瑠璃苣 ~ルリジサ~
気が付いたらひと月開いてました ><
薄く色づき始めたやわらかな夕日の中に、はしゃぐあなたを見つけた。
その笑顔を、自分に向けて欲しいと願った。
だから、努力しようって思ったのに。
5年間も通った学園生活も、残すところあとひと月余り。
卒業式を間近に控え、最終学年に在籍する生徒達にはすでに授業らしい授業もなかった。
本来は、単位不足を補ったり、卒業後の進路を模索する為の時間とされているが、貴族として自分を律するよう育てられた彼等において、未だに道の定まっていない者などごく僅かだ。勿論、卒業するための単位が足りずに足掻くものも若干名しかいない。そういった生徒達には尻に火が付いたような焦りの季節であろうが、それ以外の大多数の生徒たちにとっては残された学生生活をゆっくりと謳歌できる貴重な時間だ。
かといって自由に休暇が取れる訳ではない。
では授業ではなく何が行われるかといえば、女子生徒主催によるお茶会だ。
それも合同で行うものではない。個人の差配により開催されるお茶会である。
女子生徒達の大半は幼い頃から婚約を結んでおり卒業と同時に婚姻を結ぶこととなっている。婚姻後は、貴族家の女主人(または次代の)としてお茶会や夜会などにおいて手腕を揮う事を求められるようになる。
その実戦練習として、学園の主導でお茶会を主催してみせるのだ。
また進路が決まった男子生徒には国の官僚として地方に配属されることが決まっている者や、騎士団に正式採用される前段階として国境近くの警備隊に1年間出向に出される者も多く、また下級貴族の女子生徒に至っては、卒業と同時に貴族家ではない富める平民と婚姻を結び婚家へ入る者も少なからずいる。
そういった、二度と王都でお茶会の席に座ることのないと思われる者たちにとって、この場で得る繋がりは、学園の生徒としてこれからの人生における縁となる重要なものを得る最後のチャンスともなるだろう。
主催する方招待される方、双方の思惑は様々あれど、誰のお茶会に参加できるか、どれだけ招待を受けることができたか、誰に参加して貰えたか。それらは今後の人生においてとても大きな意味を持つと考えられていた。
その為の茶器も会場となる部屋も用意されていたし、予算と侍女の人数も爵位に合わせた基準が定められていた。
お互いに情報を集め、ダブルブッキングしないよう会場を手配し、天候やテーマによって出すお茶や茶菓子や会場装飾に趣向を凝らす。
授業の一環ということにはなっているが、すでに卒業後の生活を見据えたこの茶会の席で、その後の社交界での立ち位置が入れ替わることも少なくない。
招待する相手は、親の派閥によるものだったり純粋に交友関係によるものだったりするが、まだ学園の生徒同士として爵位が低いものから上に対して招待を行うのも許されることもあり、すこしずつずれたり重なったりする交友関係の中で、主催したり招待されしている内に、結局は満遍なく挨拶して廻ることになるものだ。
ただ、今年の最上級生の中にひとりだけ、誰にも呼ばれないし、招待状を出しても誰にも来てもらえないでいる女生徒がいた。
しかし、誰もその事に疑問を持ったりしない。
そして、誰もその名を口にしたりしない。
その女生徒のいないお茶会の席を、和やかに楽しむばかりだ。
この日、最も華やかで最も大きなお茶会を開催したのは、この学年でもっとも爵位の高いエリントン辺境伯一女イリス嬢だ。
卒業の半年後には婚約者のバーカトン侯爵家の三男であるケインを婿に迎え東の国境を守る務めを共に負うことになる。その為こうして王都で友人たちとの時間を持つことが出来るのも残すところあと僅かということもあり、精力的にお茶会を開催し、出来る限り招待を受け縁を結んでいる。
この日、イリスが開いたお茶会の席のテーマはマドンナ・ブルー。聖母が身に着けている衣の色とされる神聖な色だ。『この色にまつわるものを身に着けて参加してください』それが招待状には書き記されていた。
参加者は、マドンナ・ブルー色のリボンを髪に編みこんだりサッシュを制服の上から腰や首元に巻いたりラピスラズリの宝飾品を身に着けたりとテーマに合わせた思い思いの意匠を凝らしている。
その参加者を迎え入れた会場は、イリスによってマドンナ・ブルーとされるルリジサの花とラピスラズリ色の布やリボンで飾り付けられていた。
そうして。主催者として出迎えたイリスの手首には、リボンであしらわれたルリジサのコサージュが華やかに巻かれていた。
その神聖な青色が、赤銅色をしたイリスの髪に映り込み不思議な輝きを生んでいる。
規定通りに、シンプルな濃紺のブレザーワンピの制服を着ているイリスはその言葉の如く後光が差しているようだった。
「ようこそ。みなさま、今日は来て下さって嬉しいわ」
イリスの言葉と共に、ルリジサの青い花弁が浮かべられた紅茶と、ほんのりとピンク色をした花弁が入ったちいさなグラスが配られていく。
「その紅茶は、我が領で育てているルリジサ入りのハーブブレンドですわ。そうして、一緒にお配りさせて頂いた物は薬物誌にも書かれているようにかつて戦士が戦いに向かう前に勇気を奮うために飲んだと言われる『ルリジサ入り白ワイン』をゼリーに仕立てたものですわ。もうすぐ卒業して、社交界という戦場へと赴く私達には必要だと思いましたの」
席についた女生徒たちが目を見張る。
「マドンナ・ブルーのルリジサが、このような愛らしいピンクに生まれ変わりますの?!」
「素敵! 卒業後の私達へエールを戴いたみたいだわ」
そんな声を皮切りに、華やかな歓声がそこかしこから上がる。
「えぇ。でも、全部が代わるものでもなく、まだマドンナ・ブルーの色が残っているその色の対比が美しいでしょう? 勿論、わたくし達はまだ学生ですし授業の一環としてのお茶会の席ですのでゼリーに仕立てる際にアルコールは飛ばしてありますわ。安心して召し上がって」
初めてですわ、と参加者達がはしゃぐ声の中、いきなりどたどたと大きな音を立てながら、その一団が押し入ってきた。
「イリス! イリス・エリントン、ほとほとお前には愛想が尽きた!!」
先頭を陣取りそう糾弾したのは、イリスの婚約者でバーカントン侯爵家三男のケイン。
その後ろにはケインが懇意にしている騎士団見習いの仲間たちが続き、その中央に守られるように、その女子生徒が瞳を潤ませながら立っていた。
「ケイン様、今日のお茶会への招待状にはいらっしゃらないとのことでしたので、ケイン様のお席の準備はございませんのよ? 他の方々へは本日のお茶会への招待状は出してもおりませんが、よろしければ別室にてお茶をお出しさせて戴きますわ」
主催者として名指しを受けたイリスは、冷静に相手の不作法を指摘しつつも礼儀を逸しないよう別室での接待を提案した。しかし、イリスの冷静さは押し掛けたケインのいらだちをより掻き立てた。
「ふざけるな! お前の出す茶など飲めるか!」
「まぁ。お茶をお望みではないのにお茶会へいらしたのですね。……あぁ、もちろん別室でもお茶菓子をお出しいたしましてよ?」
ふんわりとした口調ながらも、的外れだと判り切った(しかもどちらかというと見下げる様子の)イリスの言葉に、招待客の中からくすくすと失笑が漏れる。
