たとえ好きだと言われても
強い日差しを感じて重い瞼をゆっくり持ち上げる。
「・・・ん」
染みるような眩しさで目を薄く開けることしか出来ないが、いつもと違う風景であることは確かだ。
ベッド横の目覚まし時計を見ると朝の6時。
自室のアラームは5時に鳴るよう設定されているため、ここは自分の部屋ではないことが分かる。しばらく呆けたように天井を眺め、動きたくない、と普段なら考えないようなことを思う。
しかしそういう訳にもいかない。
俺のように、個人に仕える専属執事は基本的に主人の言いつけがない限り自由を許されている。だが執事として主人に何かがあった時即座に対応できないようでは意味がない。
俺の主人は起きる時間も日によってまちまちで、約束の時間に遅れることこそしないが、しばしば早朝の屋敷内を彷徨い歩いていることがある。
そんな予測不可能な主人の行動に合わせて、先回りして安全を確保するのも俺たちの役目なのだ。
今日は寝すぎたので流石に起きなければ、と上半身を起こそうとする。
「・・・?」
その時初めて己の身体が動かないことに気付いた。腹のところに不自然な重力を感じて、頭だけ左側に向ける。
「な、」
そこには整った顔をどアップにして、眠りこける主人の姿があった。声にならない悲鳴をあげ一度は身じろいだものの、起こしてはいけないという考えに思い至り慌てて動きを止める。
・・どうして彼は俺の腰を抱いて寝ているのだろうか。
すぐ後昨日の夜会で無理に酒を飲まされていた彼を、この部屋で介抱したところまで思い出した。
未成年に付き合わせるなんてどうしようもない大人たちだと憤慨しつつ、ここに連れ帰ってきたのだ。
そしてそのまま寝てしまったと。
腕を退かすのを諦めて坊ちゃんと顔を向かい合わせのまま頭を降ろせば、普段なかなか見れない彼の寝顔が真近にある。
彼をここまで近くに感じるのは久しぶりだ。
長い睫毛に、薄い唇、まっすぐ通った鼻。
明るいブロンド色の髪は生来のものだ。
・・本当に大きくなった。
この屋敷に仕えて10年。
初めて彼と会った時、彼は7歳で俺は13歳だった。
今年で18歳になる彼は、この頃一段と男らしさに磨きがかかっているように思う。
見た目こそ綺麗と形容されるものだが、中身は強く芯のある男だ。
考えながら見つめているうちに、幼い頃の彼は頭を撫でられるのが好きだったことを思い出す。
むやみに触れたら起こしてしまうだろうか。心ではそう思ってもどうしても触れてみたいという欲に負け、おずおずと手を伸ばす。
彼の髪まであと、少し。
「っ!」
その時、突然飛び出してきた手が俺の腕を掴んだ。そのまま引き寄せられて声も出せずにいる俺を、彼の瞳が射るように見つめ、口元に弧を描く。
「あんまり見てると、金取るよ?」
いつから起きていたのだろうか。
恥ずかしさで掴まれた手首から熱が昇ってくるのが分かる。
挑発的なその態度と寝起きの掠れた声が酷く妖しげで、ゴクリと喉が音を立てた。
「も、申し訳ありません!坊ちゃんがあまりにも安らかに寝ていらっしゃったので、つい」
慌ててそう告げれば、彼は眉をひそめる。
「だから、坊ちゃんはやめてって言ってるでしょ」
「・・・申し訳ありません、紀人様」
言い直せば、許してあげるとにっこり笑う紀人。
坊ちゃん呼びを嫌う代わりに名前を呼ばせたがるようになったのは確か彼が中学生の頃。
そしてあれから何年も経つのに、未だに坊ちゃん呼びの癖が抜けない俺は時たま彼の眉間に皺を寄せさせてしまう。
「で、何しようとしてたの?」
「・・・何、とは?」
質問の意味は分かっている。彼に捕らえられた俺の手が何のためにそこにあったのか。
分かってはいるが、今それに答えてしまうのは躊躇われて同じように質問で返す。
珍しくはぐらかすような物言いをする俺が面白いのか、彼はより一層笑みを深くした。
「もしかして俺に言えないこと?」
横向きに寝転がった状態で主人と話をしているこの状況は酷くイレギュラーだが、手を放そうとしない紀人のせいにしてそのままにしておく。例えば?と問えば、考えるポーズをした彼が、わざとらしく閃いたような素振りをして俺の耳元に口を寄せる。
「キス、とか?」
「っ・・・」
耳を抑えつつ素っ頓狂な声を上げた俺を愉快そうに眺める紀人。
流石の俺も驚いた。
キス?俺が、紀人に?
