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【コミカライズ】一般庶民ですが、浮気されて離婚した傷心中の貴族に見初められました【アンソロジー】

作者: 当麻リコ

夕方の街は仕事帰りの人で溢れていて、どこか浮かれた空気が流れている。

私もご多分に漏れず、足取り軽く屋台から漂う美味しそうな匂いにつられて、あちこちを冷やかしていた。


今夜は何を食べようかな。

家にある材料であれとそれを作って、ちょっと贅沢して屋台で一品何か買って帰ろうか。

誘惑に負けそうになるけれど、質素倹約を目標にしている今、なんとか悪魔のささやきを振り切って家路を急いだ。


馴染みの診療所を通り過ぎて、長い階段に差し掛かる。

家までの唯一の難所だ。

それでも仕事が終わった解放感で歩く速度は鈍らない。

トントンとリズムよく上っていけば、毎日の通勤で鍛えられた心肺は息切れすることもなく、最後の一段へと辿り着く。


「……え?」


トン、と肩に軽い衝撃があった。

向かい側から階段を下ろうとしていた人だろう。


ほんの少しぶつかっただけ。

口に出して謝るほどでもなく、お互い軽く会釈し合えば済む程度の。


だけどタイミングが悪かった。

最後の一段に、まだ私の右足はかかっていなかった。


ふらりと身体が後ろへと傾ぐ。


――あ、これ私死ぬわ。


「き、」


そう思ったら唇が自然と動いた。

全てがゆっくりに見えて、妙に冷静に「これは悲鳴を上げる場面だ」と頭が判断していた。


「きゃ、あ、」


けれど悲鳴が形になる前に。


「うわぁぁあああああ!」


男の人の必死な叫び声と共に、浮遊する身体ががっしりと何かに力強く捕まえられた。


次いで衝撃。


すぐに治まって身体が止まる。

覚悟したほど痛くはない。

階段の下まで転げ落ちるほどの時間ではなかったはずなのに。


何が起こったのか。

ぎゅっと目を閉じてしまったからわからない。


それ以上待っても何も起こらずに、そろりと目を開ける。


周囲を見れば、最上段から三メートルも落ちていない。

それから腹に誰かの腕が回されている。

背中に謎の温もり。それに深く長いため息。


ゆっくり背後を振り返り、その正体を確かめた。


「だ、大丈夫でしたか」


知らない男性に至近距離で話しかけられる。


物凄く青褪めていて、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

たぶんだけどこの人、私と肩がぶつかった人だ。


それで転がり落ちそうなところを助けられたのだと気付く。


その瞬間、心臓がバクバクと激しく主張を始めた。


生きている。助かった。この人のおかげで。


「だ、だいじょう、」


一気に血の巡りが良くなったせいか、言い終わらないうちに意識はブラックアウトした。



◇◇◇



気が付くと、狭い部屋のベッドの上に寝かされていた。

それから横を見ると、知らない男性がハラハラした顔をしてこっちを見ていた。

私の目が開いたことに気付くと、座っていた椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。


「気が付かれましたか!?」

「へぁ?! はい! あの……?」


訳が分からずとりあえず起き上がる。


「あ、ええと階段から落ちて、だけどそれは僕のせいで、本当に申し訳なく、」


ほとんど泣きそうな顔で、まとまりのない言葉を並べていく。

なんだか気の毒になるほどの狼狽ぶりだ。


「あの、落ち着いてください、大丈夫ですから」


宥めるように言って、彼が懸命に説明してくれるのをじっと聞いた。


どうやら肩がぶつかったせいで私が階段から落ちそうになって、とっさに抱き留めて強引に引っ張って、手摺りに掴まったおかげで下まで落ちなくて済んだと。

ホッとしたのも束の間、私が気を失ってしまったので、担いで近くの診療所まで運んでくれたらしい。


「ああ、そうだったんですか……それはとんだご迷惑を、」

「本当に申し訳ありません。僕のせいでとても危ない目に遭わせてしまって……それに多分どこかぶつけてると思うので痛いですよね。すみません。治療にかかるお金は僕が全て持ちますので、遠慮なく言ってください」


しきりに恐縮して言う青年は、自分こそ倒れてしまいそうなほどの青い顔で何度も私に頭を下げた。


「いえあの、ぶつかったのはお互い様ですし、なんなら命を助けてもらってますし、謝っていただくようなことは何も」


どう考えても命の恩人なのに、彼の表情は一向に晴れない。


なんでこんなに謝ってるの?

不思議に思ってつい首をひねってしまう。


「あっ、もしかして首を痛めましたか!? 本当にすみません……! 僕がロクに周りも見ずにぶつかってしまったせいだ、引っ張った時に首をやってしまったのかも……やっぱり僕のせいです本当にごめんなさい」

