Vol.5 Lucy in the Sky with ほにゃらら
https://www.youtube.com/watch?v=xxaOItEmu3U
5.
翌日、雲一つない快晴であった。目的地が自宅から、ロックバンドのイエスの『Close To The Edge』一曲分もないほどの距離しか離れていなかったので、京葉道路を自転車で軽快に飛ばして、隣駅の両国へと向かった。それほど近い、ということを言いたかったのだけど、逆に、長い曲だなぁとそっちの方に僕の意識が向いてしまったので、このたとえは下手だったな。「自転車で十五分くらいだった」ということだ。
泉岳寺さんから渡された地図を見ながら、駅からさほど離れていない住宅街の中をうろつく。小さいスーパーがある通りに建っているビル、そこのテナント表にたしかに教えられた『リリーズ・ファウンデイション・ジャパン』の名前があった。下心と提示された金額に思考停止して、まともに聞いてなかったけど、いったい何をするところなんだ? ファウンデイション……財団だっけ……?
エレベーターに乗って、入り口を抜けて泉岳寺さんの紹介で、と名乗って受付もパス。事務所内の突き当りへと案内される。簡単なパーテーションで区切られたそれぞれの中から電話をしている様子の声、カチャカチャとキーボードを打つ音、などが静かな事務所の中に響いていた。白い天井、白いカーペット、清潔だけど、少し殺風景な感じがするな。デッドスペースに観葉植物を置いて間を埋めているけど、それが一層うらさみしく感じる。無機質というか、作られてまだ日が浅いんだろうな、という印象。
受付のおじちゃんに連れられて突き当りのパーテーションの隙間から中に入ると、そこには泉岳寺さんが座って……いた……のだけど……?
「ああ、どうも尾崎くん、お待ちしてました。改めまして泉岳寺ひかるです、昨日は持ってなかったんで、今日は名刺もお渡ししておきますね」
「ええと? 尾崎です? どうも?」
語尾がハテナになってしまった。目の前でスマートに名刺をこちらに渡して白い歯を見せて笑うイケメンはたしかに泉岳寺と名乗ったけれど、男もののスーツがバシッと決まっていて、昨日はあんなに艶やかで長かった髪は短く刈り込んであり、黒ではなく金髪だった。
「働くときはちゃんとした男の恰好だけど、プライベートではウィッグを被って化粧もしてるんだ。いやぁ、気付くだろうと思って言わなかったけど、まったく気づかなかったよね? っていうかちょっと勃っ――」
「――ってないです!」
そんな挑発的なツンツンの金髪がちゃんとした格好とは一体どういう感性をしてるんだ。よく見るとシルバーのピアスまでつけてるし。女装してるときだってドギツい色のポシェットとパンプスだったし。あ、メガネしてない。
「ははは、メガネは伊達だよ」
喋り方まで変わってしまうのか……。気の弱そうなおどおどした長身の美女の正体は、快活に笑うヤ〇ザ風の男だった。昨日はあんなにエロく見えた笑うと細くなる目も、今では蛇とか化け狐のように見えてきた。あー、化かされたーー。バカだったーー。
下心は砕けてしまったけど、それでも仕事を頼まれてここに来たのだ、この際お金がもらえればいいか。
「京子とどれくらい話したかはあまり知らないし興味はないけど、でも事務所に出入りしてたんなら、タンクのことは知ってるよね、尾崎くん?」
「ああ、まぁ……多少は聞いてますが……」
「実際に中に入ったことは?」
「一度だけ、ほんの一時間程度ですが」
「じゃあ、あまりピンとこなかったんじゃないかな」
「そうですね……温かい水にぷかぷか浮いてて……少しうとうととして……外に出たらスッキリしたなー、とは思ったけど、そのくらいですね」
「うんうん、その程度であればそんなもんだろうね」