誰の、と判るほどでもないひそやかな冷笑に囲まれて、勇んでやってきた男達(と一人の令嬢)はその表情をより険しいものとした。
「……お前は、そうやって論点をずらして逃げようというんだろう! はっ。小ずるくて汚い手口だ」
そのケインの言葉に、イリスは陶器の様に美しい白い頬にゆっくりと片手を当てて小首を傾げてみせた。
「なにを仰っているのか。わたくしにはさっぱり判りません。でも、もしなにかわたくしについて御忠告があるとしても、今は皆様の卒業までの大切なお時間を戴いてお茶を楽しんでおりますの。ケイン様方には後日改めてお時間を戴ければと思います」
そういって後ろに控えていた学園付きの侍女に向けて、お帰り戴くようそっと合図を出した。
それを受けて侍女が茶会の会場から出ていくように促したものの、ケインはその侍女のほっそりとした肩を押し除け叫んだ。
「誤魔化そうとしても無駄だ! お前がマリアを虐めていたことに俺が気がついていなかったと思うのか!」
ケインがその腕の中に可憐な少女を抱え込みながら、相対する自らの婚約者を睨み、声を荒げた。
「侍女とはいえ女性を突き飛ばした方から虐めと言われましても。……アナタ、大丈夫かしら?」
立ち上がれなくなったのか蹲ったままの侍女にむけて手を差し伸べて立たせるとすぐに他の使用人達がやってきて、足を挫いたらしい侍女に手を貸しながら外へと連れ出していった。その侍女と目配せを交わしイリスは非常時に備えて教師陣へ連絡するように伝える。
せっかく立てた企画を台無しにされ負傷者まで出すなどエリントン辺境伯家として恥でしかないが、すでに被害が出ている状況では仕方がない。これ以上被害を大きくしないよう、できるだけ軽微の瑕疵となるよう努めるしかない。
女性に怪我を負わせたというのに、それにまったく頓着しない婚約者に呆れる思いがするものの、イリスはケインの言葉と事態の収拾方法について思案した。
「それにしても全く身に覚えがないのですが。わたくしが、今こうしてわたくしの目の前で、わたくしの婚約者の腕の中に堂々といる不埒な御方とこんなにも傍に立つことすら今日が初めてなほどですわ。それなのにどうやって虐めなどが出来るのでしょう」
美しい扇でともすれば苦くなる表情を隠しながら、イリスが婚約者たるケインの不貞を当て擦りつつ冷静に指摘する。
その言葉に、ケインの後ろに居並ぶ友人たちが、イリスにあてこするように声を上げる。
「男を敬うことなく口答えばかりするとケインがボヤいていたが本当だな」
「本当に可愛げがないな。やはりケインの横には愛らしいマリア嬢が似合う」
「こんな冷たい女が傍にいては国防に命を掛ける事になるケインは癒されまい」
そんな友人たちの言葉にも動揺をみせないイリスに、ケインは不快そうに眉間に皺を寄せ唾を飛ばして声高に非難した。
その友人たちの声に力を得たように、ケインがいっそう声を張り上げてイリスを非難した。
「なんと白々しい。いまこの瞬間自体が、いじめの現場そのものであろう! まさか自分がその虐めの加害者であることにすら気が付かないとでも言い張ろうというのか。その傲慢さ、やはりお前は俺の婚約者として不適格と断じるしかないな」
そこまで一気にいうと、勝ち誇った様子でケインは傍にいたマリアの腰を抱き寄せ、声高に宣言した。
「イリス・エリントン! お前との婚約を破棄する。そうして、この優しくか弱いマリア・ライヤード男爵令嬢と新たに婚約を結ぶと宣言しよう! 俺が彼女を、その笑顔を守る!!」
後ろに付いてきた騎士団見習い仲間たちから祝福の拍手と歓声が上がる。
「ケイン様! うれしいです」
「マリア。幸せになろう」
新たな婚約者を腕に抱き、こちらに向かって顎を上に向け断じるその姿こそ傲慢としか言いようのない姿だと、身長差により見下ろされているイリスはひとりごちる。
ケイン・バーカントンは今年度騎士団に採用された中でもっとも腕が立つ者として注目を集めているひとりだ。
上背のある鍛え上げられたその肢体は張りのある筋肉に包まれており、長い手足による遠間からの鋭い剣捌きは同年代において頭一つ抜ける存在だ。
イリスと婚姻を結び、現エリントン辺境伯が引退した後、東の国境を守る盾となるべくエリントン辺境騎士団にて研鑽することとなっていた。
対して、イリスは170センチと女性としては上背があるものの、学生として認められたヒールは5センチ以下ということもありケインよりかなり目線が下になる。
スレンダーな肢体にシンプルなデザインの制服を着崩すことなくきっちりと着こむ姿が良く似合っていた。
対して、ケインは肩に半分だけ通した上着に、シャツのボタンは首から3つ開けられている。制服はよくいえばゆったりと、直球でいうならだらしなく着崩され、腰に刃を潰した模擬剣を佩いていた。男子生徒なら剣技の授業で使うものではあるものの、授業のない今、校内で身に着ける、それもお茶会の席に身に着けたまま出席するのはマナー違反以外のなにものでもない。
たった今、ケインの宣言により元がついた婚約者同士は、お互いにぴたりと視線を合わせたまま、動かない。
なによりイリスには先ほど言われた言葉の意味がまったく判っていなかった。
「ケイン様、婚約破棄については了承致しました。私からも父へ報告を上げておきますが、バーカントン侯爵家からもお話は通しておいてください。お話は、それだけですね?」
では今度こそお帰りを、と続けようとしたイリスに、ケインが馬鹿にしたように声を張り上げた。
「ここまで言われても判らないとは。いや、判らない振りをしているだけか。やはりお前は俺に相応しい存在ではなかったということだな」
痺れを切らしたのか、ケインが滔々と告発を始める。それを、イリスは目を眇めたまま聞くことにした。
「お前は現在学園にいる女生徒の中で最も地位の高い存在として、女生徒の鑑として、全女生徒に心を配らねばならない立場だった。学園での生徒たちに心を配ることすらできずに、どうして未来の辺境伯たる俺の横に立つことができると思った?」
堂々と言われたケインの言葉に、イリスだけでなくお茶会の席に呼ばれていた者すべての時が止まったように、しん、と静かになった。
周囲から集まる視線に、刮目されていると感じたケインの舌が滑らかに自説を語る。
「お前はいみじくも先ほど自ら告白した通り、学園内で虐めにあっているマリアに配慮しその解決に力を尽くすどころか虐める側と一緒になり、こうしてマリアを無視する始末だ。最低だな」
ケインからの断罪に、イリスの小さな肩が小刻みに揺れる。
それまで厳然と前を向き冷静沈着といった態度を崩さなかったイリスがその美しい顔を俯けた。
「自分の罪深さに気が付き恐れおののいてもすでに遅いぞ!」
「ケイン様。わたし、私…。ずっと心細くて……辛かったですぅ」
縋りついてくる柔らかな肢体を、ケインはぎゅっと抱き寄せた。
「もう大丈夫だ。俺がずっと傍にいる。俺は、真実の愛を手に入れたんだ」
「ケインさまぁ」
腕の中に囲い込んだマリアがうっとりした表情で見上げていることに気を良くしたケインは、安心させるようにその囲いを一層強めて、頷いてみせた。
その時だった。
