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笑っちまうかもしれないけど、多分それは愛だ

作者: 村崎羯諦

 イェム・パーサーは俺が今まで出会った人間の中でも飛び抜けて変わった男だった。いや、変わった男というよりもむしろ、狂った男と言ったほうが正確かもしれない。どいつもこいつも自分のことしか考えられなくなったアメリカ社会の中では、奴の存在自体が一種の気の利いたブラックジョークみたいなものだった。イェムは狂信的な性善説論者だったし、自己犠牲という麗句で自分を偽る妄執的な自殺志願者でもあった。もちろん直接合ったことはないが、磔にされる前のイエス・キリストは多分イェムのような性格の人間だったのだろうし、そして仮にイエス・キリストが現代に産まれていたとしたら、きっとイェムのように吐瀉物にまみれた路地裏でひっそりと息絶えることになるのだろう。そう思わざるを得ないような、そんな男だった。


 俺とイェムが初めて出会った日のことは、瞼の裏に縫い付けられているみたいに今でも鮮明に思い出すことができる。人通りの少ない夜道で酔っ払ったベトナム帰還兵二人に難癖をつけられていた時、そこを通りかかった見ず知らずの男、それがイェムだった。


「おいおい、やめようぜこんなこと」


 イェムは俺とベトナム帰還兵の間に割って入り、ストリップショーの司会みたいな気障でシニカルな声で諭した。


「こうしている間にも地球は回ってるし、ブラウンズビルでお腹を空かせた子供が盗みを働いているんだぜ? それなのになぜ、互いにいがみあって争っている暇があるんだ?」


 それから俺とイェムはベトナム帰還兵にボコボコにぶん殴られ、有り金全部をひったくられて路上に打ち捨てられた。喧嘩が弱いくせになんでわざわざ喧嘩に首を突っ込んできたんだ。身体中にできた痣をさすりながら尋ねると、イェムはコンクリートの地面に寝っ転がった態勢のまま何でもないような口調で答えた。


「助けない理由を思いつけなかったからに決まってるだろ?」


 薬をキメてるんだろうな。俺は納得したふりをしてそうだなと適当に相槌を打った。それからしばらくして、イェムが一度もコカインを吸ったことがないことを知り、俺は奴が本物の変人だと思うようになり、さらにその時、アルコールが一滴も回っていないシラフ状態だったということを知り、イェムが本当に地球人なのかどうかを疑い出した。


 とにもかくにも俺とイェムはこうやって出会い、それからサシで飲みにいく間柄にまでなった。インド産タバコのむせ返るような煙と陰気な客が吐く呪いにも似た愚痴が充満する狭く暗いバーのカウンターで、俺達は水で薄められたジンを片手に色んな話をした。互いの生い立ちや幼少期の思い出、俺たちの人生観、諸々。イェムは誰かが喧嘩しているのを見れば、何の勝算もないまま首を突っ込もうとするし、定職につかずひもじい暮らしをしているにもかかわらず、毎月決まった額の寄付を欠かしたことはない。ホームレスがくれと言えば右の靴を簡単に手放すし、何なら左の靴はいらないのかいと自分から尋ねる。苦しみに打ちひしがれる人間がいれば可哀想にと心から同情し、貧乏ゆえに攻撃的になった人間がいれば仕方ないさと肩をすくめる。


 俺は始め、イェムはどこかの資産家のボンボンで、世の中の汚いものを知らないまま身体だけでっかくなった人間なのだろうと勝手に決めつけていた。しかし、イェムの家庭環境はその反対だった。水商売に従事していた母親はイェムが子供の頃にどこの馬の骨とも知らない大学生と駆け落ちをし、その後イェムはアル中で暴力的な救いようのない父親から毎日殴られながら育てられたらしい。親父はおとなしく善良なイェムの体をいい玩具のように扱い、タバコやライターの火を奴の身体に押し付けて楽しんでいた。これがその時の傷だ。イェムがTシャツを捲り上げると、右の脇腹から胸のあたりにかけてひどく爛れた火傷痕が広がっていた。


