7 レモン・ドロップ #マリー
『ケント、逃げて!』
彼が作った水の壁の中でそう叫んだのに。
ケントは地面に置いた魔法の札を手で押さえたまま、炎使いの魔法使いを見返した。
その、覚悟を決めた目にゾッとした。
水の壁は物理的な力も兼ね備えた壁となっていて、マリーがその中から出ることも阻む。
──マタ ウシナウノ?
恐怖。
絶望。
──ドウシテ?
魔女マリーだから?
ううん、ちがう。
だって、もう魔女じゃない。
ダグラスに見つかったわけでもない。
──拘束ノ魔法?
これがあるから?
この魔法のせいで、あなたはそこを動けないの?
(あたしを、独りから救ってくれた魔法)
だけど。
(あなたを失うくらいなら、こんな魔法いらない………!)
「逃げてえぇぇぇぇぇっ!」
*
(レモンの香り)
「マリー」
懐かしい声にマリーはハッとした。
セシリア・レイン──マリーのたった一人生き残った姐のイライザ──の顔が目の前にあった。
マリーはベッドの上で、彼女に抱き起されながらコップを手に持っていた。
「大丈夫? 少しぼうっとしてたみたいだけど。ほら、のど乾いたろう。全部飲んで」
マリーは優しい声にうながされるまま、コップの水を飲んだ。
「甘い…」
「たっぷり甘くしといたからね」
「甘くて、酸っぱい」
「そりゃ、レモンが入っているからね。でも美味しいだろう? サジッタ一座に伝わる元気の出る水なんだよ」
「ありがとう、姐さん」
マリーが言うと、イライザはベッドから腰をあげ、そばにあった椅子に座った。
「おはよう、マリー」
「お…はよ、姐さん」
イライザの笑顔が嬉しくて、マリーも自然と微笑んだ。
部屋の中はイライザと二人きり。
だけど、ケントの魔法の引力も弱かった。彼はきっと隣の部屋にいる。
「姐さん、あたし、倒れたの?」
マリーは聞いた。
「ああ。ごめんよ。あたしのストーカーに連れて行かれそうになって、気絶させられたんだって? でも、ただの当て身だったのに丸一日あんたが目覚めないから、ケントも心配してたよ」
「そう…だったんだ…」
まだどこかぼんやりした頭で素直にうなずいたマリーは、ふと視界に入った自分の手に違和感を覚え、そこでハッとした。
「あ、れ? あたし、魔力のオーラが…」
イライザのストーカー、ヘイデンと争っていた最中に、青白い魔力のオーラが復活したはずだったのに、それがまた消えていたのだ。
(あたし、ヘイデンの魔法を破壊したよね…?)
イライザは首を傾げた。
「何言ってんだい? 否定し続けたら消えたって、前に自分で言ってたじゃないか」
「え…あ……そう、だったね」
マリーは慌ててイライザに話を合わせた。
(つまりあの一瞬だけ魔力が戻ったってこと? そんな都合のいい奇跡を起こすなんて、あたし………丸一日ぶったおれても安いくらいの代償じゃないか)
「ねえ、マリー」
イライザがふいに声を甘くして言った。
「前はごめんね。ケントのこと」
「え? あっ、あたしの方こそごめん! ケントとの魔法、まだ…」
ケントとちゃんと話すとイライザに啖呵を切ったのに、まったくできていないことを思い出し、マリーは焦った。
「それはもういいんだよ。いや、もちろん魔法でつながってない方がいいんだけどさ。だけど、どちらにせよ、あたしはあんたとケントを応援することにしたの!」
「へ? どうして?」
「ケントはヘイデンを倒して、あんたを守った。なかなかどうして、よくいるちんけな魔法使いより、よっぽど頼りになる男じゃないか」
「………」
手のひらを返したようなイライザの賞賛を、けれどマリーは嬉しく思った。
姐に自分の好きな男を褒められることは、誇らしいことだった。
「だからね、マリー」
そこでイライザは、マリーの耳に口を近づけ、ささやいた。
「ケントを身体でオトして、がっちり捕まえな!」
「は!? ね、ね、ね、姐さん!?」
マリーは顔を赤くして叫んだ。
「なんだい、ウブな反応して。イリス一座の姐さんたちだって、男漁りや男遊びこそしなかったけど、これと決めた男はしっかり狙いにいって、きっちりオトしてたじゃないか。男は快楽を握るのが、一番手堅いんだよ。あんただって、姐さんたちのテク、聞いてきただろ?」
「む、無理っ! あたしには無理っ!」
全力でマリーが否定すると、イライザは大げさにため息をついた。
「はー、つまんないこと言う子だねえ。どうりで色気が全然ついてないわけだ。イチから鍛えてやりたいところだけど…」
そのとき、トントンとドアをノックする音がした。
「イライザ? 声が聞こえたんだけど…」
ケントだ。
「ああ、マリーが目を覚ましたんだよ。入ってきていいよ」
イライザがそう答え、ケントが部屋に入ってきた。
「マリー、もう大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。心配かけてごめんね」
マリーが笑顔を見せると、心配顔だったケントもホッとした様子を見せた。
「腹、減ってないか?」
「そういえば、空いてるかも…」
「何か用意してもらってくる」
ケントはそう言って、バタバタと出て行った。
「…仲良くやってるみたいだね」
イライザに頭をよしよしされ、マリーははにかんだ。
*
ケントとイライザに見守られながら、ベッドの上でマリーが軽い食事を終えたあと。
「あんたたち、ビジル市に行かないかい?」
イライザが言った。
「ビジル市? カジノの?」
ケントとマリーの声がそろった。
ビジル市は、一攫千金の夢を売る街、カジノの街として有名だった。
「ああ。警護団のおかげで、サジッタ一座のシェイド市での公演も、無事千秋楽を迎えてね。次の公演はビジル市なんだよ。あそこは裏稼業も多いし、なにせ金で動く人間たちの集まった街だから。あんたたちの魔法も、なんとかなると思うよ。あたしも力になってあげられるし」
「でも…」
ケントの友人のギルから魔法を解いてあげると言われたことを覚えていたマリーは、言葉を濁した。
「行かせてもらうよ」
そう言ったのはケントだった。
「えっ? ケント?」
「いいじゃないか。別にどこ行くアテがあるわけじゃなし」
「ギルのことは?」
「あいつは口だけの、使えない奴だから」
(…ギルはケントの個人的な友人だけど、拘束の魔法をかけて、ケントに今の状況を強いている人にしてみたら都合が悪いってこと? …そうだよ、拘束の魔法は厄介な魔法だったんだから、ケントはギルを巻き込みたくないはず…!)
「うん、そうだね」
マリーはうなずいた。
もう、分かっている。
ケントの後ろには厄介な魔法使いがいる。
マリーの拘束は黒幕の意思で、ケントはマリーと一緒にいたいとは思っていないし、なんならマリーを解放することで黒幕からマリーを守ろうとしてくれている。
黒幕が何を考えているのかは分からない。今から別の街を目指すのは回り道のようにも思える。
けれど、ケントがいいと言うなら、まだ時間的猶予はあるのだ。
「行くよ、姐さん」
「絶対来るんだよ。待ってるから」
イライザはそう言うと、ギュッとマリーを抱きしめた。
それから、耳元で囁いた。
「マリー、ビジル市につくまでに貫通は済ませなよ」
「ねっ、姐さん!!」
顔をゆでダコみたいに真っ赤にして、マリーは叫んだ。
マリーが何を囁かれたのか知らないケントは、不思議そうに首を傾げた。




