ツキミソウの雨宿り
明朝のうすら明るい空の下、音もなく糸のような雨が降っている。草木は濡れ大地は潤い、雨の向こうに広がる景色は薄衣をかけたようにけぶっている。
こんな日には、クラゲが生まれる。
いや、生まれるというと誤解を招くかもしれない。クラゲというのは、風に流れてどこぞに落ちたクラゲの種から芽が出て枝になる。枝の先には小さなクラゲが生っていて、だんだんと大きくなりあたり一面がじっとりする今日のような日に、枝から離れてほわほわと空に漂い出す。それをクラゲが生まれると呼んでいる。
ツキミソウはその生まれたてのクラゲを捕まえるため、あくびをかみ殺して雨の中に繰り出した。
海から空へと泳ぎでた空魚たちについて多くの学者たちが日夜研究をしている。しかし空魚をかごに閉じ込めると何度もかごにぶつかり傷つき死んでしまうか、あるいは動くのをやめて衰弱してしまうため、その生態についてわかっていることは少ない。空魚が死ぬ理由について空魚乗りたちは、空に帰ろうとしてかごにぶつかり空に焦がれて弱るのだと言い張っている。なぜならば、自分たちも空への憧れのために地上を捨てるからだ、と。
そういった空魚乗りの言い分については根拠のない主張として学者の間では片付けられていて、より学術的な理由を解明するためにも研究が行われている。
そこで、多くの研究所では空魚の研究と同時にクラゲを題材とした研究が行われている。クラゲは枝から生えるため、枝さえ発見すれば幼生が手に入るし、生ってから泳ぎはじめるまでの観察もできる。わからないことだらけの空魚について調べる取っ掛かりとして、多くの研究者が注目している。
とはいえ、クラゲもクラゲの生る枝も長期の飼育に成功した者はいない。そのため、クラゲを捕まえるという仕事があるのだから、ツキミソウにとってはありがたいことだ。
雨に霞んで視界の悪い中、前髪を濡らしながら進む。仕事は嫌いではないし、クラゲのことを考えるのは嫌いではないが、ついでに先日言われた両親の言葉を思い出してしまい途端に気持ちがどん底まで落ちていった。
何となく進学して目標もなく卒業を迎えたツキミソウに、クラゲ採りの仕事をくれたのは学校の先生だった。今すぐ進路が見つからないなら、ひとまず働きながら探してみなさい、と知り合いの伝手で専属のクラゲとりを募集している研究所を探してきてくれた。
それから三年。いまだにクラゲを探してふらふらするツキミソウに、ちゃんとした仕事を探せ、と父が言う。支えてくれるパートナーを見つけなさい、と母が言う。
雨降りの日が好きなツキミソウはこの仕事が嫌いではなかったけれど、やりがいを見出して精力的に働いているわけでもない。
だから両親の言葉に明確な反論もできないまま、かといって他にやりたいこともやるべきことも見つけ出せず、クラゲのようにゆらゆらと流されるように生き続けている。
余計なことを思い出してしまって鬱々とした気持ちで歩いていると、視界のすみを漂う白い物に気がつく。
クラゲだ。
ごくごく小さなもので、ツキミソウの指さき程度の大きさしかない。そっと虫あみで捕まえて、ツタで編んだ虫かごに入れる。編み目からのぞけば、濡れて輝く小さな真珠のような体で、ぷわぷわとかごの中を泳ぎまわるのが見えた。
一匹見つけたら、近くに大量発生しているのがクラゲである。
ツキミソウは頭を振って雨のしずくと雑念を振りはらい、虫あみ片手に水たまりをまたぎ越した。
持っている虫かごに入れられるだけのクラゲを捕まえて、ツキミソウは機嫌よく町に戻った。
さてもうすぐ研究所につく、というところで雨脚が強くなり、かごをかばいながら急いで歩いて適当な店の軒先を借りる。
慌てて走ればクラゲの体がかごにぶつかって壊れてしまうが、強い雨粒に当たっても下に落ちたり体に穴があいたりして死んでしまう。手に入れやすいが扱いづらいのが、クラゲの難点である。
しばらく雨は強いままだろうか。クラゲ用に傘も持って来れば良かった、と思いながらツキミソウがカッパの帽子を後ろに落とす。すると、近くで声が上がった。
「ツキミソウ?」
男性にしては少し高い、だけど落ち着いた声には聞き覚えがあった。顔を上げれば、やはり思ったとおりの人の姿。
「……ツユクサ、マツバボタン。おはよう」
幼なじみのツユクサと、その彼女のマツバボタンだった。二人は色違いの傘をさしていて、肩には花が刺繍された鞄を下げている。ツユクサの鞄にはマツバボタンの花が、マツバボタンの鞄にはツユクサが刺してある。縫い物屋に勤める彼女の作品だろう。ツユクサを介して知り合った彼女は、ツキミソウの花を刺繍したハンカチを贈ってくれた。優しい人だが、どうにも女の子らしすぎて苦手だ。
「今日は一緒に出勤? 仲良いね」
特に話題もないが、地面から跳ね上がる雨粒を避けるために二人が軒下に入ってきてしまったので、仕方なしに話しかける。
「たまたまなんです。いつもは私のほうがもう少し遅く出るんですけど、今日は雨だから早めに行こうと思って歩いていたら、たまたま」
ほわっと頬を染めたマツバボタンが嬉しそうに笑う姿は同性から見ても可愛らしい。けれど、俯きがちにツユクサを見て照れたように笑うのを見ていると、どうしてかツキミソウの胸になにかもやもやしたものが湧いてくる。