うっとりと寄り添い合う二人に向かって、くすくすと笑い声が向けられたのは。
その笑い声に嘲笑する色を認めたケインが、その笑い声の主に向かって叱責する。
「何のつもりだ、イリス」
ぎり、と歯ぎしりすら聞こえそうなほど顔を顰めたケインがイリスをねめつけた。
「何のつもりもなにも。ケイン様、先ほどのお言葉そっくりそのまま、お返しいたしますわ」
晴れやかな表情を作ったイリスが、邪気のない笑顔を浮かべて答えた。
「なんだと?!」
「私…わたくしは、今わたくしの目の前で、わたくしの婚約者の腕の中にいる不埒な女子生徒のことですら、一生徒が無視をされる原因に心を配らなかった記憶はございません。わたくしはきちんとその原因を取り除くべく行動に移しておりました」
「元凶たる、ケイン様ご自身に対して話し合いを持ちかけ、解決すべく行動を起こしました。それをきちんと受け止めず改善を図らなかったのはケイン様ご自身ですわ」
「なっ?! 俺がマリアが虐められる原因だというのか!!」
「ですからそう申し上げております。後ろにいる御友人たちも覚えていらっしゃる筈です。ちゃんと『マリア嬢とのお付き合いの仕方をお考え下さい』とわたくしより御忠告致しましたでしょう?」
「お前の悋気からの発言の、どこがどう…」
「ケイン様は淑女教育を施された女性をお嫌いのご様子ですけれども」
パチン、と音を立てて、イリスは手にしていた扇を閉じた。
そうして、何かを切り捨てるように、その表情をいっそ優し気な令嬢としての微笑みの仮面をかぶり直し、優しく諭すように話し出した。
「ケイン様、わたくしたち令嬢が一番最初に教えられる淑女教育はどういうものかご存じですか?」
「挨拶の仕方もしくは言葉遣い、か」
「いいえ。『淑女たるもの、異性の方と二人きりになってはいけません』ということですわ」
笑みと共に告げられた言葉が言外に指すそれに、糾弾者であった筈のケイン一同が鼻白んだ。
「な?! なんと失礼な不埒な女だ。俺はマリアと二人きりになった事など無いぞ! そういう事を考える方がおかしいんだ」
「そうですわね。二人きりになられたことは、あまりないと存じます。大抵が女性1人に対して男性4人、もしくは男性はもっと多かったようですわね」
その指摘に、ケインの背中に嫌な汗が流れた。
「お、俺たちは学生として共に学ぶ仲間として…」
「ケイン様、”嬲る”という字はどう書くか、御存じですか? 二人の男性の真ん中に女性がいるのです。でも、彼女の周りには、更にその周りに二人も男性がいらっしゃいましたね? 時には、更に多いとか」
現に、いまもマリアの周りにはケインを含めて5名の男子生徒が侍っていた。
その一団に向けて獲物を仕留めるがごとく、その美しい瞳に剣呑なものを浮かべたイリスが声だけは優し気に指摘した。
「ある日など、高位貴族専用エリアの談話室の、よりによって個室でお昼休みを5人で過ごされ、そのまま午後の授業をサボられたとお聞きしております」
「イリス! それ以上、マリアの名誉を穢す言葉は許さないぞ!!」
「許さない? ケイン様は、御友人の方々と共に、大切なことを学ばれていたのでしょう?」
「そっ、そうだ。ゆ、ゆうじょうを、大切なものを共に学び、はぐくんでいたんだ。判っているなら、ごごごご誤解されるような言葉を選ぶなっ」
「えぇ。高位貴族の子息たるもの、閨教育はとても大切で重要で、必需だとお伺いしております。敵対勢力からのハニートラップに対抗する為には絶対に必要で不可欠な要素であると。
普通は未亡人の方が選ばれるようですが、財政状況が思わしくない下級貴族の令嬢がされることもあると教師陣より諭されて、わたくし達婚約者たる者一同は苦渋の末、飲み込むことに致しましたの」
「?!!! きょ、教師陣、から?」
「な?! 違う!」
「ひどい。そんな貶しめは酷すぎです!!」
さすがに演技しきれなかったのか、それまでどこかイリスを嘲るようなニヤけた表情をしていたマリアが真っ青になってイリスに食って掛かった。
しかし、必死の表情で詰め寄る者たちを物ともせず、イリスはいっそのんびりとした様子で言葉を返した。
「違うのですか? おかしいですね。学園内の記録にもそう記載されておりましたが」
おっとりと頬に手をやりながら困ったような表情でイリスがそう口にした時、招待客の間で軽くざわめきが起こった。
入口に近い場所に陣取っていたケインたちの後ろから、該当するページを大きく開いた、黒い出席簿が差し出されたのだ。
そこにある記載を確認したイリスが、表情を明るくしてケインに話しかけた。
「あぁ、良かった。わたくしの記憶違いではありませんでしたね。ケイン様、やはり間違いなく、この学園の正式な記録として出席簿にもきちんと書いてありますわ」
「なんだと!?」
にっこりと笑ったイリスが指し示す部分に、ケインとマリアのみならず友人一同が慌てて詰め寄り顔を寄せ合うようにして確認した。
果たしてそこには確かに、午後の授業の部分に『閨』のスタンプが赤く押された上から担当教諭の名前がサインされた日が何日も記入されていた。
震える手でその出席簿を取り上げようとしたケインの腕が届かぬよう、さっと腕に抱え込まれた。
そうして、そのままイリスの方に向かって歩を進めながら、その人が声を掛けた。
「ごめんね? 今これをキミに渡す訳にはいかないんだよ。この出席簿はこの国の公式文書だし、それを自分勝手に破いたり破棄などとした場合は犯罪として訴えなくちゃならなくなるしさ」
犯罪という穏やかではない言葉に、慌てたケインたちの手が出席簿から離れる。
そうして、その時になってようやく、この出席簿を広げているのが誰なのか、ケインとイリスは認識した。
「……ゼフィール殿下?」
「何故、こちらに…」
名前を呼ばれた生徒が、にっこりと笑顔で応える。
ゼフィール・リプス・アネモイ。この国の第三王子であり、現在この学園の一年生である。本来なら授業真っ最中の筈だ。
「うん。今日は王宮でちょっとした所用があって遅刻したんだけどね、なんだか面白いことになっていると廊下で教えて貰って覗きにきたんだ」
その言葉に、イリスは目を眇める。
興味本位でエリントン家とバーカントン家の諍いへ王家に介入して貰う訳にはいかないと結論づけたイリスは、ゼフィールに対して正論で諭すことにした。
「そうですか。御足労痛み入ります。しかし、殿下はまだ一年生で学年の授業を受ける義務がございます。どうぞ教室へお戻りください」
「えー? でもなんか揉めているみたいだしさ、王族である僕が立ち会った方がよくない?」
首を傾げてイリスに言葉を掛けるゼフィールのその姿は、いっそ愛らしいという言葉がぴったりに見える。
「殿下! そんな女狐に許可を取る必要などありません。そいつは嘘をついて俺たちに卑劣な罠を仕掛ける様な女なんです!!」
そうだそうだ、とケインの後ろについた、出席簿にケインと同じスタンプを押されていた友人たちがガヤガヤとイリスを非難した。
「えー? イリス嬢が仕掛けた卑劣な罠って、例えばどんなのなのかなぁ」
ゼフィールの言葉に、ケインは唾を飛ばしてケインがその腕に抱えた出席簿を指さした。
