コッペパン
フレンチはひとりで何をするでもなく、ただボーっとしてベッドの上に座っていた。博士の観察日記五冊を全て読み終える間に熱は少し下がったようで、彼は何とか起き上がる事ができた。
しかし、ベッドから起きた彼に新たなる問題が浮上した。それは、
「空腹で死にそうです……」
彼はくうくう鳴る腹を両手で押さえ、涙目で呟いた。何しろ彼は朝食も食べていない上に今は昼食時をとっくに過ぎているのだから、無理もない話だ。彼の空腹は限界に達していた。空腹のあまり、彼は食べ物の夢を見る事で空腹を紛らわそうと考え、布団を被り眠りについた。それからわずか数分後、彼は夢のあまりの恐怖に絶叫した。
「僕はチキンの丸焼きが食べたいんです。お願いだから、豚肉だけは僕に見せないでください…ウワアアアアッ、助けてくれぇ、僕に豚の丸焼きを食べさせないでくれぇ!」
美味しい料理の夢を見るはずだったが、何よりも苦手とする豚の丸焼きを食べさせられる夢を見た彼は全身に冷や汗をかいて憔悴した後、
「闇野髑髏さんは、夢の中に夜しか現れないのをすっかり忘れていました……」
☆
博士たちはぜんざいを食べ終わった後、今度は喫茶店に入る事にした。
なぜなら博士たちはぜんざいでは昼食として食べるのは無理があったからである。彼らがスパゲッティとグラタンを注文して食べている最中、ヨハネスはウェイトレスを呼んで言った。
「パフェとワッフル、ホットケーキにアイスクリーム、それとココアくださいっ」
それを聞いた彼らは食事中だったこともあってか、その発言にむせかけ、慌てて水を飲み、彼に問いかける。
「「まだ食べるの!?」」
「さっき歩いたので少し小腹が空いてしまいまして……」
彼の一言にふたりは思わずずっこけてしまった。
しばらくすると彼の注文してきた品が運ばれてきて、彼はそれもこれまでと同じくペロリと平らげてしまった。その食欲にさすがの博士も冷や汗をかいていると、彼はハッとした顔をして、
「食べていて思い出したんですけど、フレンチ君はもしかして朝昼何も食べていないんじゃ……」
「「そうだった!」」
ここにきて、彼らはやっと目が回りそうなほど空腹になっているフレンチの存在を思い出したのである。
☆
フレンチはご飯よりはパンが好きな少年だった。
彼の故郷がクロワッサンの発祥地として名高いオーストリアであることも関係しているのだろうか、彼はクロワッサンが鶏肉の次に好きだった。彼は大半のパンが好きであったが、たった一種類だけ苦手としているパンがあった。
それは、日本人なら小学校で誰もが味わうであろう、昔懐かしいコッペパンである。彼は生まれて初めて食べたコッペパンが舌に合わなかったらしく、あまりの不味さにいつもの愛くるしい顔からはあまりイメージしにくい顔面崩壊を引き起こした事があり、それ以来コッペパンが苦手な食べ物になっていたのだ。
しかし、帰ってきた博士たちが彼に渡した食べ物は、あろうことかコッペパンだったのである。フレンチは当初、彼らが持ってきた食べ物を食べることを拒否しようとした。しかし、ここで拒否してしまえば、どうして食べないのかと質問されるに決まっている。それを危惧した彼は、少し恐怖で震える手でコッペパンを受けとり、表面上は笑顔でぱくっと一口かじった。彼の舌がパンの触感を感じ取った瞬間、左右非対称の瞳になり、バラ色の頬はリスがクルミを頬張ったかのように膨れ上がり、それがなくなったと思ったら、今度はそのあまりの不味さに口をへの字に歪める――知らない人から見れば顔芸にしか見えない彼の顔を見た博士たちは、吹き出したかと思うと腹を抱えて大爆笑を始める。
彼が執念でコッペパンを水で流し込むと、その顔芸と言っても過言ではないほどインパクト溢れる表情は消え、いつもの愛くるしい顔立ちになった。
「……今のは忘れてください」
彼が今にも暴れ出さん限りの殺気を発した天使の微笑みを浮かべたので、彼らは口々に謝った。
しかし、彼は知らない。博士が彼が変顔になるまでの一部始終を撮影し、彼が再び寝入った時に全世界にインターネットでアップしていた事を。