10 風 #マリー
サジッタ一座の道具類テントの中。
マリーは、大きな箱の合間で、毛布を頭からかぶって、うずくまっていた。
『もう二度とサンドラと会わないで』
『あたしを見て』
そんな感情が暴れまわっていて、いくら消そうとしても、消えてくれない。
──どうして…。
自分はもう、ケントの前から消えるのに。
マリーの勇気を出した告白から目をそむけた人なのに。
──どうして言えないの。
『あたしのことは忘れて』と。
ただ、愛されたくて。
つないだ手を、離したくなくて。
こんなにも醜くて、身勝手な感情に呑まれる日が来るなんて、想像したこともなかった。
(こんな気持ち、イライザ姐さんにだって、言えないよ……!)
「どうして……」
どうして、希望なんて持ってしまったのだろう。
どうしたら、この希望を捨てられるだろう。
*
イライザを拒絶し、望みどおり一人にしてもらって。
一体どれほどの時間が経ったのか。
マリーは、拘束の魔法の引力の変化に気付いた。
(引力が弱くなってる…ケントがここに来る!?)
頭からかぶった毛布を払い、頭上の天幕を見ると、朝の光が当たって明るい色になっていた。
いつの間にか日付が変わり、朝が来ていたらしい。
(たしかに昨日、ケントは、明日までサジッタ一座にいてほしいって言ったけど…)
告白が迷惑だったのなら、律儀に迎えに来なくてもいいのに。
──デモ 来テ クレタ
マリーは、ブルッと震えた。
ケントの行動を否定的に捉える気持ちの下から、『期待』がむくむくと頭をもたげてくる。
「嫌………」
マリーは、自分で自分を抱きしめた。
自分で自分が恐ろしくてたまらない。
──アタシヲ 見テ アタシヲ 愛シテ
凶暴なまでの願望が止まらない。
「嫌………」
──だれかあたしを止めて。
変わってしまう。
嫉妬と独占欲に負けて。
自分の想いしか見えなくなってしまう。
そんな醜悪な生き物にはなりたくない。
(お願い、来ないで)
そう願うのに。
魔法の引力は、着実に弱くなっていく。
ケントとの距離が縮まっていく。
(うそ──来ちゃった)
サジッタ一座の敷地内に。ケントが。
どくん、どくん。
心臓が、バカみたいに大きく脈打つ。
手は汗でべったりしている。
──変わってしまう。
それは、確信だった。
絶対になりたくない醜悪な生き物に堕ちる。
ケントの顔を見たら。泣いて、捨てないでとすがりつく。
それが彼にとって、どれほど迷惑なことであっても。
彼の人生を壊すことになっても。
「逃げなきゃ…」
自分には足があるのだから。
ケントと会わないように、逃げるのだ。
「うそ………」
絶望的な声がこぼれた。
足に力が入らない。
足が、立って逃げることを拒否している。
目に涙がにじんだ。
──もう、無理だ。
マリーは、震える手を耳元のイヤリングに寄せた。
そのとき。
「なあに、ここ。空気、よどんでるわねえ」
無神経な女の声が、その場の空気を切り裂いた。
マリーは目に涙をため、イヤリングに手を添えたまま、天幕の入り口を見た。
諸悪の根源、サンドラが天幕の入り口の布をまくりあげ、立っていた。
風が入る。
サンドラの立つ場所から。
「あらあら、ひどい顔しちゃって。おかげさまで、昨夜は楽しかったわ。そうそう、彼、あなたに会いに来たわけじゃないから。事件の調査だから。期待してたら可哀想だと思って、それだけ、教えに来てあげたのよ」
会心の笑みを浮かべ、サンドラは言った。
「事件…調査………あたしじゃない………」
「そうよ。あんたのとこには来ないわよ」
傷口に塩をぬりこむようなサンドラの言葉に、マリーの心は熱くふるえた。
ぶわっと涙があふれだす。
恐怖からの解放。
大きな安堵。
「あ…りがとう……ありがとう………!」
マリーは思わずサンドラに駆け寄って、手をにぎった。
「はあっ!? なんなのよ、あんた!」
焦ったのはサンドラの方だ。
気持ち悪い、とマリーの手をふりはらう。
それでも、よろこびは減らず、涙をふいて、衝動のままに笑った。
「ったく、魔女マリーが、たかだか恋愛で頭イカレさせるなんて、もう少し骨のあるところを見せなさいよ」
「うん、本当、たかだか恋愛にふりまわされて、バカだよね。あんたのおかげで目が覚めた。あたし、拘束の魔法を解いてくれる人を探しに、この街に来たの。思い出させてくれてありがとう!」
「はい? もう本当に意味わかんないんだけど」
(そうだよ。ケントは誰かの命令で動いてるだけで。一緒にいることにケントの意思は入ってなくて。あたしが希望を持つ余地なんかなくて。だから、魔法を解いて、ケントを解放してあげて。それで良かったんだ)
心底気味悪がっているサンドラを置き去りに、すっかり明るくなった気分で、マリーは踊り出すような足取りで天幕の外に出た。
「あ、ちょっと! どこ行くのよ!」
「魔法使いを探しに!」
「魔法使いを探すって、マクネリーに怯えてるこの街で? そうでなくとも全面戦争の大騒ぎだってのに」
「え?」
軽やかに踏み出した足が、そこで止まった。
──全面戦争。
何気なくサンドラが口にした言葉に、マリーの目の前は再び暗転した。
マリーの変化に気を良くしたのか、サンドラは得意そうに言を継いだ。
「あら、知らなかったの? おとつい、魔法使いダグラスが国王に宣戦布告したのよ。分かるでしょ? だから、彼はもう行かなきゃならないの。魔法使いを探す必要なんてない。マクネリーを押さえたら、あんたたちの関係もおしまいよ」
「…マクネリーさんって、昨日の犯人?」
「そうよ。彼の親の敵なんですって」
饒舌にサンドラはしゃべる。
「あんたは閉じこもってて気付いてないんでしょうけど、このサジッタ一座に出入りしてんのよ。金髪に緑の目をした魔法使いがね!」
──ドクン!
マリーの心臓が大きく脈打った。
「緑の…目? その人、年は……?」
「えっと四十前後で……あら? 魔力もCランクくらいだったわ…ね」
サンドラも、さっき自分が見た魔法使いがマクネリーではないと気付いたのか、声のトーンを下げた。
「緑の…魔法石、持ってなかった?」
「してたわ。魔法医がよくしてるみたいに、ポーラータイに値打ちもののペリドットつけて──って、あんた、顔真っ青よ」
「その人はマクネリーさんじゃない。行かなきゃ。ケントが殺される…」
「殺される? マクネリーじゃないのに? ちょっとマリー、言ってること変よ?」
サンドラが困惑していたが、マリーは走り出した。
ケントのいる方に向かって。
*
ちょうど、イライザの天幕から出てくるケントを、マリーは見つけた。
そして、ケントの後ろから、金髪に緑の目の魔法使い、魔法医アーサーが。
「ケント、逃げて!」
マリーは叫んだ。
二人の視線がマリーに刺さる。
「マリー、ちょうど今からきみに…」
やや緊張した面持ちで口をひらいたケントの横をすりぬけ、マリーはアーサーと向き合った。
「アーサーおじさん。あたしなら戻るわ。だからケントのことは見逃して。お願い」