「それです! その女は、俺たちが友人としての友好を深めていただけのことを歪めて、下劣な噂を撒き散らして嘘の記録をつけさせたんです」
「これ? でもさ。教師はちゃんと事実を確認してから記録してると思うよ」
「俺たちは、ただ皆で個室の談話室で話をしていただけです!」
「んー。でもさ、ならなんで、その子は報酬を受け取ってるの?」
コテン、と音がしそうなほどゼフィールの首が横に傾げ、顎に片手を添えたポーズを取って疑問を口にした。
しかし、訊かれた方は、誰一人その疑問に答えることはできなかった。
質問の意味が判らなかったようだ。
「ほうしゅう?」
馬鹿の様に口をあんぐりと開いたまま、呆けた様子のケインたちに、イリスはため息交じりで指摘した。
「その、いまマリア嬢が身に着けている諸々の物です。それは、ケイン様の名前で贈られた宝飾品でしょう? もしくは後ろにいるどなたかからかもしれませんが」
そう言われて、ケインたちはマリアが身に着けている宝飾品たちを見下ろした。
ケインの紅い瞳と同じ色をしたピンクトルマリンを使った髪留めとチョーカー。
それは一流の細工師の手により繊細な細工が施されていた。とても男爵家で誂えることが出来るものではない。
「それだけではありません。出席簿の記録に基づいて、バーカントン侯爵家からお手当てもマリア嬢の家宛におくられている筈です。それと、ケイン様のお名前で、ドレスや靴などが贈られているでしょう? その予算もです」
「「?!!」」
婚約者でもない令嬢に、ドレスや宝飾品を宛がう意味。
それも、有名な服飾工房による一級品が贈られる。
それが許されることがどういうことなのか、贈る方も受け取る方もまったく判っていなかったのだろう。目が泳ぎ真っ蒼になって身体が震えていた。
「全部現金で、というのは無粋だとされるからねぇ。普通は手を付けずにそのまま現金化されることが多いっていうけど、マリア嬢は着用しているんだね。一度でも使うと換金率が下がるし、爵位にそぐわないものを身に着けていると、そういった役目に付いていると広言することになるから避けるものだって聞いてるけど。……まぁ、身にそぐわぬほど華やかなものを手にすれば、女の子なら身に着けてみたくなるものかもね」
ゼフィールの補足に、マリアが顔色を変えて自らが身に着けていた髪留めやチョーカーを慌てて手で隠した。
それは、男爵令嬢ごときでは決して手の届かないはずの一流デザイナーの手による一級品であった。金を積めば買えるものではないのだ。地位と名誉、すべてを兼ね揃えていなければ、決して紹介すらして貰えない。それがハイブランドと呼ばれるものなのである。
「確かに、高位貴族においては、そういうお役目は大切なものだと皆存じておりますが…やはり未婚の令嬢としてはそういうお役目についておられる方をお傍に置く訳にはいかなくて。距離を置くしかなかったのです」
お判りいただけますわね? と、目線で相対している一人一人に確認していく。
「せめて、ケイン様と御友人の方々が、その講義を学園内で行うような真似をされなければ、こちらとしても気が付かなかった振りができるのですが。あまりに大っぴらにされていたので……対応するにも、選択肢が無かったのです」
「何故もっとちゃんと指摘しなかった!!」
八つ当たりで当たり散らすケインに、心外だとばかりに、イリスが片手を頬に当て嘆息する。
「わたくし、ケイン様と違ってきちんとご指摘致しました」
そう。イリスはきちんと指摘したのだ。
『マリア嬢とのお付き合いの仕方をお考え下さい』
ケインはこれをマリアと話をするなという悋気からの発言と捉えたようだが、イリスとしては閨教育の受け方を改めて欲しい、と伝えたつもりだった。
それ以上直接的な言葉を選ぶことは、未婚の令嬢であるイリスにはできない。
そういうことだ。
「きちんと、ケイン様に『婚約者でもない女生徒と会う際の、適切な距離と場所をお間違えではありませんか』と伝え、話し合おうとも致しました。それを話し合い早々に、鼻で嗤って拒否されたのはケイン様ご自身でしょう?」
「大体、愛する女性が苦しんでいるという訴えについて真面目に取り合わず、わたしに対して告発する時期を見計らっているなど、可笑しいんじゃありませんの?」
許せません。と言葉にしていくに従ってより憤慨していく様子で続けられたイリスの言葉に、ケインやマリアだけでなくお茶会に呼ばれた招待客たちすら目を瞬かせた。
「……イリス、どういう意味だ? 何を言っている?」
「守るというなら言葉だけでなく、きちんと守ってあげるべきです。わたしに厭味を言いに来る前に、いくらでも対処できた筈です」
令嬢達が、何故避けられているのか、その根本原因を教えてくれなかったとしても。
男子生徒達にも良識を持って彼女との距離を置いていた人は沢山いた。そういう方から理由を探ることはできた筈だ。
もしくは、元凶だと思っていたイリス以外の婚約者たちに探りを入れるなり、いろいろと情報を入手する術はあった筈なのだ。
「彼女との閨教育開始日からすでに半年。こんなにもその噂が学外まで届く前に、できる対処は幾らでもあった筈だ」
ついには、イリスの言葉遣いが断罪という言葉に相応しい荒々しいものへと変わっていく
「「「「「が、学外?!」」」」」
赤くなったり白くなったりしていたが、今のケインたちの顔色は土気色としか表現できないものとなっていた。
「わ…わた、し、閨教育係として…そんなに……」
「あ。僕も聞いたことある! 『未婚』で、『10代』なのに、『複数の男子生徒を一度に相手をするような講義も請け負うことが出来る』んでしょ! 卒業後の予約もかなり入っているんだってね?」
ゼフィールの無邪気な指摘に、マリアやケインだけでなく、その場にいた全ての人の顔色が悪くなった。
慌てて会場から出て行く者もちらほら出る始末だ。
それは、マリアのみならずケインについてきた仲間達となんらかの繋がりのある家の者だろう。
しかし、その場に力なく蹲ってしまったマリアはそれに気が付くどころでは無かったし、イリスとゼフィールの追及について否定することすらできなくなっていた。
イリスはケインへの詰問を続ける。
「わたしは、きちんと婚約者との話し合いの下、関係の改善に努めるべく尽力致しました。家の為、閨教育の役目を請け負う気概のある女子生徒の名誉を守る為にも、婚約者の覚えが悪くなることも考慮した上で話し合いを持つべく努めました」
そんなことだとは思わなかったとケインは反論するべきなのだろうが、それ処ではない。ケインにも言葉を発する余裕はなかった。
「それを拒否した上で、更に教育係である女子生徒の名誉を棄損するべく常に男性陣で囲い込み、学園の授業までサボって個室で過ごされたのは……」
晴れやかな。それはどこまでも晴れやかな笑顔だった。
つい先ほど自身へと婚約破棄を告げた男に対して向けるには、これほど似つかわしくない満面の笑み、しかしこれ以上似つかわしい表情はないとばかりの満面の、獰猛な笑みを浮かべて、イリス・エリントン辺境伯令嬢はその涼やかな声で、その決定的な言葉を言い切った。
「ケイン・バーカントン、お前自身だ」
語気荒く名前を呼ばれたケインは、その身をびくりと震わせた。
