悪な心子さんの精神は消滅した。
ヒカちゃんが悲しそうな表情で呟く。
「かわいそう……っていうのも違うのかな。悪いことしようとしてたし、私たちの感覚で言えば普通に強かったし。でもきっと、ナイアラトテップとしてみれば、かわいそうな境遇だったのかな……って思うんだよね。邪悪な心子さんが言ってたことが本当なら、ナイアラトテップの本体はもっと強く邪悪な心子さんを作れたのに、馬鹿にするためにわざと弱く作ったんでしょ」
ヒカちゃんの気持ちは僕にもわかる。邪悪な心子さんは嘲笑の対象とされるためだけにナイアラトテップの本体が作った存在だとしたら、本当にかわいそうな境遇だったと思う。
でも邪悪な心子さんに情状酌量の余地はない。正体がナイアラトテップの化身だとしても、人間として生まれた以上はナイアラトテップとしての生き方ではなく、人間としての生き方を選べたはずだ。
実際、元の人格の心子さんはそうしている。
「とにかくこれで心子さんの問題は解決だよね。みんな無事でよかったよ」
季桃さんがそうまとめてくれた。
彼女の言う通り結局のところ、誰一人欠けることなく解決できたのだ。これに勝る僥倖はない。
「それじゃあ窮極の門へ戻って、レギンレイヴのところへ向かったリーヴを追いかけようか」
そう僕がみんなに声をかけると、心子さんが申し訳なさそうな声音で反応する。
「もうリーヴはレギンレイヴのところまで辿り着いている可能性もありますね……。僕が手間を取らせたばかりに……すみません。レーヴァテインをレギンレイヴに取られたかもしれません」
「そうと決まったわけじゃない。大丈夫だよ。きっとうまくいくさ」
とにかく行動してみないとわからないけど、1つずつ解決していけばいい。
◇
僕たちは夢の狭間から窮極の門へ戻ってきた。ふと何かに気づいた様子で、ヴァーリが疑問を投げかけてくる。
「そういやリーヴを追いかけるって、どっちに行ったのかわかるのか?」
確かにそれはもっともな疑問だが、僕にはあてがあった。リーヴの居場所なら、おそらく心子さんが把握している。僕の予想通りだったようで、心子さんがヴァーリに返事をする。
「僕がリーヴさんに探知魔術をかけていますよ。正確に言えば邪悪な僕がかけていたのですけれど」
「それはよかったけどよ、何で邪悪なココが探知魔術をかけてたんだ?」
「彼女は窮極の門への転移を邪魔して皆さんを分断し、1人ずつ背後から切り捨てていく予定だったんですよ。そのときにリーヴさんと鉢合わせると計画が破綻するので、位置関係の調整のためにかけていたんです」
場所がわかっているなら、あとは空間転移をするだけだ。それだけで僕たちはリーヴに追いつける。
しかし心子さんは困ったような表情を浮かべた。
「でもなんだか様子がおかしいんですよ。リーヴさんは窮極の門へ来てからしばらくずっと移動していたようなのですが、途中で一度止まり、少ししてから僕たちの方へ引き返しています」
「レギンレイヴがどこにいるかわからないから、あてもなく歩き回っているとか?」
「僕も最初はそう思いましたが、なぜか今もまた立ち止まっている様子なんですよね。リーヴさんがその場を動かない理由がわかりません。まるでレギンレイヴを探すのをやめて、僕たちを待っているような……」
一応、立ち止まっている理由を考えられなくもない。例えばレギンレイヴを探す途中で冷静になって、僕たちと合流した方が勝算があると判断したとか。
もしそうならレーヴァテインを回収できるから助かるけど……。
「ねぇ心子さん。具体的な方角と距離を教えてくれる? 僕の世界のヒカルがいる場所と比較したい。以前のヒカルの口ぶりから察するに、ヒカルはレギンレイヴと一緒にいると思うんだよね。おそらくヒカルは今までずっと、レギンレイヴの邪魔をしていたんだ」
