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パフェがしょっぱい木曜日  作者: 神戸こーせん
2/2

後編

〈第十一ページ〉そして私は王子様と一緒のひと時を過ごしました



 日曜日です。

 私は今、例のショッピングモールに来ています。ここで奥村君と待ち合わせをしているのです。

 今日は奥村君と一緒に、ドラゴンズというアニメ映画を見に行くことになっています。というのも、この映画の主題歌に私の好きなアーティスト――ライジング・ホープメンズが起用されているという点で、奥村君と息が合ったからです。

 男の子と二人で映画館ですか。これじゃあまるでデートですね。

 あ、そうそう。私こと絵本叶、心から好きになれた人がようやくできました。今まで気になる人は何人かいたのですが、ここまで胸を締め付けられるような感覚は初めてのことです。

 きっと私は、奥村君のことが本当に好きなのだと思います。

「わ、悪い。時間決めたの俺なのに遅れちまった」

 息を切らしながら奥村君が走ってきました。青いジーパン、緑と白のチェックが入ったワイシャツ。とても爽やかな印象があります。

 私の服装は、白いワンピースに桃色のカーディガンを纏った感じです。結構気合いを入れてきたのですが、反応はどうでしょうか?

「な、なんか昨日と比べて雰囲気全然違うな」

 それはそうでしょう。私のお気に入りなのですから。

「うん。すごく可愛い」

 思わず、と言った感じで口に出してしまったのでしょう。言葉を出した瞬間、あっ! と言うように口に手を押さえ、顔を赤くしてしまいます。

 なんてシャイなのでしょう。

 そんなこと言われたら、私だって喜んでしまいますよ。照れてしまいますよ。

「ありがと。奥村君も似合っているよ」

 昨日は学校のジャージでしたが、今日はとてもかっこよく見えます。

「馬子にも衣裳だね」

「おい絵本。そりゃあ一体どういう意味だ」

 ちょっとだけ怒ったようです。ほんと、奥村君はからかいがいのある人ですね。

「あ。そうそう、これ」

 手カバンからライジング・ホープメンズの最新アルバムを取り出します。すると、パッケージを見た奥村君が突然奇声を発しました。

「うひょーーーーっ!」

 私の手の中にあるアルバムを、子供のようにきらきらした瞳でまじまじと見つめます。

「え。本当に貸してくれるの?」

「もちろん。そのつもりで持ってきたんだし」

「マジすか! ありがとうございます、絵本さん! この恩は必ずやどこかでお返ししますゆえ!」

 大げさな感謝の意を込め、アルバムを受け取る奥村君。私としてもRHファンがクラスメイトにいると知って嬉しいです。

「んじゃ、さっそく行きますか」

 ショルダーバッグにアルバムをしまった奥村君に引かれ、私はショッピングモールの中に入っていきました。

 このショッピングモールには、ショッピング施設だけではなく、子供を預ける施設(親がショッピングを楽しみたい時なんかに利用されている)や、ゲームセンター、そして映画館まであります。

 映画館の規模も大きく、ここはなんと第八スクリーンまであったりするのです。

 チケット売り場で並んでいると、客層が私の想像と違っていることに気が付きました。

 私の予想では、アニメ映画ということもあり、子供が多いのだろうと思っていました。しかし実際は、私たちのような中高生の年代が多い感じがします。

 完全オリジナル版らしいのですが、監督や脚本家がとても有名な方たちということもあり、コアなファンが多いということなのでしょう。

「ドラゴンズ、学生二名でお願いします」

 久しぶりの映画館ということもあり、映画館のムードに流されていると、いつの間にか奥村君がチケットを注文してくれていました。

 私も学生証を提示し、料金を支払います。

「ありがとうございました。次の方どうぞ~」

 すでに開場時間を迎えています。私たちはそのまま映画館内へと足を運びました。


 まずは、制作会社に頭を下げましょう。

 映画を見終えた私は、そう思いました。正直なところ、アニメ映画だからとバカにしていました。反省しています。

 話の流れとしては、竜の魂を宿らせた一人の少年が、世界侵略を企てる敵と戦うという話なのですが、そこに出てくるキャラクターの個性や想いなどが事細かに描かれていたのです。

 ずっと共に行動していた大切な友を失った主人公の前に現れた女の子に支えられ、成長していくという物語です。どこにでもありそうな話なのですが、実はその女の子が敵の大将の娘で親に捨てられた可哀想な子だったのです。そんな感じで、とにかく涙があふれそうなシーンが盛りだくさんでした。

 最後は少年と竜の魂が融合し、スカッとする終わり方でした。

 極めつけは、最後のライジング・ホープメンズの主題歌です。最高にテンションが上がりました。

「結構おもしろかったな~」

「うん。RHの新曲をメインで見に来たのに、映画そのものがすごく面白かったね」

「最後の主人公がスカッとしたよな!」

 私はたまらず、主人公はなったあの一言を復唱します。

「「お前の呪いを燃やし尽くすまでは、俺の炎は誰にも消せねえ!」」

 すると、同じことを考えたのか、奥村君と声が重なってしまいました。なんというミラクルでしょう。少し恥ずかしくなってしまいます。

「ホワイトクリームソースのお客様」

「あ、私です」

 映画を見終えた私たちは、同じショッピングモール内のオムライス専門店に来ていました。なんとこのお店、当日の映画鑑賞チケットの半券があればソフトドリンクがサービスになるそうです。

「デミグラスソースのお客様」

「あ、俺っす」

「ご注文は以上でよろしいですか? ソフトドリンクはあちらからご自由にお取りください。それではごゆっくりお召し上がりください」

 一礼して、ウエイトレスさんが去っていきました。

「それでは、いただきます」

「いただきます」

 私たちは出来立てほやほやのオムライスにスプーンを突き立てます。そして、それぞれのソースをからませて、パクッと口に放り込みます。

 瞬間、ふわふわでとろとろの卵が私の舌を滑りました。

「んん~~~~」

 オムライスなんて久しぶりです。そのためか、とてもおいしく感じます。

 それにしても男の子と一緒に映画を見て、こうしてお昼ご飯を一緒に食べていると、本当にデートをしているみたいです。

 奥村君は今、一体どんなことを考えているのでしょうか。私と同じようなことを考えているのでしょうか。それとも、オムライスと先ほどの映画のことで頭がいっぱいなのでしょうか。

 気になります。

 よし、鎌をかけてみましょう。

「ねえ、奥村君」

「ん? どした?」

「ほら、一緒に映画見てお昼ご飯食べてって……なんか、この感じってデートみたいだよね?」

 ブフッと奥村君が咳き込みます。口の中のお米がいくつか口の中から飛び出ました。

 咄嗟に、手元にあったコップに入ったジュースを一気に飲み干します。そして紙で口元を拭います。

 まったく、なんて分かりやすい反応をしてくれるんですか。

「な、ななな、何言っているんだよ」

「ははっ。冗談だよ、冗談」

「お前、オオカミ少年になるぞ……」

 こうして慌てる奥村君を見ていると、私がどれだけ彼のことが好きなのかが分かってきます。

 普段は見せてくれない彼の一面を見ている。そのことが、これほどうれしいことだとは思いもしませんでした。

 人を好きになるということが、これほど幸せなことだったとは……。お母さんがお父さんにべったりなのも分かる気がします。

「……? もしかして口の周りにソースでもついてる?」

 私がじっと奥村君の顔を見つめていたためでしょう。彼がそんなことを言いました。

「ううん、大丈夫だよ。ただ、まさか私のジュースを飲むとは思わなかったな~って」

 先ほど奥村君が咳き込んだ時に飲み干したジュースは彼のものではなく、私のものだったのです。まあ、別にどうでもいいのですが。

「あっ、ごめん! 今入れてくるから!」

「え、いいよ。自分で入れに行くからさ」

「いやいや、俺が飲んじゃったんだし。何がいい?」

「ん~。それならオレンジジュースでお願い」

「オッケー」

 コップを持って機械のところに向かう奥村君の背中を見つめます。

 お母さん、お父さん。私は今、とても幸せです。

 私は心の中でそうつぶやきました。


「――というわけなの」

 家に帰った私は、ハート君に今日の出来事の一部始終を話しました。

 ハート君は静かに私の話を聞いてくれました。

「それでね。これ、借りてきたんだ!」

 私は手カバンから一枚のDVDを取り出しました。ご飯を食べた後で奥村君とビデオレンタル店に行って借りてきたものです。

 今日見たものと同じ監督、脚本家のアニメ映画です。とても気に入ったのでついつい借りてしまいました。

「叶ちゃん。すごくうれしそうだね」

「うん! 今、人生で一番幸せかもしれない!」

 そう答えた私に、ハート君は少し悲しそうな顔をして「そっか……」とだけつぶやきました。

 私は首をかしげて、借りてきたDVDをプレイヤーに入れました。



 どうも、ハート・アークションです。

 ボクは今、嬉しい気持ち反面、とても胸を痛めています。

 ボクと出会ってしばらくですが、あれほどの笑顔を見たのはこれが初めてです。どうやら叶ちゃんは、予定通りに誰かを好きになったようです。

 でもそれは試練の始まりでもあるのです。

 ボクは案内人です。これから起こる事を叶ちゃんに伝えるわけにはいきません。だからこそボクは辛いのです。

 あと数日としないうちに、叶ちゃんは壁に突き当たります。その時、叶ちゃんのあの笑顔は消え去ることでしょう。

 でもボクにはどうすることもできない。ボクはただ案内人として、約束通りに物語を進めなければならないのです。

 叶ちゃん。どうか、負けないで――。



〈第十二ページ〉王子様から贈り物をもらいました



 奥村君との映画デート(?)の次の日です。

「ぶーぶー、かなえのケチ~」

「ぶーぶー、かなえの冷血野郎ぉ~」

 有希と愛衣が私の席の前で駄々をこねます。どうやら、今週もまた物理の宿題をしてこなかったようです。

 でも、今週は先週の宣言通り、私は彼女たちに宿題を見せないことにしました。こうして突き放すようなことをしなければ、彼女たちはいつまでも成長してくれません。

「先週、ちゃんと言ったもんね。もう見せないからって」

「ぶー。そうだけどー」

「ぶー。それでもかなえかよー」

「ぶーぶーうるさい。あと、アンタら私をなんだと思っているのさ」

 有希と愛衣が互いの顔を見合わせます。

「「宿題を見せてくれる人」」

「アンタらとはもう口きかない」

「「嘘だよ~!」」

 結局、有希と愛衣は宿題を出さず、昼休みにツルテンに呼び出しを食らったのでした。

 そのため、昼ご飯は私一人で食べることとなってしまいました。いつも一緒に食べている二人は、今頃ツルテンと宿題をしながらお弁当を食べていることでしょう。

 一人で昼ご飯を食べるというのは久方ぶりです。気付いた時には有希や愛衣と友達になっていていつも一緒でしたから。

 そう考えると、あの二人のいない昼ご飯はなんだか物足りないですね。やっぱり昼ご飯は楽しくワイワイと食べるものです。一人で食べるお弁当は少し寂しいです。

 お弁当を食べ終えたころに、私の携帯が一通のメールを受信しました。送り主は奥村君でした。なんだろうと思い、メールを開きます。

『今から体育館裏に来てくれない?』

 私は首を傾げた後、『いいよ』と返信しました。すると、私の返信を受信した奥村君が立ち上がり、教室を出ていきました。私も少し時間を空け、彼と同じように教室を後にします。

