若者と人魚
昔々海辺の村に、琢海という若い男がいました。他の男衆と海に出ては、いろいろな魚介を捕って暮らしていました。
ある晴れた夏の朝早く、漁に出るため浜に行くと、若い女人魚が浜で倒れていました。琢海の村では人魚の歌は豊漁をもたらすとして崇められていました。だから琢海は慌てて駆け寄り尋ねました。
「人魚様! いったいどうされたのですか!?」
「人魚は月の光を浴びると人の姿になり、日の光を浴びると元に戻ります。私は歩く練習をしていて、うっかり遅くなってしまったのです」
と恥ずかしそうに人魚は答えました。琢海は不憫に思って、自分の服が濡れるのも構わず人魚を海に戻してやりました。ようやく人魚を海に戻すと、琢海は威儀を正しました。人魚はそんな彼に大層感謝して言いました。
「ありがとうございます。あの、私汐音といいます。あなたの名前を教えてくれませんか?」
「汐音様ですか。私は琢海と申します」
「琢海さんですか。いい名前ですね。それから恭しくしないでください。恩を感じているのは私の方なのですから」
そう言われて琢海は緊張を解きました。そんな彼に人魚は朗らかに言いました。
「そうだ、助けていただいたお礼をしましょう。今日から私が毎日沖で歌います。私の歌で集まった海の幸を、必要な分だけ獲ってください」
「ありがとうございます! 必要以上に獲らないことを約束するので、仲間を連れてきてもいいですか?」
「もちろんいいですよ」
「ありがとうございます!」
二人は指切りで約束を交わしました。そして汐音は沖へと泳ぎ、琢海はその影が見えなくなるまで見送っていました。
汐音の影が見えなくなると、琢海は早速男たちのところに駆けて行き、人魚との話を伝えました。ところが、男たちは琢海の話を信じようとはせず、むしろ笑いました。その中の一人が言いました。
「あのな琢海、人魚様はめったに歌さえ聞かせてくださらないんだ。ましてその姿なんかは、おら見たことがねぇ。お前も行倒れの女と見間違えたんだろう」
するとその時、どこからか美しい歌声が響いてきました。皆不思議がって耳を澄ましました。歌はどうやら沖の方から聞こえてくるようです。男衆はようやく琢海の話が本当だと気付きました。皆慌てて舟を出し、歌の聞こえる方へと漕ぎ進めました。
舟を漕ぎ進めていくと海原の上に人の影が見えました。さらに舟を近づけると、そこで歌っていたのは汐音でした。汐音は琢海たちに気が付くと、歌いながら大きく手を振りました。男衆はこれは夢かもしれぬという思いで各々頬を叩いたりつねったりしました。琢海が舟を寄せると汐音は歌をやめ、琢海に笑顔を向けました。琢海はどきどきしながらも、汐音の歌を誉めました。
「澄み切った歌声が浜まで響いてきました。あまりの美しさに聞き惚れてしまいましたよ」
「琢海さんにそう言ってもらえて嬉しいです。ほら、魚たちも集まっていますよ」
はにかみながら汐音は答え、海の中を指さしました。その言葉に男衆が覗き込むと、辺りを埋め尽くすほどの魚が泳いでいました。男衆は汐音に大層感謝して言いました。
「人魚様、海の恵みをありがとうございます」
「感謝しているのは私の方です。浜で海に戻れなかったところをそちらの琢海さんに助けてもらったのです」
「そうでしたか。琢海、よくやったな」
男衆は琢海を称えました。琢海は恥ずかしそうに頭を掻きました。それから琢海たちは必要な分だけ魚を獲り、いつもより早く村へと帰りました。
それからというもの、汐音は毎日歌い、琢海たちは必要な分だけ海の幸を獲りました。必要な分はすぐに獲れるので、前よりも早く村に帰ることができました。琢海たちはその分漁具の整備や家族の時間を増やすことができたので、汐音に大層感謝しました。
やがて琢海は汐音の歌を覚え、いつしか二人で仲良く歌うようになりました。男衆はそれを微笑ましく思いながら眺めていました。ある男は目を細めて、お二人さんお似合いだなぁと言いました。二人は照れましたが、悪い気はしませんでした。
ある日のこと、いつも通り琢海たちは汐音の歌を聞いて舟を出しました。汐音は琢海たちに気が付いて胸を弾ませ泳いできました。琢海は汐音に尋ねました。
「おはよう汐音。今日は貝が欲しいんだ。どこにあるかな?」
「貝ですね。待っててください」
そう答えて汐音は海に潜っていきました。しばらくして再び顔を出すと、その手にはサザエやカキ、アワビといった様々な貝が抱えられていました。汐音は海底と海面を何度も行き来し、琢海たちは貝を分け合いました。やがて必要な量があつまったので、琢海たちは汐音に感謝して浜に戻っていきました。
琢海たちは村の人たちに貝を売りました。その中に手のひらほどもある大きなアコヤガイがありました。そのアコヤガイも村の人に売れました。
次の日も沖の方から歌が聞こえてきました。しかしその歌は、いつもと違って悲しげな調べでした。琢海たちは心配になって沖へと舟を急がせました。