「いやどこも痛くはないです。おかげで落ちずに済みましたし、街中歩いてても人とぶつかることはよくあることなんで、ホント気にしないでください」

「でもそんなわけには……全部僕が悪いんです」


なんだか物凄く責任を感じてる顔だ。

さっきからなんでこの人は泣きそうなんだろう。

私には彼が必要以上に自分を責めているようにしか見えなかった。


「……何か辛いことでもあったんですか?」


なんとなく気になって尋ねる。

彼はハッとした表情になったあとで俯いた。


「……少し。嫌なことがあって、だから気分が塞いでいて、なのに更にこんなことを引き起こしてしまって……自分の不甲斐なさに落ち込んでいます」

「なるほど」


そういう気分の時ってあるよね。わかる。


彼が自罰的な理由に納得して深く頷く。

そういう時は誰が何を言っても無駄なのだ。

だから無理にでも気分を切り替えていくしかない。


「ええと、じゃあこうしましょう」


ポンと手を打って明るい声を出す。

彼は音につられて顔を上げた。


「このあと予定はありますか?」

「いや……君が意識を取り戻すまではついていようと思ったので、予定はすべてキャンセルしました」

「わぉ。あははいいですね」


そのしょんぼり顔に似合わぬ潔さが、ちょっとツボに入って笑う。

笑われた理由がわからなかったのか、彼が怪訝そうな顔をした。


「私も今日はもう仕事が終わって帰るだけだったので、予定はないんです」

「っ、そんな時に本当に申し訳ないことを、」

「だからこれからご飯連れて行ってください」


まだまだ謝り足りなそうな彼を遮って笑顔で言う。


「え」

「このあたりにお兄さんのお気に入りのお店はありますか?」

「え、あ、はい」

「そこで御馳走してください。それでチャラということで」


畳み掛けるように言うと、彼はぽかんとした顔で目を瞬いた。

私よりいくつか年上だろうに、どこかあどけなく見えるその表情にまた笑いが漏れる。


「……そんなことでいいんですか?」


お互いの不注意だし、命を助けてもらっているし、本当は奢ってもらうのすら必要ないのだけど。


「なんだか何かしてもらわないとちっとも納得してくれないっぽいので、それで」


何より、どれくらい気絶していたかわからないけど今私はとてもお腹が空いている。


その時、ぐうう、とタイミングよく私のお腹が鳴った。


「ね! ほら!」


恥じらいもなく得意満面の顔で言うと、青年は気の抜けた顔になったあと、笑っていいのか決めかねているような複雑な表情をした。


「……じゃあ、はい。どうぞお腹いっぱい食べてください」


それから少し困ったような顔で微笑んだ。



◇◇◇


彼はアーサーと名乗った。


「少し歩くけどいいかなケイト」

「もちろんよアーサー。散歩は好きなの」


お互い名乗り合って以降は名前呼びになり、丁寧な喋りも性に合わないのでタメ口をお願いした。

躊躇うような顔をしていたけれど、申し訳なさが勝ったようで私の望み通りにしてくれている。


姿勢よく歩く姿を横目で見る。

ラフだけど仕立てのいい服、紳士的な態度に、いいとこのお坊ちゃんかなと予測する。

初対面の相手とは言え、見るからに庶民丸出しの私に横柄な態度を取らないあたり、しっかりとした教育のおうちなのだろう。


「もうすっかり暗くなっちゃったねぇ」

「本当にごめん、結構長く気を失っていたから」

「謝るの禁止ー。そういうつもりで言ったんじゃないよ」


貴族だったらちょっと面倒かなとも思うけど、どうせ今日一度限りのことだからまあいいかと開き直る。

私の気安い態度にアーサーは気分を害すでもなく、言葉遣いを変えても恐縮したままだ。


どうしても自分のせいにしなくては気が済まないらしい。

困った人だ。

呆れる気持ちで隣を歩く。


それよりどこの店に向かっているのだろう。

こっちの道でお金持ちが連れて行ってくれそうな店で思い浮かぶのは、ひとつしかないのだけど。


なんとなく予想しながら歩いていくと、連れていかれたのは案の定ここらで一番の高級店だった。


「この界隈で一番好きな店なんだ」


そう言ってエスコートを買って出る。


やっぱお金持ちだなこの人。

自分の観察眼に一人満足してこっそり頷いた。


今日は仕事帰りのキレイ目ワンピースなので、ドレスコード的にはギリギリオッケーだろう。

アーサーはラフとは言えこざっぱりしているし、何より場慣れした風格がある。

さっきまで私に謝り倒していた情けない表情はすっかり影を潜め、堂々たる姿勢で店へと足を踏み入れた。


「ああこれはどうもべインズ様。お久し振りです」


ニコニコと愛想の良い笑みを浮かべながら、フロント係の店員が近付いてくる。


「予約していないけど大丈夫かな」

「ええもちろんです。どうぞこちらへ」


流れるようなスムーズさで席へ案内してくれる。

夕食時だからもう満席に近い。

案内されたのは上客用の席だった。

顔パスでいい席へ通されるなんて、もうお坊ちゃん確定だ。


それからフロント係はチラリと私を見た。

なんとなくへらりと笑ってみせると、上品な笑みを返された。

明らかにアーサーより見劣りする格好だけど、値踏みする視線でもなく初めての来店ということを把握したかっただけらしく、きちんとした挨拶のあとで料理やコースの説明をきちんとしてくれた。


