110_VSナイアラトテップ_その3
僕たちが元の心子さんと共闘した回数は、実はそこまで多くない。スコルの子を相手に数回と、季桃さんのお祖母さんが使役していた怪物たちを相手に数回くらいだ。それ以外は全部、邪悪な心子さんが身体を動かしていた。
今から邪悪な心子さんと戦う上で、元の心子さんがどのくらい戦えるのか把握する必要がある。
「心子さんはどのくらい戦える? キミをどのくらい戦力として考えていいのかわからなくて……」
「ムスペル教団の本部でロキ、ルベド、別世界の結人さんを相手にしていたところまで、邪悪な僕は僕にできることしかやっていませんでした! なので今までと同じと考えていただいて大丈夫です! 僕も主人格こそ奪われていましたが、意識はあったので皆さんの戦い方は把握しています!」
例外もあったものの基本的に、邪悪な心子さんは元の人格がやりそうなこと、考えそうなことに沿って演技していたと言っていた。その演技は言動だけじゃなくて、戦闘においても徹底していたらしい。
今更だが、本当によく僕は心子さんがナイアラトテップだと気づけたものだ。ロキが裏切り者について言及していなかったら、たぶん気づけなかった。
ナイアラトテップの化身は、化身ごとに独立した存在だ。独立している故に、化身が別の化身を間違って攻撃したり足を引っ張ることもある。ナイアラトテップであるロキの一言で邪悪な心子さんが追い詰められているこの状況は、まさにその典型と言えるだろう。
ナイアラトテップの本体とも呼べる存在は、自分の化身すらも嘲笑の対象としている。わざと不完全な化身を作って、化身同士で食い合う姿を見て、こいつらはなんて滑稽なんだと馬鹿にしているわけだ。
まあ人間はそんな不完全な化身にすら狂わされてしまうのだけど……。ナイアラトテップの本体には、人間はさらに愚かな生命として認知されていることだろう。
話が逸れたがともかく、心子さんが今まで通り僕たちと一緒に戦えるなら心強い。
「一応聞くけど、窮極の門で邪悪な心子さんがやっていたように転移を連発したりはできないよね?」
「無理です! あんなに転移を連発できる方がおかしいんです!」
食い気味に否定されてしまった。僕も邪悪な心子さんと同じくらい転移を連発できるけど、おかしいのか……。
心子さんが言葉を続ける。
「……あ、でもトートの剣を強化する方ならできるかもしれません。意識はあったので、邪悪な僕が何をしていたのかはわかるんですよ。ちょっと試してみます」
巨大な異形と化した邪悪な心子さんにとって、トートの剣は小さすぎる。そのおかげと言っては何だが、邪悪な心子さんはトートの剣を放棄していた。今、トートの剣を持っているのは元の人格の心子さんだ。
心子さんはトートの剣に魔力を込めていこうとするが……成功しない。途中までは上手くいっているようなのだが、邪悪な方がやっていたのと同じところまでいかないようだ。
「もう少し時間をもらえればできると思います。魔力の流し込み方を工夫すればできそうなんです」
「わかったよ。しばらく挑戦してみてくれるかな。きっとそれが、この戦いを終わらせる鍵になると思うからさ」
教化された状態のトートの剣は、邪悪な心子さんに対する切り札になりえる。
窮極の門で邪悪な心子さんに邪神特効効果が効かなかったのは、彼女の肉体が人間のものだったからだ。夢の狭間でも人間の姿だったら効かなかったかもしれないが、異形となった今の状況なら効果があるだろう。
トートの剣は邪神を斬るための剣。ナイアラトテップがナイアラトテップを殺すための剣だ。強化した状態なら間違いなく、邪悪な心子さんに致命傷を与えられる。
僕たちが邪悪な心子さんを打ち倒す算段をつけていると、邪悪な心子さんは侮蔑するように僕たちを見下して口を開いた。
