↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

楽日へ

作者: 旗谷早織
掲載日:2016/10/27

  十六歳の初夏に出会つた精神科のお医者様に

       綿菓子のかけらのやうな愛をくれた人 巡り逢つたのは恩寵だつたのでありませうか

                                      旗谷早織歌集  


       


楽日へ


 楽日へ 目次


 ロック

 豆狸

 手つかずの闇

 折箱

 春惜月

 詩人

 仮橋

 水仙

 伊丹駅

 中学教師

 あんけらそ

 シジフォス

 果たし状

 生命保険金

 けさらんぱさらん

 タトゥー

 子のゐぬ部屋

 私も泣いた

 ダニ

幻の帯

 箱

 あづさ

 できるなら

 楽日へ


 あとがき


 解説  大島史洋



 

 ロック


 鉛筆にロックと名前をつけてゐる少年がゐたある学校に


 組の子がロックを取つて逃げて行くロックロック返せロックを


 おいお前はこつちをロックと言つてたぞとなりのやつが笑つてやがら


 やつとロックを取り返してしまふ缶ペンにこの子もロックどの子もロック


 給食のご飯にゴミをかけられたぼくの悔しさロック知つてる



 缶カラをけとばし帰つて行くぼくのランドセルゆれロックもゆれる


 これ以上削れなくなつたぼくのロックここまで使へば本望だよね


 背の高いロックが一本仲間入りきれいに削つて端へ並べる


 すつきりと削つたロックを背の順に並べて入れて一日終る


 学校は行くしかないから行くんだよ尖つたロックを一緒に連れて


 鉛筆に万里矢(まりや)と名づけ影のやうに少女がゐたねあのクラスには



 豆狸(まめだ)

           雨のしよぼしよぼ降る晩に豆狸がとつくり持つて酒買ひに

 雨の夜の帰り路すつと足もとに何か生き物擦り寄りて来ぬ


 抱き上げて見れば狸の子やないか泥にまみれて毛ははげちよろけ


 おやあんたこんな時間にどないした家は近くにあるのんか


 母ちやんに買(こ)おたお酒が無(の)おなつたこのまま家に帰(い)なれへん           


 かはいそにそんならうちに寄つていき体を洗お お酒はあげる



 とつとつと徳利に酒を入れるけど何ぼ入れても酒がたまらん


 術ないなあ(じゆつ*せんすべもない)この徳利はもうわや(*だめ)やあじやらもくれん(*とんま)と 張り倒される


 うちにある古い徳利をあげるから泣くのは止(や)んぺ大事ない


 徳利を貰(もろ)てもうちはかいしよなしうたとい(*なさけない)なあお礼に何もあげられへん


 縁あつてあんたと会へたが嬉しいねんなんのお礼がいるもんかいな


 家中を豆狸ほたえてかけまはるでんぐり返つて蛇(じや)の目になつた



 手に取つた蛇の目あちこち破れてる柄の細さこれで生きて来たのか


 破れ傘くるりまはつてばあと言ふ童女がそこににつこりしてる


 とつてれちん童女すまして踊り出す赤い着物のほつれかぎざき


 いつまでもここにゐたかてかまへんであんたほんまにかいらしわ


 かいらしかほんまにここにゐてええか何の役にも立てへんで


 手を握り童女の瞳を見つめると目をしばたたきこつつりこん(*頭と頭がかちあう)す


大きにせやけど親が待つさかい早う去(い)なんとどもならん


 徳利を背たろて(⁂背負つて)豆狸が帰りゆく雨はあがつて月は十五夜


 置いて行(い)た豆狸の徳利を耳に当つゴオゴウゴゴッと嵐の音す




 手つかずの闇


 竹に棲む怒り一途に伸びむとす封じられゐる手つかずの闇


 銀の衣(きぬ)着せよ黄金の衣着せよ行きて戻らぬ日々の言葉に


 世の外へ夢を誘(いざな)ひ封じゆく風の出入りの戸はどこにでも


 ガラス器の傷そのままに凝りゐるゼリーに冬の苺を飾る


 落書きを疎み機械に吸はせたる千円札に幾許の釣り



 干し柹を吊るす向かふに暮るる空冷えつのりつつ急かれゐるなり


 天地を揺るかに怒る母の声わが人生の始まりとなる


 突然の折檻ののちその膝にわが泣くことを母は許しぬ


 他人への不満吾に向け打ち据うる母の怒りを誰か鎮めむ


 家内(いへぬち)に他人(ひと)住まはせし二十年苦しみの外にをりし父はも 


 飼育箱に羽化して羽の伸びきらぬ揚羽を夏の空へと放つ



 新しき仕事に行きし日のわが鳩の死の顛末が思ひ出せず


 風といふ言葉知りたるをさな子は全身に吹く風を喜ぶ


 哀しみを聞き終へて立つたまゆらを群鳥の声空に満ちたり


 傷を負ふ前をまどかにしづもれるほろほろ鳥の卵を茹でる


 前(さき)の世の野にひとつぶの鱗粉を忘れ来しゆゑ憂ひは零る


 すれ違ふをさな児の手に触れられて膝は花芽の熱持つごとし



 世の外より来てわが胸を叩きたる風かも蝶のつと流れたる


 蹴るによささうなこの石蹴とばさむ負け癖ついでに蹴とばしやらむ


 山藤の紫あまた積み込めば香ぐはしき屍を匿せるごとし


 全身に満ちし怒りは体内にか黒き痣を残してやゐむ


 金網を乗り越えながら呼び交はす少女等女言葉を捨てて


 約束をその場しのぎに父は老いまた夢にたつガラスの船が



 行き方はもう変はらない冬の朝はなびらうすき梅が匂へり


 わが父を父と呼びゐる奴の妻が着てをりわれと同じ喪服を

 