「ではこのコースを」


アーサーは一番お高いコース料理を躊躇いもなく注文して、ワインも一番ではないけれどなかなかのお値段の物を選んだ。


「これが一番好きなんだ」


店もワインも一番だと言う割には声は暗く、なんだか疲れたような表情で言うのが気になる。

好きなものを語る時は、もっとウキウキしていてほしいと思うのはワガママだろうか。


「飲んだことないから楽しみだわ」

「気に入ってくれるといいんだけど」


やはり陰気な雰囲気のまま、どこか自嘲を含んだように言う。

私を危険に晒してしまったことをまだ気に病んでいるのだろうか。

本当に気にしなくていいのに、と思いながら、少しでも明るい気分になってほしくて最近自分が経験した楽しいことを話すことにした。



「お待たせしました」


私の一方的なおしゃべりにようやく少し彼の表情が和らいだ頃、案内をしてくれたのとは別の店員が澄ました顔でやってきた。

手にはワインボトルを持っていて、アーサーにボトルのラベルを見せて確認をとった。


それから彼のグラスにワインを注いだ後、私の方を見てびっくりした顔になった。


「ケイト!?」

「ハァイ」


茶目っ気たっぷりに店員にウィンクをして、笑顔で手をひらひら振って見せる。


「え、なんで客席に……、え? べインズ様の連れ? は?」


店員のマイクは私とアーサーとを何度か見比べて、訳が分からないというように眉根を寄せた。


「……知り合いかい?」

「実は私、ここの従業員なの」


ペロッと白状すると、アーサーまで驚いた顔になった。

さっきからしょぼくれた顔しか見ていないから、その表情を見て少し楽しくなってくる。


私は昼の部で働いているから、夜の部のフロント業務をしているさっきの店員とは顔を合わせたことはない。

だけどマイクは昼夜兼任で、人が足りない時間に入るので仲良しなのだ。


まだ混乱した様子のマイクだったけれど、忙しい時間帯なのでこちらを気にしながらも戻っていった。


「そうだったのか……じゃあこの店じゃない方が良かったかな」


また暗い顔に戻ってアーサーの肩が落ちる。

すぐに落ち込むのはこの人の性質なのか、それとも最近嫌なことがあったせいなのか。


「とんでもない!」


どちらか私には分からなかったけれど、ひとまず全力で否定してみせる。


「ずっと客として来たかったの!」


私みたいな木っ端従業員なんてどれだけ頑張っても食べられるのは賄いだけで、その賄いはお客様にお出しするものの切れ端や傷みかけのもので作ったものばかり。

もちろん味付けはプロの料理人がしてくれるのでそれでも充分に美味しいのだけど、やっぱり素材の味を最大限に活かした本物を食べたいとずっと思っていた。


いつかお金を貯めて客としてフルコースを食べに来る野望を抱いていたと、興奮した口調で説明する。

むしろこの店に連れてこられた瞬間、歓喜の悲鳴を上げそうになるのを堪えていたくらいだ。


「だから夢を叶えてくれてありがとう!」


目をキラキラさせながら言うと、勢いに呑まれたのかアーサーがちょっと仰け反った。


「よ、喜んでもらえたなら、良かった……」

「だから貧乏人だけどテーブルマナーもバッチリだから安心して!」

「いや、そういう心配はしてなかったけど」


苦笑するアーサーは、少し暗さが薄らいだように見えた。

それを見て少しホッとする。


会話が途切れたタイミングで、不審さを隠しもしないマイクによって前菜が運ばれてきた。

もの言いたげな視線をスルーして料理に正面から向き合う。


「では早速……」


ウキウキしながらナイフとフォークを掴む。

期待に胸を膨らませながら一口目を口に入れて、目を閉じてよく味わった。


「……っ、美味っっっし……!!」


全身が震えるほどの美味しさに、じわりと涙が滲む。


なにこの美味しさ。

賄いとは比較できないほどの美味しさだ。


この美味しさを共有したくてアーサーを見ると、まだ料理に手も付けずに何故か私の顔をぽかんとした顔で見ていた。


「どうかした?」

「あ、いや」


声を掛けると我に返ったようにパチパチと瞬きを繰り返す。


「早く食べてごらん! これすごく美味しいよ!」


うちのシェフは研究熱心だから、季節ごとどころか月ごとに違う前菜を考案する。

来るのは久しぶりみたいなことを言われていたし、アーサーもこれは食べたことはないだろうと自信をもって勧められる。

期待に満ちた目で見つめていると、彼はようやく一口食べてくれた。


アーサーは一口目を飲み込んで、長いため息を漏らした。


「……ああ。本当に美味しい」


彼は大袈裟なくらいに実感を込めて言った。

それを聞いて嬉しくなる。

この店を気に入っていると言ってもらえた時も嬉しかったけど、実際にこんなふうに丁寧に味わって、心から美味しいと言っているのを見ると、一従業員としてはとても喜ばしい。

ご機嫌で残りを味わって食べる。

アーサーは食べるのが早くないようで、私よりも時間をかけてゆっくりと食べた。


合間にお喋りをしながらコースが進んで、メイン料理を提供される。

出される料理はすべて美味しくて、働き慣れた職場だというのにずっと楽園にいる気分だった。


「すごい……全部美味しい……ありがとうアーサー……こんな素晴らしいものを御馳走してくれて……」


とろけそうになりながらお礼を言うと、彼は嬉しそうな困ったような顔をした。


「……僕の、」


それから少し迷うように視線を彷徨わせたあと、ぽつりと口を開いた。


「僕の妻が、」

「妻!? あなた結婚していたの!? ごめんなさいそうとは知らず食事に誘ってしまって……!」


高級レストランに男女が二人。これでは不貞を疑われてもしょうがない。

清く正しく生きていたいのに、濡れ衣で訴えらえてはたまったものではない。


「いやすまない、妻「だった」人が、だ」


にわかに焦ってオロオロしだすと、アーサーが慌てて訂正をした。

それを聞いてホッとして、浮かしかけたお尻を再び椅子へと着地させる。


しかし人は見かけによらないものだ。

こんなに若く見えるのにもう結婚していて、その上離婚まで。

穏やかそうな見た目に反して、なかなか波乱万丈な人生を生きている人らしい。


「独身の頃、この店によく来ていたんだ。初めて妻を連れてきた時、彼女はつまらなそうな顔をしていた。実際に食べて言った言葉は「まあまあね」だったかな。それから「もっといい店あったでしょ」「なにもこんな中途半端なとこに来なくても」「お金ならいくらでもあるくせに」。そんなことばかり言って、大して美味しくもなさそうに食べていた」