「随分となめ腐っているようですね。貴方たちにそんな猶予を与えるとでも? 一切の加減をしませんから、さっさと死んでください」
邪悪な心子さんが異形となった両腕を振るい、僕たちを攻撃する。
どうやら腕は伸縮するようだ。元々人間の何倍も大きい腕だったので、攻撃のリーチも相当に広い。回避するにはかなり距離を開けておく必要があった。そのためエインフェリアの身体能力をもってしても、なかなか反撃に転じることができない。
威力も非常に高く、受け止めるのも難しい。下手に迎え撃とうとすれば、吹き飛ばされてしまうだろう。攻撃範囲の広さも相まって、両腕を適当に振り回すだけでも、僕たち数人を一度になぎ倒すことができる。
その上、彼女は戦闘における立ち回り方も非常に優秀だった。醜悪な異形の見た目とは裏腹に、非常に冷静で的確な立ち回りを徹底している。邪悪であっても彼女も心子さんだから、当然と言えた。僕たちが彼女の隙を突くどころか、逆に隙を突かれていることも多い。
しかも、厄介なのはそれだけじゃなかった。
「なあユウト、こいつの硬さはどうなってんだよ! いくら矢を撃ち込んでも効いてる気がしねぇぞ!」
洞窟の奥で戦ったヨグ=ソトースの娘よりも表皮が硬い。伸縮するような身体をしているくせに、僕たちの攻撃がまるで通用しないのだ。単純な持久力ももちろん高いだろうが、表皮に弾かれてそもそも攻撃が効いていないように見える。
旧き印を刻んでから攻撃すれば多少はマシになるが、それだけでは倒せそうにない。
幸い、ルーン魔術なら問題なくダメージが入るようだ。心子さんの準備が終わるまでは、ルーン魔術を中心に戦っていくしかないだろう。
敵の攻撃が苛烈だし、トートの剣に掛かり切りの心子さんを省いて、攻撃役が2人、防御・支援役が2人といった感じに分かれた方がいい。
自力でルーン魔術を扱えるヒカちゃんには関係ない話だけど、それ以外の3人はルーン魔術起動装置にセットしている魔石によって、使えるルーン魔術が変わってくる。
攻撃が可能な魔石をセットしているのは季桃さんと僕だ。
季桃さんは『炎の弾丸』『異常状態を正す』『ソールの運行』が扱える太陽の魔石、僕は『氷の弾丸』『動きを縛る吹雪』『スカディの婚姻』が扱える霜の魔石を使っている。
この中だと『炎の弾丸』『氷の弾丸』『動きを縛る吹雪』が攻撃用のルーン魔術になる。
搦め手の対処に役立つ『異常状態を正す』魔術はともかく、『ソールの運行』と『スカディの婚姻』は物理的な攻撃を補助する魔術なので、今回は出番は無いだろう。
ヴァーリが装備しているのは、『打たれ強くなる』『気絶回復』『ウルの恩寵』が扱えるイチイの魔石だ。
『気絶回復』魔術は万が一のときに備えて、誰かが使えるようにしておきたいけど……。でも『打たれ強くなる』魔術は邪悪な心子さんの攻撃を耐えるには力不足な気もするし、『ウルの恩寵』は『スカディの婚姻』と同様に物理的な攻撃を補助する魔術だ。
『気絶回復』魔術のためだけにヴァーリを手持ち無沙汰にしておくのはよくない。他の魔石に変えた方がいいだろう。こんな感じで魔石頼りの僕たちは、細かいところで融通が効かない部分がある。
まあ、こればかりは仕方ない。そもそも専門的な知識もなく、強力な魔術を扱えるだけで異常なことなのだ。この技術を確立したヴィーダルと、魔石を作ってくれたヒカちゃんには感謝してもし足りない。
以前にも言及したことがあるが、魔石は全部で5種類ある。太陽の魔石と霜の魔石も予備があるけど、今は攻撃面を強化するより守りを固めた方がいい。
そう考えると、ヴァーリが今装備しているイチイの魔石も除いて候補は2つ残る。霧雨の魔石と年の魔石だ。
霧雨の魔石で使えるのは『傷を癒す』『障壁を張る』『ラーンの網』、年の魔石で使えるのは『気絶回復』『魔術的強化を解除する』『ノルンの糸紡ぎ』だ。
『ノルンの糸紡ぎ』を今まで実践で使ってこなかったが、これは一時的に自然治癒力を向上させる魔術だ。
