Vol.6 地獄に落ちた野郎
6.
宇宙飛行士が長い間無重力状態で過ごすことで引き起こされるリスクとして有名なものに、骨の老化がある。何も対策をとらない場合、骨粗鬆症患者の十倍ほどの早さで骨が弱っていくらしい。宇宙からの帰還を果たした飛行士は、地球の大地を踏みしめたとたんに、その強い重力に耐え切れず、歩行はおろか、まともに立つこともできないらしい。
まさに今の僕は、地球へと帰還を果たした宇宙飛行士の気持ちに誰よりも寄り添える存在であった。
「さてクイズです」
クイズだそうだ。
「尾崎くんはどれくらいの時間、タンクの中でぷかぷか浮かんでいたでしょうか?」
「え……? どうだろう……六時間くらいに感じましたけど……」
「正解は三十分!」
「嘘でしょう?」
「ほんとほんと」
「三十分?」
「そう、たったの三十分」
「でも、ものすごい情報量だったというか、まるで生まれてから今までの人生を追体験したみたいに感じましたけど」
「それはさぞ刺激的な体験だったね。夢が見れる機械があったらいいんだけど、そうもいかないからね、とても残念だ」
「夢……」
「ほら、少しうたたねしてしまったときに、ハリウッド映画でも見たみたいに、もしくは延々とクソゲーをプレイしてるみたいに長い夢を見ることがあるでしょう。でも実際はごく短い間眠っていただけ、みたいこと」
泉岳寺さんが熱心に語っているが、話の内容が頭に深く入ってこない。ソファーに腰かけて、ぼんやりと部屋を見渡しながら記憶を整理していく。
秘書さんにセクハラ発言した泉岳寺さんにへらへら笑っていたら急激に眠くなって、そのあと気付いたら水に仰向けに浮かんでいて、そこで極彩色の映像が次々と目まぐるしく頭に浮かんできて、でも体はうまく動かせなくて、五感のどれもがひどく疎ましく感じて「このまま脳みその中を感じることだけに集中していたいな」と思っていたんだけど、映像にメリハリがなくなってぼやけてくるにしたがって、今の自分の状況が怖くなって少し暴れたら、喉に入った液体に溺れそうになって、全力で抵抗していたら扉が開いて助け出されたのだった……いや、急激に眠くなったのはコーヒーに何か睡眠薬のようなものを混ぜられたからだ。それは、いけないことだよ。
「勝手に睡眠薬を飲ませたんですか?」
「ごめんね」
「いやいや……軽いなぁ……。というか、それだけじゃないでしょう。ゲンカクのようなものがすごかったんですが……やっぱり、それって……」
「あれは少し苦いからね、コーヒーに一緒に混ぜてあったんだ。わかんなかったでしょ」
「やっぱり!」
体がふらついてまだうまく制御できない。これさえなければ、今すぐに殴り掛かっていたことだろう。こんなに気軽に人生にかかわるような大変な体験を押し付けられることになると。
「依存性は極めて低いものだから大丈夫だよ。少量だったから、まだぼんやりしてるかもしれないけど、僕の言ってることは聞こえるし、理解もできるだろ? もちろん、これで君の人生に汚点を作るようなことはしないよ、このことは僕たちだけのヒ・ミ・ツ、だよ」
「だからって……」
溜息をつきながら泉岳寺さんの方を睨む。そこに、つかつかと秘書さんが近づいてくる。裸にタオルを巻いただけの僕に、スーツ姿の彼女は覆いかぶさるように抱きついてきた。
「強引なことしてごめんなさい。正直に話しても協力してくれないと思って」
幻覚はもう見えないが、まだ意識が半覚醒のなか、彼女の体の柔らかさやぬくもり、そして耳元で囁かれる謝罪の言葉が素直に脳に届いた。
「本当にごめんなさい」
「……はい」
「恐い思いをさせてしまいました」
「……いえ、大丈夫」
「体調はどうですか、私の声はどんなふうに聞こえてえますか」
「まだふらふらしますけど、そこまでダルくはないです、たくさん眠ったあとみたいな……声は……ちゃんと聞こえてます」