思い出しながら話しているのか、時折つらそうな泣きそうな顔をしている。

聞いているだけで胸が痛むのだから、言われた当人は余程だろう。


「連れてくるたびにそんなことを言われた。彼女の口から一度も美味しいと聞いたことはない」

「こんなに美味しいのに……?」


信じられない。

どれだけ舌が肥えているのかは知らないけれど、こんな世界一美味しいとしか思えない料理に対してそんな感想なのか。


「彼女が褒めるのは王都の人気店だけ。しかも明らかに失敗作だろうと思えるものまで、べた褒めでありがたがって食べるんだ」


苦笑して肩を竦める。


「それは……」


言い淀んで口を閉じる。

そんなの、明らかにブランドや他人の評価で判断しているとしか思えない。

なるほど、元奥さんは舌が肥えているどころか、ロクに味の分からない人なのか。

だとすると、この人はずっと一番身近な家族と食事の楽しみを分かち合うことが出来なかったんだな。

そう思うと可哀想な気持ちになってくる。


「それでだんだん食事が楽しくなくなってね。この店からも足が遠のいてしまっていた」

「なんてもったいない!」


拳を握り締めて思い切り力んで言うと、アーサーが苦笑した。


「本当にね。もう何が美味しいのかもわからなくなってしまってたんだ。けど」


そこで言葉を区切って、一口食べてまた噛みしめる。


「……こんなに美味しかったんだな。君が美味しそうに幸せそうに食べるのを見て、ようやく思い出せた」


ほのかに笑みを浮かべるアーサーに、思わず見惚れてしまう。


「……あなた、絶対笑っていた方がいいわ!」

「え?」

「ね! 美味しいもの食べると幸せな気持ちになるよね! 嫌な気持ちなんか吹き飛んじゃう」

「……うん、確かに。少し元気になった」


せっかくお気に入りだった店の味を楽しめないなんて可哀想すぎる。

きっとずっとそんな気持ちだったからあんな陰気な顔をしていたのだろう。

元奥さんも罪な人だ。


「今日はもう、とことん楽しんじゃおう」


ようやく見せてくれた明るい表情に嬉しくなって、ワイングラス掲げ持つ。

意図を察して同じくグラスを持ち上げたアーサーと、気持ちを切り替えるべく乾杯をして食事を再開させた。


次から次へと運ばれてくる料理はどれもこれも本当に美味しくて、会話も楽しく弾み始めた。


「そこの店は確かに評判通りの味だった。店主自ら狩りに行っているらしい。いつも新鮮な食材が提供されるし、その時獲れたものによって料理がコロコロ変わるのが楽しいんだ」