しかし、やはり反論するどころではなかった。
『辺境伯令嬢との婚約破棄を宣言して手に入れたのは、閨教育で名を馳せた家庭教師だった』
閨教育係と婚約を宣言してしまったという衝撃で、今のケインの頭はいっぱいだった。
閨教育係が事実かどうかはこの際重要ではない。
社交界で噂、それも誰もが知る有名な噂となった事自体が問題なのだ。
少しずつ、ケインは蹲ったままのマリアから離れる。少しずつ。そっと距離を取る。
ケインだけではない。ケインの後ろでマリアを褒めそやしていた男子生徒達も、同じように、後ろへと下がっていく。
「大体、本気でマリア嬢を守りたいというのなら、わたしを断罪できるような大きなことが起きる前に、虐めがあると気が付いた時点で学園に訴えるなり、学園内で過ごす時に彼女のコンパニオンとなる女生徒を見つけるなりすればよかったのだ。それこそが、彼女にとっての救いとなった筈だ」
後ろに座る女生徒たちも、うんうんと頷いている。
大逆転よりも、虐められている時に盾となり守って欲しいと思う。
「それもせず、彼女との甘い時間に酔いしれて過ごすなど。恥を知れ」
そこまで言いきった時、ようやくイリスは、ケインたちがマリアから離れた位置に立っていることに気が付いた。
何故、と考えて、それまでケインは噂を知らなかったのだと頭の中で結論付けた。
なんと狭量なことか。
許せない。
元はと言えば、ケインたちの浅はかさにより洩れた話だ。それなのに。
つい先ほど、自分との婚約を破棄して新たな婚約を宣言した愛する女性と距離を取ろうとするケインの姿に、イリスは眉を顰めずにはいられなかった。
真実の愛をみつけたのではなかったのか。
どこまでも不誠実なケインの態度に、イリスの中で最後に残っていた情が切れた。
気に掛ける価値すらない。そう結論付ける。
「とにかく、婚約破棄については承りました。さきほども申し上げましたけれど、父へはわたしから報告を致します。ケイン様はご自身でバーカントン侯爵様へ」
「やめる」
「は?」
思わず、淑女らしくない間の抜けた声が出てしまったイリスは、恥じ入るように口元を隠した。
「イリスとの婚約破棄宣言を、破棄する。ついで、マリアとの話も無かった事に」
「そんなっ?! ケイン様!!」
必死に取りすがろうとするマリアの手を、ケインがさっと避けた。
その様子に、真実の愛を語ったばかりの口で何を言うのかと、イリスはその瞳に怒りを燃やした。
「冗談はそこまでにして貰いましょう」
初恋を捧げた人だった。
7年も、婚約を交わした愛しい人だった。
この人の為に変わろうと、決意をした相手だった。
今は、自分の見る目の無さが悔しかった。
「ケイン様、ひどい!! 私を辺境伯夫人にしてくれるって言ったじゃないですか!!」
しかし、ケインへの怒りを燃やしている最中であっても、マリアのこのひと言をイリスは聞き捨てることはできなかった。
「どういうことでしょうか? 場合によっては、法廷に訴えることも辞さない」
「言ってない! そんなことを俺がいう訳がない!!」
ふるふると凄い勢いで首を横に振るケインに、イリスは納得しかける。しかし、必死の形相のマリアが割って入った。
「だって! ケイン様は『現エリントン辺境伯の後を継いで東の国境を守る盾になるのは俺だ』っていつも言ってたじゃないですか! その国境を守る盾になる人の奥さんにしてくれるんでしょう?!」
その言葉に、イリスは眉を顰めた。
「ケイン?」
「ま、マリアが勝手にそう思っただけだ! 俺は辺境伯になれるなんて言ってない!!」
イリスはエリントン辺境伯が一女だ。そうして、5つ上にはネレウス・エリントンという兄であり嫡男がいる。
ただし、幼い頃から身体が弱く床についたままであったが、10年ほど前に異国より招き入れた医者が出す薬がよく効いたことから徐々に復調、日常生活に支障のない程度まで回復しており、寝ている間によく勉学に勉めたことにより軍師としての力を認められている。
これによって、次代エリントン辺境伯として国王より許可も得ることができた。
しかし、実際に軍を率いるほどの体力はないと判断され、次代の東の国境騎士団を率いる存在として、長女であるイリスがケインと婚約を結んでいたのだ。
「……そん、な」
がくり、とついにマリアが地に手をついた。
「ちなみに。付け足しておくけれど、ケイン様はエリントン辺境伯の私軍に入隊する予定でした。しかし、わたしとの婚約を破棄した今、それも無効です」
つまりは、だ。
「…………無職」
「です」
・・・・・・・。
「くそっ。だから! イリス、お前との婚約破棄は、破棄してやると言ってるだろ」
「ご遠慮申し上げます。イリス・エリントン個人の気持ちだけではありません。エリントン辺境伯家の一員として、敬意を持てる御方にしか、エリントン辺境伯私軍も、東の国境騎士団もお任せすることはできません」
その言葉に、ケインが反射的に言い返した。
「そもそも! お前が、教育係のことを周囲に言いふらしたんだろう?!」
「そんなことしてません! する訳がない!」
「嘘だ! お前以外の誰がそんな話を周囲に漏らす?」
「むしろなぜわたしが、婚約者の不名誉な話を周囲に吹聴して廻るのです?」
婚約者の不名誉は、イリスのみならず、婿として迎え入れるエリントン辺境伯家の不名誉ともなる。そんなことをイリスがする筈がない。
「あぁもう!! これだからお前という女が嫌いなんだ! 女は男を立てろよ! 素直に従っていれば、お前のことだって少しは可愛がってやったのに! その言葉遣いも! えぇい、くそっ!!」
自暴自棄にでもなったのか、ケインが腰に佩いていた模擬剣を抜いた。
そのままイリスに向けて、剣を高く掲げる。
「謝れ! お前は、俺との再婚約を大人しく受け入れればいいんだ!!」
「「「「きゃーーーー!!!」」」」
お茶会の席に令嬢達の悲鳴が響き渡る。
部屋の後ろに控えていた教師陣が、ついにイリスの前に割って入ろうとした時だった。
さっと、大きく一歩を踏み出したイリスの身体が沈み込む。
手首と肘の内側から手で抑え込み、そのまま外側に向かって捻るように押し出して剣を奪い取ると、特注のブーツで人のいない方向へ蹴り飛ばす。
そうしておいてから、今度は身体ごと巻き込むようにして腰を落とし、ケインの重心に揺さぶりを掛けたと思うと、一瞬で身体のバネを使って投げ飛ばした。
肘を押さえた手は離さずにいたので、重心を揺さぶられたこともありケインは受け身も取れず、その衝撃をすべて背中で受け悶絶している。
「丸腰の婦女子に向かって剣を振り上げるなど。やはり貴方は我がエリントン辺境伯家に必要ありません」
「ケイン」「大丈夫か」「くそ。女の癖に」
投げられた痛みに苦しむケインに、呪縛から解けたように仲間たちが駆け寄って声を掛けた。
「相変わらずですね、ケイン。剣を手にしているという絶対的有利に驕るからそういうことになるのです。こうした狭い場所での戦闘では、長い得物より小回りの利く無手の方が厄介だと騎士団見習いで共に教わったでしょう?」
周りを巻き込まないことを無意識に考慮して剣を揮うことになるので、どうしても選べる軌道は限られる。