先生にほめられし子は饒舌に胎児の頃の夢におよべり


歌仲間が周囲の勧め断りがたくファクスを購入したるを祝ひて一首 (返歌は意味不明なれば割愛す)


 結び遣る花のひとえだ持たざるを瞬時に届くファクス頼もし


 君の心にわれは今ゐむファクスより白き翼が渡り来るなり


 小夜ふけに煮かへす鍋の肉ゆれてもの食むことのふいにかなしも


生きてゐてくれてうれしと我知らず勝手なことを口走りたり




 折箱


 昔見しひとりの少女 折節に目交ひに浮く 初詣に行きし神社の


 境内に乞食の多く その中に少女がひとり 八歳の我とおなじき


 年頃にありしならむか 前に置く折箱の中


 一円の金もあらずと 目の端に見つつ行く時


 かの少女立ち上がりたり その拍子つとよろめきて



 折箱を踏み割りたるに 胸衝かれわが見てをれば


 毀ちたる箱一瞥しいづこへか去りてゆきたり襤褸(らんる)の少女


 幸あれと告ぐべくもなく見送りし後姿をいつまで思ふ




春惜月(はるをしみづき)


 人を喚ぶ片方の靴月光に冷えきはまりて鉄路の傍へ


 次の世に修繕をせむ壺一つ水の漏るるを抱へゐるなり


 怒り草ぞわりとうちのリア王が末の子を今し責めむとするよ


 陽だまりの遠き記憶にきらめきて一樹黄金の葉をふりこぼす


 明け方のあなたの夢に届きしかわが送りたる銀の淡雪


 いつしらにこぼれゆきたる思慕にして白露清明推し移るなり


 着たきりのうすもの剥がされゆく寒さいつまで彼の繰り言つづく


 けがをせし一日終わりて脱ぐ服の思はぬところに血がついてをり


 ありなしのストッキングに包む脚かく無防備に街を行き交ふ


 裏表向き不同なる三千円受け取りし日に使へばはかな


 学校にゐるべき時を末の子は卵御飯をすすりゐるかも


 呼び捨てのわが名聞きつつしばし待つ電話の向かうに協議のすむを


 公園に一日逃げゐるわれの子を思へば鳴るなり身内の鐘が


 あかんたれの我とわが子を地の上に攫ひ残して風の遠退く


 光降る春惜月吾を叱り葉書ひとひら舞ひ込みにけり


 虚ろなる闇の底ひを探りつつ返す言葉を組み立ててをり             


 少女期の我の立場を告げむとしワープロを打つ全身震ふ


 大空ゆこぼるる砂を受くる背にこれ以上載らぬ一粒が降る


 わが親に回路を閉ざしゐる日々は己が足場の揺るる心地す


 思はざる人の謝罪を読むものか花の便りの末尾数行


 一族の一人が我の苦しみを受け止むるまでの四十五年


 読み終へし吉野の桜野田の藤償ひは心のみ受けとめをかむ


 魂の奥に灯りし一言の息づきてをり日数経てのち




 詩人


 一枚のシャツみづからに選ぶさへ吾を超えてなほ吾を統ぶるもの


 夢に会ふ君との距離の近づけば立ち直りゆく明日と思はむ


 わが丈を追ひ越さむとする少年に日々膨れゆく闇あるらしも


 路地裏にピエロの服の干されありわたしに似合ふ上着捜す日


 花束を持ち行きわれの健康を見せつけたりき逝きてしまひぬ


 星を売る店に会ひしは人違ひ夢の銀河をなほ渡り行く


 我(が)を通せし子をつくづくと見てあればわが方を向きにつと笑ひぬ


 座礁してこれの世にゐるうつしみがひとの悲恋を聞かされてをり


 死に帳に記載ふえゆく日々に辛抱は毒努力は不徳

   *死に帳 回収できない売掛金を記入してをく帳面

 わが言葉が通訳されてゆく時の異国語といふ深き混沌


 振り向かば異界への道あるごとく火打二丁目土砂降りとなる


 うつしみの寝入りて夢に帰りゆく白き館を君見かけずや


 女装するわれと思へばなほ揺れてなほも輝くイヤリング選(え)る


