1 ラブチャンス到来?! #マリー
夕日が山の向こうに消え、もうすぐ夜の帳が降りようかという時間帯。
峠道を歩くケントとマリーの前に、木の立て札が現れた。
目的地であるビジル市は山を下りた盆地にあり、まだ一日以上の距離がある。
「星の谷……?」
こんな山中に一体何が、と訝しんだマリーは、札の文字を読んだ。
札のさす方向には、峠道から分岐した、細い道が伸びている。
「宿があるみたいだな。行ってみるか」
ケントが言った。
「えっ、別に街じゃないし、野宿でいいんじゃない?」
マリーは反対した。
油断しているとケントが宿代を払ってしまうので、気楽に宿に行こうとは言えなかった。
「女性がいて、すぐそばに宿があるのに野宿は不自然だと思う」
ケントはそんな見解を示した。
「えぇ…? そういうもの…?」
「うん」
流民で、一般常識にいまいち自信のないマリーは、そこで反論を引っ込めた。
姐からもらった資金があるし、自分の部屋代は自分で払おうと思った。
*
宿につくと、ケントはいつものように、二部屋を要求した。
「二部屋…でございますか?」
病人のような青白い顔に、頬の痩けた宿の主人は、驚いたように聞き返してきた。
しかし、客へのおもてなし精神が高い宿らしく、あれこれ詮索したり、ジロジロと値踏みするような視線を向けてくることはなかった。
「あいにくと本日の空きは一部屋なのです。新月を明日に控えた、星の美しい夜でございますから」
丁寧な言葉で、現状を伝えてくれる。
そんな宿の主人には申し訳ないが、空きが一部屋なら、宿泊は無理だろう。
ケントの斜め後ろに立っていたマリーは、そう思い、ケントの服を引こうと手を伸ばした。
ところが。
「分かった。じゃあ、一部屋で」
マリーの手が触れるよりも早く、ケントは了承の言葉を口にした。
(へっ!? ひ、一部屋に二人で泊まるの!?)
瞬間的に、マリーはボッと赤面した。
(そ、そ、それって、それって……○△□×?!?)
実は前の街を出てから、ケントはマリーにそっけなかった。
けれども時折視線を感じ、こっそり様子をうかがうと……。
(これまでもたまに、あれって思うことあったけど、きょ、今日のはハッキリ感じたっていうか、あからさまにそーゆー目だったっていうか……)
ケントから女性として求められている。
マリーはドキドキが止まらなくなった。
そっけない態度から、彼に一線を越える気がないことはハッキリしていたけれど。
それでも。
間違いなくココは、姐イライザなら攻め時と言う局面だ。
宿の看板に興味を示してしまったのだって、宿泊にあっさり同意したのだって……下心のせいだ。自分から積極的に誘いかけることは無理でも、少しでも可能性を上げたいと。
…我ながら浅ましいと思ったし、でも、だからこそ、こんな自分にそんな理想の展開が来るとは考えていなかった。
端的に言うと、期待していたくせに、覚悟がまるで出来ていなかった。
(これって、つまり、ケントに誘われたんだよね?? ど、どうしようっ、あたし、どう振る舞えばいいのっ? …あっ、ちがう、ケントはそういうつもりなんだから、な、流される感じでいいんだよねっ)
ケントに嫌われない振る舞いができるかなとか、どんな体験になるのだろうとか、不安や緊張や期待で頭の中はプチパニックだ。
宿の主人とやり取りを交わすケントの後ろで、うつむいたマリーは、顔も体も熱く沸騰させすぎて、壊れた機械みたいにプシューと脳天から湯気を立ち昇らせた。
*
ひとまず夕食をと、宿の食堂に案内されたところで、のぼせあがっていたマリーは異変に気付いた。
他の客の服装がみな、上等だったのだ。
明らかに、一般旅客のマリーたちは浮いている。
席に座ったあと、マリーは小声でケントに話しかけた。
「ねえ、ここって、あたしたちが泊まるような宿じゃなかったんじゃない?」
「宿の主人が俺たちを通したんだから、問題ない」
マリーの投げた疑問に対し、ケントはこともなげに答えた。
おそらく、マリーが何を心配しているのか、分かっていない。
「そ…そうじゃなくて、料金が高いんじゃないのかな……?」
仕方なくマリーは、自分の危惧をストレートに伝えた。お金がないわけではないが、高級宿に泊まる贅沢は受け入れにくかった。
しかし。
「前払いで払える金額だったけど」
ケントは何でもないように、あっさりと答えた。
「払った? え、いつ?」
「さっき。一部屋押さえたときに」
一緒にその場にいたのに見てなかったの? という顔をされ、マリーは顔を赤くした。
(一部屋に動揺しすぎて見てなかったなんて言えない……!)
結局、マリーはそれ以上ケチをつけられなくなり、話題を変えることにした。
「そういえば、宿の主人が星が綺麗だって言ってたけど、ここは星を見に来る人のための宿ってことよね」
「…うん、たぶん」
「あれ? でも、星を見るのに宿って…?」
「…ビジル市のカジノで当てた奴が来るんだろう」
「そっか。ビジル市がもう近いもんね!」
素直に納得したあと、食堂に集う客たちが例外なく男女カップルであることに気付いたマリーは、また赤くなった。
つまり、星を口実にした『そういう』目的の宿なのだ。
(まさかとは思うけど、ケント、知っててここに来ようと言ったとか…)
「あ、俺は外で寝るから」
「えっ?」
当然、自分も『そういう』流れに乗っていると思っていたマリーは、全身の血がさあっと引いていく音を聞いた。