「ち、違います!違うんですっ断じてそのような事は・・!」
動揺を隠せない。思い切り否定することで、逆に怪しさが増しているようにも思えるが、とにかく分かってもらおうと必死だった。
全力で否定する俺に、ふぅんと頷いて仰向けに寝転がる紀人。冗談だと笑い飛ばされると思っていた俺は、少しつまらなそうにする彼に内心首を傾げる。
「じゃあ、何しようとしてたの?教えてよ」
紀人の物言いは基本的に柔らかで棘がない。
しかし表情を合わせてみると、その言葉の真意がよくわかる。この場合はほとんど拒否することを許されない、つまり命令形だ。
何故かは分からないがどうしても知りたいようで、俺は観念して呟いた。
「・・髪に触れようと、思ったんです」
「髪?」
一瞬虚を突かれたような顔をして、すぐに納得したように笑った。
「紺野は昔から俺の頭を撫でるのが好きだったね」
遠い目をして思い出し笑いをする紀人。
彼も覚えていたらしい。
幼い頃の紀人は何か一つ事を成し遂げる度に寄ってきて、頭を撫でられたがった。
こんなにも鮮明に思い出せる記憶だって、実際はもう何年も前の話だ。
最後に撫でた時、彼は俺の手を払って『もう子供じゃない』と言った。
何処か悲痛な叫びのように聞こえた彼の言葉は、深く俺の心に突き刺さった。
確かにその通りだった。
それでも少し寂しくて、やっぱり悲しくて、しばらく落ち込んだ。
「そうでしたか?私はてっきり撫でられるのがお好きなのかと」
控えめにそう言い返してみると、えーそうだったかなぁと不満そうな声をあげられる。そして彼が上半身を軽く起こしたのに合わせて俺も同じようにした。枕に腰掛けて座ると、しばらく此方を見ていた紀人がグッと身を寄せてきた。
「はい」
「何ですか?」
「頭。撫でてみてよ」
突然のことに戸惑って本当にいいのかと目で訴えれば早く、と身を乗り出してきたのでおずおずと手を伸ばす。
「・・変わりませんね」
久しぶりの感触に口元が綻ぶ。
懐かしい。柔らかそうに見えて少し固めの髪質も、俺の手に丁度よく収まる頭の形や大きさも。
何度か撫でるうちに、紀人が長いことお預けを食らっていた犬のように目を細める。
俺はこの表情が堪らなく好きだった。
「そうだね・・やっぱり、撫でられるのは好きかな」
「ふふ、それは良かったです」
良かったのは俺の方だ。
その言葉が聞けて良かった。
長い間詰まっていたものが跡形もなく流れていったような気分だ。
それから手を退けようとすると、紀人の手が追いかけてきてそれを包んだ。
広げられた手の平を指の腹で撫でられてから、きゅっと握り込まれる。
「俺はこの手で優しく撫でられるのが凄く好きだったよ。褒められると自分が認められたような気がして嬉しかった」
「・・ええ、私も紀人様の喜ぶお姿を見るのが何よりの励みでした」
お互いの言葉に小さく笑って、黙ったまま紀人が少し俯く。どうしたのかと顔を覗こうとすると彼が呟いた。
「でも、足りなかったんだよ」
何が、と言外に問えば彼は困ったように眉を下げる。
「最初はそんな風に甘えるのが好きだった。でも、そのうち自分は子供だって言われているような気がして辛くなってきて・・対等な立場が欲しいって思ったんだ」
「・・・・」
「周りに優しくされればされる程差が広がっていく気がして嫌だった。そう思ったら、撫でられることすら嫌になってさ。早く大人になりたくて、もっと近づきたくて」
全く知らなかった。
初めて聞かされる胸の内は、実に青年らしい言葉だった。子供の成長は身体だけじゃない。人の心が成長するとき、己の感情と意志の食い違いはよく起こるものだ。大人と子供の境目に苦しむ時期はだれにでもやってくる。
「あの時紺野の手を払ったこと、今でも後悔してる。あんな風に振り払う方が子供なんだってこと全然分かってなかったんだ」
「・・紀人様」
思春期には、後になって悔やまれるようなことがたくさん生まれる。
親に向かって『嫌い』だとか、友人に向かって『死ね』なんて言ってしまったり。
分かっていてもつい感情に任せて口を出てしまった言葉はもう戻らない。
しかしその後悔こそが人を大きくする。
「あーあ、惜しいことしたな」
突然声色を明るくした紀人が、俺の手を弄びつつ笑う。
「この手が俺から離れるくらいなら、子供のままでいれば良かった」
・・・ん?
