6 母の最期の願い #マリー
バチバチバチバチバチ──。
重い水の雫が打ち当たる音が絶え間なく響いていた。
身体中、あちこちが痛み、きしんで悲鳴をあげている。
極度の疲労で身体が鉛のように重くて、思うように動かせない。
全身ずぶ濡れで、肌にまとわりつく衣服も、身動きを制限した。
地面に当たる強い雨の雫の跳ね返りで、口の中に泥がはいった。
荒い、自分の呼吸音ばかりが耳にさわる。
這っても、這っても。
慣れた道行きが、果てしなく遠い。
前に進めているのかも分からなくなる。
──誰か助けて。
そう叫びたくても、声はすでに枯れ果てていた。
それに。
大きな雨の音と、閉ざされた扉は、叫んでも無駄と、あざわらっているかのよう。
──ダメなあたし。
扉が閉ざされているのは、当然じゃない。
嵐の夜なんだもの。
こんなときに道端に倒れている者がいるなんて、誰が思うというの。
戸の隙間からもれる明かりで道が分かるだけ、助かっているじゃないの。
この明かりを頼りに、帰るのよ。
あたたかな、あたしの家に。
あの人とあの子の待つ家に。
そうよ。
こんな身体の痛み、大したことないわ。
暴力には慣れているもの。
十三歳で男に乱暴され、子どもが産めなくなったときから。
子を産めぬ流民の女なんて、男性の欲望の恰好の餌食で。
誰も彼もあたしを『下』に見た。
『対等』を願えば、痛めつけられた。
それでも、『いつかは』と夢を見続けて──あなたに出会ったの。
魔法使いダグラス。
あたしの、最愛のヒーロー。
あなたは、あたしを『同じ人間』にしてくれた。
あたしにたくさんの幸せをくれた。
そして、信じられない、素敵な魔法で、母親になりたいというあたしの夢を叶えてくれた。
──さあ、マリア。立つのよ。
アーサーの病院はもうすぐ、そこ。
そこまで行けば。
アーサーの病院の戸をたたけば。
そうすれば、帰れるわ。
アーサーに怪我を綺麗にしてもらって、帰るの。
だから、お願い。
もう少し待っていて。
あたしが望んだのよ。
町での人並な暮らしを。
だから、ダグ。
怒らないで。
悲しまないで。
あなたを絶望させたりなんかしない。
あたしは今から帰るわ。
ただいま って
帰って、笑うから
だから……
ああ……
雨しか見えないわ……
「マリー!」
ダグラスの腕の中で、マリーは目を開いた。
マリーを心配して顔をのぞきこみ、見るからに焦っていた。
「一体、どうしてこんなことに……いや、裏切り者はアーサーだ。ここを知るのはあいつしかいない。奴に何をされた!?」
「ちがう…あたしはコールライトの邪気にあてられただけ…」
マリーはか細い声ながら、気持ちだけは強くダグラスに訴えた。
「コールライトの…邪気だと……?」
ダグラスが、大きく動揺した。
コールライトの持つ波長がマリーには毒なのだと説明した方が良かったのかもしれないが、さっきまで同調していた思いが強すぎて、まだ半分夢うつつのまま、マリーは言葉を続けた。
「ねえ、パパ。あの石、ママの形見の指輪についてた石を使った?」
「な…」
「『ダグ。怒らないで。悲しまないで。あたしは今から帰って、笑うから』──ママの、最期の気持ち。最期の…願い」
マリーはダグラスの発言を待たず、そこまで一気に話した。
話し切ったところで、ようやく意識が完全に浮上した。
まだ痛む頭を押さえながら、マリーは体を起こした。
「パパ。覇権なんて獲ったら、ママが悲しむよ」
しっかりとダグラスを見据え、マリーは言った。
ダグラスの異様にギラギラと尖った目が、急速に力を失っていった。
彼のまわりに張り付いていた黒いオーラも霧散していく。
不自然にピンと張っていた肌がハリをなくし、みるみる老けこむ。
そう、ちょうど、年相応なくらいに。
「マリア…」
かすれた声で妻の名をつぶやいたダグラスは、茫然自失の程だったが、そこに狂気はもうなかった。
「パパ」
マリーは、愛しさを込めてそう呼んだ。
そのとき。
──ズシンッ!
大きな音と揺れが襲ってきた。
「な、なにっ?」
マリーは戸惑い、キョロキョロとした。
「火山噴火が始まるのだ。あの石は、たしかにこの城の制御もしていたが、もともとは火山噴火を抑えるための石だった。今は、万一のときの備えに設けておいた予備のコールライトが噴火を抑えておる状態だが、それも持って三十分」
ダグラスが硬い声で言った。
「えええっ!? 早く城にいる人たちを避難させないと! 王家と全面戦争するために集めた、パパの配下の魔法使いさんたち、たくさんいるんでしょ?」
マリーは慌てて立ち上がったが、ダグラスは静かに首を振った。
「無駄だよ。この国が滅ぶ規模の噴火なんだ」
『終わり』を受け入れた目だった。
いや、違う。
最初から。自分が覇権を獲るか、この国の滅びを受け入れるか。その二択だったのだ。
「まさか、八年前にパパの言った『やらなければならない仕事が出来た』って…」
「ああ、そうだ。ミルキー山脈の噴火の予兆に気付いたのだ。それで、マリアの形見の石を元に、巨大なコールライトを作って抑えた。マリアなら止めることを願うと思ったから。だが、国を守るからには…」
「言わないで、パパ。ねえ、もう一度止めることはできる? あるいは被害を少なく…」
マリーが、とにかく今は防災をとダグラスに訴え、ダグラスが目の色を昏く陰らせたとき。
「マリー! ダグラス!」
ケントが走ってきた。
「地面に大穴を開けて、誘導してみようと思うんだ!」
いきなり、主語も何もなくケントが言った。
「ケント?」
「ふん、バカなヒヨッコめが。二手に分かれよう。おまえは穴を開けろ。誘導は、わしがやる」
頭の中がハテナマークのマリーとは対照的に、ダグラスはケントの提案を受け、役割分担をして返した。
「マリーも、責任取って、おまえが守れよ。ではな」
ダグラスは、そう言うと、すぐに瞬間移動で姿を消した。
「俺たちも行こう」
ケントにうながされ、マリーはうなずいた。
ふわりと、ケントの腕の中に収められる。
一瞬の浮遊感のあと、二人は真っ暗な夜の上空にいた。
「寒いっ」
思わずマリーが言うと、ああ、とケントは魔法で茶色い外套を出した。
ケントがそれを着て、マリーをその中に入れてくれる。
「わ、あったかい…魔法使いが外套を着るのって、防寒だったんだね」
「うん、主にはそう」
ケントの腕の中から眼下を見下ろすと、大地から隆起した山脈が黒々と横たわり、低く重いうなり声をあげていた。