 よるべなきわれに詩作をすすめつつ君は詩人を蔑(なみ)してゐるね


 稲の花散りゆき君の記憶よりわれは絶えざる剥落をなす


 家猫の吐きたる草のひとつまみ石の上にて日に晒されぬ


 きやしやな靴は捨ててしまはうあの人の意地悪に負けてばかりで


 児のごとく愛してくれといふ声の痛しよ花咲くキャベツのかたへ


 学校へ行かず寝床に漫画読む蹠いまだみづみづしきを


 鳴きかはす小鳥の声のそこここに閏三月立夏快晴


 相良宏歌集借りたり懐に野鳩を抱くごとく帰り来


 手から手へ写し継ぎたる歌集なり故人の声聞く思ひに写す


 仮の世の仮の夫子(つまこ)に今宵焼くカンガルーの肉臭ひたつなり


 褒め返す言葉をさがしあてぬまま会話拙く終らせゐたり


 うつしみの日々の汚れを希釈して水やはらかに地下へ入り行く


 手を拭ふせつな背後を掠めたる記憶の尾羽根大きかりしか


 ヨイ人トヨソデ言ハレテホラアンタノ子供ノ背ナガコンナニ冷タイ


 億劫の彼方の星の濁流をもう一人の我がひとまたぎする


 ほころべる母子三人(みたり)がはすかいの吉田戦車をまはし読むなり


池(*)の端(はた)のずいきがようもその口でわが隣席にべんちやらをする

*池(・)の端のず(・)いき  いけず


水つかふ音にまぎれて何処へか放ちやるべきものの咆哮




 仮橋


 引き放つ矢が標的を射抜く時真水の匂ひ立つやうつしみ


 甲矢(はや)逸れて乙矢(をとや)番へむ身の震ひ仆されたとてこのままはいや


 あづさゆみ春の夜の夢聞きたれどここより先は君ひとり行け


 夢醒めておのれ何者目を凝らし見るは吾を巻く深き夕霧


 還らざるものを悼めばうつし世を流れてわれは時を往く水夫(かこ)


 職業はバチカン市国公務員 記憶の隅の銀のロザリオ


 言の葉に作りて遊ぶ箱庭を囲めるは海真青渦潮(まさをうづしほ)


 大いなる宝欲しくば大いなる敵とまみえよ行けロードス島


 忘れたる頃に届きし写真(うつしゑ)は夏の大事の時のきれはし


 桔梗(きちかう)のむらさき褪せて鎮みゆく花の心や大気の傷や


 傷負へる子の魂を呼びに来る月の船かも 耳を澄まさう


 仮橋のなかばまで来て引き返す煮こぼれて火の消えゆく間(かん)を


 影法師かじかみて従(つ)く朝戸出のすぐそこに待ついささかの坂(さか)


 水の上の闇を貫き飛びて来る火矢を誘ふもみづからの所為(せゐ)


 一通の薄き手紙の置き所掲げざらめやここに白旗(しらはた)


 花のやうな赤ん坊一盛り下さいな無人の街に声せりかすか


 ばしばしと伐ち落とす枝射し来たる光は心に届くと思ひし


 風に乗りおほぞら深く渡りゆく冷たき羽の色の様様


 名を呼ぶといふこと優しゆふかげの小さき花に実のなる予感


 吾を探す声ならしばし捨て置かむ束の間の幸ここにある慰謝


 ことのはの末に込めたるしたごころ(*本当の気持)青葉もみぢ葉つらねて捧ぐ




 水仙


 水仙の葉先厚らに生ひ出でてますぐの力雨の底ひに


 上着にて覆ふをののき魂が熱を持つ日はうはべが大事


 また会はう 宙に浮きたる声ひとつ期限の切れし切符のごとく


 言ひ澱むといふメッセージ心から心にノーは伝へられたり


 押し通す力溜めつつ虚しさや普通名詞に母と呼びたる


 取り返しのつくかのやうに長き糸収めて蜘蛛の天へ逃げゆく


 辛抱をしてしまふ癖びつしりと膨れそめたる枇杷のうつむく


 さざなみの恨みつらみに耳を貸すわれの心に鈴の頻鳴る


 会半ば何も言はずに言はれたる言葉この場の詰め物(パツキン)ならむ


 往還の憂さに言葉の洩れし時自転車脇をすりぬけゆきぬ


 果たす気のなく語られし約束を集めて天に送る火のあれ


 


