告白 8
そのまま、弟を抱え、俊は男を残し家を後にした。家が焼かれ、父親が殺された正確な理由は分からない。ただ、明確なのは、逃げないといけない。その事だけだった。
あらかじめ決めていた、逃走ルートの上に、母親たちはいた。
国境の川沿いの道。
俊は身重の母親、幼い弟と妹を連れて、ひたすらに走った。
素足に突き刺さる石の感覚も、暗闇にねっとりと流れる川も、遠くで聞える銃声や喧騒も、すべてから逃げたかった。
『おじさんの家まで行けば、安全だから』
母親が顔をひきつらせながらも、微笑んだ。その笑みの中に強さと優しさを見出し、俊はいつか自分もこんな顔で笑える様になりたい。そのためには、自分が父の代わりにこの家族を守らねば。
そう、思った、その瞬間だった。
空気が裂けた。
鋭い音が傍を通り抜け、肌を刺す震動が駆け抜けた。
聞きなれたその音に、体が痺れ、目を見開く。
今、微笑みを交わしていた、母親の、その体が跳ねあがった。
闇夜に何かが飛び散り、自分の頬に生暖かな鉄錆びのその液体が散った。
『母さ……ん!?』
だらり、母親はそのまま、笑顔のまま、自分の上に折り重なり、動かなくなった。
母親の肩越しに後ろを見ると、顔を腫らした、あの男が立っていた。
体中の血液が逆流し、体中の毛が逆立った。
俊はその後の自分の行動をよく覚えてはいない。
ただ、それが生まれて初めての人殺しで、その男が履いていた靴が日本のメーカーのものだったのは、その後一度も忘れた事はなかった。
そして、その時、痛感した。
未来はいつも想像と期待を凌駕するのだと。
現実が想像力を凌駕する形で裏切り続けるとしても、こういった形なら、まだこの世界も生きていく価値はあるのだろう。
俊は過去への旅を止め、再び意識を妻の下へと戻した。
いつも、運命は自分に背を向けていると思っていた。
父を失い、母を失い、自分を失い、そして祖国を失った。
そんな自分に安らぎや幸福が訪れるなんて……。
「俊、今日の空も綺麗ね。ちょっと外に出ない?」
妻が独り言のように呟くと窓の外に目を向けた。俊もつられてそちらに目をやる。
遠い祖国へ繋がる空は、今を持っても透明感はなく、その下に広がる社会も未だぼんやりとした焦点の合わないものではあったが、俊は幸福に目を細めた。
幸せとは、何か、確かな手触りで実感しつつある自分には、もう、ここがどこで、自分が何人なのがも関係ない気がしはじめていた。
「父はね、私の存在が大きくなるにつれ、日本人になる覚悟を決めて行ったそうよ」
雪子は何故か誇らしげにそう言った。東吾はここまでの話に、息をつく。
もう、作り話だなんて思っていなかった。完全なリアリティーを感じているのかと言われれば、素直に頷けはしないが、全くの嘘だとも言いきれなかった。
それに、この話の俊と言う男。雪子の父親に当たるその人物の気持ちが、何となくだがわかる気がしていた。
孤独に満たされない気持ち。
居場所のない不安。
過去の自分を捨て、新しい生活に希望を見出して行こうとする、その想い。
自分も、雪子とそうしていきたかったのだ。いや、今でも、やはり自分の腐った過去を清算し、新たな一歩を踏み出すのならば彼女じゃないといけないと思っている。
俊が女を憎い日本人でも愛したように、自分も雪子が殺人者だろうがやはり愛しているのだ。