 体育館裏に到着すると、先に教室を出た奥村君が待っていました。

「悪いな、わざわざ」

「ううん。別にいいけど……。どうしたの?」

 尋ねると、奥村君は手に持っていた紙袋を差し出してきます。

「RHのアルバムを返そうと思って」

「もういいの?」

「おう。ダビングして、歌詞カードもしっかりコピーしたから。ありがとな」

「いいよ、お礼なんて。私も同じアーティストのファンがいるって知って嬉しかったし。それにしても、これを返すくらいなら別に教室でもよかったじゃない」

 そんなことを言いながら、私としては奥村君と二人きりになれるため、こっちの方が嬉しいのですが。

「まあそうなんだけど、絵本と話したかったからじゃあだめかい?」

 あらあら、嬉しいことを言ってくれますね、奥村君は。その言葉、本気にしてもいいのですか~?

 私はとても上機嫌です。

「ああ、そうだった。絵本、ちょっとその紙袋見てくれ」

 私は言われた通り紙袋の中に視線を落とします。すると中には、私の貸したRHのアルバムのほかに、別のCDが二つ入っていました。

「それ、俺が好きなアーティストのファーストとセカンドアルバムなんだ。RHが好きだったら気に入ると思う。ソースは俺」

 中身を取り出し、アーティストを確認します。

「……トロイメライ?」

 名前は何度か聞いたことがあります。でも、どのような歌を歌っているのかまでは知りません。あまりメジャーではないのでしょうか。

「ありがと。家に帰ったらさっそく聞いてみるよ」

「おう! きっとはまるぜ」

 それから少し、昨日二人で見に行った映画とビデオレンタル店で借りた映画の話をして教室に戻りました。


 家に帰り、パソコンに音楽を再生しながら取り込みます。

「この歌、好き」

 一緒に聞いていたハート君が言いました。私はそれに頷きます。

「うん。私も好き」

 トロイメライは女性ボーカルと男性ギターリストの二人で構成されています。

 弾けるような曲調が多いのが特徴的で、思わずリズムをとってしまいます。女性ボーカルの透き通るような声と、ギターの巧みなテクニックがマッチして、聞く人を虜にするのです。

 素晴らしいのが女性ボーカルの多彩な声質です。静かにおしとやかに、女の子らしい声が出たかと思えば、男性ボーカル顔負けの力強く腹の底に響くような声も出ます。そのギャップがさらに私を彼らの世界に誘うのです。

 きっと奥村君も、同じ思いを持ったからこそ私に紹介してくれたのでしょう。私の好きなアーティストが一つ増えました。それも、好きな人と共有できるアーティストが。

「明日、奥村君にお礼を言おっと」



〈第十三ページ〉王子様に勝ちました



 それでは、反撃を始めるとしますか。

 次の日、私はそのように意気込んで家を出発しました。

 反撃とは、もちろん先週のことです。一週間前の今日、私は奥村君に数学の小テストで敗北してしまいました。今週は絶対に満点を取って見せましょう。

 前回の敗北の原因は私のケアレスミスです。ミスさえしなければ私も満点をとれていました。ゆえに打つ対策は一つです。問題を的確かつ迅速に解くことです。的確にミスがないように解くことは当たり前ですが、迅速に解くことで見返しの時間を確保するのです。

 二週間連続で負けて見なさい。私はもう立ち直れなくなるかもしれません。今週が勝負です。

 そして迎えた最後の授業――数学。

 負けられない戦いが今、始まろうとしているのです。

「それでは、始め」

 先生の号令と共に、シャーペンを滑らせます。

 的確に、迅速に。奥村君に勝つために。

 そのことを念頭に置きながら、一問目、二問目と問題を次々に解いていきます。

 一通り解き終えた私は、すぐに見直しに入ります。迅速に解くことを心掛けておいたおかげか、終了まではまだ時間があります。ゆっくり見直しをしましょう。

「…………ふ」

 三問目で間違いを見つけました。心の中でガッツポーズをしてみせます。

 先生がみんなに満点を取らせないように工夫を凝らしたのか、三問目はひっかけ問題になっていました。私もそのひっかけに引っ掛かっていたのです。

 しかし、そのからくりに気付いた私に怖いものはありません。すぐに訂正を行い、正しい答えを導出します。完璧です。

「はい、そこまでだ。いつものように答え配るから隣のやつと交換して採点しろよ」

 配られた模擬解答を参考に、隣の人の解答を採点していきます。隣の人は、やはり三問目のひっかけ問題に引っ掛かっていました。

「ほれ。満点だ」

 返ってきた答案には一つもチェックマークが入っておらず、すべて丸になっていました。満点です。やりました。

「奥村君、残念だったね~」

「これ、ひっかけ問題だったのかよ」

 そんな会話が聞こえてきました。私は奥村君の方を見ます。すると、三問目のところにチェックマークが入っていました。どうやらあの問題にまんまと引っ掛かったようですね。

 ぷぷぷ……。

 私は、先週奥村君にされたように、満点の解答用紙と完全勝利のドヤ顔を披露して見せました。そんな私を見た奥村君が悔しそうな顔をします。

 反撃は大成功です。

 でも、これはまだまだ序の口です。これはまだスタートでしかないのです。最終目標は定期試験による学年六位の奪還および五位への昇格。

 私の本気はここからですよ!


「これ、ありがとう」

 放課後、私は部活に行こうとする奥村君を呼び止め、昨日借りたトロイメライのアルバムを返しました。

「で、どうだった?」

「すごく良かった! どストライクだよ」

「だろ? 俺的に『無職透明』がお勧めなんだよね」

『無職透明』とは、歌詞がとても愉快な曲です。無職の青年がある日透明人間になる力を手に入れ、悪者を倒していくという一連の流れを曲にしたものです。ところどころに笑えるフレーズがあり、私も好きです。

「私も好きだよ、その曲。あ、でも私はやっぱり『恋ン』かな~」

『恋ン』とは、タイトル通り恋について歌った歌です。恋焦がれる少女の気持ちが一杯詰め込まれた一曲になっています。恋の歌はあまり好きではないのですが、トロイメライの歌うそれは気に入りました。

「あれは聞いていてムズムズしてくるわ」

 ムズムズする、ですか。ふふっ、それってどういう意味なんですかね? 男の子って案外初心な子が多いのでしょうか。

 私は終始ドキドキしっぱなしでしたよ。まるで今の自分の心を体現しているようでしたから。

「年末にサードアルバム出るらしいから、また貸してやるよ」

「ほんとに? ありがとう!」

 こんな時間が永遠に続けばいいのにと思います。

 そう、『恋ン』の歌詞のように……。



〈第十四ページ〉王子様はとてもかっこいい人です



 数学の小テストで奥村君に勝利した翌日、私は日直になりました。

 日直の仕事と言っても、朝、教室に配布物を持って行ったり、黒板を消したり、掃除後のゴミを捨てるくらいのことです。

 正直、あってもなくてもどちらでもよいようなレベルのシステムです。

「それじゃあ、ゴミ捨ててくるね」

「うん。ウチらは待ってるから」

「はやくね~」

 有希と愛衣に見送られ、ゴミ箱を抱えた私はゴミ捨て場に向かいます。ゴミ捨て場は体育館の裏――先日奥村君に呼び出された場所――にあります。

 教室から少し離れているのが難点ですね。

 体育館の隣を通った時です。中からいろいろな音が聞こえてきました。「こいっ!」と叫ぶ声、キュキュッとシューズが床をこする音、ボールが弾む音……。

 放課後の体育館は、バレー部やバスケット部などの運動部が使っています。つまりバレー部の奥村君もこの中にいるのです。

 私は少し気になって、開いたドアから中を少し見てみました。

 すると、ちょうど奥村君が宙を浮いているところを目撃したのです。

 軽やかに、まるで羽が付いているかのように飛び立った奥村君は、先に打ち上げられ落下してくるボールだけを見て、腕を振り下ろします。

 叩かれたボールは硬質な音を立てて、敵陣地へと打ち込まれます。そのボールを相手陣地の選手が取ろうと身を構えます。しかし、その人の腕に当たったボールは、思いもしない方向に飛んで行ってしまったのです。

 それと同時に、奥村君が床に着地します。一連の動作がとても優雅でした。汗をぬぐう姿もとても似合っています。

 どうやら奥村君のポジションはアタッカーのようですね。アタッカーは文字通りバレーボールにおける攻撃部隊です。レシーバーが拾い、セッターがつなぎ、アタッカーがみんなの思いを込めて攻撃する。