     九八年十二月歌合せ 題 盆

 盆路を心に待てば竹群ゆ渡るいもうと永遠のみどりご

            判者岡井隆氏の好みによりて勝ち


 一族の集へると聞く今日我ははぢき出されて蓑虫となる


 蓑虫のちちよとなくを誰が聞きし襤褸の袋を寝言か洩れし


 体毛のなき哺乳類たつぷりとくるまれよ抱かれよみどりご


 乞ひ目出よあしたは出でよ花柄の遮光カーテン二重に閉ざす


 つきあがる思ひ喉にて堰きし時魂くくと蠕動したり


 背に聞きし声はわたしに掛けたると気づくに遅く人はあらずも


 むく犬が首をめぐらせわれを見る夫の尿を届くる道に


 暗き蜜滾る大鍋いづこにか病者集ふははつかに甘し





 伊丹駅


 屋上より見るわが家の手前には知らざりき車塚仮設住宅一つ町なす


 花の風通ふ仮設の伊丹駅仮の高みへ歩を進めゆく


 若き日に泣きつつ読みし『ユンボギの日記』子に読ませたり泣かざりしとぞ


 魂のカオスに鬱の霧の湧くゆきずりに児の泣く声聞けば


 淡黄の卵塊完く眠りをり金のなる木の厚き葉裏に


 乗り来たる少女の胸に晒されて細き名札はルビのごとしも


 つぶやきは思はぬ距離を飛んでゆき隣室の子の耳を打ちたり


 いつせいに飛び立ち行きぬ近づきしわれに悪意を持つかのごとく


 死んでゆく鹿を抱へて旅をせし夢が一日の伴奏をする


 心まで届かざりける薄倖の言葉は宙に消えてゆくなり


 見て見えず聞きて聞こえぬ日常の節目節目の連帯あはれ


 やすやすと脳に沁み来るメロディーを振り払ひつつ日々の生活


 をのが子に親がむごくは当たるまじ 信仰に似て侮りがたし


 何待つとなく待つ月日袖口の淡き汚れを洗ひて干して


 猫寄らずゴキブリ団子消臭剤清潔といふ毒にまみるる 


 山藤は立夏の風に光りつつ五蘊盛苦を香に放つなり


 降りこめる雨に打たるるビルの窓ひとりづつ人立ちて見下ろす


 宗教は間に合つてないけどいりません戸を閉ざしたりどこかが痛む


 遠き世にわれを呼びたる声あらむ銀の若葉のそよぎの中に


 擦り傷の絶え間なき日々死者たちよわたしを遠く守らせたまへ


 風 光 石 水 樹々の歌ふ声聞こえざるまま川いくつ越ゆ


 子が日がな金紙銀紙に折りゆける動物 足の立ちがたきかも


 少年の指になりたる紙の龍大き翼が身に余るなり


 学校へ行けぬ子の在るままを在らしめよ混沌を揺らしめよ


 林間学校へ子の出欠が賭けられてゐしとふ賭けの多寡は知らざり


 初夏の陽に緑は溢れ母子寮に緊急避難の母子が溢れ


 他人による助けが要ると聞かされてわれみづからを心がゆるす


 わたし宛に召還状は来てゐずや前の世の言(こと)忘れ果てたる


 さまよへる星を軌道に引き戻す大き力はいづこより来る


 流れたき星を留めて今日ひと日わが魂の仕事忙たり


 乾坤を渡りゆく輻(や)の幾まはり幾まはりしていづこぞ我は


 泥(ひぢりこ)を子等が丸めて貯めをりしいつの間どこに消えしひぢりこ





 中学教師

        天使のまねをしゃうとするものは悪魔のまねをするに到る

 そつとしてをいてやつてと頼めるをただ登校を誘ひてやまぬ


 子の教師と喧嘩せぬやう物を言ふ徒手空拳は打たるるばかり


 他の生徒の家庭内暴力を聞かされぬ逮捕せよ担任をその口を閉ぢよ


 不登校の訳をクラスにきて述べよさなくば欠席裁判をせむ


 話し合つてはならぬ場のあり学校へ行くなと今日は子を諭すなり


 登校刺激せよとのマニュアルを頑なにずたずたになるまで誘ひくれたり


 縫合の用意なきまま腹を剖く生半可なる〈カウンセリング〉は


 あんたの目に曇りはないと言ふのなら誰が曇つた目をしているのだろ


 嘘をつきこじらせてをき「煽るな」と中学教師この指導癖


 教師によるプライバシーの蹂躙は多しと聞きてなほ慰まず


 何事もなきごとフリースクールへ振り向かず行く赤きバンダナ





 あんけらそ


 安本丹寸の足りない縄梯子眠れよ夢の空に浮かばう


 けさらんぱさらん粉おしろいを敷きやれどいつまで待つても独(ひと)りの眠り


 ラ有り言葉にしやきしやきしやんと述べ給ふきのうの原つぱ草のそよそよ


 走禽類趾(あしゆび)猛く地を蹴りて帰らずや昔飛びゐし空へ


 羽団扇をどこに忘れたあつち行きこつち行きして天狗すかたん


 あんたはかうかうかうかうと迫られてあんきよろりんの卵からつぽ


 方角を違へて逸る一頭の手綱なかなか放してならぬ


 退(の)いとくれ声をつつしめうちの子は三年寝太郎まだまだ眠る


 事多い日々に埋もれてゆく卵てんてらてんの固茹で卵


 通せんぼ聞かんぼ酔漢(よたんぼ)負けへんであんけら草に花咲かすまで


折句 あんけらそはあほのこと




 シジフォス


手を離せ時の脚より手を離せカウンセリング室は大きフラスコ


向かうの屋根に烏が一羽止まれるを伝へたし誰にも知られずに


夜昼を違ふ二人の兄弟を眠らせよ醒めさせよ彼らの時に


恃めるは終わりあること軍勢が駆け抜けてゆく我らの上を


あれは何であつたのだらう蹴散らして奔り去りにしあまた蹄は


匂ひたつ雨後の緑をさあ心ごらんとわたしの目は誘ふなり


 これの世に送られし時はぐれたるわが守護霊かあらずか風よ


 シジフォスの岩上げおほす力あれたとへばもう君とは暮さないといふ時に


 自転車に運ぶ荷物の少しづつ少しづつ家庭が溢れ出だせり


 新しき湯呑茶碗よ人間に生まれ変はりしを悔やめり我は


 累累たる用なきものを見渡せり あと一押しで誰かが落ちる


 ハンドルを机代はりに名を書かす雨中一片の離婚届に


