6 新月の夜に芽生えた想い #マリー
「俺がきみの逃亡を助ける」
真摯な声でケントからそう言われて、マリーの胸がとくんと高鳴った。
(なに……こいつ、今…なんて言った……?)
それは、あまりにも信じ難い申し出で。
「あんたがあたしを…助ける?」
鸚鵡返しのように聞き返したマリーに、ケントはただうなずいた。
その目は…表情は、ひたむきな熱を帯びていた。
(こんな目…知らない。こんな目で人から見つめられたことない…)
知らず、マリーは自分の手で自分の身体をかきいだいた。
身体の芯に小さな火が灯って、とろとろと炙られて、内側に熱がたまっていくような、初めての感覚に、そわそわと落ち着かなかった。
(って、呆けてる場合じゃない!)
「バカ言わないで。あたしは魔女マリー。魔法使いダグラスに追われてるんだよ!」
ハッと気持ちを切り替え、マリーは言った。
一年前、心に堅く誓ったことを思い出す。
もう二度と誰も犠牲にしない、誰とも一緒に行動しないと。
(ふりきらなきゃ。こいつを)
「お願い、魔法石を破壊して」
魔法を解く方法として、その魔法を媒介している魔法石を物理的に破壊するというものがある。
「…魔法石は持ってない。きみが解くものだと思っていたから」
ケントは、恐ろしい回答をした。
魔女マリーと一定距離以上離れられない状況を生み出しておきながら、その魔法を解く手段を持っていない、と。
「そんなバカな…っ」
「話し合いはもういい。行こう。ああ…さっきみたいに手を引いた方がいいか?」
たたみかけるように急かされて。
「ま…待って! 待って、お願い。今、顔と身体が合ってないから」
マリーは思わずそう言っていた。
顔だけ素顔で、身体がふくよかな中年女性のままだった。
「分かった。部屋の前で待ってる」
ケントはあっさりと引き下がり、マリーを残して部屋を出ていった。
*
(どうしよう…このまま本当に一緒に行くってのかい? このあたしが? いや…誰が? そうだよ、馬鹿正直に素顔で行く必要はない…)
一人になったマリーは、混乱気味に鏡を取り出してみて、そこでさらに衝撃を受けた。
「なっ…!」
鏡に映ったのは、ガリガリに痩せた少女だった。
変装のため、鏡は日常的に見ていたはずなのに、仕上がりの方ばかり気にして、自分の素顔は見ているようで見ていなかった。
(そういうこと…! 素顔を見せた途端、急に態度を変えて一緒に行こうなんて言いだしたのは…)
思わずケントが出ていったドアの方をふりかえる。
(あたしは……なんてことを………!)
普通の感性を持っていたら手を差し伸べずにはいられないような憐れな姿を見せ、彼の気を引いてしまった。
もちろん、ケントとしては、多少のほどこしをして、気が済んだらそこで終わりにするつもりなのだろうが。
それでも、彼の気が済むまでの何日か、彼を危険にさらすことには変わりない。
(どうしよう…また繰り返してしまったら……!)
*
(ど…どうしてこうなった……!?)
月のない暗い夜。
焚き火の炎がちらちらと揺れて、至近距離からまっすぐ見つめてくる黒い瞳の中に赤い光を宿す。
地面に横になったケントと、彼の傍らに座って、ふところに手を伸ばしたマリー。
伸ばした手を、逆にケントにつかまれて。
「きみに襲われるのは、望むところなんだけど」
ケントは、寝込みを襲われたはずなのに、憎らしいくらい落ち着き払って言った。
「お…襲う? あ、あたしは…っ」
襲うの意味が違うと言い訳しようとしたマリーだったが、近すぎる距離に心臓がバクバクして、言葉がうまく出てこなかった。
材料不足で新たな変装ができなかったマリーは、痩せ細ったありのままの姿で、皮膚の上に何もぬり重ねていない素の手首をケントにつかまれてしまった。
そのせいで、彼の手のぬくもりや、女性とは違う肌の硬さを感じてしまい、落ち着かなかった。
それに、若い娘らしく、いつも上半身にかけていたショールを腰に巻いていたから、露出の大きいブラウスの胸元も気になった。
「離して!」
マリーは短く叫んで、ケントの手を振り払った。少し後ずさって、距離も置く。
(こんなはずじゃなかったのに…!)