 そういうポジションに、私の恋する奥村君はいるのです。

 私はバレーなんて体育の授業くらいしかやったことはありませんが、先ほどの一撃を見て、やってみたいと感じるようになりました。

「かっこいい」

 自分でも意識しないうちに、そんなことをつぶやいていました。

 でも、思わずその言葉が出てしまうくらい、アタックを決めた瞬間の奥村君はかっこよかったのです。まるで、本物の王子様のようだったのです。

 奥村君がたくさんの女の子にモテて、最低でも月に一度は告白されているのも分かります。こんな姿を見せられては、どんな女の子でも間違いなくイチコロでしょう。

 私は有希や愛衣を待たせていることを忘れ、しばらくの間、その場で部活に励む奥村君を眺めていたのでした。


「叶ちゃん。最近なんだか変わったね」

 家に帰ると、ハート君がそんなことを言いました。

「そうかな?」

 とぼけて見せます。ハート君に言われなくても自分で分かっています。

 今の私は二週間前の私と違います。

 一人の男の子を好きになった。たったそれだけなのですが、なんだか見えていた世界がコロッと全部変わってしまったような、そんな感じがするのです。

「なんだかとってもポカポカしてる」

「それ、変わる前は冷たかったってことかな?」

「そういう意味じゃないよ!?」

 慌てるハート君の頭に手を乗せて笑います。

「ふふっ。冗談だよ、冗談」

 ポカポカしている、ですか……。その表現は的を射ていますね。確かに私は今、とてもポカポカしていますから。



 ボクは、開いていた絵本を閉じました。そして、すやすやと眠る叶ちゃんの隣に座り、彼女の寝顔を眺めます。とても幸せに満ちた様子です。

 この二週間で、叶ちゃんはすごくすごく変わりました。きっと、かけがえのないものを手に入れたのでしょう。

 だからボクは、これ以上そんな叶ちゃんを見たくないのです。叶ちゃんは知ってしまったのです。

 人を好きになる気持ちを。

 恋する素晴らしさを。

 想いを抱く温もりを。

 ボクは案内人として、あの日の約束通り、この物語を進めなければなりません。そんなボクが彼女にかけてあげられる言葉は、「がんばれ」と「ごめんなさい」です。

 物語の流れを変えないためにも、ボクにはこれくらいのことしかできないのです。

 だからボクは、叶ちゃんに囁きかけました。

 ボクの思いのすべてを込めて。

「叶ちゃん、どれだけつらくても、どれだけ悲しくても、お願いだから負けないで」

 眠る叶ちゃんの心に届きますように願って。

「そのためならボク、君のためにどんなことだってしてみせるから……」



〈第十五ページ〉私は大切なものをなくしました



 快晴です。

 今日は嫌いな木曜日ですが、これだけ気持ちのいい天気を目の前にすると、胸がスカッとします。

 天気がいいと元気も出てきますね。

「おはよーっ!」

 教室に入って友達の有希と愛衣に朝の挨拶をします。

「どうしたの、かなえ。なんかいいことでもあった?」

 有希の言葉に愛衣もうんうんと頷きます。

「てか、かなえ。最近すごく調子いいよね? もしかして、あのパフェの効果?」

 愛衣が言っているパフェとは、きっと二週間前に食べた駅前のパフェのことでしょう。見た者を魅惑し、食べた者を虜にする。まさしく、人を幸せにしてくれる幻のパフェです。

「パフェ効果って、それ食べたのいつよ。効果ありすぎでしょ」

 私は笑いながら答えます。

「でもそれくらいしか……」

「ないよね~」

 そんな私を不思議そうに見て、二人は互いの顔を見合わせて首を傾げます。

「なんか相談したいことがあったらいつでも言いなよ?」

「そうだよ。いつも勉強で助けてくれているんだから、それくらいするよ?」

「え、うん。ありがと」

 どうしたのでしょうか、この二人。

 今日はやけに真面目と言いますか、神妙と言いますか。どうしてそこまで気を使うようなことを言ってくるのでしょう。

「「てことだから、英語の宿題見せて!」」

 二人がいつもの表情に戻りました。どうやら本題はこちらのようです。少しでも熱い友情を感じた私がバカでしたね。



 ごめんなさい、叶ちゃん。

 負けないで……。



 一日が終わり、私はいつもの仲良しメンバーの有希、愛衣と一緒に帰宅しました。電車に乗って、まず有希が一足先に下車します。

 有希が下車する次の駅が、私の家の最寄り駅となります。

 中学校は学区上同じではありませんでしたが、有希と私の家はそれほど離れていません。もし私の家が、もう少し有希の家に近ければ、同じ中学校に通っていたかもしれませんね。そうしたら私は、もっと早く奥村君と出会えていたということになります。なんだか少し残念です。

 ちなみに、愛衣の家は私が下車する駅から、さらに十五分ほど乗車し続けなければなりません。「私だけ仲間はずれ!」とよく怒っています。

 愛衣と別れて改札口を出たとき、ハート君の声が聞こえたような気がしました。きょろきょろと辺りを見渡しても、ハート君の姿はどこにも見えません。きっと空耳だったのでしょう。

 そう思って、カバンから音楽プレイヤーを取り出します。この中には、先日奥村君からもらったトロイメライのデータが入っています。昨日はセカンドアルバムを聞きながら帰ったので、今日はファーストアルバムにしましょう。

 機器を操作して、イヤホンをセッティングします。セカンドアルバムの一曲目は、私の好きな『恋ン』です。

 そして、再生ボタンを押そうとした瞬間でした。

「えっ…………」

 手に持っていた音楽プレイヤーを落としてしまったのです。手を離れた音楽プレイヤーは、イヤホンのコードで垂れ下がり、プラプラと宙を浮いています。

 でも、今の私にはそんなことはどうでもよかったのです。そのままコードが切れようが、今の私は全然気に留めることもないでしょう。

 それほどにまで、私の心は動揺していたのです。

「う、そ……」

 私の瞳に映るのは奥村君でした。クラスメイトで、テストのライバルで、バレーのアタッカーで、――そして私が恋する奥村憲太郎君です。

 そんな奥村君が、私の視界にいたのです。

 知らない女の人と一緒に。

「……ぁ」

 声にならないような音を、私の喉が発しました。

 制服姿の奥村君の隣には、とても美人なお姉さんがいました。大学生でしょうか。流れるようなさらさらの長い髪の女性は大学生のように見えます。お化粧に慣れているようで、遠くからこうして眺めているだけでも惚れ惚れするくらい可愛らしいです。

 細い体の割に胸は愛衣や有希のように大きく、とても女性っぽいです。その大きく育った胸を奥村君の腕に押し付けて、いたずらっぽく彼の反応を見ています。

 身長は私と同じくらいでしょうか。背の高い奥村君を見上げ、その女性は明るい笑顔をまき散らします。その笑顔に、頬を紅潮させた奥村君は目線をそらします。

 その様子を見て、女性はまた明るく笑うのです。

「なによ、これ……」

 奥村君は必死に腕を外そうとしていますが、女性は自分の誇る胸をさらに押し付けようとします。

「奥村君は、部活動じゃないの?」

 この時間はまだ部活動をしているはずです。それに奥村君の利用している駅はもう一つ手前のはずです。それなのに、どうして奥村君は今、ここにいるのでしょうか。

 私は目をこすり、美人な大人っぽい女性といる奥村君を凝視します。でも、どれだけ見直しても、どれだけ目を凝らしても、そこにいるのは間違いなく奥村君本人でした。

 奥村君に恋している私が言うのです。あれは絶対に、正真正銘奥村君です。間違いであってほしいですが、間違いありません。

「奥村君が、誰とも付き合わなかったのって……これが原因なの?」

 中学校の時から女の子にモテていた奥村君は、たくさん告白を受けていたと有希から聞いていました。そしてそれは高校時代になっても変わらず、ついには生徒会長にまで告白されたとかいう噂もあります。でも、奥村君は生徒会長とすら付き合わなかった。

 その理由が、ようやく分かりました。

 奥村君には彼女がいたのです。年上で、美人で、それでいて可愛らしく、大人っぽさを内包し、ルックス抜群で、どこから見ても完璧な女性が……。

 私に勝ち目がないどころか、同じ土俵にも上がらせてもらえないような、それくらいパーフェクトな女性が奥村君の彼女だったのです。

 あんな人が相手だったら、奥村君は誰にも振り向かないはずです。だってほら、仕方がないじゃないですか。あんなの、反則の域を超えてしまっているのですから。

「……私は、どうしたらいいの」

 私は愕然と、二人を見つめます。もう声も出ません。

 なんとも言えない感情が腹の底に巣食い始めています。冷たくドロドロとしたそれは、私の中にあったポカポカをどんどん食らっていきます。

 言葉にできませんが、私の中で蠢く感情は、ポカポカとは全く正反対のものです。

 手足がびりびりとしびれ始めました。膝ががくがくと震え始め、全身が脱力状態になります。立っているのがやっとです。

「私は……」

 もうこれ以上、奥村君と彼の彼女を見ることはできませんでした。

 気付いた時には、私は踵を返して走り出し、もう一度改札口を通っていました。やってきた電車に乗り込み、空いていた席に腰を下ろします。

 そのまま電車に揺られてしばらく。

 私は無言のまま、例のスイーツ屋にやってきました。

 店に入り、ちょうど空いていた席についてパフェを注文します。ダンディなオーナーは注文を繰り返し、カウンターへと戻っていきます。

 今日はどうやらお客が少ないようです。私のほかに二~三人いる程度です。

 私はパフェが出てくるのを無言で待ちます。ただひたすらうつむき、指一本ピクリとも動きません。カバンから何かを取り出すわけでもなく、携帯を取り出してメールを打つわけでもなく、ただボーっと放心します。