しかも上段に構えを取っているのだ。
剣より内側に入り込みさえできれば、容易い相手である。
「くそっ。お前が騎士団見習いにいたのはもう10年も前だろう! 偉そうに、舐めた口を利くなぁぁあぁぁ!」
ケインの友人がひとりふたりと飛び掛かってくる。どうやら今度は無手、ただし一対多数でのようだ。
「まだ7年前です」
冷静に答えながら、イリスがくるりと身体を半回転させながら身体を沈みこませて、掴みかかってくる手を搔い潜る。
そうしておいて、鉄板を仕込んだ編み上げブーツの爪先で踏み込んだ足の脛を刈るように蹴る。
「1人目」
崩れ落ちた男を盾に同士討ちを仕掛けると死角へと潜り込み、見えない角度から仲間を打ち据えて、動揺するそのみぞおちに掌底を打ち込む。
「2人目」
後ろから殴り掛かってきた男の前で、そのまま高く飛び上がり、くるりと後ろへ着地、首元へ手刀を落とす。
「3人目。…しまった。制服だった」
はしたなかったかと額に手をやり悩んでいる所に横から殴り掛かられたので、すっと首の位置を変えてその腕の軌道を避ける。
攻撃対象を見失い、その勢いのまま前へとつんのめっていく男が「避けるなよぉ!」と泣きながら叫ぶのに、イリスは相手の不可解な要求に困った様子で「そうか」と応えてすぐ傍に立った。
その瞬間、ゴッと鈍い音がして、イリスの肘が泣いている男の脇腹に入った。
痛みに気を失ったのか、男はその場に倒れ込んだ。
涙だけでなく鼻水や涎を流したその身体を、つい避けてしまったイリスは「すまない。つい避けてしまった」としょげた。
「でもこれで4人目、ですね。…一人足りない?」
見回すと、力なく尻を着いた男がひとり、部屋の端で首を振って蹲っていた。
「いえ、…お……いえ、ぼくは、はい、なんでもないです。なにも」
震えた声で懸命にそう告げる男に、残念そうに「そうですか」と答え、服に着いた埃を軽く手で叩くイリスに向けて弾ける様な甘い声が響く。
「「「「きゃーーーーーーー♡♡♡」」」」
「やっぱり、イリス様はお強いですわー」
「うふふ。最後に勇姿が見られて、わたくし幸せです」
「自慢しなければなりませんね」
先ほどまで怯え切っていた筈の令嬢から上がる黄色い声の中、一人の生徒が悠々とイリスに拍手を送る。
「さすがだ、イリス嬢。ようやくその腕の冴えを目にすることができた」
イリスに向けて拍手を送ったのは、勿論この人、ゼフィール・リプス・アネモイ第三王子殿下だった。
黄金そのものの様な金色の髪をした高貴なる下級生に、イリスは口を尖らせた。
「……ゼフィール殿下。この茶番はあなたの差し金ですか?」
「差し金だって!? 僕が? 何故?」
とんだ言い掛かりだといいながらも、その口調は愉しそうだ。
その口調に、イリスは『絶対に、殿下が噛んでる』と確信する。
「それで? ケイン・バーカントンとの婚約は無事破棄されたのかい?」
『無事って…』その場にいた誰もが、口には出さないまま脳内でツッコミを入れる。
「…失礼いたしました。口が過ぎました。そしてわたくしの婚約について、殿下には関係ありません」
「なんだ。令嬢口調に戻しちゃうんだ?」
明後日な方向へ残念そうに言われたイリスの頬が軽く朱く染まった。
いつもこうだ。4つも年下の筈なのに、いつもこの年下の王子と会話していると、いつの間にかイリスは翻弄されているのだ。
兄であるネレウスから紹介を受けた時のゼフィール殿下は、とても好感度の高い行儀のいい王子だった。
神童と名高く、イリスの兄であるネレウスが唯一、軍略で「勝てない」と手を上げる相手でもあった。
しかし、ふたりはその年齢の差をものともせず仲が良い。天才は天才としか分かり合えないのかもしれない。
剣の腕がみたいと強請られて、断った時ですら感じは良かった。
『令嬢として、作法や動きを学び直している最中ですので』とそう断れば、残念だといいながらも、すんなりと拒否を受け入れてくれた様子にホッと胸を撫でおろしたものだった。
ほがらかで、会話も卒がなく、なにより声を掛けると嬉しそうに笑う顔が愛らしかった。兄しかいないイリスだったが、弟か妹がいたらこんな風なのかもしれないと夢を見たほどだ。
そう。夢、だった。
イリスが、婚約者について話すまでのたった数刻の夢。
「……殿下には関係ございません」
イリスらしくない取り付く島もない受け答えに、周囲はハラハラした。
「い、イリス様は、婚約が破談となって少々気が立っているのです」
「そうですわ。まさか、卒業前のお茶会を台無しにされるなんて」
「本当ですわ。すばらしいテーマのお茶会でしたのに。残念ですわ」
イリスと仲の良い令嬢達がなんとか取りなそうと声を掛ける。
それに、そっと笑顔を向けたゼフィールは安心させるように頷いてみせた。
周囲がホッとした空気に包まれた時──
「そうか。無事婚約は破棄されたんだね」と嬉しそうに呟いたゼフィールが、すっとイリスの前に跪いた。
「イリス・エリントン嬢。僕と結婚して下さい。いついかなる時でも、僕は、あなたの笑顔の為なら、なんでもできる」
その言葉に、イリスが目を見開き動きが止まった。
周囲の動きも。
まるで時が止まったかのように静まる中、跪いた少年が少女の愛を請う。
「一生、貴女を傍で支える権利を僕に下さい」
ゼフィールは、そっとイリスの手を取り、ゆっくりとその手の甲に唇を寄せる。その柔らかに色付く唇が触れる寸でのところで、辛くもイリスは自分の手を取り返した。
「冗談はお止めください」
苦々しい表情で、イリスが諫めた。
「えー。ここでお預け? イリス嬢は罪な女性だよねぇ」と、お預けを喰らわされた王子が、へらりと笑う。
その、隙あらば続きをといわんばかりの殿下の態度に、一年前に交わした会話がイリスの脳裏に浮かんだ。
『ねぇ、賭けをしようよ』
朗らかに笑う殿下に強請られた。
『殿下に勝てる気がしないので、お受けできません』
『えー? まだどんな賭けかも提案していないのに?! ねぇ、しようよー! イリスは勝っても負けても損のない条件でいいからさぁ』
『勝っても負けても利があると保証された賭けなど。それは賭けとして成立しません』
『もう! じゃあ、勝手にしなよ』
『はい。失礼いたします』
…もしや、あの殿下のいう『勝手にしなよ』は賭けを諦めたという事ではなく、受けなくても自分は勝手にするから、イリスも勝手にしてていいということだったのではないか。
そんな理不尽な考えが、イリスの頭の中に渦巻く。
「……人が少し考え事をしている間に、何をなさろうとしているんです?」
「え? 婚約誓約書に、イリスのサインを貰っておこうかなって」
イリスの手の上から羽ペンを掴んでいるのはゼフィールだ。このままサインを書いてもゼフィールのものにしかならないだろう。
「この状態で書いても、殿下の手にしかならないでしょう」とジト目をしたイリスが不満げにそういうと「そんなことないんじゃない?」と、さらさらっとサインを書いた。
書き上がった、イリスから見ても自分のサインそのものにしか見えない文字に、イリスは言葉も出ないほど驚愕した。
「?!」
「皆も証人になってね。僕とイリスの婚約を祝ってくれ!」
わっと沸く周囲からの歓声に、ゼフィールは嬉しそうに笑顔で応えた。