 梅雨の夜の底に無言の一家族追ひつ追はれつワイパー弾む


 どこでどう間違へたのか立て直さむ時に一人が切り捨て難き


 決断は我の手中にありといへど立ちがたきかも尾が挟まりて


 わが籍に子を呼ぶまでにひと月の法の空白ありとぞ悔し


 ワープロの変換ミスに気づくなく刷りゐるごとしわが生活は


 列島の闇を怪鳥渡りゆく いのちの電話まだ話し中


 うつしみは涙満ちゐる皮袋たぽんたぽんといづこへ運ぶ


 教師達に裏切られし子の自画像は色白き架刑の少女脳天を槍が貫く


 白駒駆る僕を知らずにゐるなかれ身熱深く滞れるを


 膝をつく僕を知らうとするなかれわだつみ遠く潜(くぐ)りたかるを


 天空の果てに大(だい)なる砂時計ありて大なる腕(かひな)伸びたり


 ふつつかに褒め遅れつつ相客の品ある猫と言ふを聞きをり


何故何故何故なぜと言ふのに!火の上の鍋底を奔るバターだわたし


 封を切る時の間胸の高鳴りて短き文の君の抱擁


 まんじゆしやげ白赤黄と咲き継ぎて白と黄色は互ひを知らず




    二年十月七日恩師三宅霧子さん逝去

 是非見舞ひに行つて下さいと添へ書の地図は反故となりてしまひぬ


 いさら波君を誘ひ閉ざしたり美しき声あてなる姿


 一番の愛弟子なりと思ふ人我よりほかに数多くゐむ                        

 わが臥せりゐし間にぐらり時が逝く千波万波に言ふありがたう




果たし状

     ここ数か月 子が慕へる先生とまじなひのかけ合ひつこをしてをりしが

     短歌は強力なるアイテムなりと聞きてきて頼まれて作りたる

 花籠に溢るるほどを持たせてむ我が子と呪ひを競へる君へ


 かりそめのフリースクール幼かる潜龍幾頭集へるところ


 明日葉の強さを給へ山奥の君の老師を呼べど山彦


 さきがけて行く志誰も誰もをのが道行く花よ散り敷け


 彼岸花またの名前を捨て子花ひとの世にある名前悲しき


 切り岸に竦みゐる身に降り注ぐ花 風 光 たまゆらを舞ふ


 誰が吹ける龍笛子らを守りゐるかそけき音に耳を澄まさむ


 真澄鏡(まそかがみ)磨ぎし心のひび割れの華奢にして鋭き包ませ給へ


 六情の嵐の底に眠りゐる花々の種子いまだ豊けし


 置かれたる時と処の星回りみなそれぞれがユニークの龍





 生命保険をキーワードに短歌五首とエッセイを書けと言はれ


 生命保険金


 生きてゐるただそれだけの事だけどわが来し方をほめてつかはす


 命婦忘れ去られて森の奥油揚げ進ぜん苔拭ひてむ


 保留する終(つひ)の一言受話器置き《真実接触》とふ言葉浮かびぬ


 険難な人でも金は稼いでただけど逃げ出すけんのんけんのん


 金を思ひ夫の事故死を願ふ時芯より腐る我と思ひき




       父親のDVに子供達がいつ反撃に転じて 殺さないとも限らない状況に             あつた頃 夫が死んでくれれば 家庭問題と経済問題が一挙に解決する

       のにと思ひ 同時にそんなことを考える自分が 心底なさけなかった       

       やつとのことで離婚できた今 他者の死を願ふ気持からは解放された

       前夫には我々と離れたところで生きてゐてほしいと 切に願ふ





けさらんぱさらん


 君見しやけさらんぱさらん たんぽぽの冠毛に似て 放射状に球形をなす


 白粉(おしろい)の中に育ちて 殖ゆる時願ひをすれば 叶ふとぞ漫画(しよもつ)に読みし


 そを次子が捕へ来たれば 壜に入れ白粉を敷き 朝夕に声をかけゐし


 子の父を置きて住居(すまひ)を 逃げ出せし時も密かに 運びたる宝なれども


 日に月に形崩れ来ぬ くしゃくしゃになりし綿毛は 我々の身替りせりと


 長子言ひ我ら肯ふ 空中を漂ひゐし時 最も美しかりき


 その姿我のみ知ると次子言へば


 彼の記憶に永遠に輝きてあれけさらんぱさらん


 思ひつきりけさらんぱさらん降り来ぬか遠き白粉工場の異変に





 タトゥー


 声合はせわが知らぬ歌うたふ子等いづこの森に入りて行きたる


 バーゲンに子犬は売りに出されをり予防注射済みとふ張り紙を添へ


 くちなはを銜へしいたちを匿したる稲穂はしばし揺れてしづまる


 一斉に礼をさせられ緞帳があがれば日の丸が飾られてあり


 茱萸の実をさと銜へたる椋鳥が電線の上にて嚥下せりけり


 読み継げるマンネリズムの心地よさ蝶のタトゥーの目に浮かぶなり


 言へざりし抗弁ひとつ抱へつつ鳩の糞敷くガード下ゆく


 食堂に線描の裸婦を飾りたる店主の粗野に向きて食むなり


 明けてゆく夜のきれはし消ゆるまで見届けし時列車入り来ぬ


 削り氷のことのは数千わが請ひは遠き心に消ゆべく降りぬ


 道をあけ待ちてやりしを自転車の若者われが見えざるらしも



 


子のゐぬ部屋


入院の幾日か前 もの憂げに子が呟きぬ ぼくはよき人にてありき


まことよき人にてありき 何故(うにゆゑ)に過去形に言ふと 咎むれば今もなほと


力なく答へたりき 初診の日が即入院と あはただしく過ぎたる後に


我よりも丈高き子の 幼な顔折々浮かぶ なにゆゑに汝は生れ来しと


たはむれに尋ねたる時 母我に会はむがためと 間を置かず答へくれしは


三歳四歳(みつよつ)の頃にありしか 治癒の目途いまはたたねば 


子の部屋の床の傷みをかい撫でてまことよき子と声に出でたる


ほめあげてしばしば指圧をさせたりき十(とお)まり五歳(いつつ)の子の力はも




 私も泣いた

  前半散逸

 夜遅く 親族が霊が見えるやうになりぬと 電話にて告げ来 我と

 