「ちゃんと? もっと詳しく教えて……」
「体に染み込むような……体を内側からくすぐられてるような、背筋がぞくぞくする感じがします……」
「気持ちいい?」
「……ああ……はい……」
秘書さんの手が僕の湿った頭を優しくくしゅくしゅと撫でている。頭から幸せがじんわり侵入してくるような感触。もっと声を聞かせてほしい。声を聞いているだけでどんどん気持ちがよくなっていく。耳元でなんでもいいからお喋りしてくれていれば、そのままイッてしまいそうだ――。
「――じゃなくて!」
「じゃなくて?」
「まず服を返してください、寝てる間に勝手に脱がしたんでしょ!」
「ああ、はいはい」
部屋の隅にきっちり畳まれて置かれてた服を泉岳寺さんが渡してくれる。
「大丈夫? 着るの手伝いましょうか?」
秘書さんが、子供にやるように膝を曲げて座ってる僕に視線を合わせて言う。急に柔らかな慈愛に満ちた(ように見える)表情で言ってくるので、思わずバブりそうになるが、そこは大人なのでグッとおさえる。
「けっこうです、自分でやります」
「ひとりでお着換えできてえらいですねぇ」
秘書さんが頭をなでなでしてくれる。うぅ……。
「タンクの中で尾崎くんがトリップしている様子は、しっかり録画させてもらったよ。いやぁ、いいサンプルが手に入ったよ。やっぱりあの量でもしっかりキマってしまうもんだね。調整が必要だ」
「泉岳寺さん、あなたねぇ……」
「そのまま使うよりも、五感を奪った状態だと没入感が違うでしょ? あ、そのまま使ったときってのがそもそもわからないか、あはははは」
狂ってんのかな?
「尾崎くんどうだったかな、溺れそうになったのはちょっと計算違いだったけど、おおむね気持ちよかっただろう?」
にやにやとこちらを見てくる泉岳寺さん。何かに負けたようで悔しいが、確かにあの頭の中に湧き上がるイメージ、そして解放されたあとも五感が普段よりも鋭敏になったような感覚は恐怖もあるが、それ以上に抗いようのない心地よさだと言って間違いないだろう。
「京子はねぇ、僕たちから格安でこれを買い込んで、一人でずいぶんと楽しんでいたみたいだけどねぇ、やっぱり今回の尾崎くんみたいに事故っちゃうんだねぇ、監督する人がいないと」
もしかして――。
「――もしかして、客にこんなもの売りまくってたりしませんよね?」
「いや、お客さんにはそのまま売ったりしないよ。あくまで、タンク内での瞑想体験にもっと深くて新しい刺激を足したくて模索中なのさ。京子もモニターのつもりだったけど、こっちの注意を聞かずに一人で使っちゃうから」
ヤク中とセックスして金をもらっていたのか僕は。ガーン、100メガショック。
「尾崎くん、じゃあ約束のお金だよ」
渡された封筒には、最初に言われていたよりもかなり多い金額が入っていた。その額十万円なり。
「三十分の治験で十万円! まぁ、その内の五万円は……ね、そのお金をもらうってことは尾崎くん、わかるよね?」
口止め料ということなのだろう。
「京子からだいたいの人柄は聞いてたから信用はしてるけどね。尾崎くん、強制はしないけど、またヒマな時があったらぜひ遊びにおいで、いろいろと試したいこともあるし」
金額を確認した僕は、震える手で封筒をしまった。とんでもないことに巻き込まれてしまったものだ。誰かに相談したものか、いやしかし……。
三日後、僕は再度両国のリリーズ・ファウンデイション・ジャパンへ来ていた。
「やぁ尾崎くん、また来てくれたのか」
「泉岳寺さん、面接また落ちちゃいました。お金が必要です。バイトさせてください」
「おお、なんて良い笑顔だ! また来てくれると思ってたよ」
地獄でなぜ悪い。いくら体がボロボロになろうとも、僕はこの女装趣味のヤクザからもらえるだけもらってやろうと心に決めた。