「ご注文のパフェです」

 そんな私に気を使ったのか、オーナーは短くそう言うと、パフェとスプーンを置いてその場から立ち去りました。

 目の前にはあのパフェがあります。

 見る者を魅惑し、食べる者を虜にする力を持つ、人を幸せにする幻のパフェ。

 以前、愛衣や有希と一緒に来た時は、これが出てくる以前から夢と希望に満ち溢れ、よだれが出ていたものです。

 ですが今は、同じパフェが目の前にあるというのに全然ドキドキしません。あの時のわくわくした気持ちを全く感じないのです。

「こんな……こんな終わり方ってあるのかな?」

 語尾に涙が混じります。

 気が付くと、机の上に二滴ほど雫が落ちていました。一滴、また一滴とぽたりぽたりテーブルに涙が落ちていきます。

 鼻の奥が熱くなってきて、じゅるりと鼻水を吸います。

「本当に、私はこれからどうすればいいのよ……」

 私は、大切なものを失いました。

 人生で初めて、心の底から好きになった相手に彼女がいたのです。

 本気で好きになり、胸が苦しくなって、一緒にいるととても楽しくて、幸せすぎて仕方がなくて、もっと一緒にいたいと思って。

 そんな私は、失恋をしたのです。恋を、想いを失ったのです。

「私のこの気持ちは……一体どこにやればいいの?」

 悲しい、つらい、むなしい……どうしようもない感情が私の胸を蠢きます。

 心ここにあらずとはこのようなことを言うのでしょうか。これから私はどこに進めばいいのでしょうか。

 晴れた空が一気に闇に覆われたような感じがします。おかげで進むべき道すら見失ってしまいました。

 胸が苦しくなります。奥村君を好きになったあの苦しさではなく、身を引き裂かれるような冷たい苦しさです。お昼のお弁当を吐き出してしまいそうな感覚です。

「もう、なんでこんなに苦しいのよ」

 再確認したのです。

 私は奥村君のことが本当に好きだった。この世で一番好きと言ってもいいくらいに好きだった。焦がれていた。奥村君のすべてに惹かれ、恋をしていた。

 奥村君を運命の人とすら思ってしまうほどに……。

「こんなのって……ないよ。ひどすぎるよ、神様」

 涙が止まりません。まるで堰を切られたように、次から次へと溢れ出します。

 私は震える手でスプーンを持ちます。

 このパフェは、人を幸せにしてくれるパフェです。きっと……いいえ必ず、私のこともどうにかしてくれるでしょう。幸せまでできなくても、この胸に引っ掛かっている負の感情は取り除いてくれるはずです。

 ぱくり。

 生クリームをすくい、口の中に放り込みます。

 舌でとろける生クリームはなぜか全然甘くなく、とてもとてもしょっぱかったです。

「あー、もうやだ」

 食べても食べても、パフェは全然甘くありません。それどころか、まるで塩をまぶしているかのようにしょっぱいのです。

 生クリームも、チョコレートケーキも、様々なフルーツたちも、何もかもがしょっぱいのです。口に何かを入れるたび、しょっぱい味しかしないのです。

 これじゃあもう、甘いパフェを食べているというより、大きな岩塩にかぶりついているようです。

 せっかくのパフェがしょっぱくて仕方がありません。

「だから……だから木曜日は嫌いなんだ」

 ぼろぼろと涙が溢れてきます。零れた涙は頬を伝って、口の中に流れ込んできます。あるいは雫となって、パフェの上に落ちていきます。パフェが涙でどんどんしょっぱくなっていきます。

 パフェがしょっぱい木曜日……気分は最悪です。


 これでもかというくらい涙を流した後、私は家に帰ってきました。

 鏡を見て驚きました。目は真っ赤に晴れ、顔は洗顔した後のようにぐしょぐしょに濡れていました。

 まあ、あれだけ泣けばこうなるでしょうね。と言いますか、あんなに泣いたのは一体いつ以来でしょうか。

「ただいま。ちょっと部屋にいる」

 台所に向かわず、そのまま自分の部屋に直行します。

 こんな姿をお母さんには見せたくなかったからです。きっと今の私を見たら、お母さんは心配するでしょう。ですが、その理由をお母さんに話すほど、私の心に余裕はありません。

 今はこの苦しみを制御することができないのです。

 ほら、あの光景を――奥村君が見知らぬ女の人といたあのワンシーンを思い出しただけで目に涙がたまってきました。

 あれだけ泣いたというのに、まだ泣けるのですね。人間とは不思議なものです。この水分は一体どこから来ているのでしょう。

「ほんと、つらい」

 布団に倒れこみ、枕に顔をうずめます。

 目を閉じれば、奥村君のことばかり浮かびます。

 二週間前の木曜日、奥村君と出会いました。テストで負けた私は、悔しさ半分、ライバルの登場に高揚していました。

 それから買い物中の奥村君と出会い、弟がいることや料理ができることを知りました。そういえば、メールアドレスも交換したんでしたっけ。

 そして奥村君の両親と顔合わせをして彼女と間違えられて、数学の小テストで負けたんでした。

 先週の水曜日には雨が降って、自分の傘を貸してくれましたね。そのせいで奥村君は風邪をひいて……。本当に申し訳なく思いました。

 土曜日には元気になった奥村君とたまたまビデオレンタル店で会って、好きなアーティストが一緒だってことが分かりました。あと、奥村君のことが好きだということにも気付きました。

 話の流れで映画に誘われて、次の日に片思いデートをしました。

 その後奥村君のお気に入りのアーティストのアルバムを借りてはまってしまい、数学の小テストで見事反撃して見せ、部活動をする姿に見惚れました。

 振り返ると、この二週間は奥村君との出来事ばかりです。まるで世界に彼と私しかいなかったようにも思えてきます。

 幸せな時間でした。

 大切な時間でした。

 失いたくない時間でした。

 でもそれは、返ってくることはないのです。あの満たされた時間は、悲しいことに失われてしまったのです。

 まぶたに映るのは奥村君の姿ばかりです。私は一体、どれだけ奥村君に憧れていたのでしょうかと問いたくなるくらいです。

「……ぅ」

 そうです。そんな幸せの時間はなくなったのです。私の恋の物語はこれで幕を下ろしたのです。ただそれだけのことじゃないですか。

 始まりがあれば終わりがある。叶わない恋もいっぱいある。そういう恋の形を、私は漫画やドラマでたくさん見てきたではありませんか。たまたま、今回の私の恋がそうだっただけです。

 きっと次の恋は違うはずです。

 だから今回は。

 奥村君への恋の物語はここで終わらせることにしましょう。

 これ以上苦しまないように。

 これ以上つらい思いをしないように。

 感情を切り離しましょう。気持ちを殺しましょう。そうしないと、壊れてしまいそうだから……。

 焦がれた感情と、蠢く感情のすべてを切り離し、シュレッダーにかけてバラバラにしてしまいましょう。

 初めからなかったことにしましょう。

 奥村君に出会わなかったことに。

 すべてがなかったことに。

 すべてが始まる前の自分に――恋する前の自分にリセットするのです。

「でも……」

 でも。やっぱり無理ですよ、そんなこと。

 できるわけないじゃないですか。それができたら苦労なんてしませんよ。

 もう気付いてしまったのです。人を好きになるということに。

 もう感じてしまったのです。恋をする時の温もりに。

 もう知ってしまったのです。幸せの時間を。

 気付いてしまった、感じてしまった、知ってしまったそれらを捨てることなんてできません。

 切り離そうとすればするほど、もがけばもがくほど、あの温もりがフラッシュバックしてくるのです。

 だから、なかったことにするなんて無理です。

 奥村君のことを忘れるなんて、できるわけがありません。

「こんなことなら、奥村君のことを好きにならなかったらよかった」

 つらい。

 つらすぎて寿命が削られているようです。

 精神状態は過去にないほどボロボロです。

 恋はこれほどにまで人を苦しめるものなのでしょうか。

「叶ちゃん?」

 そんな私にハート君が声をかけてきました。

 手に乗るほど小さな妖精さんです。大きなシルクハットが似合っていて、とても愛らしい子です。

 そういえば、ハート君と初めて出会ったのは夢でしたね。あれも確か二週間ほど前でした。それからこの現実世界に姿を現すようになって、一緒に遊びました。

「ごめんね。もう大丈夫だから」

 気力を絞り出し、大丈夫であると言い切ります。もちろん嘘です。大丈夫なわけがありません。

「本当に?」

「うん、本当に大丈夫」

 体を起こし、涙で濡れた顔を洗いに行こうとベッドから起き上がります。

 その時、床に足を着くときにバランスを崩してしまい、向かいにある本棚に体当たりをしてしまいました。過度に腕をぶつけてしまったため、かなり痛いです。

 ゴトン、ガタン。

 おまけに、上の方に積んであった物が落ちてくる始末です。

「はあ~、もう最悪」

 部屋の中に大量の埃が舞います。

「? これは確か……」

 落ちてきた物の一つに見覚えのあるものを見つけました。

 子供の落書きのような絵が描かれた絵本です。タイトルは記号のように読みにくく、辛うじて『わたしはおひめさま』と書いてあることだけが分かりました。

 私は埃のかぶったその絵本を取り上げます。タイトルの下にも何か書いてあるようです。じっくり見てみると、そこに書いてある文字(もとい記号)は、どうやら私の名前のようです。と言うことは、この本は私が書いたということなのでしょうか。