ノルンというのは北欧神話に伝わる運命の女神たちの総称だ。運命の糸を編んでいた、と言われている。ノルンの一部は戦乙女としても活動していたそうで、まさに戦場に立つ戦士たちの運命を操っていた女神たちと言えるだろう。
治癒力を向上させる力を持っていたという伝承は残っていないが、あくまでノルンというのは総称なので、そういった力を持っていた者が中にはいたのかもしれない。
もしくは戦乙女として活躍していたノルンのさじ加減で、戦場の生存者が変わったことを比喩して命名されたルーン魔術なのかもしれない。
ともかく、霧雨の魔石と年の魔石はどちらも補助・回復寄りだ。どちらにするか悩ましいが……。ヴァーリには年の魔石をセットしてもらおう。
霧雨の魔石の『傷を癒す』魔術の方が即効性は高くて、年の魔石の『ノルンの糸紡ぎ』の方が即効性は無いけど回復の総量は多いとか、細かい部分は違うけれど……。傷を癒せるのは両方とも一緒だ。
だから今回着目すべきはそれ以外の部分。
霧雨の魔石は『傷を癒す』魔術の他に『障壁を張る』魔術と『ラーンの網』が使えるけど、障壁なら僕が時空操作魔術で張ることも可能だ。『ラーンの網』は攻撃用の魔術だから、ヴァーリに担ってもらおうとしている役割には必要ない。
一方で年の魔石で『ノルンの糸紡ぎ』以外で使えるのは『気絶回復』『魔術的強化を解除する』の2つだ。
『気絶回復』魔術はイチイの魔石で使えるものと違って1人にしか掛けられないけど、無いよりはあった方がいい。『魔術的強化を解除する』魔術は今までの戦いでも多用してきたように、魔術師が相手なら非常に使い勝手がいい魔術だ。
邪悪な心子さんは、異形の姿になっても魔術を今まで通りに行使してくる。総合的に見て、年の魔石の使い勝手の良さに軍配が上がった。
「ヴァーリは年の魔石に付け替えてくれ。回復と補助を頼む」
「おうよ。サポートも一流だってところを見せてやるさ」
とりあえず戦況は安定してきた。邪悪な心子さんの攻め手は本当に苛烈なので長くは持たないだろうが、すぐに崩される様子はない。
でもやはり、こちらから攻めていくことは難しい。ルーン魔術だけだと火力が足りない。
他にダメージを入れられるとしたら、心子さんがリーヴとの戦いで使っていた『幽体の剃刀』という魔術か、心子さんだけができる素通り攻撃くらいだろうか。
僕は『幽体の剃刀』を使えないので心子さんに使ってもらうしかないけれど……。でも心子さんにはトートの剣の強化に集中してもらいたい。
素通り攻撃も今はダメだ。トートの剣の強化なしで素通り攻撃をしても、心子さんの筋力だけで与えられるダメージなんてたかが知れている。
そうなるとやっぱりこの戦いは、トートの剣の強化が必須だろう。
「しぶといですね。それなら、こんなのはどうですか!」
邪悪な心子さんが、顔のない円錐形の頭部から大きな咆吼を上げる。するとその音に呼応したかのように、上空に暗雲が立ち込め始めた。
そしてその直後、雷が僕たちに向かって降り注ぐ。いくつかは障壁を張って防ぐことに成功したが、全てを防ぐことは難しい。
エインフェリアではない普通の人間が雷に撃たれて生存する可能性はおよそ20~30%もあるという。普通の人間でさえ生き残る可能性がある攻撃で、エインフェリアや半神である僕たちが簡単に死んだりはしない。
だけど雷を回避することなんて不可能だ。不可避の攻撃よって、確実にダメージが蓄積していた。『ノルンの糸紡ぎ』のおかげで自然治癒力が非常に高まっているので、何とか受け止められてはいるけれど……。
でも何か対抗策を考えなければジリ貧だ。
そんなとき、季桃さんが興味深い疑問を僕にぶつけてきた。
「ねぇ結人さん。さっき邪悪な心子ちゃんが使ったのって、どういう魔術? 天候を変えるだけじゃないよね?」
天候を変えるだけじゃない……?