ヒカちゃんがレギンレイヴに支配されなかったのも、僕の世界のヒカルが何とかしてくれていたのだろう。僕の世界のヒカルが意図してそれをやっているのか、無意識なのかはわからないけど。
例えば、レギンレイヴから力や知識が一気に流れ込んで来て、ヒカちゃんが意識を失ったことがあった。あのときはオーディンがまだ生きてると思ってたから、僕たちのためにレギンレイヴが力をくれたんだと思い込んでいたが、そもそもオーディンはいないんだからそんなはずはない。
あれはレギンレイヴがヒカちゃんを支配しようとしていたんだ。
ヒカちゃんがレギンレイヴに支配されていなかったパラレルワールドを、別世界の僕は見たことが無いと言っていた。僕の世界のヒカルがヒカちゃんを守っていたかどうか。違いはきっとそこだ。
ヒカちゃんと季桃さんが顔を見合わせて頷く。仮定が正しければ、この2人は僕の世界のヒカルに救ってもらっているはずだ。
「もう1人の私が守ってくれたんだね。だからずっと、レギンレイヴから流れてくる力と知識が少なかったんだ」
「私が存在の上書きをされかかったときや、結人さんが死にかけたときも助けてくれたよね。もう1人のヒカルちゃんがいなかったら、私たちは窮極の門まで辿り着けなかったよ。今は傍にいないってだけで、もう1人のヒカルちゃんも私たちの心強い仲間なんだね」
僕の世界のヒカルも『心強い仲間』か。他のパラレルワールドを一緒に守っていこうって、僕は僕の世界のヒカルと約束した。だからその約束の通りに僕の世界のヒカルが力を貸してくれて、ここまで来れたことが本当に嬉しい。
でも最後まで気は抜けない。まずはリーヴの不可解な行動について考察しないと。
「それじゃあ心子さん、リーヴの居場所と、ヒカルとレギンレイヴの居場所を照らし合わせようか」
心子さんにリーヴの移動経路について詳細に教えてもらい、彼とレギンレイヴの位置関係を洗い出す。
「……これは間違いなく、リーヴとレギンレイヴは会っていますよね? 勝てないと悟って逃げ出した? いえ、それなら止まっているのは変ですね」
実はもうリーヴは死んでいて、死体だけ運ばれた……とか? 肉体がある程度原型を留めて残っているなら、死んでいても探知魔術は正常に動く。
でも僕の世界のヒカルもその場から全然動いていない。僕の世界のヒカルが動いていないなら、一緒にいるはずのレギンレイヴも移動していない可能性が高い。そうなると死体を動かした可能性は低いだろう。
「悩んでいるくらいなら行ってみよう。それでリーヴの真意がわかる」
「それでは空間転移を発動しますね。皆さん集まってください」
リーヴの居場所を正確に把握しているのは心子さんだけなので、今回は彼女に転移を任せた。
◇
転移をした先には、リーヴが五体満足で立っていた。彼は僕たちが転移してきたことに気づいて声をかけてくる。
「ようやく来たか。思ったより遅かったな」
邪悪な心子さんの対処をしていたからね……。心子さんは自責の念に駆られているのか、気まずそうにしている。遅くなった理由には興味が無いようで、リーヴは尋ねることもなく言葉を続ける。
「まあいい、私にとっては好都合だからな」
「好都合……? 一体何が……?」
僕の返事を待たず、リーヴは懐から何かを取り出す。
「えっ……? 何それ……? 銀の鍵に似てるけど」
ヒカちゃんが驚きの声を上げるが、僕も同様に驚いていた。
「レギンレイヴから借り受けた紛い物だよ。ヨグ=ソトースの代行者と言えどもタウィル・アト=ウムルは銀の鍵を作れないし、使い手の任命権も無いそうだからな。タウィル・アト=ウムルから借り受けた力を、使い捨てで扱える魔道具といったところだ」
レギンレイヴから借り受けた……?
リーヴはレギンレイヴを倒すために窮極の門へやってきたはずだ。それなのにどうしてレギンレイヴの味方をしているんだ?