 それにしてもこの表紙、どこかで見た覚えがありますね。

「……あ」

 思い出しました。ハート君です。

 始めてハート君と出会ったとき、夢の世界で彼がこの絵本を持っていたのです。下手くそな絵と読めない字が印象的だったのでしっかり覚えています。

 でも、どうしてハート君がこの絵本を持っていたのでしょうか。私の書いたであろうこの絵本を……。

 私は中が気になって表紙をめくります。

 おそらくこれは、幼稚園の時に遊びで製作したものです。あの頃の私が、一体どんな思いで、どんな気持ちでこの絵本を書いたのか。とても興味があります。



 散歩をしていた私は、運命の王子様と出会いました。

 それから王子様のことをよく知るようになりました。

 しばらくして、一緒に遊ぼうとお手紙が届きました。

 街に出ると、王子様の家族と出会いました。

 手紙を持ってお城に行き、途中で王子様の家族と会った話をすると、なぜか王子様は照れてしまいました。

 王子様のお城ですごろくをして遊びました。負けました。

 途中で雨が降り始め、困っている私に傘を貸してくれました。

 次の日、王子様は風邪をひいてしまいました。

 早く治るようにお願いをしましたが、風邪をこじらせてしまったようです。

 元気になった王子様と再会したとき、私は王子様のことが好きだと気付きました。

 そして私は王子様と一緒のひと時を過ごしました。

 ある日、王子様から贈り物をもらいました。

 そのお礼を言いにお城に行って、再びすごろくをして遊びました。勝ちました。

 帰る時間になり、王子様はドラゴンの背中に私を乗せて家まで送ってくれました。そんな王子様がとてもかっこよかったです。

 次の日私は、王子様が知らないお姫様と一緒にいるところを見てしまいました。



 それ以降は白紙のままで、何も書かれていませんでした。

「なにこれ……」

 私は読んでいて疑問を抱いていました。この絵本に書かれていることと、この二週間で体験したことが酷似していないか、と。

 そしてその疑問は、最後のページで確信へと変わりました。

「最後のこれって、今日のことじゃない……」

 王子様が知らないお姫様と一緒にいるところを見た。

 王子様が奥村君、お姫様があの女性だとすれば合点が行きます。

 他にも、街に出て王子様の家族に会った、雨が降ってきて傘を借りた、王子様が二日間風邪をひいたなど、この二週間で私が体験してきたことと同じようなことが書かれているではありませんか。

 まるでこの絵本をもとに、これまでの私の生活が進められてきたみたいな……。

「そういえば……」

 私はあることを思い出します。

 夢の世界でハート君がこの絵本を持っていたということ。

 そして、始めて出会ったとき、私に『叶ちゃんの物語を始める』と言ったこと。

 つまりハート君は、このことについて何かを知っているはずです。

「ねえ、ハート君。この絵本はなに?」

「叶ちゃんが書いた絵本だよ」

「それは知ってる。私が聞きたいのは、この絵本のことについて知りたいの。ハート君のことも」

 ハート君は口を閉じ、可愛らしい瞳で私を見つめます。

「これ、前にハート君が持っていたやつだよね?」

 ハート君は黙ったままです。

「この絵本と、この二週間の出来事がすごく似ているの。これって一体どういうこと? 私の気のせい?」

 うつむくハート君に、私はだんだんイライラしてきました。

「黙っていちゃ分からないよ。……そういえば、ハート君。初めて会ったときに、私の物語を始めるとか言ったよね? もしかしてこれってそういうことなの?」

 苦虫をかみつぶすような顔をするハート君は、やはり口を開こうとしません。

 そんなハート君に、私は湧き出す感情を露わにしていきます。

「ハート君が妖精の力ってやつを使ってやったの? 私の物語を始めるってこういうことだったの? この絵本通りのことを私にさせるってこと? ……ねえっ、なんとか言ってよ!」

 もしそうなのだとしたら。

 ハート君が妖精の力で、この絵本通りのストーリーを私にさせたというのなら。

 初めからこういう終わり方だって知っていてそうしたというのなら。

 それってつまり、私の気持ちを弄んだってことでしょ?

 恋をして、失恋するという物語をあえて私に体験させたっていうことでしょ?

「そう。ボクがやった。ボクが妖精の力を使ってやったんだ」

 ああ、そうですか。

 ……なんでしょうか、この気持ち。

 私はこれまでに、これほど誰かを憎んだことなんてあったでしょうか。

 可愛くて一日中抱きしめておきたいと思っていたハート君が、今ではとても憎い存在に見えます。

「出てけ」

 自分でも驚くほど野太い声が出ていました。

「ごめん、叶ちゃん。ボクはただ、案内人として君のお願いを……」

「もう声聞きたくない。姿も見たくない。今すぐ、ここから出て行け」

「分かったよ。でも、これだけは聞いておくれ! 叶ちゃんの物語はまだ……」

「いいからもう出てけよ! 声も聞きたくないって言っただろ!」

 怒りが、爆発しました。

「性格悪いんだよ。私にこんなことさせて! 最初からこうなることを知っていて、私に同じことをさせたんだろ! 面白かった? そりゃあ面白かったよね! 自分が楽しむためにやったもんね!」

「ちっ、違うよ。ボクはただ……」

「うるさい! もうお前の話に振り回されるのはごめんなの! お前はいいだろうさ。こうして傷つく私を見られるんだから。でも、私はどうなのよ。おもちゃにされて、私の心はボロボロなの! 芽生えたこの気持ちが、恋したことが全部お前の思惑道理だったんだから!」

 失恋したつらさが怒りに変わっていきます。

 ドロドロと、次々と怒りの言葉が溢れ出してきます。

「もうお前の言葉は信じない。私の今の気持ちが分かる? 分からないよね、分かるはずがないよね。だって、分かっていたら最初からこんなことしないもんね」

 小さなハート君の頭を握りつぶしたいとすら思えてきました。

「何が私の物語を始める、よ。何もかも全部、お前の暇つぶしだったんだ。人のことを……人の心をなんだと思ってンだよ」

 もう何もかもが嫌になってきました。

 人の気持ちを利用したハート君のことも、胸をときめかせる恋をすることも、こうして罵声を吐くことしかできない自分のことも。

「……、まだいたの」

 私の視線の先にはまだハート君がいました。だから私は、最後に大きな声を出して言いました。

「私の前からとっとと消えろッ!!」

 ビクンと体が震え、次の瞬間、ハート君の姿は消えていました。まるで最初からそこにいなかったように、空気に溶け込むようにして消滅したのでした。

 ああ、もう……。

 一体なんなのですか、この茶番劇は……。



〈十六ページ〉白紙 ~まだ終わっていなかった絵本叶の物語~



 次の日、私は学校を休みました。

 とてもではありませんが、学校に行って愛衣や有希、そして奥村君と明るく話せる状態ではありません。

 お母さんには「風邪で熱っぽいから休む」と嘘をつきました。

「あら、この絵本まだ持っていたのね」

 部屋に入ってきたお母さんが、机の上に置いたままにしていた絵本を見つけて言いました。

 時計を見ると、時刻は十二時を少し過ぎていました。

 お母さんはお昼ご飯のおかゆ(私の風邪を心配して、療養食のおかゆを用意してくれたらしいです。本当にごめんなさい)を机に置き、代わりに絵本を取り上げて椅子に腰を下ろしました。

「お母さん、その絵本のこと知っているの?」

「ええもちろんよ。懐かしいわね」

 お母さんは一ページずつページをめくっていき、私の小さいころを思い返しているようです。

「ひどい話でしょ。特に最後とかさ。どうしてそんな終わり方にしたのか、書いた本人ですらびっくりしたもん」

 出会った王子様とお姫様が結ばれない物語を、幼稚園時代の私はよく考えたものです。もっとこう、幼稚園生らしくメルヘンチックな終わり方にできなかったのでしょうか。

 しかし、そんな私を見て、お母さんはきょとんとしてしまいました。

「あら。かなえ、もしかして覚えていないの?」

「覚えていないって……?」

「ふふっ。恥ずかしくて忘れちゃったのかもね」

 お母さんはくすくす笑います。

 とても気になった私は、お母さんに絵本について私が忘れていることを尋ねます。

「いいわよ、教えてあげる」

 お母さんは絵本を閉じて語り始めます。

「この絵本を書いていた時ね、かなえったら突然泣き出しちゃったのよ」

「え……?」

「途中まで自分の思っていたことを書いていたのよ。それこそ、自分がその世界にいるようにね。でも、この最後のページを書いた時、手が止まって泣いたのよ」

 全然覚えていません。どうして私は泣いたのでしょうか。

「その時、なんて言ったと思う? 『お母さーん、この続きが書けないよ~』よ? 笑っちゃうでしょ?」

 確かに笑えます。自分で書いたのに、その続きが書けないなんて滑稽のほかの何物でもありません。

「それで私に書いてって言ってきたの。でもそれをしたら、かなえちゃんの作品じゃなくなるから自分で考えなきゃダメだよって言ってあげたら『分かんないもん』ってもっと泣き出しちゃったの。かわいいでしょ? だから『大きくなったら分かるかもよ?』って教えてあげたの」

「それで、その時の私はどうしたの?」

「お星さまにお願いしたわね」

「へ?」

 思わずそんな声が漏れてしまいました。

 お願いした? お星さまに? え、どういうこと? 十年前の私は、一体何を考えていたのでしょうか。お星さまにお願いを叶える力でもあると思っていたのでしょうか。

「なんてお願いしたの?」

「早く大きくなって、話の続きが書けるようになりたいって」

 十年前の私、なかなかメルヘンチックで無茶苦茶なことをしますね。

 絵本の続きが書きたいためにお星さまにお願いをするなんて聞いたことがありません。本気でお星さまにお願いすれば、早く大きくなって絵本の続きをかけるとでも思っていたのでしょうか。

「……お願い?」

 ふと、そのキーワードが頭の隅に引っ掛かります。

 その単語を、私はつい最近聞いた気がします。確かあれは、怒りに身を包まれていた時……そうです、ハート君が言っていました。

 確か、『案内人として君のお願いを……』とか言っていました。続きを言おうとした彼を、怒っていた私が遮ったのです。

 君のお願いを……。

 この言葉の続きはおそらく、『叶えようとして』でしょう。

 ということは、ハート君は十年前の私のお願いを叶えに来てくれたということでしょうか。お星さまに願った私のために、手を差し伸べてくれたということでしょうか。

 だったら私は、なんてひどいことを言ってしまったのでしょう。

 思い返せばあの時、私はハート君の話を一向に聞こうとしませんでした。ハート君に恋する気持ちを弄ばれたと勝手に勘違いして、勝手に憎んでいました。

 ハート君の事情も、気持ちも、思いも、すべてを無視して、私は自分勝手なことをひたすら口にしていました。失恋したつらさを、あたかもハート君のせいにして怒りへと変換し、そのすべてを吐き出していました。

