1 宿と餌付け? #マリー
遠くで子どもの笑う声がする。
マリーは、宿のベッドの上で目を覚ました。
体を起こし、のびをする。
「よく寝た…」
こんなによく寝たのは、いつ以来だろう。
おたずね者だったから、ゆっくり眠るなんて年単位で無縁だった。
…ケントに押し売りされた贅沢だが。
現状を思い出したマリーは、キュッと唇をかみしめた。
昨日の夕方、二人は小さな村についた。
そこでケントが宿に泊まろうと言い出し、マリーは反対した。少なくとも自分はお金がないから、野宿でいいと。
しかし、同行する女性を一人で野宿させるなんてできないし、町や村にいて宿を使わないのは、みずからおたずね者と白状するようなものだとケントに押し切られた。
そして、ケントはしれっと、宿の主人に旅の兄妹だと申告し、部屋を二部屋要求した。
(だれが信じるんだ、そんな嘘!)
と、マリーは叫びそうになった。
宿の主人も、当然、嘘と見抜いた。
ところが、宿の主人の次の対応は、マリーにとって心外なものだった。
心得ましたとばかりに、そのあからさまな嘘をスルーしたのだ。
二人が、ありがちなワケあり旅人に認定された瞬間だった。マリーはどこぞの金持ちに売られていく商品、ケントは運び屋、というような。
宿の主人の、値踏みするような視線に、マリーはさらされた。こんな貧相な小娘を買うモノ好きがいるのかと思われたにちがいない。
それよりも何よりも悔しかったのは。
部屋の案内がすみ、宿の主人がいなくなったところで、ケントがマリーに向けてきたドヤ顔だ。
どうだ、うまくいっただろう、という。
(ああ、腹立つ! なんなんだい、あいつは。会話がかみ合わないと思ったら突然キザなことを言い出したりして、いまいち人間性はつかめないし、魔女マリーをぜんぜん怖がらないし!)
マリーは、ケントに対する文句を胸中でわめきたてた。
それから、ふと窓の外を見て、すでに太陽が昇っていることに気付いた。
「やばっ…」
宿のベッドが気に入ったか、などと得意げに言われたくない。
(…そんな嫌味を言うタイプなのかも分からないけど)
マリーは急いで身じたくを整えると、まず隣のケントの部屋まで行ってみた。
彼がまだ寝ていたらセーフだ。
トン、トン。
最初、ひかえめにドアをノックしてみた。
返事はない。
トン、トン、トン。
次はいくぶんか強めにノックした。
返って来るのは静寂ばかり。
「い…いないのかなあ? 開けるよ?」
念のため、ドアを開けてみたが、部屋は無人だった。
マリーはがっくりとうなだれた。
(うう…あんなに宿を拒否しておきながら爆睡するとか、どんな顔して会えば……。いや、こんなに寝ちまったのは、昨夜、腹いっぱい食べたせいだよ)
宿代に夕食代がふくまれていたのだ。
食べても食べなくても料金が同じなら、食べないのはもったいないではないか。
久しぶりのマトモな食事に全身で歓喜したとか、満腹の幸福感に酔いしれたとか、そんなことは断じてなくて!
ご飯や宿につられて、現状を受け入れるつもりもサラサラなくて!
そう。宿代など返せるアテのない借りがなしくずし的に増えていくのは、本当に恐ろしいことで。
(そ…そうだよ! なに言いくるめられてんのさ。宿に泊まるとかナシだよ、ナシ! 次は絶対に断らないと!)
ケントと戦わなければ。
かたく心に決意し、マリーは宿二階の客室を出て、一階に降り立った。
すぐに宿の女将がマリーに気付いて声をかけてきた。
「あら、お客さん。お兄さんなら用があるって、出かけられましたよ」
「あ、ああ、そうなんですか、出かけて……えっ? 出かけた?」
マリーの戦闘モードは、勢いよく空振りした。
(出かけた? 出かけたってなに? 離れられない魔法を望んだくせに放置とか、それ…ありなのかい?)
体内感覚に意識を向けると、強い魔法の引力を感じた。
どうやら拘束の魔法の作用で、ケントとの距離によって引力の強さが変わり、今、彼はかなり離れているらしい。
「大丈夫ですよ。朝食のお代はいただいてますから」
女将は、マリーの心配を察して、にこにこと言った。
その愛想の良さは、マリーに嫌な疑惑をいだかせた。まさかとは思うが、ケントは必要以上にお金を払っているのではないだろうか。
「さ、食堂へどうぞ」
「ありがとう」
どこまでも丁寧な女将の姿勢は、上客に対するものだ。
しかたなく、マリーも微笑みを浮かべて女将に答えた。
今さらマリーが朝食を辞退しても、払ったお金は戻ってこない。
マリーに残された選択肢は、その高額な朝食を食べるという一択のみ。
*
朝食は、パンがふたつと、それにスープがついていた。
パンを一口食べれば身体の中から力がわき、ほんのり塩味の効いたスープを飲めば、身体の深層から癒されるような気がした。
あっというまにスープとパンひとつを食べたマリーは、ふたつめのパンに手を伸ばした。
そのとき。
強い引力に身体をすくわれ、マリーはガタッと椅子から立ち上がった。
ケントがマリーから離れすぎたのだ。
腹立たしいことに、ケントが主の魔法だから、距離が離れ過ぎたときに引っ張られるのはマリーの方。
「どうかされましたか?」
「え…いや、その………ちょ、ちょっと用事を思い出して! ごちそうさまっ!」
不思議そうな顔をした女将に苦しい言い訳をして、マリーは宿を飛び出した。
「ケントのバカ野郎~! あたしのパン~!」