記憶の確かなうちに
祖母と別れた 宮崎から フェリー乗り
関西へ帰る前
また 会いましょうと いう言葉を胸に
現在は、その日から また10年が過ぎ
今年の正月に 祖母からの年賀状にて
施設に入ったことを知り
2ヶ月前に 祖母宛に 施設に電話
そして Facebookにて
私の存在すら知らない
又従兄弟とFacebookにて 繋がる
最初は 半信半疑だったと思われる
初めてのお互いの声
そして いつの日にか
インターネットにて 家系図を調べていた頃
急に 夜中 2時に 目覚め
パソコンに 向かい 宮崎の祖母に宛て
3千文字を超える文章を 打ち
出来上がるまで 毎日のように
背中に何かを感じ 寒気を覚えながら
仕方ないなと 終わるまではずっと
こんな感じだからと 諦め
いつの日か 文面も 今の様に
変わっていったのが 文面でも
伝わるだろうか?
夜中2時に 背中に気配を感じ
手書きでは 到底無理なのは今でもだが
慣れない手つきで 祖母に宛て
文面を 送り
元気になった 祖母に電話をして
大伯父に この文面を見せて欲しいと頼んだ
夜中2時に 私の姿を借りて
パソコンにて文面を 打たせていたのは
当時 危篤状態だった
大伯父で あったようで
脳梗塞から 数ヶ月後
危篤状態から 復活した
大伯父に 私の文面を
祖母が 見せたようだ
祖母からその後 連絡もなく
数ヶ月後 連絡をした
大伯父が 無事に復活した
祖母から 私宛に 1通の 大きな包が届いた
中を開けて 何が入っているかの確認をして
数枚の写真の アルバムと
大伯父の 若い頃
遠くフィリピンにて 捕虜になられ
米軍の捕虜になり
マニラにて 終戦後
米軍の教会にて オルガニストとして
作曲していた 楽譜と 今まで調べた 家系図の
元になる詳細と 産まれてから戦時中
戦後と 色々と書かれた 自分史が届いた
今までに貰った全ては 写しではあるが
全く世の中に知られていない
戦争の資料である事は 間違いないのである。