 我が守護霊との会話を 取り持ちてくるるといふ内容

 

 私の記憶の源流の 理不尽なる怒りに曝されゐし時 一緒にをりしかと聞けば

 

 私も泣いたと答え それよりいろいろ話をしたる


 むべなりと感じ入りしに 汝も負けてをらずと続けば 信じゐし霊の存在


 たちまちに崩れ果てたり さはあれど止むことのなく 苦しめる魂の奥底


 混沌とうねれる闇に 螢火のごとくほのかに 灯りたるひとつ言の葉 


 これのみは真実ならむ「私も泣いた」


 霊視(み)るは病のせゐと秘めゐつつ霊ありて在るわが親族(うから)はも


 前(さき)の世に剣にて人を殺めゐし我を覚えてゐるや大楠




 ダニ


 人来たりをのが身に巣食ふダニ数多捕へ難きを長々と言ふ


 三本の爪を伸ばして体内をダニが走ると嘆く人はも


 頭から足までダニがわらわらと棲みつけるとぞ我になぜ言ふ


 奇怪なるダニに喰はるる命ぞと言はれてもなあここなをのこに


 人と生(あ)れ煙となりゆくうたかたをな荒れそ噛みそ妖しのダニよ


 あんたも波乱万丈でんなあ さうですあなたがつひに他人で


 夢虫を捕へ損ねてゑたゑたと家鴨もう一羽を噛みに行きたり


 死の前に菓子くれし祖父夢許りのよき思ひ出を残してくれぬ


 廃王の袖に零るる夢見草須臾億劫を那由多ゆたゆた


 あひる子の墓に植ゑたる撫子にくれなゐの雨しげくな降りそ




 幻の帯


 長年を会はずにをりし 母よりの電話にいはく 汝は今日訪なひ来しか


 喪の帯が無くなりてをり 汝が持ちて来たると思ひ 数日を置きてありしが


 今朝みれば帯の裏側目を瞠る美しさなり その帯の見当たらざれば


 知らぬ間に持ち帰りしや 否と言へばすぐに切れたり わが物を取り上げ他人に


 与へゐし母にありしが 霞みたる魂の揺らぎに 顕れしぬばたまの帯


 えもいへず裏麗しき そは汝の持ち物なりと 告げ来しはいかなる謂ぞ


 母老いて初めて呉れし贈り物幻の帯受け取らむのみ


 本当の母がこの世の外に待つ膝を抱えて在りし幼女期


 びすびすと泣いてはるわと声が降る息詰めて堪(こら)えゐる背に


 我にのみ口をきかざり我をうみ弟をうみ我を憎める


 奪はれしものを数へてをりし日にたまゆら薫る花のさやさや

                                            箱

 子の部屋の寝床の上にまつ白な見知らぬ箱が座りてゐたり


 おや汝は箱に変はりてしまひしか 蓋を取らむとせしが開かざり


 夢の中に子が顕れて言ふことに開ケテヨ蓋ヲ毀サズアケテ


 医師に問へば箱になる事はあり得ます二週間分薬を出します


 買ひ物に気が向く時はついて来る地上より少し上に浮かびて


 連れ立ちて行けば思はぬ花吹雪うすくれなゐに箱が喜ぶ


 花咲かす樹の底力生きて在るそれだけに要る気力体力


 時たまに箱を連れゐる人に会へど交はす言葉を互ひに持たず


 コノ箱ノ開ク時期ハマダ蓋ノ裏ノ大切ナコト知ツテテホシイ


 幾年を守りてゆかむ白き箱開かざる蓋の裏の大事を




 あづさ

            過ぎし日々通訳を介して蘭と話したる

 満開の蘭の一鉢わが部屋に思ひがけなく贈られ来たる


 愛らしき名がほしと蘭が頼むゆゑあづさと呼べば喜びにけり


 部屋隅にあづさは花を咲かせゐてめぐりに清き光を放つ


 支柱ありて立ち得ることを不思議とも悲しともあづさは言いぬ


 苦労して目の楽しみに咲ける蘭一つ一つの花の完璧


 花々はみな落ち尽くし残りゐる緑濃き葉は小舟のごとし


 花咲かすひとときのため生まれ着て力尽くせし後の簡浄


 元気かとあづさに問へば喜びぬ花失せてなほ気づかふことに


 我とゐてしあはせなりとあづさ言ふ次ノ世界デマタ会ヒマセウ


 あづさ弓ゐるだけでよい天翔る時まであづさかたへに置かむ





 できるなら


 変に心が緊まるでないかわが言(げん)を捩りて人の投げ返すなり


 一切の苦を償へと迫り来る大いなる飢餓 食はれまいぞ


 寄生しあふはもうやめないか 魂の底より届く消え難(が)ての声


 できるなら乳児に戻り眠りたい 生まれたことを取り消したい


 うにこおるころころ簔をころがして出た目出た目がこの場のほんと


 副へ木替へ違つた道を来た筈がどこまで行つても着けざり天へ


 斧をもてわが両脚を断つごとし飢うる魂より逃げむとするは


 つまり我の負ひきし罠にわが落ちて紡ぎ出せしか影黒々と


 蜘蛛の糸に搦めとられた私達どれが自分の頭か脚か


 人寰(じんかん)に迷ふ幾年身につきしわが歩き方足を悩ます


 想像の及ばぬ金が球場の緑羅を傷め飛びてゆきたり

                                                カルテ閉ぢ見守る他なしと言はれたるその一瞬を背負ひゐるなり


 病院に薬待つ間を泣く私レアなる鳥を産むかも知れず


 くれなゐの臓腑いつまでもつならむ守護霊病むと子は呟くを


 わが産みて苦しみ多くさせてきぬ看取らず逝くをひそかに詫ぶる


 今生に出逢ひ損ねて寂しかりもう生き物にうまれたくない

 