 ハート君はただ、十年前の私の願いを叶えようと、妖精の力を使ってくれただけだというのに。

 そんなハート君のことを少しも考えずに私は当り散らして。

 まるで自分が被害者であるかのように、悲劇のヒロインであるかのように装って。

「心を踏みにじったのは私だ」

 バカなのは私の方だ。

 最低なのは私の方だ。

 人の気持ちを分かっていないのは私の方だ。

 自分勝手なのは私の方だ。

 私は……私はどれだけ愚かなことをしたのでしょう。

「お母さんごめん」

 私は居ても立っても居られなくなり、ベッドから跳ね起きます。

「私、実は風邪なんてひいてないの」

 するとお母さんは小さく笑いました。

「分かっているわよ、それくらい」

「え?」

「何年かなえの母親やっていると思うのよ」

 ああ、敵わないな。

 そう思います。お母さんは私が風邪でないことを知っていたのです。

 そういえば、初めてお母さんに奥村君の話をしたとき、『青春してる』と言われましたっけ。あの時もきっと、すでに見破っていたのでしょう。あのころから私が奥村君のことを好きだったことに。

 もしかしてお母さんは、私以上に私のことを知っているのではないでしょうか。

 お母さんには敵いません。流石は私の目標なだけはあります。超えるハードルはなかなか高いです。

「ちょっとやらなきゃならないことをやってくる」

「行ってらっしゃい」

 お母さんに見送られ、私は家を出ます。すると、二階の私の部屋の窓から顔を出したお母さんが、走り出す私を呼び止めます。

「かなえ! 迷うときは存分に迷いなさい。悩むときは存分に悩みなさい。そして、すべてが終わった後にちゃんと笑うこと! これ、女を磨くコツだから覚えておきなさい!」

「それ、どこの情報?」

「ソース? もちろんお母さんよ!」

 ソースがお母さんなら間違いないですね。

 分かりました。絵本叶、十六歳。女を磨くため、存分に迷って存分に悩んで、そして最後には最高の笑顔を見せましょう!

 私は窓から顔を出すお母さんにグッドサインをして走り出しました。

 目的はもちろん、ハート君を見つけるためです。


「ハート君! どこにいるのっ、ハート君!」

 走ります。

 ハート君の名前を呼びながら、ひたすら走りまくります。ハート君の行きそうなところなんて全然分かりません。だからただ、しらみつぶしに探しまくるだけです。

 坂を上り、大通りを出て、住宅街に入り、駅の前に出て、ため池にやって来て、川沿いを駆け巡り、橋を渡り、坂を下り、商店街を通過して……。

 ありとあらゆる場所を走ります。息はゼエゼエと切れています。それでもまだ諦めるわけにはいきません。

 私はハート君を見つけ出さなければならないのです。見つけ出し、ちゃんと謝らなければならないのです。

 彼の気持ちを無視して、自分勝手に怒鳴り散らしたことを、きちんとこの口で謝る必要があるのです。それが私のやるべきことなのです。

 やがてすっかり疲れ果ててしまった私は、近くの公園のベンチで休憩をすることにしました。結構遠くまで来たものです。しかし、ハート君は一向に見つかりません。

「ハート君、どこに行っちゃったんだろ……」

 消えろと言っておいて、二度と姿を見たくないと言っておいてこういうのは自分勝手だと分かっています。

 でもお願いです。

 こんな私に、せめて謝るチャンスをください。

「あれ? 叶ちゃんじゃん。どうしたの、こんなところで。学校は?」

 名前を呼ばれ、顔を上げると、そこには一匹の妖精が大きな羽を羽ばたかせて宙を舞っていました。

 十五センチほどの小さな妖精は、チャームポイントであるシルクハットをかぶっていて、ぬいぐるみのように可愛らしいです。

 間違いありません、ハート君です。

「ハート君!」

 宙を舞うハート君をつかみ、胸に引き寄せます。小さな妖精の体温が、じんわりと私の胸から伝わってきます。

「ごめんね、ハート君。本当にごめんね」

 腕に力が入ります。

「私、本当にバカだった。自分の失恋をハート君のせいにしてた。つらさをどうしたらいいか分からず、ハート君に当り散らしちゃった。ハート君はただ、私の願いを叶えようとしてくれただけなんだよね? それなのに私は、そんなことに気付かないで、ハート君の気持ちを踏みにじって、自分勝手なことばかり言って、そしてハート君を傷つけてしまった」

 あんなことを言っておいて、虫のいいことを言っていますよね。分かっています。でも私にはこれくらいのことくらいしかできないのです。

 許してもらおうなんて思っていません。ただ、せめてもの謝罪を受け取ってほしいだけです。

「私はひどい人間だ。自分のことばかり棚に上げてる。身勝手だってことは分かってる。でも謝らせてほしいの。本当に、ごめんなさい」

 ぐずっ、と私の胸元で鼻をすする音がしました。

 目線を下に向けると、つぶらな瞳を潤わせ、今にも泣きだしそうなハート君の顔がありました。

「もういいよ、叶ちゃん。もう分かったから、それ以上謝らないでおくれよ」

「で、でも……っ」

「ボクだってひどいことをしたんだ。叶ちゃんの恋する気持ちを踏みにじったんだ」

「でもそれは私のお願いを叶えるためで……」

「ううん。他の方法を考えていれば違っていたんだ。ボクがもう少し叶ちゃんのことを考えて物語を立てていたら……」

「そんなことないよ。おかげで私は、自分の願いに気付くことができたんだから」

 いつの間にか私もハート君も涙を流していました。

 ギュッとお互いの体を抱きしめ、私たちは公園のベンチでしばらくの間泣いたのです。


 ひとしきり泣いてから、私たちは家に帰ることにしました。そういえば、お母さんが仮病の私のために作ってくれたおかゆも食べていませんし。

 せっかくなのでハート君と一緒に食べましょうか。

「あれ? かなえ?」

 名前を呼ばれて振り返ると、愛衣と有希がいました。はて、二人そろってどうしたのでしょう。

「どうしたの、二人とも」

 私の質問に対して、二人は豆鉄砲を食らったような顔をします。

「いやいや、それはこっちのセリフだよ?」

「そうだよ。アタシらは風邪で休んだっていう友人の見舞いに来たんだよ。そしたら、その病人が街にいるじゃないですか。それも寝間着で」

 そう言われて、私は初めて自分の姿に気付きます。なんと、高校二年生にもなる年頃の女の子が、パジャマ姿で街中を走り回っていたのです。

「こっ、これはっ、違うの!」

「いやいや、違うって言われましてもねえ、村上殿」

「そうですなぁ。まさか学校休んでコスプレ羞恥プレイをしているとは思いませんでしたな、野潟どの」

「コスプレ羞恥プレイなんてしてないから!」

 そんな冗談をかわしながら、私たちは家にやってきます。せっかくお見舞い(仮病ですが)に来ていただいたのです。上がってもらいましょう。

 私は二人を部屋へと案内します。

 取りあえずこのままの格好で話すのは抵抗があるので、手ごろな服に着替えます。

「思えばかなえの家に来たの、久しぶりだね」

「随分前にテスト勉強でお邪魔した時以来だね~」

 そう言いながら、愛衣と有希は先ほどまで私が寝ていたベッドにダイビングしてみせます。あなたたち、もう少し遠慮と言う言葉を知るべきです。

 時計を見ると四時を過ぎていました。あれあれ、私は一体どれだけ走り回っていたのでしょうか。

 ベッドで飛び跳ねる愛衣と有希。二人の大きな胸がぼよんぼよんと揺れています。なんですかそれ、見せつけているのですか? 切除しますよ?

「まさか、あのかなえがズル休みをするなんてね~」

「……申し訳ない」

「先生が『絵本は風邪で休みだ』って言ったとき、クラスがざわついたもんね」

「そうそう。あ、でも、一番驚いていたのって奥村だったよね」

 奥村君の名前が出てきて体が硬直します。

 大丈夫、大丈夫です。もう奥村君のことは、私の失恋という形できっぱりと終わらせましたから。

「『絵本、大丈夫なのか?』って、わざわざアタシらに聞いてきたんだよ」

「うん、びっくりした。ウチ、奥村とは中学の時から一緒だけど、誰かの欠席にあそこまで過敏に反応してたの、初めて見たもん」

「…………」

 奥村君が私を心配してくれていた?

 風邪で休んだと聞いて、私の容体を親友である愛衣と有希に尋ねた?

 お願いだからそんなことしないでよ。せっかく諦めたのに、そんな優しいことをされたら、また好きになっちゃうじゃないですか。

 本当に、あなたはどうしようもない人ですね。

「それで? ズル休みした理由とかあるの? ほら……、かなえが仮病で休むなんて初めてだしさ」

「うん、アタシも気になる。最近様子がちょっとおかしいと思っていたけど、やっぱり何かあったんじゃないの? アタシらでよければ相談に乗るよ?」

 優しい友達です。

 私は話そうかどうか迷いましたが、二人には話すことにしました。

 自分の心に積りに積もった感情を聞いてもらいましょう。二人は私よりよっぽど恋愛経験が豊富です。もしかしたアドバイスなんかをくれるかもしれません。

「実は私、奥村君のことが好きだったの」

「「えええっ!?」」

 二人は声を合わせて驚きます。

「え、それマジ?」

「冗談とかじゃなくて?」

「冗談じゃない。マジな話だよ。最初はそんな気、まったくなかったんだ。でも、一緒に話しているといつの間にか好きになってた、みたいな」

「それっていつから?」

「きっかけは中間テストの順位発表。でも、いつから好きになったのかは分からない」

 別に隠していないのです。本当に分からないのです。

 一体いつ、私は奥村君に惹かれ、これほどにまで好きになってしまったのでしょうか。分かる人がいるのであれば、ぜひとも教えてもらいたいものです。

「やっ! こりゃあ、またすごい告白を聞かされたものですな」

「ほんとだね。奥村ってやたらハードル高いしね」

「ハードルが高いというか、もはや難攻不落の城だよ……。あ、でも大丈夫だよ。ウチらはかなえのこと、全力応援するから!」

 グッと拳を握りしめる有希。それに倣って愛衣も首を縦に振ります。

 私は本当に友達に恵まれています。こんなに友達思いの友人を持てて私は幸せです。

「ありがとう。でも、もういいんだ」

「どういうこと?」

「奥村君が難攻不落な理由が分かったの。私、見たの。実は奥村君には彼女がいたんだよ。とっても美人さんで、スタイルもよくて、大人っぽさがあって……取りあえず完璧すぎるお姉さんみたいな彼女が」

 あの情景がフラッシュバックしてきます。完璧すぎる女性が、大きな胸を奥村君の腕に押し付け、彼をからかうあの風景を……。

 思い出しただけでつらくなります。奥村君の隣にいるのは私ではないと実感したからです。

「ふ~ん。それでアンタは仮病を使って引きこもっていたわけだね」

「うん」

「あたかも失恋したように思い込んで」

「え? いや、思い込んだんじゃなくて、ちゃんと失恋したんだよ?」

 首をかしげる私を前に、素早く立ち上がった愛衣は、ビシッと私に指を向けて言い放ちました。

「御託無用! 有希、一発この小娘に喝を入れてやりな!」

「アイアイサーッ!」

 ピョンッと飛び上がった有希が、すかさず私の背後に回り、平手打ちを背中に一発お見舞いします。

 軽やかな音が部屋に響き渡りました。痛いんですけど!