恨めしい気持ちで、マリーは思った。
野宿をすることになって、夜間の安全対策である火の番を交代ですることに決めて。先の番を買って出たマリーは、ケントの寝息が聞こえてきたから、彼が隠し持っているだろう魔法石を探すため、ふところに手を伸ばしたのだ。
「魔法攻撃を仕掛けるんじゃなく、魔法石を盗ろうとしてくるとは思わなかったな。魔法石は持ってないって、言わなかったっけ」
身体を起こし、ケントが言った。
(こいつ…眠そうなそぶりもない。タヌキ寝入りだったってわけ…!?)
「魔法石は持ってないって…そんなの信じられるはずないだろう? 魔法使いじゃないあんたが魔女マリーに魔法を仕掛けるんだから、あんたの都合で魔法を解けるよう魔法石を持ってないわけがない!」
「それをいうなら、信じられないのは俺の方だ。魔女マリーにこの魔法を解けないと言われるなんて、一ミリも考えなかった」
「うっ…」
ぐうの音も出ない切り返しに、マリーは言葉をつまらせた。
「それに、魔法を解く手段ならあるだろ?」
「えっ?」
ケントが続けた言葉に、マリーは現金にも張りつめていた気持ちをゆるめた。
「なんだ。解く手段があるなら、あたしは…」
「俺を殺せばいい」
平然と、まるで自分とは関係のない人間の殺人でも語るみたいに、ケントは言った。
(こいつ………!)
マリーは期待した分、怒りを覚えた。
たしかに、人と人を縛る魔法だから、どちらかが死ねば無効となる。けれど。
「あんたねえ…! あたしはあんたが死なないようにって…」
「お、今日はいい星空だな」
殺して魔法を解くなんてありえないと力説しようとしたマリーを、ケントはとぼけた台詞で遮った。
いつのまにか彼は夜空に視線を向けていた。
「は? 星?」
「星の話でもしないか?」
「何を呑気な…っ」
「そうか? 俺はしたいけど。きみとの始まりの第一歩として」
静かな声の奥に底知れない何かをのぞかせて言うと、ケントはまっすぐマリーを見つめた。
その熱っぽい視線を受けたら、マリーの身体も瞬間沸騰したみたいにカッと熱くなった。
「は…始まり? あんたとあたしで何が始まるってんだい!?」
(何これ、まさか口説かれてる?)
「マリー…きみは」
強く否定したマリーに、ケントが驚いたように目を見張った。
「…そのしゃべり方は、素だったのか」
「そりゃ、おばさんの中で育ったからね!」
ケントに説明するつもりはないが、マリーの変装は、かつて所属していた一座の座員たちだった。
おばさんたちの中で、幼いマリーは宝物のように大切に、可愛がってもらった。
三年前、突然、魔法使いダグラスが現れ、一瞬のうちにみんなを殺し、十三歳のマリーからすべてを奪っていったあの日までは──。
「ええと…そのしゃべり方は少し、気をつけてもらった方がいいかもしれないな。魔女マリーが逃走用に相方を見つけて、若い女性に変身したと誤解されるかもしれないから」
ケントは真面目な顔で言った。
そう言われるとマリーも、二人旅をするならケントの身の危険を減らすために、魔女マリーとバレにくくする努力は必要だと思った。
「うん…」
「じゃあ、明日からよろしく」
ケントは優しい目でマリーを見ると、ポンと頭に手を置いた。
その、大きくあたたかい手を、マリーは振り払えなかった。まるで親に頭をなでられて安心するように、ホッと気がゆるんだ。
「おやすみ」とケントが背中を向けて横になったあと、マリーはハッとした。
(あ…! 魔法石の話、ごまかされた…!)
それに、一緒に行くことにも同意させられた形だった。
もう一度寝込みを襲うわけにもいかず、マリーは胸の前でみずからの手をキュッと握り合わせた。