泉岳寺さんの態度は、本当に昨日とは打って変わって堂々として、というか威圧的にすら感じるものだった。同い年とは思えない。人に使われるのではなく、人を使う側の人間だ。お祈りされる方ではなく、お祈りする側。雇われる側ではなく、雇う側……言い出したらキリがないな。というか、同い年というのも本当か怪しいものだ。
「まずはこのパンフレットを見てほしい」
くノ一みたいに、気配を消して静かに泉岳寺さんの横に立って控えていたメガネをかけた秘書風の女性(どことなく昨日の女装姿の泉岳寺さんに似ている。モデルはこの人だろうか?)が机の上に資料の束を一部、音を立てずに置いた。それはいつかどこかで見たスポーティーな雰囲気の――。
「あれ、これって……?」
「ん、京子に渡しておいたからね、もしかしたらもう見たことがあるかもね」
「アイ……アイソ……タンク」
「アイソレーション・タンク、ね」
物覚えの悪い僕への「呆れた」という態度を隠さない表情で訂正する泉岳寺さん。
「もしかして、横山さんの言っていた協会っていうのと関係がありますか?」
「関係も何も、京子は我がリリー・ファウンデイション・ジャパンの元事務員だよ。簡単なお手伝い程度のことしか頼んでないけど、ここでコネや人脈を手に入れて、タンクを自分で手に入れてえらく儲けていたようだね。尾崎くんみたいな若いツバメを囲ってさぞいい気分だったことだろう」
キョーカイというのは、もっと仰々しい、いわゆる最初に僕が勘違いしたような教会のようないでたちをしていると思っていた。しかし、実際にはこんなにこじんまりとしたオフィス然としたたたずまいをしているのか。
露悪的な物言いをしだした泉岳寺さんを前に緊張した僕は、秘書さんの淹れてくれた来客用の蒼い(青、ではなく蒼)カップに入ったコーヒーを口に含んで、渇いた喉を潤した。少しぬるくなってるので、カップの半分ほどを一気に。あ、おいしい。普段500gで600円の激安インスタントコーヒーばかりをお茶代わりにガブガブ飲んでるので、一気にたくさん飲んだことを少し後悔する。
「専門的な機械だからね、協会にはもう来なくなったとはいえ、仲間のよしみで京子の持っていたマシンのメンテナンスなんかはやってあげてたんだよ」
昔は人見知りで人と話すのが苦手だった、と言っていた横山さんだったが、しっかりとこんな鬼の棲家でサバイブしてコネを作ったりしていたのか。野心家というかなんというか……。
「京子が死んじゃった理由は昨日話したよね?」
「はい、一人でタンクに入ってるときに寝がえりを打って溺れちゃったって」
「でも、本来であれば、あれは眠ってるときに無意識で寝がえりを打とうと思っても、強い浮力の影響で簡単には体がひっくり返るようなことはないんだ」
「誰かに殺された……とか?」
「いや、それはないみたいよ。警察の方にも知り合いがいてね、そこらへんは詳しく教えてもらった」
「え、こわっ」
思わず本音が漏れてしまった。
「住人が発見したとき、京子が暴れてタンクから漏れた水で床がびしょびしょだったらしいんだ」
「溺れたら、まぁそうなりますよね」
「京子は中で眠っていた、とそう言ったけど、本当は違うんだ」
泉岳寺さんがにやっと笑う。う~ん、いちいち怖いな。
「京子はね、気絶していたんだよ」
「気絶……ですか?」
「うん、タンクの中でね、ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンドしてたわけだよ」
は?「は?」思わず脳と口が直結してしまった。
「ごめんごめん、ボカした言い方ならこれが一番だと思ったんだけど、逆にわかりづらかったかな」
「いや、同い年なのにずいぶん古臭いたとえ出てきたな……と……」