やがて海の上に汐音の姿が見えてきました。汐音は肩を落とし、俯き、まぶたは赤くはれていました。琢海は舟から身を乗り出して尋ねました。
「汐音! いったいどうしたんだ!?」
汐音は顔を上げ、気落ちした口調で答えました。
「私は海神様が大事にしていた貝を、それと知らずあなたたちに渡してしまいました。私はその咎で今晩処刑されてしまうのです」
それを聞いた琢海たちは衝撃を受けました。男衆の一人が提案しました。
「匿おう。陸に上がってしまえば、海神様も手出しはできないはずだ」
そこで男衆は琢海の舟を押さえ、琢海は汐音に手を伸ばしました。汐音は困惑しながらも、しぶしぶ舟に乗りました。琢海たちは今日は漁をせず、すぐに帰ることにしました。
陸へと舟を漕ぎながら、琢海は汐音に尋ねました。
「それで、海神様が大切にしていた貝というのはどの貝なんだ?」
「アコヤガイです。手のひらほどもある大きなアコヤガイを見ませんでしたか?」
「ごめん! 見たけど売ってしまって、取り返せるかどうか分からない」
琢海の答えを聞いて汐音はしゅんとしてしまいました。琢海はいてもたってもいられず、汐音の手を取り、汐音と目を合わせて言いました。
「約束する。俺がアコヤガイを取り返す。だから今日のところは俺の家にいてくれ」
「ありがとうございます」
汐音は申し訳なさそうに目を潤ませ、深々と頭を下げました。
そういうわけで琢海の家の湯船に水を張り、汐音はそこで過ごすことになりました。琢海たちは村の方々でアコヤガイを探し回りました。そのことはすぐに噂になり、村中に広まりました。しかし、アコヤガイはなかなか見つかりません。
さて、海では汐音が逃げたことで人魚たちが大騒ぎしてました。海神様は大いに怒り、天は荒れ海原は暴れました。それを汐音は風呂場の窓から沈痛な面持ちで眺めていました。
その時雲の隙間から月の光が差し込みました。その光は人魚の汐音を人の姿へと変えました。尾びれが足へと変わったことに気が付いた汐音は、やることは一つと心に決めました。自分が海に戻り、海神様に処刑されれば、琢海やその仲間に迷惑をかけることはない――そう考えた汐音は、人目を忍んで海へと戻ってしまいました。
その頃村に住む商人が、村の外での商売を終え帰ってきていました。琢海は早速商人の家へ行き、アコヤガイについて尋ねました。商人はしばし待てと言って奥へと引っ込んでいきました。やがて商人は戻ってきました。その手には手のひらほどの大きさのアコヤガイが握られていました。
「一目見たときからこれは無下に扱ってはならない気がしていた。なるほどこれは海神様の宝物だったのか。それを奪われて海神様は大層ご立腹と見える。行って返してきなさい」
そう言って商人はアコヤガイを琢海に託しました。琢海は礼を述べて商人の家を辞し、汐音にアコヤガイが戻ってきたことを告げようと家へと駆けて行きました。
ところが家に帰っても人気はありません。風呂場ももぬけの殻です。そして琢海は、濡れた足跡が風呂場から伸びていることに気が付きました。足跡は家を出て、海まで続いているようでした。琢海は即座に汐音がしようとしていることを察し、アコヤガイを手に慌てて舟を出しました。
時化た海の上、上からは雨に打たれ、下からは波に突き上げられ、それでも琢海は沖を目指しました。とはいえ海神様が、そして汐音がどこにいるのか、琢海には皆目見当もつきません。
その時海の中から歌が聞こえてきました。その歌声は、耳に馴染みのある、琢海が愛した声でした。琢海はアコヤガイを手に危険を顧みず海に飛び込み、声を頼りに一心不乱に泳ぎました。
海神様は汐音をまさに処刑しようとしてました。汐音は琢海を想いながら声の限り歌っていました。その時琢海が海神様と汐音の間に割って入り、海神様にアコヤガイを差し出しました。
「海神様、汐音の処刑はお止めください。こちらが海神様が大切にしていたアコヤガイでございます」
海神様は琢海からアコヤガイを受け取り、隅々まで眺めまわして言いました。
「確かにワシが大切にしていたアコヤガイだ」
琢海と汐音は胸をなでおろし、熱く抱擁を交わしました。
「琢海! 琢海!」
「汐音! 本当に……間に合ってよかった……」
その様子を見てしみじみと海神様は言いました。
「愛ゆえになせる業か。人魚と人間の愛ゆえに」
そして海神様は二人に近づきました。二人は抱擁をやめ海神様に向き直りました。海神様は宣言しました。
「アコヤガイは返った。よって汐音を処刑する理由はなくなった。これにより汐音の処刑はやめとする」
二人は飛び上がらんばかりに喜び、再び熱い抱擁を交わしました。そしてこのことを村の人々にも伝えるため、二人は陸を目指しました。海の上に出ると、時化は嘘のようにやみ、満点の星が夜空に瞬いていました。
村の誰もが二人の無事を喜びました。その日の晩は村人総出の宴となりました。宴の席で琢海は汐音と結婚すると宣言しました。汐音は跳び上がって喜び、琢海に口づけをしました。皆が二人を祝福しました。
こうして二人は結ばれ、末永く幸せに暮らしました。