「すごいわね。でももし狩りの途中で怪我なんかしたら、お店閉めなきゃいけなくない?」

「実際そういうこともたまにあったよ。予約していた日に臨時休業とかね。みんなそれを覚悟の上で予約してるんだ」

「ええ、そうなの? 王都の人はみんな大らかなのね」

「それが許されるくらい美味しかったのさ。誰も文句を言わず、逆に見舞いの品を持って行ったりね」

「ふふ、本当にそんなに? 気になるわ」


王都の有名店でも当たり前に食事出来るあたり、やはり上流階級の人なのだ。

けれど彼に気取ったところはなく、穏やかな話し方でいろんな話を聞けるのは楽しかった。


「ここで食べる夢はあなたが叶えてくれたから、次の夢はそこにしてみようかな」

「いいと思う。オススメだよ」

「ちなみに奥さんと行ったことは?」


きっと元奥さんは予約がキャンセルになんてなったら、思い切り文句を言うタイプだ。


もしかしたらアーサーは触れてほしくないかもしれないけれど、こういうのはいっそ笑い話にしてしまった方がいい。


「一度だけ。どうしても行きたいとねだられてね」


困ったように眉尻を下げて軽く肩を竦めてみせる。

その表情で私の質問の意図を理解してくれたのがわかった。


「ハラハラしたんじゃない?」

「本気で神に祈りを捧げたのは、あれが最初で最後だ」

「あはは!」


アーサーが大袈裟なことを言うので、声を上げて笑ってしまった。

「本気なのに」と少しいじけた口調で言うのが可愛らしく思えた。


「はあ……お腹いっぱい……一生分の美味しいものを食べた気分」


あっという間にフルコースはデザートまで辿り着いてしまった。

完全にお腹の容量を超える量だったけれど、ひとかけらも残さずに食べきって満足のため息をつく。


約束通り支払いをアーサーに任せて、先に店を出た。

夜風が火照った頬に心地いい。


「今日は楽しかった。ありがとう」


後から出てきたアーサーが、横に並ぶなりそう言った。


「私も。ご馳走様でした」


深々と頭を下げてお礼を言う。

楽しかったし美味しかったし、良いことづくめだ。


たまには死にかけてみるもんだ、なんて不謹慎なことを思う。


「お詫びなのに、普通に楽しんでしまって申し訳ない」

「だから気にしなくていいってば。命を救ってもらった上にこんなに美味しいもの食べさせてもらって、私にとっては最高の一日だったわ」

「そう言ってもらえると救われるよ」


名残惜しさを感じたけれど、握手をして別れの挨拶をする。


家まで送るというのを断って、一人帰路につく。

今日二度目の帰り道だ。

夕方に上り切れなかった階段のてっぺんに難なく到達して、意味もなく振り返る。

道を行く人はもう少なく、街灯の火がチラチラと頼りなく瞬いた。


もう会えないのか。


少しの寂しさを覚えつつ、自宅に帰りつく。

身体を清め、寝支度を整えベッドに潜り込んだ。


落ち込むことがあったと言っていたのは、奥さんとの離婚問題なのだろうか。

エピソードを聞く限りあまり仲の良さそうな夫婦ではなかったようだけど、それでも離婚となるとヘコむのかな。

きつい性格の奥さんでも愛していたのだろうか。


そう考えたあたりで胸が少し痛んだ。

原因は思い当たったけれど、すぐに忘れる痛みだと小さく笑った。


「こんな惚れっぽい女だったかな?」


自嘲気味に呟いた独り言は、すぐに虚しく掻き消えた。

両親が事故で亡くなって一人で生きていくことになって以来、意識して恋愛沙汰から遠ざかっていたのに、無様なことだ。

あんなに食べたかった料理のことより、初めて会った男のことばかり考えているなんて。


いつもと毛色の違う上等な人間に物珍しさを感じただけ。

普段からああいう店を利用する男と、従業員として賄いにありつくしか出来ない女。

そもそもが違いすぎるのだから、先を望むことすら馬鹿らしい。


だいたい、あの店で働き始めてから何年も経つが一度も彼を見たことはない。

たぶん、夜の部しか来ないのだろう。


だからきっと、もう会うことはない。


そう言い聞かせて、頭から毛布をかぶって目を閉じた。



◇◇◇


あの日のことは意識的に考えないようにしていた。

早く忘れてしまおうと、勤労に精を出して二週間が過ぎた日のことだった。


カランと入口のベルが鳴る。


「いらっしゃい、」


テーブルを拭いていた手を止め、習慣で口にした定型句が途中で止まる。


「……ませ」

「…………こんにちは」


ぽかんとした顔で残りを付け足すと、アーサーが気恥ずかしそうに目を伏せながら言った。

時計を見れば、ランチの終了時間ギリギリだ。


前とは違って、きちんとした髪型にきちんとした服装をしている。


どう見ても貴族だ。

街の金持ちのレベルではない。


「仕事の用でこっちに来たから、寄ってみようと思って」

「え、あ、そう、なんだ……?」


まさかこんな早くに再会するとは思わず、挙動不審になってしまう。

それから今は店員とお客さんの立場だということに気付いて、慌てて居住まいを正した。


「あ、ど、どうぞあちらのお席へ」


なんとかぎこちなく言って、席に案内する。


嬉しい気持ちを押し隠し、その後も店員として対応するように努めた。

もちろん敬語だし、必要以上に親し気な態度をしないように気を付けた。


「ずいぶんよそよそしくなってしまったな」


メニューを復唱し終わった瞬間、悲しそうに言われて胸が痛む。

たぶん私はそのしょぼくれ顔に弱い。


「お客様ですので」


それでも高級店の自負のある店で、お客様に馴れ馴れしく話しかけるわけにはいかない。

それにこれ以上関わったら馬鹿を見るのは自分だ。

自分の生活で手一杯なのだ、貴族の道楽に付き合ってあげる筋合いはない。


すっかり自分のペースを取り戻し毅然とした態度で接客するも、アーサーは私と話したそうな様子で他の人の接客をする私にチラチラと視線を注いでいた。

その表情がなんとも哀切漂う雰囲気で、だんだんと笑いがこみ上げてきた。


迷子の仔犬みたいな顔になっていくのに耐え切れず、近付いてコソッと耳打ちをする。


「……あと三十分で休憩なので、公園でデザートでもいかがですか」


言った瞬間パッと顔を上げ、嬉しそうにするのを見て私は完全な敗北を悟った。


友人として。

そう、友人として仲良くなろう。

それくらいなら許されるかもしれない。


そう自分に言い聞かせるしか活路は見いだせなかった。



休憩時間になって、先に店を出たアーサーの元に急ごうと従業員出入り口から出ると、そこに彼がいた。


「やあ」


少し申し訳なさそうな顔で手を上げる。

待っている間にまたネガティブ思考に陥って、無理やり強要してしまったとか自分を責めているのだろうか。


「お待たせ! いこっか」


気付かないフリで前のように気安い口調で言うと、途端に嬉しそうな表情になる。


そんなのずるい。

せっかく気持ちを切り替えていこうと決めたばかりなのに。


「ああ。貴重な時間を僕のためにありがとう」

「いいの、気にしないで」


ぎこちなく答えて歩き出す。

不意打ちで見せられた素直な表情に、胸が高鳴るのを止められなかった。


「ねえ、あっちの公園行ったことある? あんま人来ないのに景色良くて穴場なんだ」

「公園があることすら知らなかった。ケイトはこの辺に住んで長いのかい?」

