99_VSアニミークリ・バルドル_その2
「ヒカちゃん、ちょっと耳を貸してくれる?」
「うん、わかったよ。ユウ兄」
僕は偽バルドルに聞こえないように、非常に小さな声でヒカちゃんに耳打ちする。
ヒカちゃんに伝えたことは1つだけ。
『補助系のルーン魔術は絶対に使わないで、攻撃と回復だけにして』
という内容だ。
ヒカちゃんは不思議そうにしていたが、これには意味がある。
おそらく偽バルドルは、旧き印や銀の鍵で作った障壁を、中級ルーン魔術の『魔術的強化を解除する』魔術で搔き消せることを知らないのだ。
その証拠に、偽バルドルはまだ一度も『魔術的強化を解除する』魔術を使ってきていない。彼が中級ルーン魔術を使えないはずはないので、有効だと思っていないのだろう。
もしここでヒカちゃんが補助系のルーン魔術を使って味方をサポートしたら、偽バルドルは『魔術的強化を解除する』魔術を使ってくるはずだ。そうすると旧き印と銀の鍵で作った障壁も解除されてしまう。
解除できることが偽バルドルにバレてしまえば、辛うじて保っているこの均衡も崩れてしまうだろう。
特に旧き印が解除されるのはまずい。ルーン魔術起動装置が封じられてしまった今、旧き印なしでカラスを撃ち落とせるのはヒカちゃんしかいない。心子さんに旧き印を再刻印してもらうのも時間がかかる。
そういうわけで、ヒカちゃんに補助系のルーン魔術を使ってもらうわけにはいかないのだ。
「よっしゃ! 偽バルドルをぶっ飛ばした!」
ヴァーリが喜ぶ声を聞いてそちらに注意を向けると、偽バルドルの姿をしていた個体を粉々に打ち砕いたところだった。喜んでいるところ悪いけど、あまり意味は無いだろう。
カラスたちの一部が融合して混ざり始め、すぐに偽バルドルの姿を形作る。
「うげぇ……。復活しやがった」
「聖者は新世界で蘇るってね。光の神バルドルは、こうして冥府から帰ってきたわけだよ」
「アニミークリの擬態能力を使っているだけじゃないですか」
心子さんの言葉に偽バルドルが顔をしかめる。偽バルドルは偽物だと言われることに、尋常じゃないほどコンプレックスを抱いていた。
偽バルドルに本体というものは存在しないように見えた。カラスたちも含めて、全ての分体を打ち砕かないと偽バルドルは倒せない。でも逆に言えば、どの個体を攻撃しても偽バルドルにダメージが入るということでもある。
心子さんが召喚してくれたおかげで、今ここには偽バルドルを構成する全てのアニミークリが集結している。逃げられないように広間の出入口は予め凍結させて、アニミークリが脱出できないようにしてある。
うまくやれば、ここで偽バルドルを完全に討滅することは不可能じゃない。
「心子さん、キミはヨグ=ソトースの拳を使える?」
「ええ、使えますよ。なるほど。そういうことですね、わかりました」
心子さんは僕が声をかけただけで、意図を読み取ってくれる。ヨグ=ソトースの拳は任意の位置に衝撃波を発生させることで、対象を吹き飛ばすことができる時空操作魔術だ。
直接的な殺傷能力は無いし、細かい制御ができるわけでもないので使いどころが難しい。ミゼーアの先端を押し込む際にも利用した魔術だが、あの時は対ミゼーア用にヨグ=ソトースがサービスしてくれただけなので、あのときほど威力が出るわけでもない。
それでもカラスたちを吹き飛ばして、一か所に集めるくらいなら可能だろう。
「ヒカちゃん、ヴァーリ、追撃を頼む! 銀の鍵よ、僕を導け! 偽りの光神を纏め押し流せ!!」
僕と心子さんは同時にヨグ=ソトースの拳を発動し、カラスたちを広間の一角へ吹き飛ばす。そこへヒカちゃんが『動きを縛る吹雪』を、ヴァーリが散弾状に放った矢を撃ち込んだ。
ほとんどのカラスたちが吹雪と矢によって黒い鉱石のような姿に崩れ落ちていく。どうにか隙間を縫って抜けてくるカラスもいたが、僕たちに近づいてきた個体は季桃さんが倒していった。
無事な分体は、数えるほどしか残っていない。
「あぁ、なぜ! なぜだ! どうしてこうも上手くいかない!」
偽バルドルは叫びながら黒い液状の生命体へと姿を変える。そして突然、恐ろしい勢いで周囲から熱を吸い取り始めた。
急激に気温が下がり、室内が霜で満たされる。
正確にはわからないが、この一瞬で室内はマイナス50℃を下回ったかもしれない。この時点で人間が生存できる最低気温を下回っているが、さらにどんどん冷たくなっていく。
ニブルヘイムのように大量のアニミークリがいるならともかく、偽バルドル単独でここまで熱を吸収できるとは思わなかった。
「皆さん! 黄金の蜂蜜酒を配ります! これ以上はエインフェリアでも危険です!」
僕たちは心子さんから黄金の蜂蜜酒を受け取って一気に飲み下す。
黄金の蜂蜜酒はあらゆる環境で生存できるようになる魔道具だ。これさえあれば、極限環境でも戦闘を続行できる。
熱を吸いつくした偽バルドルは膨れ上がり、再び多数のカラスに分裂して襲い掛かってくる。だが、その動きは緩慢でキレがない。
おそらくは熱を吸いすぎたのだろう。アニミークリとしての本能が理性を塗りつぶそうとしていて、もはや偽バルドルはまともに戦える状態じゃなかった。
それならもう一度同じことをすれば終わりだ。
僕と心子さんは再びヨグ=ソトースの拳を発動して、偽バルドルを一か所に集める。そこへヒカちゃんとヴァーリが集中攻撃をしかけることで、この戦いは決した。