心の内で言葉を反芻して首を傾げる。
今のは一体どういう意味だろうか。
そう言ってやけに真剣な顔をする紀人。
「紺野。俺はもう子供じゃない」
「・・そうですね」
まるで説教をされているような雰囲気だ。にこやかにそう返せば彼の眉間に皺が寄る。
「本当に分かってる?」
「ええ、分かってますよ」
ぐんぐん背が伸びて今では俺より5cmほど高い紀人が、今の体勢のおかげで下から見上げるようにして睨みつけてくる。その目線がどうにも堪らなくて、意図せず手が伸びた。
撫でたい。
撫でて、とびっきり甘やかしてやりたい。
しかしその願いは叶わなかった。
「やっぱり分かってない」
「ちょ、わ」
パシッと手をひったくられ紀人がそのまま俺の上に乗り上げてくる。両手を枕に縫い付けられ腰にも重みが掛かってビクともしない。
何だ、この状況。
困惑する俺を上から見下ろしてさも愉快そうに笑う紀人。さっきまでと纏っている空気が違う。
「意味分からないって顔してるね」
「・・意味がわかりません」
「そう?」
どこでスイッチが切り替わったのか分からないがどうやらサディスティックモードらしい。無意味な言葉遊びで挑発するように振る舞う紀人の色香は半端ではない。そして何より力が強い。一応鍛えてはいるので抵抗すれば引き剥がせるほどではあるが、怪我を負わせてしまい兼ねないので大人しくしておく。
「ムカつく」
「・・・」
「その余裕そうな顔、本当に俺をイライラさせるね」
抵抗せず、されるがままになっている俺に吐き捨てるように言った。
鋭い言葉と裏腹に、悲しみの篭った瞳が俺の心を揺さぶる。
一体何がしたいのだろうか。
「じゃあどの辺?俺が大人なところって」
力は緩められず顔だけずいっと迫ってくる。・・確かにこれは子供のすることじゃない。そう思って心のうちに苦笑する。
どの辺、と聞かれれば答えなど明白だ。
「そうですねえ、紀人様は優しいです。この頃は特に角が取れて穏やかになって・・何より頼りになる。あなたのように周りをしっかりと見て自分に厳しく出来る人はなかなかいませんよ。見た目で言えば高身長で筋肉も綺麗に付いていますし、女性を虜にする甘いマスク。男の私でも憧れる程です。精神的にも身体的にも立派な男性になられましたね」
「・・・っ、はぁ〜」
挙げればキリのない紀人の良さをなんとか端的に纏めたというのに、ぐっと言葉を詰まらせた彼から漏れるのは溜息ばかり。
俺に跨ったまま頭をぐしゃぐしゃと掻きむしっている。
何か間違えたのかもしれない。
「違いましたか?」
「いや・・まあ合ってるっていうか、間違ってはないんだけどね・・違うよ」
よく分からないことを言う。
さっきから言っていることが滅茶苦茶で文脈が噛み合っていない。
また『足りない』のだろうか。
もっと例を挙げてみようか。俺よりも紀人の良さを語れる人がいるなら連れてきて欲しい。負ける自信はないけど。
「ていうか紺野そんな風に思ってたの・・なんか、もう・・最悪」
力をなくし隣に寝転がった紀人は、腕で目元を隠して唸っている。はみ出した耳元が赤くて照れているのだと分かり、つい笑みが零れる。
本当、どうしようもなく可愛い坊ちゃんだ。
「笑うなよ」
「ふふ、笑ってません」
「笑ってるし・・」
少しだけ腕をズラし、片目で此方を伺った彼が大きくため息を吐く。
その僅かな動作でさえ、愛しいと思う俺は本物の親バカという奴なのかもしれない。
お仕えしているのが彼で良かったと、日が経つごとに思うのだ。
「紺野」
「はい」
「好きだよ」
「・・はい。私も好きですよ紀人様」
満面の笑みで答えた俺に
彼は少しだけ困ったように微笑んだ。
END.
ご愛読ありがとうございました。
気分次第で続編もしくはおまけ話を書かせていただくこともあるかと思いますが、今のところ具体的な予定はありません。
拙い文章ですが、お楽しみ頂けたらと思います。
今後の改善に乞うご期待ください。