告白 12
「私が生まれた時にはね、母親はもういなかったの」
雪子は一度、晴美の方を一瞥してから少し遠慮するような口調でそう言った。東吾もなぜか妙な据わりの悪さを覚えたが、当の晴美はやはり笑みを湛えたまま、二人を見守っている。
雪子はもう一度同じ席に座り直すと、両手を膝の上に置き、その握りしめられた手をじっと見つめた。
そして、寂しげに微笑んだ。
「私にとっては、父との時間が一番幸せだったわ。父にとって、そうでないにしても……」
雪子が物心ついた頃には、父親は諜報部員の仕事を再開していた。
情勢が変わったのだ。
俊の祖国にあり、新しい国の元に監禁状態にあった王族が、同盟国への亡命を果たしたのだ。そして一気に情勢は再び国の復活へと風が吹き始めた。
それまで新国家に虐げられていた元の国民達が、軍部の一部と呼応し、反撃の狼煙を上げた。
各国に潜伏していた諜報部員達の働きも目覚ましかった。大量の外貨の獲得に、中には10年の間に世界的にも有数の軍事企業のトップにのし上がっている人間すらいた。
土地を奪われた祖国は、祖国奪回のそのスローガンで世界を嵐のように巻き取ろうとしていた。
『日本に恩を感じないのかって?感じないね。ここでの生活は単なる夢だよ』
俊は娘に訊かれた時に、そう言ってその優しげな眼を細めた。
雪子は早朝のロードワークの後の、この時間が好きだった。河原を父親と筋肉をほぐすように散歩する。
まだ14だった雪子には30キロのランニングの後のこの散歩が、辛くないわけではなかったが、それでも、父親と唯一穏やかに話せるこの時間を、何よりも愛していた。
この時だけは、二人は父の祖国の言葉で会話した。
河原の風にかき消されるほどのその二人の声は、まるで二人だけの内緒話の様で、くすぐったかった。
時に、英語や中国語、フランス語やアラビア語なんかも混じるのだが、雪子は父の祖国の言葉が一番好きだった。祖国の言葉で話す時、父の声が他の言葉を話す時より少しだけ低く穏やかになり、口数も増えるからだ。
その日も、やはり同じ思いで父の隣に並んでいた。
雪子は幼いころから抱きしめられた事も、繋がれた覚えすらない、父の、その大きな手にその時も触れたいと思っていた。
斜め後ろから見る、父親のその顔はいつも引き締まっていて、遠くを見据えている。朝日に照らされたその目は、明るい亜麻色に透き通り、そこにかかる自分と同じ色の前髪に幾度となく触れたい衝動にかられていた。
いつも遠くを見つめながら歩く父に、一度、何を見ているのだと尋ねたら、父ははにかんで『祖国の空だ。いつかお前にも見せたいよ』と言った。
その言葉は、雪子にとっての何よりの宝になった。
父と祖国の空を見る
その夢は、いつしか夢より現実的で、目標より生々しい、欲望に変わって行った。
それは同時に、顔も見た事のない母親に、勝利したような優越感にも変化した。
父がかつて日本に溶け込むために愛した女。しかし、その女は選ばれなかった。父が祖国の空をともに見る相手に選んだのは、自分なのだ。
指先が掠める度に、ちりっと甘い痛みが胸を走る。
その都度、慌てて父の顔を伺うが、それに彼が反応を示した事は一度もない。雪子は残念なような安心したような複雑な気持ちで、再び父と同じ方向をむく。
ふと、影が目に入った。
朝日に長く伸びたその影は、父のそれとさほどの差を感じなかった。
早く、早くこのような形で歩きたい。
河原を吹き抜ける風に、髪がさらわれる。
ふと、自身の手を見つめてみた。
まだまだあどけなさを残すその手に、雪子は焦りを感じる。
早く、早く……父があの女の、母親の代わりを見つける前に、と。
『どうした?』
父の声に雪子は顔を上げた。首を横に振る。
二人はそのままランニングコースから外れ、土手を駆け降りた。
冬の入口に立ったばかりの早朝の空気は、火照った頬に心地よい。
まだ穂の開ききらない若いススキが金色の朝日の中揺れている。耳に届くのは微かな人の生活の音と、遠くの陸橋を渡る電車の音だけだ。
金木犀の香りがどこからか風に運ばれ、雪子のその白い滑らかな頬を撫でた時だった、半歩前を行く父が歩みを止めた。
どうしたのだと、今度は雪子が首を傾げる番だった。
彼は朝日を背に振り返ると密やかに微笑む。
そして、初めて雪子の頭を、その憧れてやまなかった手でそっと撫でた。
『父さんの「初めて」も、お前の年だったよ』