「生まれてからずっとよ。庭みたいなものかな」


歩きながら冗談めかして言うと、アーサーは感心したように目を丸くした。


アーサーは私の話をなんでも興味深そうに聞いてくれるし、よく笑う。

物腰は上品なのにお高く止まったところがなく、なんだか不思議な人だった。


公園の売店や子供向けの遊具を物珍しそうに観察して、気になったことはどんどん聞いてくる。

庶民の感覚とはどこかズレた質問がおかしくて、律儀に答えていくと彼はそのたびに嬉しそうに礼を言った。


ああもう。貴族の道楽に付き合えばいいんでしょ。


少し投げやりな気持ちで開き直って、どうせだからこの時間を楽しむことにした。


「これ! このアイス! 美味しいんだよ!」


たまにしかお目に掛かれないアイスの販売を見つけて、満面の笑みでアーサーに言う。

彼は何故かアイスではなく私の顔を見て眩しそうに目を細めて、それからようやくアイスに視線を移した。


「そうなんだ。じゃあ、ふたつ買うから一緒に食べよう」

「馬鹿ね、私があなたに買ってあげるのよ。この前のお礼」

「え、でもこの間のはお詫びの気持ちで、」

「おじさんふたつちょうだい。そこで食べるからそのままでいいわ」

「あいよ」


隣で何かゴネているアーサーを無視して、さっさと購入する。

それからベンチを目指して歩き始めると、アーサーが困ったような顔でついてきた。


その情けない顔に笑いそうになる。


「ほら、いつまでもしょげてないで食べようよ」


ベンチに並んで座り、アイスの入ったカップを差し出して言うと、アーサーが少しいじけた様子で受け取った。


「……お詫びのお礼なんて変だ」

「声が小さくて聞こえないわ。いただきまーす」


抗議をスルーしてさっそくアイスにスプーンを入れる。


「んん、美味しぃ~~!!」


ここは高級レストランではないので、遠慮なく足をジタバタして悶える。

仕事で疲れた体に染みる美味しさだ。

それに、前に食べた時よりもさらに美味しく感じる。


「ホラ、すごく美味しいよ! 早く食べてみて!」


感動を伝えたくてアーサーを見ると、彼はこっち見てニコニコと笑っていた。

目が合うとさらにニコッと笑みを深くする。

つられて笑うと、なんだかほのぼのした空気が流れてほんわかした気持ちになった。


それからようやくアーサーは一口目を口にして、嬉しそうに笑み崩れた。


「美味しいでしょう?」

「うん。本当に」


もちろん、アーサーが食べ慣れている王都の一流レストランに比べれば大したことないものだろう。

だけどなんてことない売店のなんてことないカップアイスでも、アーサーが隣にいるだけで私にとっては高級店のデザートのようだ。


やっぱり好きだなぁと改めて思う。

アイスを食べながら、とりとめのない話をしているだけで胸が幸福で満たされていくのだ。

こんな感覚は初めてだった。



「ところで、お仕事こんなに長く休憩してて大丈夫なの?」


アイスを食べ終えたあとも、のんびりした時間を過ごしてしまった。

気になって聞くと、微笑みで黙殺された。


「……あんまり大丈夫じゃないのね?」


わかりやすい人だ。

というかさっきから少し離れたところで、こっちをずっと見てる人がいる。

怪しい感じではないので、たぶん彼の護衛とか従者とかそんな感じの人なのだろう。


「よし、戻ろう」

「えっ、でももう少し」

「ほらほら、お付きの人を困らせちゃダメでしょ」


渋るアーサーを立たせて、見張りの人の方に向かって押し出す。


「また来てもいいだろうか」


諦めたのか自分でそっちに向かって歩きながらも、振り返り心配そうに聞いてくる。


「もちろんですお客様」


変に期待しないように、従業員の態度で言うとまた悲しそうな顔になる。

胸が痛むけれど仕方ない。

彼は私の手の届かない人であって、必要以上に仲良くなってはいけないのだ。


「うん、じゃあ、また」


アーサーは眉尻を下げたまま、それでも笑顔でそう言って帰って行った。



◇◇◇



それからアーサーはたまにランチタイムに来店するようになった。

月に二、三度はこの街に仕事で足を運ぶらしい。

そのたび休憩時間に公園でデザートを食べながら少し話をした。


この気まぐれがいつ終わるのかわからないけど、それまでは楽しんでもいいだろうか。

数年後にふと「変な貴族を好きだったこともあったなぁ」なんて思い出して笑えるように。


そんな軽い考えで彼とのデートを楽しんだ。


半年が経つ頃、仕事の後に夕食に誘われて頷いた。

出会ってすぐの頃なら断っていたかもしれないけれど、もう簡単には割り切れないくらいに好きになっていたから。


連れて行ってくれた店は、勤め先とは別のところだった。

少し離れた場所にあったけれど、馬車で送ってくれるというので甘えることにした。


また奢られるのは心苦しいけど、さすがに払える額ではないので申し訳なく思いつつ素直に奢られる。

夜に会うのは初対面の時以来だ。

料理は美味しくて、私が喜ぶたびにアーサーが嬉しそうに笑う。

やっぱり彼と話すのは楽しくて、ずっとこのままの時間が続けばいいのにと贅沢なことを思った。



「――ちなみに、奥さんとの結婚のきっかけは?」


話の流れでなんとなく口にする。

正直、たまに話題に出る元奥さんはいけ好かない感じの人で、結婚の理由が気になっていたのだ。


私の質問に、アーサーは困ったような微笑みを浮かべた。


「あっ、もちろん言いたくなかったら別に、」

「……妻とは家同士の取り決めでね」

「あ、そっか、貴族だとそういうこともあるよね」


遠い世界の話だから忘れがちだけど、貴族は政略結婚というのが普通にある。

恋愛結婚ももちろんあるけれど、家柄や血統を守るために親同士が決めた相手と、交際期間もなく結婚することがままあるらしい。


「いい夫であろうと頑張ったけど、彼女は僕が嫌いだったみたいだ」


辛そうに眉根を寄せて言う。

会ったことはないけれど、元奥さんのように気の強そうな女性なら、アーサーのような優し気な男性は頼りなく見えてしまうのかもしれない。


「それでも縁あって夫婦になったのだからと、大事にしていたつもりだった。けど、」


そこまで言って口を閉ざす。

続きを言おうか迷っている感じだ。


「……けど、彼女には結婚前から関係を続けている男性がいた」

「なにそれひどい!」


反射的に言ってしまったのは、それだけ彼が悲しそうな顔をしていたからだ。

私の抗議の言葉に彼は苦笑する


「いいんだ」

「でも、」

「彼女が冷たいのは当然のことだった。別に愛している人がいたんだから」


重いため息をついて、彼は自嘲気味に笑う。

アーサーは諦めた様子だけど私は納得できなかった。

すでに終わった話だろうと、好きな人がそんな風に扱われていたなんて腹が立つ。

政略結婚にどれだけの強制力があるかは知らないが、結婚を決めたのなら過去の関係は清算するべきだ。

関係を継続したいのなら、家同士の繋がりは諦めて結婚を断るべきだ。

それなのにその女はそのどちらも選ばず、美味しいところだけを持って行こうとしたのだ。


「それで陰で彼と一緒に僕のことを嘲笑っていたんだ。鈍くて冴えない男だと」


自嘲するように言うアーサーに胸が痛む。


鈍いんじゃない。妻を信じていただけだ。

冴えないんじゃない。優しいだけだ。