ほんの少しだけ残った欠片が集まって、アニミークリはバルドルの姿を形作る。だけど彼の身体はほとんどが崩れたままだし、再生する気配もない。
それにこの部屋の気温は尋常でなく低く、まさしく極寒と言える寒さだ。あと一撃を加えるまでもなく、放っておくだけでもアニミークリである彼は完全に崩壊するだろう。
「俺は本物のバルドルなのに! 蘇ったバルドルとして作られたのに! 父上の最愛の息子のはずなのに、そう認めてくれないから……。銀の鍵のことも、ヨグ=ソトースのことも碌に教えてくれなくて!」
偽バルドルにちゃんとした知識があれば、僕たちは負けていたかもしれない。時空操作魔術と旧き印を偽バルドルが知らなかったおかげで、戦いを有利に運べたのは間違いないから。
「おぼろげだけど、生前のバルドルの記憶もちゃんとあるんだ! 本当に少しだけ、ぼんやりとしか無いけども! 記憶がない、外見だけ似せた他の死者どもとは違うんだよ……! 俺はアスクとエムブラの技術を転用して、ヘルを参考にして作られた、本当に死者を蘇生できた唯一の成功体なんだ……!」
アスクとエムブラ? 初めて聞く名前だったが、季桃さんが教えてくれた。
アスクとエムブラとは、オーディンとロキが作り出した最初の人間の名前らしい。浜辺で拾った2本の流木をアスクとエムブラに変えたとかいうめちゃくちゃな伝承なのだとか。そんな風に人間が生まれるわけねぇだろとヴァーリが言うので、事実ではないらしい。
おそらくオーディンとロキが拾った流木というのは、アニミークリのことなのだ。アスクとエムブラの技術というのは、オーディンとロキがアニミークリをいじり回して、人の姿を模倣させる方法を確立したという話なのだろう。
アスクとエムブラについては解決したとして、ヘルを参考に作られたというのは何だろう? そもそもどうして偽バルドルにだけ生前の記憶があるんだ……? ほんの少しだけらしいが、明らかに他の死者たちとは違う。
僕は何も思いつくことはなかったが、季桃さんは何か引っかかることがあったようだ。
「もしかして、世界中の人々がバルドルのために涙を流したら蘇る、って伝承が関係してるのかな。オーディンがヘルと交渉して、バルドルを蘇らせてくれって頼み込む話があるの。その蘇りの条件がバルドルを弔う世界中の人々の涙なんだよ」
季桃さんの話を聞いて、僕は気づく。
「そうか! 偽バルドルはアニミークリに存在の上書きをかけて、バルドルを蘇らせようとした存在なんだ」
以前に心子さんと話した通り、存在の上書きをかけるなら対象は本人じゃないといけない。でも本物のバルドルはもう死んでいて、死人に上書きはできない。
だから普通に考えればバルドルを蘇らせることはできないけれど、オーディンはアニミークリで無理やり代替しようとしたのだろう。
おそらくヘルは偽バルドルのプロトタイプなのだと思う。ヘルを参考に偽バルドルが作られたというのは、そういうことだ。どうしてヘルがアニミークリを改造する技術を持っているのか不思議だったけど、これで謎が解けた。
結論から言うと、ヘルはアニミークリを改造する技術を持っていなかった。ヘルがしていたのは、偽バルドルが分体を増やしてカラスの振りをしていたのと同じだ。自分の分体を増やして、生き返った死者の振りをしていただけだったんだ。
おそらく僕たちがヘルヘイムで出会ったのは、増やしたばかりの分体だったに違いない。偽バルドルも増殖したばかりの状態では、アニミークリの本能に支配されかけてしまい、知性的な行動を取れていなかった。
「存在の上書きって確か、想念の強さで成功率が変わるんだっけか。俺がヘズを殺したときのことを考えすぎて、シミュレーション世界を作るときに上書きされかけたみたいにさ。アニミークリにバルドルを上書きするために、世界中から想念をかき集めて成功させようとしたのか」
「でも失敗したんだね。本人はもう死んでいるから、元々成功率0%なんだ。記憶がほんのりとだけでも伝わったのは、オーディンの埒外さと執念の賜物じゃないかな」
「そもそも本当に記憶が伝わっているかも疑わしいですね。その手法だと記憶が伝わるというよりは、幻覚を見るとか、それっぽい夢を見た程度のものにしかならないと思います」
僕とヴァーリの言葉を受けて、心子さんがそう分析してくれた。
過誤記憶……みたいなものだろうか。過誤記憶とは、夢から醒めた直後は夢と現実が区別できなくて混同してしまう症状のことだ。
「アニミークリは本来、知性を持たない生命体ですからね。ぼんやりとした夢からの影響を、余計に受けやすいのでしょう。つまり、バルドルの成り損ない……ですね」
「俺は成り損ないじゃない、本物のバルドルなんだ……。本物なんだ……! 父上、父上! 俺は貴方の息子です! 本物のバルドルです! 認めてください父上! ……父上!」
彼はバルドルの記憶を受け継いだのではなく、夢遊病に陥った赤子のような存在に近いのかもしれない。
偽バルドルは怯えるように、縋るように、黄金の腕輪を通じてオーディンに語り掛ける。
しかしその声はだんだんと弱くか細くなっていく。彼の身体が完全に崩壊するまでに残された時間が少ないのだろう。
そしてついに声が途絶えたかと思うと、彼は小さく呟いた。
「あぁ……! ずっと、その言葉が聞きたかった……! ……報われた」
その言葉を最後に、彼は細かな欠片になって崩れ落ちた。欠片の中には黄金の腕輪が残されていた。