「! それはお断りすると」
「んー。イリスにはお断りできない、かな?」
少し困ったようにはにかんだ様子で答えながらも、ゼフィールの顔には一切の反論は受け付けないと書いてあった。
「すでにエリントン辺境伯からも許可を貰ってるしー、というか、これ、ネレウスからの申し入れだもん」
「兄上の?!」
兄から勝手に身を売られたような気がしたイリスは、愕然とした。
「勿論、陛下と王妃からも許可は貰ってあるからね?」
だから、安心して? コテンと首を傾げてそう告げてくる年下の王子に、イリスはぎりりと歯を食いしばった。
「許可、ですか。わたくしには、つい先ほどまで婚約者がいた筈ですが?」
「んー、でもほら。そこは気にしなくてもいいんじゃないかな。もう破棄されてるんだし?」
あれだけ派手にあんな噂が流れた相手を栄誉あるエリントン辺境伯家と縁を結ばせておける訳がないでしょう、と耳元で囁くように諭されて、イリスの瞳が傷つき不安に揺れる。表情を取り繕えなくなり、イリスはそのまま視線を下げた。
そんなイリスの肩を抱き寄せたゼフィールは、周囲に手を挙げて歓声を受けながら、そっとイリスの耳元で囁いた
「……そんな口をへの字に下げた顔なんて、辺境伯家の令嬢が人前でする表情ではないよ。笑って? あとで幾らでも罵らせてあげるから」
イリスは、力が抜けそうになる膝にぐっと力を入れ、辺境伯家の一女として笑顔で皆の祝福を受け取った。
*********
「僕がしたことなんて、ほとんどないよ?」
話し合いを王宮の、ゼフィール専用のテラスへと移し、紅茶の用意をした侍女が下がると、ようやくゼフィールはイリスが知りたいことを何でも聞くがいいと許しを出した。
しかし、イリスが要点を纏めようと苦心している間に、一番肝心だと思われる言葉を、ゼフィールの方から話し出した。
「でもまぁ、あのスタンプを作ったのは僕だけど」
「……スタンプ」
「紅い”閨”っていうヤツ」
良く出来てたでしょ! というゼフィールの言葉に、イリスがぷっと吹き出した。思わず出てしまったらしい淑女らしくないその反応に、顔を赤らめて謝罪する。
「コホン。失礼しました」
体勢を立て直したイリスに、ゼフィールにやりと笑って仕掛けた。
「あぁ、それと昼休みを超えてまで個室を使っている理由を察するように学園に申し入れたのとー、ついでに『子息共の各御家族にきちんと支払いをするように通達した方がいい』と伝えたりもしたかな?」
さらりと白状された内容に、イリスは頭が痛くなった。
「殿下……それは全部ではありませんか」
「そう? でもさ、フツー誰がどう考えたってそう見えるよね」
見えるだけと、実際にそうなのは違う。全然違う。
もし昼休みを超えて個室を使っている時点で教師陣から叱責を受けることが出来たなら、今日という日は全く違う結果になったのではないか。
イリスがゼフィールを呆れた様子で睨むと、
「ハニトラって、”実際にそれが起こったか”だけでなく、こうして”それがあった”と思われるだけで成立するんだねぇ? 怖いねぇ」
勉強になるよねー、とゼフィールがワザとらしく怖がってみせる。
「……ゼフィール殿下。では、彼女が教育係だというのは、殿下の…」
捏造。そう追及しようとしたイリスの口元を、立ち上がり腕を伸ばしたゼフィールの指が押さえた。
「そうだね、捏造といってしまってもいいかも」
女性としての尊厳を台無しにする、ありえない罪の告白にイリスは目の前が真っ白になるほどの衝撃を受けた。
思わずイリスも立ち上がり、殴ってやろうと、手を振りかぶる。
しかし、振り下ろす前に続けられた言葉に動きが止まる。
「彼女やケインたちに閨教育の意識は無かったと思うよ。でもさ、することしてたら同じじゃない?」
「……それは」
つまりは、そういうこと。実際にその行為があったということだ。
「僕としては、遊びで多数とそういうことしてるって烙印を押されるより閨教育でって記録が残る方がマシかなーって思ったんだけど、もしかして令嬢的には男遊びが激しくてって記録を残される方がマシだった?!」
どうしよう?! 小さな親切大きなお世話だったかなぁ、と狼狽えるゼフィールに、それが演技だと判っていても、イリスは力なく答えた。
「……内密に処理して貰うのが、令嬢的には一番かと」
「それは、駄目」
「何故でしょう」
「イリスが、あいつと婚約破棄できなくなる」
それに、あの娘の嘘演技に引っ掛かる子息がでたら、僕は被害者に対して謝っても謝り切れないもん、と続けられたゼフィールの言葉は、最後まではイリスに届かなかった。
「……私の、婚約?」
動揺に瞳が揺れていた。
そっと、優しい笑顔のゼフィールがイリスの頬をするりと撫でた。
「そうだ。安心して? 僕の閨教育はまだ座学どまりだから」
実践は愛する妻と婚姻を結んでからゆっくりとするーって言ってあるんだー、と手にしたイリスの赤味を帯びた美しい髪にくちづけながら告げるゼフィールに、イリスの顔の温度が上がる。
「……そう、ですか」
あちこちに飛ぶゼフィールの説明と言葉に、イリスは頭が痛くなりそうだと独り言ちる。完全に振り回されている。
片手で額を押さえ、大きくため息を吐いたイリスに向かって、すっと一通の書状が差し出された。
「…これは」
先ほど勝手に書かれた婚約誓約書だった。
神殿で戴いてくる正式な書式のそれには、無理やり書かされたイリスの名前の上にゼフィールの美しい書体で書かれたサインが並んでいた。
更に落ち着いてよく見れば、イリスの父母のサインと、ゼフィールの父母である陛下と王妃のサインもすでにされており、あとは提出すればいいだけの状態となっていた。
そんなものを渡されて、どうしろというのかと怪訝な顔をしたイリスがゼフィールを見れば、少し寂し気な笑顔をしたゼフィールが、イリスを見つめていた。
「イリスの好きにしていい」
「わたしの、すきにしていいのですか?」
「うん。破いてもいいし、勿論、そのまま提出してもいい」
まっすぐに、イリスの瞳を見つめるゼフィールの瞳に覚悟が見えた。
「破いてもよろしい、と?」
声に出して確認すれば、より寂しそうに眉尻を下げながらもゼフィールが頷く。
「本当に?」
「勿論。僕の想いはすでに告げてある。あとはイリスが決めて?」
「あの先ほどの告白は茶番ではなかったんですか」とイリスが小さく呟けば、今度こそ顔をくしゃりとさせたゼフィールが、「そこから?!」と参ったと天井を仰いだ。
そうして、すっかり冷めきった紅茶を一気に飲み干したゼフィールは、席を立つとイリスの横まで歩み寄る。
そのまま片膝をついて、その手を取った。
「イリス・エリントン辺境伯令嬢。あなたの笑顔の為なら、僕はなんでもできる。なんでもする。だから、僕と結婚して下さい」
イリスは、4つも年下の王子の手に囚われた自分の手に見入った。
身体が弱く、異国の医者を迎え入れるまで床についたままだった兄に代わって騎士になると宣言したのが4歳。兄に合う薬が見つかり爵位を継ぐことが出来ると王宮より許可が出るまで、7年もの月日を誰よりも強くなるために費やした。