自分とは全然関わりのない人たちの言葉なのに、我がことのように怒りが湧いてくる。


「許せない……」

「うん。僕も許せなかった。どうしても」


そう言ってどこかが痛いみたいに顔を歪めた。


「……それで、最低なことをしてしまった」

「最低な、こと?」

「初めて会った日に言っただろう。嫌なことがあったと。落ち込んでいたと」

「うん……それ、ずっと気になってた」


神妙な顔で頷きながら、鼓動が速くなっていく。


会ったばかりの頃に比べれば、アーサーは随分と明るい表情をするようになった。

自罰的な傾向が減って、穏やかで優しく、常に温かな微笑みを湛えて。

それが彼の本来の性格なのだろう。


そんな人が長く影を引きずるほどのことがあった。

一体どんなことが。

知りたくて聞けなかったことだ。それを今話してくれるのかと思うと、なんだか落ち着かない気持ちになった。


「自分のしたことを嫌悪していたんだ。怒りに任せて、彼女にひどいことを」


激しく後悔している口調と表情だ。

もしかして暴力を振るってしまったのだろうか。

だとしたら確かにしてはいけないことだけど、それくらいのことをしてしまいたくなる気持ちは良く分かる。


「何を、したの」


ごくりと息を呑んで尋ねる。

たとえボコボコにしてしまったのだとしても、彼を責める気はない。

むしろずっと自分を責め続けているであろう彼の心を、少しでも軽くしてあげたかった。


彼は痛みを堪えるような表情をしたあとで、私に縋るような視線を向けた。

食事の手を止め静かにアーサーの言葉を待つ。

彼は眉根を寄せて、私の視線から逃れるように俯いた。

それから言うか言うまいか散々逡巡して、ようやく口を開いた。


「……不貞の、証拠をしっかり押さえて、彼女の両親に報告した。慰謝料も請求したし、彼女のしたことは社交界に知れ渡ることになった」


彼はそこで辛そうに言葉を途切れさせた。

これからが本番なのだろう。私は覚悟を決めて続く言葉を待つ。


だけど彼はいつまでも口を閉ざしたままだった。


「…………それから?」

「え……? あ、それで彼女は勘当されて、路頭に迷うことに……」

「うん、続けて」


またもそこで終わりそうになるから、続きを促す。

余程言いづらいことがあるのだろう。

大丈夫、この半年で育んだ友情は、簡単には壊れない。

安心させるように頷いて見せる。

けれど彼は戸惑ったような表情を浮かべた。


「あと、ええと彼女の実家も実はその男の存在を最初から知っていたということが判明して、すっかり立場が悪くなったり……」

「うんうん、それからそれから?」

「えーっと……怒りで「そのまま身を滅ぼせばいい」なんて酷いことを思った」

「うん」


さらに続きを待つと、アーサーは困ったように目を泳がせた。


「……それで、終わり」


彼が気まずげに口を閉ざして、沈黙が流れる。


私は少し頭を抱えて、それから猛然と反論を開始した。


「全っっっ然! 普通だから!!」

「え?」


強く言い切ると、アーサーが困惑したように顔を顰めた。


「いい!? 不倫されて証拠突き付けて別れるのも普通! 相手の親に言うのも普通! 慰謝料請求は当然の権利! 社交界に知れ渡るのは自然な流れ!」


アーサーが私の怒りを目の当たりにして怯えるように身を引いたが、言葉は止まらなかった。


何に対して腹が立っているのか。

もちろん元妻とその間男。それから元妻の両親。

だけど、して当然のことを後悔して、いつまでもそんな女のことを引き摺って嫌な気持ちを抱え込んでしまっている彼自身にも腹が立っていた。


「勘当されて路頭に迷うのは自業自得! 容認してた親ごと爪弾きに遭うのは因果応報! あなたは何一つひどいことなんてしてない!」


勢いに任せて言い切って、弾む息を抑えるために深呼吸する。

それから呆気にとられたようにぽかんと口を開けたアーサーに、真面目な顔で続ける。


「……あなたがされてきたことを思えば、もっとひどいことをしたって許されるはずなのに。して当然のことしかしていないのに心を痛めているのはあなたが優しいからだわ」


ずっと裏切られていたのに。

楽しい食事すら奪われて、何一つ与えてもらえなかったのに。


「あなたはちゃんと幸せを感じられる人なんだから、そんなのさっさと忘れて幸せにならなきゃ」


少し泣きそうになりながら訴えかける。


「自分を責める理由なんて何一つない。あなたはすべきことをした。だから胸を張って」


こんなに優しくて誠実な人が悲しい思いをし続けていいわけがない。

しょんぼりした顔が好きだと言ったって、幸せな顔をしている方がもっとずっと好きなのだから。


「……ありがとう」


困惑しつつも毒気の抜けたような顔で、ぽつりと言う。


「ちょっと混乱してる、けど、ケイトがそう言うなら、少し考えを改めてみようと思う」

「是非そうして」


彼が前向きになれるきっかけを作れたなら幸いだ。

ちょっとハッスルしすぎたのか、ドッと疲れが出て背凭れに体重を預ける。


「ふぅ。怒ったらお腹が空いちゃった……」

「お待たせいたしました」


言うのと同時にちょうどデザートが運ばれてきて、高級店の中だったことに気付いて焦る。


「すみません、うるさくしてしまって」

「いいえ、お気になさらずに」


嫌な顔をされると思ったのに、逆にものすごくいい笑顔を向けられ困惑する。

アーサーが馴染みの店だと言っていたから、もしかしたらこの人もアーサーの味方で、彼も元妻の仕打ちに腹を立てていたのかもしれないとなんとなく思う。


「当店のパティシエが腕によりをかけて作りました」


微笑みながら言われて、目の前に置かれたデザートに視線が吸い寄せられる。


「美味しそう……」


うっとり呟いて、口許が緩んだ。

さっきまで充満していた怒りが胸からスッと消えていく。

我ながら単純だと思う。アーサーもこれくらい単純でいいと思うのに。


「さあ、食べよ食べよ」


アーサーに視線を移して笑顔のまま言うと、彼の顔にも眩し気な笑みが浮かんでいた。


「うん、食べようか」


言ってフォークを持つ。

ウキウキしながら一口目をいただくと、元奥さんたちに向かっていた負の感情が一瞬で霧散した。


「ん~~!」


悶えたくなるほどの美味しさにジタバタしたくなるけれど、グッと堪える。

ここはいつもの公園のベンチではないのだ。


「……ケイトは本当に美味しそうに食べるよね」

「うん、だって美味しいもの」


上機嫌で答える。

次から次へと口に押し込みたくなるけれど、すぐに無くなってしまうのも惜しい。

葛藤しながらゆっくりと食べるのを、アーサーが微笑まし気に見守っている。

子供扱いされているようで少し恥ずかしかったけれど、デザートが終われば彼との時間も終わってしまうと思うと、殊更ペースは緩やかになっていく。


アーサーがデザートを食べながら幸せそうに微笑む。

初対面の時とは比べ物にならないくらいに穏やかな表情だ。

私が猛抗議したせいか、少し吹っ切れたようにも見える。


もし彼の後悔や罪悪感が消えたら、この逢瀬はなくなってしまうのだろうか。

気を紛らわせるために私のもとに来ていたのだとしたら、その役割はもうすぐ終わってしまうのかもしれない。


私は余計なことを言ってしまったのかもしれない。


わずかに後悔の気持ちが生まれたけれど、アーサーの幸せを思うならこれで良かったのだと自分に言い聞かせた。