「お前たちをレギンレイヴのところへは行かせない。ここで私の相手をしてもらおうか」
彼はそう言いながら、銀の鍵の模造品に魔力を込める。まさか……と思って確かめてみると、空間転移を封じられていた。
窮極の門はヨグ=ソトースから力を引き出しやすい空間だから、空間転移を封じることは難しいはずなのに……。
タウィル・アト=ウムルお手製の品だからだろうか。強引な突破は難しそうだ。やるとしても時間がかかる。
「レギンレイヴに味方するのか? キミはレギンレイヴを恨んでいたはずじゃ……?」
「恨んでいる。レギンレイヴを恨んでいるとも。だが……話してわかった。レギンレイヴの中には私の妻がいた。レギンレイヴの本体は、戦乙女を支配するという話があっただろう? あれは……正確には支配ではない。侵蝕による、同化なのだ」
同化……!? もしかして一方的に支配されるというよりは、お互いに影響を与え合ってるのだろうか。
リーヴの妻は、ヒカちゃんのような2代目以降の戦乙女候補者だったという。支配ではなく同化なのだとしたら、リーヴの妻がレギンレイヴの中にいるというのも筋は通っている。
2代目以降の戦乙女は、初代と同化することで力を受け継いでいく仕組みになっているということだ。つまりレギンレイヴの本体とは、初代を根幹として歴代の戦乙女たちの精神が融合した存在だ。
「とはいえ長い年月が経ち、レギンレイヴは既に数百人と同化を果たしている。同化前の個人の意思は同化済みの数百の意思に飲まれてしまって埋没し、今のレギンレイヴの人格にはほとんど影響を及ぼさないのだろう。あれは精神のキメラだ。まともではない」
リーヴは激情を爆発させながら、言葉を続ける。
「だがそれでも! 混ざりあった数百の意思の中に、私の妻がいるのだ! 私が妻を殺すことなどできるものか!」
僕にはリーヴの気持ちが痛いほどに伝わった。
もしヒカちゃんや僕の世界のヒカルがレギンレイヴと完全に同化してしまったら、僕は誰のために戦えばいいのだろう。
レギンレイヴと一緒に世界を滅ぼせばいいのだろうか。それとも同化する前に交わした約束を果たすために、レギンレイヴと戦えばいいのだろうか。
パラレルワールドは違うけれど、レギンレイヴは僕を育ててくれた祖父母の仇だ。そして僕とヒカルから日常を奪った黒幕だ。
同化が完了したら、ヒカちゃんや僕の世界のヒカルはレギンレイヴの一部になる。それなのに僕はレギンレイヴを殺せるのか……?
僕には無理だ。
リーヴにも無理だったのだろう。
だからこうして、リーヴはレギンレイヴの味方をしている。
「レギンレイヴを倒さなければ、いずれこの世界は滅ぼされてしまいます。リーヴさんには申し訳ありませんが、押し通らせてもらいましょう」
心子さんが戦闘を始めるように促してくれた。ヒカルがレギンレイヴと同化してしまうことを想像して呆けていた僕を引き締める意図があったのだろう。僕は気を持ち直してリーヴを睨みつける。
リーヴは僕たち5人に対して1人で勝つ気でいるんだろうか。季桃さんも不思議に思ったようで、リーヴにすごみながら尋ねる。
「ロキや別世界の結人さんが一緒だったときですら私たちに勝てなかったのに、1人で勝てると思ってるの?」
「いいや、思っていないさ。私1人が銀の鍵の模造品とレーヴァテインを持ったところで、たかが知れている。時間を稼げるだけでいい。そうすればレギンレイヴを妨げる者はいなくなり、お前たちに勝ち目は無くなる」
レギンレイヴを妨げる者。それは僕の世界のヒカル以外にありえない。ヒカルがいなくなるってどういうことだ!?
「僕の世界のヒカルが、もうすぐ同化されてしまうとでもいうのか!?」
「そうだ。そいつがレギンレイヴを妨害しているのだ! 彼女のせいで、今のレギンレイヴは不完全。タウィル・アト=ウムルとしての力も存分に振るえないでいる。同化が完了して、タウィル・アト=ウムルの力を取り戻せば……レギンレイヴは再び、圧倒的強者として君臨するだろう。もう誰にも殺せなくなる。妻の安全が確保できる」
「そんなことはさせない! ヒカルは必ず助ける、絶対に!」
一刻も早くリーヴからレーヴァテインを奪って、僕の世界のヒカルを助けにいかないと。
リーヴは妻を守るために。僕は義妹を守るために。お互いの大切な家族を守るための戦いが始まるのだった。