 モアはいかに鳴きしかモアの見し最後の空モアに触れし最後の葉


 しやしやもしややもしやしやの中を出でかねて泣くくらゐなら糸切り歯だよもう

  もつれた糸をほぐす時に唱える呪文 しやしやもしややもしやしやの中のしやしやもしやや

  もしやしやありやこそしやしやもしやもある                          



 楽日へ


 ございますがつくつかぬありおはやうが一日楽屋の中を行き交ふ


 高座終え楽屋の階を上れるを追ひ来てきみの指摘烈烈


 にいさんと兄弟子達を呼ぶ心 あなたへざらりこなたへざらり


 完璧に化粧ふは傷を呼ぶならむすれ違ひたる淡き薫香


 新しきはなし仕込まむ脳中に一本の溝掘り進むなり


 師の真似を出づることなく辞めゆきし人の声音が耳に残れり


 一揖(いちいふ)をなして高座の釈台へ孤立無援のわが持ち時間


 袖に聞くひとの視線を受けとめて高座のわれの半身苦し


 講釈の言葉になせる綱渡り予定の箇所に笑ひが起きる


 聴衆の心束ねむ一時を内なる星座位置を正せり


 姉娘を妻が疎むと嘆けるを楽屋の端に聞きつつもとな


 水に合はぬ演者二人の掛け合ひに東京ことばつやの失せゆく


 われならぬ人と婚約したるひと今日より十日を同じき小屋に


 代役のピエロの服に手を通すたわいなく言被せられ(いひかぶ*他人に責任を負はす)たる


 引き出しし笑ひ纏ひて袖に入るポーカーフェイスポーカーフェイス


 縄跳びの縄はかるごと道化師のスポットライトへ踏み出す一歩


 道化師の衣装を脱ぎて仮の世へ仮の姿にパンプス歩む


 万国旗を出し終へたなら手品師よわたしを帽子にしまつてくれぬか


 差し金のまにまに薄き紙の蝶果てぬ徒労の舞うつくしく


 絶好の位置に舞台を見下ろして照明室は冥き銃眼


 屋上に修羅場(しらば)を読めるわが声は濁れる空に吸はれゆくなり


 大いなる刑務所の門開かれて規矩正しゐる庭と出会ひぬ


 舞台よりまづひとことを囚はれの青衣の人ら弾けて笑ふ


 出囃子の野崎が告ぐる春団治(さんだいめ)くれなゐの糸緊まりゆくなり


 白足袋のひつたり両の足に添ひ舞台の袖に出を待つしばし


 あやふくも言ひ繕ひて人前に揺るる心をたてなほすまで


 今日読むは〈真柄のお秀〉醜女にて怪力無双いとしきものを


 抑へ来て怒りの科白解く刹那こころは楽し舞台の上に


 マチネーの常と違へる待ち時間梅田曾根崎地下街親し


 何某を破門せりとの張り紙を誰も気にせずなりて千秋楽へ


 張扇(はりせん)を一つ叩きて飛ぶ月日遠き世界を手繰る読み切り


 時太鼓三味線の音角帯貝の口提灯の火に浮かぶ寄席文字


     あとがき


 この本を目にして下さったあなた 私はあなたが今まで短歌に関心がなかった人ならい

いなと思っています そしてこれを読んで五七五七七の調べが少しでも心に響いてくれたな

ら大きな喜びでございます 私の歌は すごく気に入って下さる人がいた半面 全否定する

方もおられて 息も絶え絶えに歌会から帰ることもしばしばでございました 歌会とはま

ことにたたかいでありました ほうらあなた お知り合いが短歌を作っていると聞いて 

優雅なご趣味でなどと仰ったことはおありではございませんか 短歌は決して優雅なもの

ではありませんのです この歌集は一首独立したものや 何首かに分けて詠んで連作にし

たもの それに山鳥の尾のしだり尾の長歌も取り揃えてございます 長歌は私ごとき未熟

者の手に負えるものではないと知りつつも 心のうちから突き上げてくる思い抑え難く 

結社誌《未来》に投稿しておりました やはり歌会で 万葉集の長歌と全然違うとのお言

葉を頂戴して 小さくなっていると 短歌は何でもありやのになんで長歌だけ万葉集のよ

うにせなあかんのやと あとからこっそり言ってくれる人があったのはなんとも心強い事

ではございました しかしながらきびしく言って下さった人達には感謝感謝でございます 

少しは鍛えていただけました そして慰めてくれる人もいて続ける事ができました 自分

の歌を読み返していますとたくさんの人々の声が蘇ってきます 歌を作れなくなって長い

歳月が経ってしまいました 疲れ果てて動けなくなり 毎年 今年こそは歌集を出そうと

思いながら十数年を寝込んでおりました 何しろ一日に二十三時間以上寝床におりました

ので 歌集など人並なことは土台無理というものでございましょう 最近やっと一日数分

自己流の体操などをし何とか体が少し動くようになり まとめてみました 散逸したもの

もいくつかあり 惜しい事ではございますが これが私の一世一代のまことに小さな小さ

な大仕事となります 私の歌はわからないという人も何故かおられましたが みなリアリ

ズムです そしてリアリズムは人を傷付けると言われた事もありますが それそのためこ

そのペンネームなのでございますの さりながら文芸は妄想で原発は非経済なり 第一 

私の人生をゆがませた人も私が傷つけた人も もうほとんどが世を去っています あっ 

でも私の批評で傷ついた方がおられたらどうぞお許しくださいませ 相すみませぬ 欠点