「ちょっと! 急に何するのよ!」

「何するのよ、じゃないわよ!」

 どんっと腕を組んだ愛衣が私を見下ろします。組んだ腕の上に大きなおっぱいが乗っかっているのは嫌味ですね、きっと。

「かなえって、とんだバカ娘だったのね!」

「何よ、それ。どういう意味よ」

「そのままの意味よ。恋のなんたるかも分かっていない小娘」

「今回のことで分かったもん!」

「いいえ、分かってない。だってさっき、奥村が彼女と一緒にいるところを見て、諦めて、そして失恋したって言ったじゃない」

「そうだよ。奥村君には彼女がいた。だったら仕方がないじゃない」

「だっからっ、そこがまだまだ小娘だって言っているのよ!」

 大きな声で言った愛衣は、膝を床につき、私の肩に手を添えました。

「あんたはまだ、ちゃんと失恋していない!」

「したもん!」

「してない! だってアンタ、まだ告白すらしていないじゃない!」

 愛衣は何を言っているのでしょう。

 奥村君には彼女がいるのです。そんな奥村君に告白をしてどんな意味があるというのですか。ただ自分がつらくなるだけじゃないですか。

「恋って自分勝手なの! 始まるときは突然。でも終わらせるときは、その人の手できっちりと終わらせなければならないの」

「そんなの、ただつらいだけじゃん!」

「それが恋ってもんでしょ! 恋は99%のつらさと1%幸せで成り立っているのよ。つらくて当たり前じゃない。だって99%もつらいことがあるんだから。でも、残りの1%の幸せを求めて、みんな恋をするんじゃない!」

 確かにそうかもしれません。

 でも、納得することはできません。

「それじゃあ聞くけど、叶わない恋を叶えようとすることに意味なんてあるの!? わざわざフラれるために告白するなんておかしいじゃない!」

「フラれるために告白しようと考えているから甘いのよ! 有希、もう一発!」

「アイアイサーッ」

 命令された有希が私の背中に二発目の平手打ちをお見舞いします。背中にものすごい衝撃が走ります。

「告白は付き合うための前段階じゃないの。自分の想いを伝えるためのツールよ! 告白をする時だけは、その空間は自分と相手だけのフィールドなの! 誰にも介入できない特別な場所なの!」

 愛衣が私の体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめます。

 強く強く強く、力の限り私を包み込みます。豊かに膨らんだおっぱいが私に圧迫感を与えます。そして、耳元で訴えかけるように囁きます。

「退いちゃダメなんだよ、かなえ。本当に好きなら諦めるな。その女から奥村を奪う気持ちで告白するんだ」

「でも……」

「デモもテロもないよ。告白をして終止符を打つんだ。逃げたら後悔するよ。ずっとずっと奥村のことを想い続け、苦しむことになる。ダメもとでいいじゃない。大切なことは、きっちりかなえの気持ちを伝えることなんだから」

 愛衣の言っていることは無茶苦茶です。でも、その言葉には重みがあって、私のことを思って言ってくれているんだってことが分かります。

「うん、分かった……」

「よしよし、いい子だ。ありったけの『好き』をぶつけてこい」

「ありがとう、愛衣。ありがとう、有希」

 恋のなんたるかを教えてくれた愛衣に、弱気になっていた私に喝を入れてくれた有希に、私は心からの『ありがとう』を言います。

 そうです。私はまだ告白をしていない。

 愛衣の言う通り、告白をして恋を終わらせることができるのだとしたら、私の恋はまだ続行していることになります。

 確かに失恋したなんて私の思い込みです。自分の想いを伝えてすらいないのに何が失恋ですか。笑っちゃいますね。

 私の……絵本叶の恋の物語はまだ終わっていないのです!

 だったら、この手でちゃんと終わらせなければなりません。自分のありったけの気持ちをぶつけて終止符を打つのです。

 ああ、そういえば忘れていました。

 私、こう見えて結構強欲なのです。好きなものには目もくれず、ガツガツ行く肉食系女子なのでした。

「よしっ! 私、ちゃんと告白してみるよ!」

 だったら肉食系女子らしく、あの完璧な彼女から奥村君を奪い取る気で挑まなければいけませんね!

 絵本叶は、奥村憲太郎に告白することをここに宣言しました。



「さすが、経験者は語るってやつだね」

 かなえの家を出て駅に向かって歩いていると、有希がそんな風に言ってきました。

「なんの話かさっぱり」

「ふふふ……」

 なんでしょうか、この不敵な笑みは。

「実はウチ、知ってるんだよね~。愛衣のこと」

 なるほど、そういうことですか。

「まったく、憎たらしいやつだこと」

「へへへ」

 流石にちょっと言い過ぎたでしょうか。でも、イラッとしたのは確かです。まるで、昔の自分を見ているようでしたから。

 かなえには悪いことをしました。あの時のアタシを叱咤するように怒鳴り散らしてしまいました。

「まあ、でも。それはそれでいい思い出さ」

 中学一年生の時、アタシ――村上愛衣は初恋をしました。

 相手はクラス担任の先生です。

 世にいう禁断の恋、ってやつでしょうか。アタシは先生のことが好きで好きでたまりませんでした。ですが、それがイケナイ恋であるとも知っていました。

 だからアタシは、無意識のうちにその恋を諦めてしまったのです。叶わない恋だと勝手に決めつけてしまったのです。

 時が経ち、二年生になるとき、先生は転勤になってしまいました。結局、好きと言う想いは胸の内に秘めたまま、アタシは先生と離れ離れになったのです。

 これでやっとすっきりする。新しい恋を始めよう。そう思いました。

 だから、誰でもいいから恋人がほしかったのです。先生のことを、少しでも早く忘れてしまえるように。先生への想いを忘却するために。

 でもそれはできませんでした。

 どうしても先生のことが忘れられなかったのです。夜寝る前、目を閉じれば先生の顔が浮かぶ。名前を呼ばれると、先生が声をかけてきてくれたと期待してしまう。街で男の人を見ると、ついつい先生じゃないかと確認してしまう。

 結局のところ、先生のことを諦めることができませんでした。極論、失恋できなかったのです。

 こんなにつらい思いをするのなら、きっちり告白して、想いを告げて玉砕していたらよかったのです。でもそんな勇気、当時のアタシにはありませんでした。

 今ではようやく落ち着いてきましたが、一時は情緒不安定にまで陥ったものです。

(そんな時に近くにいてくれたのが、かなえと有希だったのよね……)

 アタシは、二人に感謝しています。彼女たちがいたから、こうして強くいられるから。

 だから今度はアタシの番です。アタシがかなえを助けてあげる番です。アタシと同じ思いをしないように。

「愛衣的にどう思う? かなえ、ちゃんとできるかな?」

 かなえがちゃんと告白できるかですって? それは愚問よ、有希。

「ああ見えて、かなえは結構肉食的だから。ちゃっかり奥村の心を鷲掴みにしてくるかもよ?」

「あー、確かに! こりゃあ、ウチらもおちおちしていられないね!」

 そうです。

 人の恋ばかりに気を取られている場合ではないのです。アタシも、アタシだけの恋の物語を始めなければならないのですから。



 愛衣と有希が帰った後、携帯を確認するとメールを一件受信していました。送り主は奥村君です。

『風邪だって聞いたけど大丈夫か?』

 その一文がどれほど温かいか。きっと、奥村君には分からないでしょう。奥村君のことが好きな私だから、この温もりを感じられているのです。

 だから私はこう返信したのです。

『ありがとう! もう大丈夫だよ。……ねえ。もしよかったら、明日遊ばない?』

 その返事は『いいよ』でした。

 私は、携帯をぎゅっと握りしめました。



〈第十七ページ〉白紙 ~それでは、絵本叶の物語を始めよう~



「よしっ!」

 鏡を見て、私は拳を握りしめます。

 今、私にできる最大限のおめかしをしました。あの女性にも負けないように。奥村君の心をがっちり掴むために。

 いつもは邪魔で着けることのないイヤリングやネックレスも装備しています。海をモチーフにした、貝殻のイヤリングとイルカのネックレスです。随分前に買ったのに、これを身に着けるのは指折り程度です。

 それほど、今日の私は本気なのです。

「いよいよだね」

 ハート君がトコトコとやって来て言いました。シルクハットをかぶった十五センチほどの小さな妖精です。

 二週間前、私はこの子と出会いました。それからいろいろありましたが、今では大切な友達です。この子がいたから、今の私がいると言っても過言ではないでしょう。

「いろいろとありがとうね、ハート君」

「ううん。ボクも楽しかったよ」

 私はとても恵まれています。

 目標となるお母さんがいて。

 ここまで導いてくれたハート君がいて。

 弱気になった私の背中を叩いてくれる有希がいて。

 恋することを教えてくれた愛衣がいて。

 そして、私のことを心配してくれる奥村君がいて。

 これだけの人に私は支えられているのです。これだけの人に背中を押してもらっているのです。

 だったら、それに応えなければ申し訳ないじゃないですか。何もしないまま、勝手に諦めるなんてこと、やっていいわけがないじゃないですか。

 やることをしないといけません。

 想いを伝えなければなりません。

「初めての告白だ」

 もう逃げません。もう勝手に終わらせたりしません。

 きちんとこの手でけりをつけるのです。

 自分の――絵本叶の恋の物語に!