ツキミソウがその正体を考えてぼんやりとしていると、肩の水滴を払いながらツユクサがちらりと視線を向けてきた。
「お前、まだクラゲ採りをしてるんだな」
彼の視線はツタで編んだ虫かごに向けられている。 そういえば、このかごの編み方を覚えたのは彼と遊んだ幼少期だった。かつては二人で競うように虫かごを編み、それを持って虫を探しまわったものだ。自分はあの時から変われず、どこへも行けないまま年齢だけを重ねている。ツユクサはきっと、虫かごの作り方なんて忘れてしまって中身も見た目に見合った大人になっているのだろう。子どものころの夢をそのまま叶えて昆虫調査官になった彼は人に誇れる仕事について、今に結婚もして、社会的にも恥じることのない人生を送るのだろう。
そんな彼は、きっと両親と同じように早く違う仕事を探せというのだろう。あるいは、落ち着く先を得るために交際相手を探すよう言ってくれるのだろう。彼の口から次に発せられる言葉を思うと、ツキミソウは息苦しくなる。
そして、うつむいて彼の言葉をやり過ごそうとしたツキミソウの耳に、彼の声が落ちてきた。
「ずっと続けられるといいけど、お前のとこの親父さんら応援してくれないんだって?」
ため息まじりにツユクサがこぼした言葉は、ツキミソウが思っていたものと違った。
「うちの母さんが井戸端会議で聞いたって話しててさ。いつまでもクラゲばっかり追いかけて、もっと地に足のついた仕事をしてほしい、それが無理なら早く結婚相手を探してもらいたい、だってよ。ちゃんと給料もらって仕事してるんだから、ほっといてくれよって感じだよな。お前、クラゲ好きだからその仕事してるんだろ」
彼の言葉に驚いて、ツキミソウはきょとんとしてしまう。それを見て、ツユクサも首を傾げた。
「あれ、もう覚えてないか? ガキのころ、一緒に虫捕りしてる時にクラゲを見かけてお前がクラゲ屋さんになりたいって言うから、俺は虫屋になる、って言って」
その言葉で、思い出した。雨上がりの虹がかかる青空をゆうらり漂うクラゲを見つけたあの日。雨粒で飾り立てた体を煌めかせて空を泳ぐクラゲに見とれて、ひらめく触手が目に焼き付いて、あの美しい生き物の虜になったのだ。煩雑な日々に流されるように生きるうちに、忘れてしまっていた。
そうか、自分はクラゲが好きだからこの仕事を続けていたのだ。
突然に胸に湧いた喜びのような興奮のような熱の広がりに突き動かされ、ツキミソウはうんうんと頷いた。
「そう、クラゲ好きなんだよ。好きなんだけど、クラゲ採りは収入が安定してないし、いつクラゲの飼い方が解明されて不要になるかわからないから、好きってだけでいつまで続けられるかわからないし……」
今の仕事を他人に誇れない理由を自分自身に言いわけするようにツキミソウがこぼせば、ツユクサとマツバボタンは真剣な表情で頷いてくれる。
「俺も、昆虫調査官になったはいいけど、虫を捕まえる前の書類作成やら地域住民への説明会の準備やらで、ろくに虫とりできてない。でも、他に仕事のあてがないから辞めるわけにいかないし」
ツユクサがぼやけば、マツバボタンもこぶしを握って力強く賛同する。
「そうなんですよ! 私も刺繍ができる方募集っていう求人を見て行ったのに、仕事はほとんど縫製ばかり。ごくごくまれに刺繍ができても、ほんの片隅に簡単な印をつけるだけなんですよ。かといって、刺繍専門で食べていくには知名度がない。だから、うっぷんを晴らすために空いた時間は刺繍ばかりしてるんです。おかげで、布製の持ち物はみんな刺繍入りになっちゃいました」
眉を下げてえへへと笑うマツバボタンの可愛いさに、ツキミソウもつられて笑う。ツユクサは苦笑いを浮かべている。
「人間以外の生き物は焦がれるままに空へと登ったっていうのに、人間ときたら言い訳ばかり積み重ねていまだに空を見上げるばかりだ」
そう言ったツユクサは、雨脚が弱まったのに気が付いて空を見上げる。閉じていた傘を持ち上げてマツバボタンを促すと、軒下から出ていった。
「じゃあな、ツキミソウ。一念発起して本気でクラゲを仕事にするときは、連絡しろよ。俺はいつか自分の昆虫館を持つのが夢なんだ」
カバンから青いハンカチを取り出したマツバボタンは、意外に素早い動きで傘をさして小雨の中に繰り出していく。
「私はもうしばらくお金を貯めて技術を身につけたら、自分のお店を作ろうと思っているんです。それ、商品の試作品なので、良かったらもらってください」
それじゃあ、また。
色違いの傘を揺らして町中に消えていく二人の背を見送り、ツキミソウは空を見た。うすら明るく曇った空から、糸のような雨がするすると降ってくる。
何気なく視線を巡らして、空に上っていくクラゲに気がついた。その後を追うように、たくさんのクラゲが湧き上がっている。
さっきの雨をどこかでやり過ごして、雨脚が弱いうちに空へと登るのだろうか。ツキミソウたちが雨宿りしたように、クラゲたちが葉っぱの下で雨宿りしている姿を想像して、ツキミソウはくすりと笑う。
きらめき、揺らめきながらも確かに空の上を目指すクラゲをしばし見つめていたツキミソウは、自分ももう行かねば、とカッパの帽子をかぶって、心持ち軽い足取りで雨の中に歩き出していった。