そうして。兄が復調したことにより令嬢として生きることを望まれていると知り、自分のこれまでの努力が無価値であると言われた気がした。
けれど。縁を結ぶように言われた相手は、同じ騎士団見習いの中で己と競い合い高め合っていけると思っていた相手で。
自分のいない練習場ではしゃぐ姿を見つめて、令嬢として生きていこうと青かった空がやわらかなピンク色へと移っていく夕日の中でイリスは覚悟を決めたのだ。
届かなかったけれど。
彼の望むような愛らしい令嬢にはなれなかった。
幼い日々を訓練に費やした身体はどうあっても筋肉質で、剣を揮うことしかしてこなかった手は、いまイリスの手を取るゼフィール王子のものよりずっと硬い。
風呂上がりに侍女たちが香油を揉みこみ努力をしてくれても根本的なところで骨ばったままだった。
言葉遣いも、頑張れば頑張るほどわざとらしいと婚約者やかつての仲間達からは哂われ、油断すれば先程の様に元通りになってしまう付け焼刃具合だ。
──そんな自分だから、簡単に浮気もされるし、婚約破棄を堂々とみんなの前で告げられたのだ。
情けないとしか思えず、イリスは視界が歪んでいくのを止められなかった。
こんな情けない自分が、第三王子の妻になど、なってはいけない。
イリスは覚悟を決めて、ゼフィールから手を取り返すと、その紙を一気に破いた。
「それがイリスの、イリス嬢の答え?」
はぁはぁと荒い息のイリスに向けて、ゼフィールが問い掛けた。
うつむいたままのイリスは、こくりと首を縦に動かした。
「わたしには、畏れ多くもゼフィール第三王子殿下の妻になど、なれません」
絞り出したイリスの返事に、ゼフィールは明るく答えた。
「え? イリス嬢は王子妃になるんじゃないよ? 僕が入り婿になるんだよ。で、軍をイリスが率いるんだよ。説明が不足してたね。失敗失敗」
ハイ、やり直し! そう言って差し出された書類に、イリスは目を見張った。
「え?! あの…これ? え??」
神殿による正式な婚約誓約書には、ゼフィールのサインと、イリスの父母、そうして陛下と王妃のサインが書き込まれている。
そうして、ゼフィールはイリスの手に、机から持ってきた羽ペンを握らせる。
「さぁ。サインして? 嬉しくて手が震えるなら幾らでも言って? 手伝うし、書き損じても大丈夫! 何枚でも予備は用意してあるからね」
にっこりと笑うゼフィールに、イリスは重ねて「無理です」と呟いた。
何度も、何度も首を横に振る。
その顔は涙でぼろぼろだった。
「んーと。何が無理か、僕に教えてくれる?」
ゼフィールがどこまでも優しく聞いてくるので、イリスは認めたくもない自分の令嬢としての至らなさを、訥々と口にしていけた。
「……ですから、まったく令嬢としてなっていない、わたしごときが、殿下と夫婦になるなど」
「ストーップ。ハイ、やり直し。まだ僕の説明不足のようだ」
すぅっと殿下は息を吸って吐いてと繰り返し、んんっと言い出し難そうにして言葉を継いだ。
「僕が、イリス嬢に目を付けた…もとい、イリス嬢のことを気に掛けるようになったのは、未来の側近候補を探して、でのことだったんだ。王宮で、キミはトラウザーズとベストを着ていた。いわゆる子息用の貴族服だ」
だから、令嬢としてではなかったんだよねーとへらへら笑う。
「姿勢よく立って、騎士団見習いの練習を見つめていたキミが気になって調べたらさ、辺境伯令嬢だって知って。吃驚した。でも、…そこからずっと見てた」
婚約者がいるって知って凹んだよー、と腰に手を当てて視線を下に向ける。その姿は本当に残念そうで、嘘は見つけられなかった。
「だから。僕は知ってるよ? キミが、イリス・エリントン辺境伯令嬢が、令嬢としてどれだけ努力をしてきたかも。騎士になると本気で努力していたことも知ってる」
だから、キミの剣の腕が見たいってごねてみた事だってあるでしょう?
そう言われて、そういえばそうだったと思い返す。
「うん。だからね、イリス・エリントン嬢。僕はキミを、キミが思っている以上に知っているつもりだよ」
次々と明かされる告白に、イリスの頭はすでにぱんぱんだった。
頭が悪い方ではないと自負していたが、基本的に恋愛方向にむけての経験値は自身の片思いに関するそれだけである。
男女の駆け引きなど、更に低レベル、ゼロに近い。
でも、ここで流されてはいけないことだけは、判る。
「…殿下はまだ学園の一年生でもあります。これから幾らでも素晴らしいご令嬢と出会うこともおありでしょう」
ですから、と続けるつもりだったイリスの言葉は、口から出せなかった。出す必要がなくなったからだ。
「判った」
ゼフィールが、降参だとばかりにイリスの前に置いたままにしていた書類を下げたからだ。
なんとか説得しようと努めていたのに最後はあまりにもあっさりとしたゼフィールの引き際に、イリスは胸の奥がちくちくと痛むのを感じた。けれど、断ったのは自分なのだと思い直して、その痛みを表に出すことはなかった。
ゼフィールからエリントン辺境伯家のタウンハウスまで送ると申し入れられたが、イリスは固辞した。例え付添人がいようとも、とてもゼフィールとふたりで同じ箱馬車の中にいることはできないと怖気づいたからだ。
王家が用意してくれた馬車へと、ゼフィールにエスコートされて乗り込む。
「これ位は許してくれるでしょう?」と寂しそうに強請られれば、差し出された手を拒否するのは難しかった。
「それでは殿下」
「あぁ、また明日。学園でね」
イリスの学生生活は残り少ないとはいえ、卒業式まであとひと月ある。
とすれば、ゼフィールと顔をあわせることもあるだろう。
そう考えただけで、イリスは自分でも驚くほど動揺した。
この人の、自分をずっと見ていてくれた人の手を離してしまって本当に良かったのだろうか。
今日、あの場所に出席簿を持って駆けつけてくれたのも、きっと偶然ではない。
判り易くイリスにとって有利な証拠を用意しておいてくれた。
でも、そんな優しくて有能な人の手を取っていいのか、自分の価値が見出せない。
『やはり、手を取らなくて正解だ』
そう考えるだけで胸がまた痛くなったが、イリスは懸命にその痛みを堪えて笑顔になった。
「はい。また明日」
「うん。明日から、がんがん押していくことにしたから、覚悟しておいてね」
押し付けられるように渡された、ルリジサで作られた小さな花束に視線を取られている間に、パタン、と馬車の扉を閉める間際に聞こえてきた声は、空耳だろうか。
小さな窓から見える、イリスに向かって手を振る姿だけでは、イリスには判らなかった。
しかし。
「ルリジサの花言葉は、”勇気”、”保護”、”愁いを忘れる”…だったわね」
お茶会の為に調べたばかりだ。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、イリスはその小さな青い花を見つめる。
「いつの間に用意したんだか」
ふわりと立ち昇る、さわやかな香りに思わず頬がゆるむ。
どうやら、イリスに初めてできた崇拝者はかなり過保護で押しが強いようだった。
「生意気。年下の癖に」
そう呟いたイリスの声は、どこか甘さを含んでいた。
ポンコツじゃない(当社比)王子サイドのお話
『瑠璃苣・2 王子side』もよろしくお願いしますですー