「まぁゲンカク剤だよね」
ズコー。言っちゃうのかよ。
「アイソレーション・タンク自体が、もともとは五感、身体的な感覚を制限することで脳の活動を極端に活発にして、瞑想したりして自分を見つめるものなんだけど――」
やばいやばい、語りだしたぞ。
「――そこで深い陶酔感を覚えるのだよ。……そこに、まぁいろんな薬物を使ってさらにそれを高めると、ヒジョーにキモチが良くなるそうなのだよ」
「そ、そうですか……」
「引いてる?」
「少し……」
「気持ちはわかる」
じゃあ配慮してほしい……。
「京子はそこで容量を間違えたみたいだね、あまりに多く使って、タンクの中で幻覚でも見ながら暴れて、うつぶせで気絶しちゃってジ・エンド。僕はこう聞いてるよ」
さいですか……。
「そこでね、二度と京子みたいな事故を起こさないようにね、尾崎くんにちょっと協力をしてほしいんだよね」
協力する会、だもんね。でも僕は協会に入ったわけでもないしな。
「なに、一種の治験だよ」
「ちけん?」
「新薬の効果を詳しく調べるための、臨床試験だね。そのモニターになってほしい」
「ここは製薬会社なんですか?」
泉岳寺さんは口を閉じたまま三日月のような形にして鼻で笑う。目は眠たそうに、半開きだ。
「いんやぁ、違うけど」
「依頼を請けて代行してる?」
「細かいことはいいじゃない」
いくないよ。
「ま~ま~、ちゃんとお金は取っ払いで渡してあげるし、素直に協力的になってくれたらちょっとエッチなサービスくらいはしてあげるかもよ、そこの秘書が」
電源を抜いたペッパーくんみたいに黙って身動きせず立っていた黒髪メガネ秘書のお姉さんが、視線だけ動かして泉岳寺さんの後頭部を睨んでいる。
実際どうなんだろうか、清潔感があってシュッとした雰囲気の美人さんだが。僕と目が合った秘書さんは表情を一切崩さずに美しい動作で中指をピシッと天井に向けて突き立て、また元のように体の前面で手を組んで待機のポーズに戻ってしまった。あまりの流れるような自然な動きで、一瞬それが何かビジネスマナーに則った儀礼的なジェスチャーであるかのように錯覚してしまったが、そんなわけはなく「(何を勘違いしてやがんだ)くたばれ」という意味のごろつきのやる下品なハンドサインであった。間違っても「この中指で文字通りお前をファックしてやる」というポジティブ(?)な意思表明ではなさそうだ。
現場のムード、一天にわかにかき曇る。険悪な雰囲気を作った泉岳寺さんのくそセクハラ発言に貧弱な愛想笑いをしていると、体が熱くなっていることに気付いた。いや、最初は空調があかんのかと思ってたけど、まるで風邪を引いたみたいに体の奥からじわじわと熱がこみあげてくるような感覚でそれは違うと気付いた。
泉岳寺さんと、来客用のソファーに机を挟んで対面する形で座っていたのだけど、猛烈に湧いてくる熱、そしてダルさにどうもそのまま横になってしまいたいような衝動に襲われる。
「さて、そろそろいい感じに効果が出てきたかな。尾崎くん、体が熱かったら服は脱いでもいいからね」
「はい?」
「と言っても、もうじき身動きが取れないくらい眠くなると思うけど」
たまらず、だら~んと深く腰掛けて柳の枝もかくやと首をうなだれる僕。いかん、眠いというより意識が遠のくような感覚……。
「悪いね、普通に頼んでも断られそうだから、コーヒーに少し眠くなるのを混ぜさせてもらったよ」
「へぇ~……」
まともに反応もできない。もっと他に言いたいことはあるんだけど、口からはただ意味のなさない音が漏れるだけ。よだれがぽつぽつと床に垂れて小さな丸い染みを作っていくのが見える。見える。見える。ぼやけてくる。かろうじて見える。見えない。
僕はそのまま真っ白に燃え尽きたボクサーみたいな姿勢で深い眠りに落ちてしまった。