を指摘するのが親切だと思っていた時期がありました 本来なら紙の書籍で出したかった

のですが それをするにはあとひと山もふた山も越さねばならぬ気力体力が必要です そ

れゆえ もしこの歌集を読んで 声をかけてやろうという奇特な方がおられましてもお返

事は書けないのでございまする なお楽日とは 興行の最終日のことですが 楽しい日へ

という願いをこめて題名といたしました 皆々様初めまして 有難うございました これ

にてお別れでございます

二〇一六年十月吉日

たなかみちさんの変わらぬ友情に感謝しつつ

    (口頭でお礼を言ったから個人名は出さないつもりだったけど書いておくね)

      旗谷早織(はたやさおり)

                                                                 解説

            大島史洋

 いつだったか、私は旗谷早織さんから木製のお面をいただいたことがある。

あごの部分が動くようになっている翁の面と、ほっぺに赤い丸印が描いてある

娘さんの面である。

朝鮮半島の古い時代の仮面劇に由来する面のレプリカではないかと思う。 

旗谷さんがなぜそれを私にくれたのかというと、私が仏頭やお面を集めて大

事に飾っているということを聞いた旗谷さんが、そのコレクションにこれも加

えてほしいといって、或る日、突然に送ってくれたのである。それ以来、この

大きな重い木製の面は私の部屋に鎮座している。 

旗谷さんが未来短歌会に入会されて歌誌「未来」に作品を発表されるように

なったのは、一九九〇年ごろではないかと思う。最初は岡井隆選歌欄に出詠さ

れていて、その後、私の選歌欄に移られた。そんな経緯から私がこの解説を書

かせていただいているわけである。 

旗谷さんが最も元気だったのは一九九五年からの五、六年のことではないか

と思う。旗谷さんは一九九五年度未来年間賞を受賞しているし、確か、翌年に

は「楽日へ」で短歌研究新人賞の次席にもなっているはずである。一九九九年

に千葉市で開かれた私の選歌欄の十周年記念歌会にも兵庫県の伊丹市から参加

している。そのときの、存在感のある発言なども印象深く記憶に残っている。

旗谷さんはあとがきで自分の歌はリアリズムだと言っているが、発想がユニ

ークで飛躍しているので、ちょっと見にはリアリズムとは見えない。しかし、

「中学教師」とか「生命保険金」とかいった章の歌には旗谷さんの切実な思い

が出ているし、やはりリアリズムなのだろうと思う。「生命保険金」という五首

とエッセイは始めに説明があるように、これは、「未来」から依頼されて作った

ものである。この五首とエッセイをくらべると、彼女の歌の発想の特徴がよく

わかるような気がする。エッセイには歌に見るようなテクニックは駆使されて

おらず、実に素直である。歌の発想の根底にも、この素直さがあるのだろう。

それが人に伝わらないから、歌会などで受けた批評に傷ついたりしているの

だろうと私は思う。

「仮橋」という一連二十首に触れて少し書いてみよう。「仮橋」とは、橋がで

きるまでそのそばに間に合わせとして仮に架ける橋をいう。彼女がこの仮の橋

を渡って別の世界へ出て行きたいと願っている、そんな気持ちがよくわかるよ

うな一連である。

この「仮橋」の最後には「ことのはの末に込めたるしたごころ青葉もみぢ葉

つらねて捧ぐ」という短歌のようなものが少し小さい字で置かれている。「し

たごころ」という言葉には傍注があって、「本当の気持」とある。

この教えに従って「ことのはの末」をたどっていくと、「三宅霧子大島史洋

岡井隆様感謝」というメッセージが出てくる。大変な技巧である。三宅霧子は

旗谷さんの最初の先生で、親しかった人である。大阪に住み、「アララギ」や

「未来」に歌を出していた歌人である。この、『楽日へ』の中でも、三宅さんの

訃はうたわれている。

「仮橋」から数首を引く。

 ・ 引き放つ矢が標的を射抜く時真水の匂ひ立つやうつしみ

 ・ 甲矢(はや)逸れて乙矢(をとや)番へむ身の震ひ仆されたとてこのままはいや

 ・ 傷負へる子の魂を呼びに来る月の船かも 耳を澄まさう

 ・ 仮橋のなかばまで来て引き返す煮こぼれて火の消えゆく間(かん)を

 ・ 吾を探す声ならしばし捨て置かむ束の間の幸ここにある慰謝

    読みながらしみじみとした気持ちになるよい歌である。


 この一連は、「未来」の一九九六年三月号に、未来年間賞受賞第一作とし

て発表されたものである。あのころの充実した旗谷さんの作品には、みな、

驚いたのであった。

旗谷さんが「未来」に出詠されていたのは二〇〇三年くらいまでだろうか。

以後、十数年、歌は見られない。その間の事情なども、あとがきには書かれている。

旗谷さんが再び元気になられて、「未来」に歌を出されることを願いつつ、

私の文章の終わりとする。

    多くのみなさんに読まれますよう────。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。