僕はてっきり、天候を変える魔術だと思っていた。僕は使い方を知らないが、そういう魔術があると聞いたことがある。
なぜ季桃さんは天候を変えるだけじゃないと思ったのだろう。
「季桃さんはどうしてそう思ったの?」
「たぶんだけど、邪悪な心子ちゃんには一度も雷が落ちていないんだよね。あの異形の体が究極の絶縁体で出来ている……とかなら説明はつくかもだけど」
季桃さんはエインフェリアの中でも動体視力が異様に優れている。そのおかげなのか、信じられないことに雷を目で追えているようだった。さすがに確信ってほどではないようだけど。
雷とは、雲の中で発生した静電気が地上に向かって流れる現象のことだ。電気の流れにくさを絶縁性と言うが、雷は高まった静電気が空気の絶縁性を上回ることで発生する。
だが、雷も電気の性質からは逃れられない。雷は最も電気が流れやすいところ、つまりは絶縁性が低いところを通るのだ。例えば避雷針はその性質を活かした防災対策で、高いところに設置したり、電気を通しやすい金属を用いることで雷を誘導している。
何が言いたいかと言えば……。邪悪な心子さんは僕たちの10倍くらい大きい。荒れ果てた荒野には木々も全く生えていないし、高さ的には邪悪な心子さんに雷が一番落ちるはず。
身体を構成する物質が極端に電気を通しにくい可能性は否定できないけれど。それでも邪悪な心子さんに一度も雷が落ちていないのは不自然だった。
季桃さんの観察眼が確かなら、邪悪な心子さんは天候を変えただけじゃない。僕たちだけに雷が落ちるような仕組みがある。
その仕組みについて、僕は心当たりがあった。
「……もしかして、"夢見"か?」
「ユウ兄、"夢見"って何?」
初めて聞く用語にヒカちゃんが戸惑っている。ヒカちゃんたちに説明したことは無いので、僕と心子さんしか知らない概念だろう。
「夢見は夢の性質を帯びている空間のみでできる、魔術の一種だよ。空間を自在に改変できると言われているんだ。例えば、無から物を作りだしたりね」
夢の狭間は夢の性質を帯びている空間だ。だから"夢見"も当然できる。
……いや、当然という言い方は語弊があった。そもそも"夢見"は魔術師の間でも実在が疑われている特殊な魔術なのだ。僕も"夢見"を使っている魔術師を実際に見たことは無い。だけど"夢見"は存在すると仮定すれば、邪悪な心子さんに雷が落ちない理由が説明できる。
要するに、邪悪な心子さんは天候を変える魔術で無作為に雷を降らせているのでない。"夢見"で雷を生成して、僕たちを狙って落としている。
それにもしかすると、邪悪な心子さんの身体を異形に姿を変えたのも"夢見"の力かもしれない。
精神の状態によって姿が変わるというのも間違いではないのだけど……。それを考慮しても、夢の狭間における邪悪な心子さんの戦闘力は異常だった。邪悪な心子さんは“夢見”によって戦闘力を補っていると考えた方が腑に落ちる。
夢の狭間ではなく幻夢境での事例……というか噂に語られている話だが、幻夢境には"夢見"の天才が"夢見"だけで作り上げた都市があるらしい。そこまでいくとさすがに眉唾物だけど、"夢見"はそれだけの可能性を秘めている。
「"夢見"を扱うには才能が必要って聞いたことがあるよ。才能さえあれば専門的な知識なんて要らないんだ」
要するに、才能さえあれば僕たちもすぐに"夢見"を使うことができる。僕たちの中に誰か1人でも"夢見"を扱う才能の持ち主がいれば、この不利な状況をひっくり返せるかもしれない。
……考えるまでもなかった。僕たちの中に、"夢見"の才能を持つ人物が確実に1人いる。
別人格とはいえ、同一人物が目の前で"夢見"を使って見せたのだ。同じレベルでは使えないかもしれないが、全く使えないなんてことはないだろう。
僕が声をかける前に、彼女は準備を終えていた。
「良いヒントになりました。"夢見"を使って強引にですが、トートの剣も強化完了です。いつでもいけますよ、結人さん!」
心子さん1人では邪悪な心子さんの攻撃を搔い潜ってトートの剣で斬りつけることは難しい。だからそこは僕が解決しよう。
僕は心子さんを抱きかかえて空間転移を何度も行使し、攻撃を避けながら邪悪な心子さんへ肉薄する。
「心子さん、目一杯やってくれ!」
「はい! 全力全開の一撃、いきます!!」
僕は邪悪な心子さんの真下に潜り込むと、抱えていた心子さんを上空へと放り投げた。その勢いを利用して、心子さんは悪しき異形の怪物にトートの剣を叩きつける。
強化されたトートの剣の威力と邪神特攻効果、そして硬い装甲を無視できる心子さんの剣術が組み合わさった一撃だ。致命的なダメージを受けて、邪悪な心子さんは膝をつく。
心子さん1人では攻撃を当てられなくても、僕1人では有効打を与えられなくても、僕たちが協力すれば邪神にも手が届く。僕は続けて上空へ転移し、空中へ放り出された心子さんを受け止めた。そして心子さんその状態から身を翻し、今度は頭上から邪悪な心子さんへと斬りかかる。
「これで終わりです!」
「あぁ……! あぁ……!! 貴方たちごときに負けるなんて……!!」
会心の一撃だった。既に力を使い果たしていた邪悪な心子さんは避けることもできず、トートの剣をまともにくらって倒れこむ。
音もなく僕たちの中に浸透していた混沌は、こうして切除されたのだった。