◇◇◇



プロポーズをされたのはその一ヵ月後だった。

いつもの休憩時間に、いつもの公園のベンチでクレープを食べていた時のこと。


寝耳に水とはまさにこのことで、言われた瞬間私の頭は思考を停止してしまった。


「ケイト……?」

「はっ」


心配するように覗き込まれてやっと我に返る。


「え、ごめん、今なんて?」


おそるおそる聞き返すと、アーサーは恥じらうように目を伏せたあとでもう一度真っ直ぐに私を見た。


「だから、僕と結婚して欲しい、と。そう言った」


誤魔化しも逃げもなく、ストレートに言われてまた思考が停止しかける。

彼の目元は赤く染まっていたけれど、決意に満ちた目をしていた。


何がどうなってそうなったかはわからないけれど、嘘でも冗談でもない。

それだけは分かった。


「わ、わたし、血筋も家柄も何も持ってない、けど」


訳が分からなくて、なんとかそれだけを返す。

一度は政略結婚をしたような家だ。庶民の、しかも両親を亡くして何年も経つような人間が妻になんてなれる訳がない。


「それは関係ないよ。今は君が僕をどう思ってるかだけ。それだけ教えてほしい」

「どう、なんて、そんなの」


戸惑いながら、それでも想いを口にする。

答えなんて一つしかなかったから。


「好きだし、結婚したい。出来るもの、なら」


正直に言うと、アーサーがホッとしたように微笑んで、よかったと小さく呟いた。

どうせ叶わないからと好意を駄々漏れにしていたから、私の気持ちなんてとっくにバレていただろう。


「で、でも、無理だよ。だって、そうでしょう?」


プロポーズされた喜びより困惑が大きい。

どう考えたって認めてもらえるとは思えない。

それなのに、アーサーは私の答えを聞いてただ幸せそうだ。


「……ずっと考えてたんだ。ケイトが言ってくれた言葉を。僕のしたことは間違いじゃなくて、しても許されることで、だとしたら自分はどうしたいのかって」

「……それで?」

「元妻達にした仕打ちを後ろ暗く思う必要はなくて、もし幸せになる資格があるならって考えた。そしたらケイトと幸せになりたいって、そう思った」


戸惑いはもちろんまだまだ大きい。

けれどアーサーの言葉に、表情に、じわじわと歓喜が満ちていく。

彼にとって、私はただの毛色の変わった友人ではなかったのだ。


「最初は元妻から離れたから食事を美味しく思えるようになったと思った。だけど違ったんだ。ケイトと一緒だから美味しいんだって。ケイトがいるから食事が楽しいんだって、他の人と食事をするたびに思い知った」


頬が熱を持ち始める。

そんなふうに思ってもらえていたなんて。


「食事だけじゃない。一緒にいるだけで幸せで、自己嫌悪でいっぱいだった時も、ケイトといる間だけは元妻たちのことを忘れていられた」


愛おしむような目で見つめられて、心臓がドキドキとうるさくなっていく。


「……わたし、も」


迷いながらも、伝えるべきだと口を開く。

だってアーサーがこんなにも正直に気持ちを伝えてくれているのだから。


「今までは美味しいものを食べてる時だけが幸せだった。けど、アーサーと会ってからは一緒にいる間ずっと幸せだった。ううん、一人の時も。あなたのことを考えているだけで幸せだった」


掛け値のない本心を吐露する。

結ばれる運命にないと諦めていた。だけどそんなこととは無関係に、彼のことを想うだけで胸が温かくなるのだ。

だからこんな風に想ってもらえていたのを知って、嬉しくないはずがなかった。


「私、あなたを幸せにするって約束する」


決意を言葉にすると、さっきまでの戸惑いが晴れていく。

無謀なことを言っているのは解っている。

きっと茨の道だ。

どれだけ努力したって無駄かもしれない。

だけど。


「ご両親に強く反対されると思う。だけど、許してもらえるまで何度だって言葉を尽くすわ」


胸の中に闘志が湧き上がる。

始めからダメかもしれないと分かっていても、それでも闘わない理由にはならない。

アーサーが同じように私を想ってくれているのだ。こんなに心強いことはない。

彼とならきっとどんな苦難だって乗り越えていける。

そんな気がした。


「だから、さっきの言葉をもう一度だけ言ってくれる?」


強い意志を込めてアーサーを見つめる。

彼の瞳は潤んでいた。私の目にも、たぶん同じくらい涙が滲んでいる。


「……君を、心から愛してる。ケイト。だからどうか、僕と結婚してほしい」


一音一音を噛みしめるように発音する。

それは私にだけでなく、自分にも言い聞かせているように聞こえた。

彼にもいろんな葛藤や決意があって、それでも私がいいと思ってくれたのだろう。


ならそれに応えなくちゃ。


「ええ、喜んで。私も、誰よりもあなたを愛してる」


言ってアーサーを抱きしめる。

遠慮がちに抱き返す腕の力は、少しずつ力強いものへと変わっていった。


「……実は両親にはもう伝えてあるんだ。君が好きだと」

「え!?」

「もちろん君に断られることも考えていた。僕が一方的に好きなだけだって。父も母も困った顔をしていた」

「そりゃそうでしょうね……勇気あるわ」


アーサーの行動力と思い切りの良さに、なかば呆れつつも感心してしまう。


「けど、自分たちが選んだ相手が大失敗だった負い目もあるみたいで、頭ごなしに反対することはなかった」

「そう、なの?」


信じられない思いで抱擁を解いて、彼の表情を確かめる。


「うん。だから希望はある。それに、絶対に守ると誓う。絶対にだ」

「……そんな、一人で死にに行くみたいな悲愴な顔しないで」


決死の覚悟に強張る頬に、そっと触れて苦笑する。


「一緒に闘うの。私、負けないから」


言って不敵に笑う。

アーサーはハッとした顔をして、それからようやく硬い表情を緩めた。


「一人で抱え込まないで頼ってよ。夫婦になるんでしょ?」

「そうだね……ホントそうだ。一人で考えたってロクなことにならないって思い知ったばかりなのに」


アーサーが情けない顔で笑う。

私はその顔にときめくばかりだ。


「とりあえず、ご飯でも食べに行こうか。それから考えようよ」

「ああそうしよう。美味しいものとケイトがいれば、怖いものなんて何もないから」


笑みを交わし合って、今夜の食事の約束をする。

それからお互いの仕事に戻って、精一杯に働いた。


不安や心配事はいくらでもあったけれど、アーサーが隣にいてくれる。


それだけで私の胸は、勇気で満たされるのだった。

最後までお付き合いくださりありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


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[良い点] 幸せな気持ちと恋ごころが丁寧に書かれていて、続きが読みたくなりました。
[良い点] 王道ハッピーエンド。 [気になる点] このつづきが、気になります。
[良い点]  ケイトが可愛くて好きな物語です。 [一言]  初めまして、本羽香那と申します。  今回、この物語が素敵だったためレビューさせていただきました。  もし、気に触る点がありましたら削除をお願…
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