「たしかに俺は誰かに優しくされるよりも冷たくされたことの方が多かったし、誰かに褒められるよりも罵倒されたほうが多かったよ。だけどな、それでも。それでも俺は誰かに優しくしてやりたいし、みんなが幸せになってくれたらと心から思うんだ。何度差し伸べた手を払いのけられても、何度親切心につけこまれて騙されても、それでも俺は今にも泣き出しそうなほど困っている人を見ると、助けずにはいられないんだ。なあ、お前はこれが、俺を突き動かしているこの得体の知れない何かが、一体何なのかわかるか?」


 俺はジンを一口だけ口の中に含み、グラスをカウンターに置く。氷がグラスの底にぶつかってカランと音を立てた。笑っちまうかもしれないけど、多分、それが愛ってやつなんだと思うぜ。俺はイェムに精一杯の誠実さでそう答えた。静かだった店内にデューク・エリントンの音楽が流れ始める。誰かが店内の端っこで埃をかぶっていたジュークボックスを動かしたらしい。安物の酒とネズミの穴蔵のような酒場には、彼の音楽はあまりにも上品で、まるで遠い異国の地の音楽を聴いているかのようだった。


「俺もそれが愛であったらどんなに素晴らしいかと毎日毎日考えてるんだ。誰にもわかってもらえないかもしれないが、俺は愛を与える側の人間でありたい。ケバくない母親よりも、殴らない父親よりも欲しくて欲しくてたまらなかった愛ってやつを、俺は誰かに与えてやりたい。そうすることで俺は救われる。どうしようもなく自分が大嫌いで、自分を大事にしようなんて一ミリも思えない人間でも、嘘偽りなく誰かを愛することができるって、俺は証明してやりたい」


 負けるなよ。できるさでも、頑張れよでもなく、俺はイェムにそう言った。イェムはお前らしいよと乾いた笑いを浮かべながら、氷が溶けた水を流し込む。それから俺たちは無言のまま空になったグラスを握りしめ、デューク・エリントンの音楽に耳を傾けた。ちょうどそのタイミングで誰かのグラスが床に落ち、錆びついたシンバルを叩いたような音が店内に鳴り響いた。


 俺もまた、他の人間に自慢できるほどの家庭で育ったわけではない。だからこそ、どうして奴がこんな人間に育ったのか不思議でしょうがなかった。父親に殴られすぎて頭が変になった結果なのか、それとも神が奴に与えた試練なのか。そのどちらにせよ、それは気分が悪くなる話だった。負けるなよ。俺はもう一度だけつぶやく。いつの間にかエリントンの音楽は止んでいて、店の中を再び陰気な沈黙が包み込んでいた。イェムが俺の方を見る。イェムの唇は薄暗い店内でもはっきりとわかるくらい乾き、ささくれだっていた。


 イェムは俺と出会ってからちょうど三年目の晩秋に亡くなった。俺と出会ったあの日のように、道端の喧嘩に自分から首を突っ込んで、黒人マフィアの逆鱗に触れて殺されてしまったらしい。いいやつほど早く死ぬとよく言うし、俺はイェムが死んだと聞かされても、この世の不条理を恨むというような情けないことはなかった。冷たい言い方かもしれないが、広い一軒家のベッドルームで、家族に囲まれて安らかに死んでいくなんて、イェムには似合わなかったし、むしろ奴らしい死に方だと俺は思った。それと同時に俺は友を失った悲しみの中に、一抹の嬉しさを覚えたことも事実だった


 奴が眠る州立の公営墓地には数年たった今でも献花が途絶えることはない。親の墓にも顔を出さない俺でさえも、どうしようもないほど空が青い日には、近所の花屋で買った白百合の花を片手にやつの墓地に足が向いてしまう。俺にはイェムの真似なんて到底できないし、奴みたいになりたいともこれっぽっちも思わない。それでもやつのその生きざまは、俺が知らぬ間に捨ててしまっていた何かを思い出させてくれたことは事実だ。俺が、いや俺たちが、現実という言い訳を使って切り捨ててきた何かを、イェムは最後まで手放さなかった。そう、少なくとも奴は戦い続けた。傷ついたとしても、報われなかったとしても、愛を証明するため、そのために。やつを駆り立てていた何かを、人は強迫観念だとか肥大化した自己愛だとか言って嘲笑うかもしれない。俺はそのことを否定はしない。それでも、言い続けることができたらと思う。笑われても、馬鹿にされても、奴を駆り立てていたもの、それは多分、愛だということを。

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