「ごめんね、叶ちゃん」

 意気込んでいた私に、突然ハート君がそんなことを言いました。

「本当はずっと叶ちゃんと一緒にいたかった。でも、ごめん。もうお別れの時間なんだ」

 ハート君は、寂しそうな顔で弱弱しく笑いました。

「えっ……、お別れ?」

「うん」

 突然の発言に、私は混乱します。

 ちょっと待ってください。なんでそんな急なのですか。私、まだハート君にお礼もしてないのに。

「そんなの急すぎるよ」

「ごめん」

「でも、今すぐってわけじゃないんでしょ?」

「すぐなんだ。叶ちゃんが家を出る前にはお別れすることになる」

 そんな……。

「ちょっと待って。そじゃあ約束はどうなるの? ハート君は十年前の私のお願いを叶えるために来たんでしょ? だったら、この告白もちゃんと見ていてくれなきゃ」

「ボクもそうしたいよ。でも、ボクが叶ちゃんとした約束は、あの絵本の続きを書けるようになること。そして叶ちゃんは、見事あのページの続きを見つけたよね?」

 きっと私はあの絵本の続きを見つけたのでしょう。なぜなら、見つけたそれが今の状況なのですから。

「あ、でも。お別れだからって悲しまないでよ。ボクは妖精で案内人だからさ。また誰かの願いを叶える手伝いをしに行くだけなんだよ」

 どうしてハート君はそんなに強いのですか。たった二週間の付き合いだというのに、私はハート君と離れるのがつらいのです。

「ほらっ、もしかしたらまた、叶ちゃんに会いに来るかもしれないからさ」

「……」

「今生の別れってことでもないんだ。だから……」

 ぽろり。

 ハート君のつぶらな瞳から一滴の涙が零れ落ちます。

「だから、お願いだから泣かないで。せっかくのお化粧が台無しになっちゃうよ」

 そう言うハート君は、涙をボロボロ零しながら小さな手を差し伸べてきました。私はその手をつかみます。ハート君の温もりが静かに伝わってきます。

「がんばってね、叶ちゃん。ボクはずっと、叶ちゃんのことを応援しているからさ」

 ハート君に泣かないで、と言われました。お化粧が台無しになるからと言われましたが、きっと本当は泣いて別れるとつらいからだと思います。

 だから私は泣くのを我慢しました。

「うん。頑張る」

 そして、今までの感謝を込めてそう答えたのでした。


 ハート君と別れた私は電車に乗り、次の駅で下車しました。その駅はいつも有希が降りる駅です。有希と同じ中学校だった奥村君が、普段利用している駅でもあります。

 おしゃれなお店で買った時計(針の先端がハートの形になっていて、中央部にはキューピットの飾りがついているもの)にちらちらと目を向けながら、奥村君が来るのを待ちます。

 少し早く着いたでしょうか。いえいえ、誘った私が遅刻するなんて言語道断です。これぐらいが丁度いいのです。

 やがて、道の向こうから奥村君らしき青年が走ってくるのが見えました。

「悪い、遅れた……」

 ゼエゼエと息を切らして奥村君が謝ります。

「ううん。約束の時間まであと十分もあるよ?」

「え、まじか……」

 奥村君はまだ、息を整えているところです。全力疾走をしてきたためでしょう。バレーで日ごろから鍛えているはずの彼もバテバテです。

「それで……話って?」

 そう尋ねてきましたが、私は駅の隣に建てられたショッピングセンターを呼び指します。

「まあ、あそこでお茶でも飲まない?」

 にっこりとほほ笑んだ私に、奥村君は「お、おう……」と頷くだけでした。

 いい顔ですよ、奥村君。その『ちょっと驚いた顔』が、もう少しで『すごく驚いた顔』になることも知らないで……、ふふっ。

 私が先導し、後ろから奥村君が付いていくという形で私たちはショッピングセンターに入ります。

 ショッピングセンターと言ってもこの前行ったようなものではなく、三階建てのビルに婦人服やら小物やら本屋やらがちょこちょこ点在するような、どこにでもあるようなものです。

 その一階で喫茶店を見つけました。

「私、アイスコーヒーで。奥村君は?」

「ん? ああ、それじゃあ俺もアイスで」

 ウエイトレスが一度お辞儀をし、カウンターの方へと戻っていきます。とても静かなお店で、心に響くような音楽が流れています。周りに座っている客たちは皆、カップルや女性同士ばかりです。ムード作りは文句なしでしょう。

「アイスコーヒーになります」

 先ほどのウエイトレスがアイスコーヒーを置き、再びカウンターの方へ戻っていきます。

 それでは、絵本叶の物語を始めましょうか。

「ぷへー、生き返る~」

 走って喉が渇いていたのか、奥村君はさっそくストローをさし、ごくごくとアイスコーヒーを飲みます。

 まったく、これから大切なお話をしようとしているのに……。

「こほん」

 私は奥村君の意識をひくように、あえて聞こえるように咳払いをして見せます。

「どうした? やっぱり風邪、ひいたままなんじゃないのか?」

 なんですか、この鈍感君は。

 まあいいでしょう。すぐにびっくりさせてあげますから。

「今日、奥村君を呼び出したことなんだけど」

 奥村君はアイスコーヒーを飲みながら、私の方を見ます。

「実は大切なお話があるの」

「ん。そうなのか」

 そこでようやく、奥村君はストローから口を離して、私を真正面から見つめました。

 そんなに直視しないでください。今からちょっと気恥ずかしいことを言おうとしているのに、さらに恥ずかしくなってしまうではありませんか。

 固く握りしめた拳を膝の上に置きます。じわじわと汗が出てきて、掌が湿っぽくなっていきます。

 足と腕がぷるぷると震えています。心臓もさっきからバクバクと張り裂けてしまいそうな音を立てています。

 緊張で唇が渇き始めました。顔と耳が、火傷をしてしまうくらい熱くなっているのを感じます。

「あの、ね……」

 そこまで言って口が閉じてしまいました。

 想いを伝えると決心したのに。

 告白すると宣言したのに。

 それだというのに、いざとなればこの様です。なんて情けないことでしょう。

 告白することが怖いです。

 告白をすれば、たとえどのような結果であれ、以前のようにはいられません。友達という関係は変わらないかもしれません。でも、気持ちの上ではやっぱり、何かしらの変化がもたらされてしまうでしょう。それが……その変化が怖いのです。

 勇気を振り絞ります。ですが、唇は震えるだけで一向に持ち上がってくれません。

(ああ、やっぱり駄目だ……)

 私は目を閉じました。

『叶ちゃん、がんばれ!』

 ハート君の声が頭に響いてきました。

『がんばって、かなえ。ウチ、応援してるから』

『さっさと告白して、奥村の心をゲットしてきな!』

 続いて、有希と愛衣の声も聞こえてきました。励ましの言葉が頭で反芻し、心にしみわたっていきます。

 するとどうでしょうか。

 手足の震えは止まり、肩の力が落ち、心が穏やかになっていきます。深呼吸をすれば、火照っていた顔も落ち着いてきました。

(ハート君、有希、愛衣。ありがとう)

 私は心でみんなに感謝し、奥村君の方に向き直りました。

「奥村君!」

 これだけみんなに応援してもらったのです。

「実はですね」

 私はもう逃げません。

「私、奥村君のことが好きです! よろしければ付き合ってくださいませんか!」

 言いました。言ってやりましたよ、みなさん。見ていましたか、私の有志を。覚悟を。

 絵本叶十六歳! ご覧のとおり、人生初となる告白を堂々とやってのけました!

「…………」

「…………」

 両者、譲らない無言対決に突入します。

 奥村君の顔を確認すると、目玉が落ちてしまうくらい目をぱっちりと開き、口をポカーンと開けていました。顔は耳まで真っ赤になっていて、完全に驚いているご様子。

 きっと私の方も同じような状態なのでしょう。ダルマのように顔を真っ赤にしていることくらい、鏡を見なくたって分かります。

 二人の間の空気が凍っています。まるで時間が停止してしまっているかのようです。

 やがて、奥村君が口を開きました。

「実を言うと、俺も絵本のことが気になっていたんだよな」

 そして、そのように言ったのです。

「え? いま、なんて……?」

 私の聞きそびれでしょうか。奥村君は今、『私のことが気になっていた』って言いましたか?

 いえいえ、気のせいですよね。そんなことあるわけないですよね。だって奥村君には彼女がいるのだから。

 もちろん、その彼女から奥村君を奪ってやりたい気持ちはあります。でもそれは、単なる私の独りよがりですから。願望ですから。

 それだと言うのに。

「だから、俺もお前のことが好きだって言ってるんだよ」

 どうしてそのようなことを言ってくれるのでしょうか。

「えっ、でも……。奥村君には彼女がいて……」

 ついつい、聞かなくてもいいことを尋ねてしまいました。ほんと、私ってバカだなぁ。

「は? 彼女? 俺に?」

 すると奥村君はきょとんとした顔になります。

「いやいやいや。俺、彼女なんていたことねえよ?」

「で、でも、この前見たんだけど。奥村君が女の人と一緒に歩いていたところ。それも私の降りる駅の前で」

 奥村君は腕を組み、「そんなことあったっけ」などと言いながら記憶を探り始めます。そして、何かを思い出したのかポンと手を打ちました。

「絵本が言っているのって一昨日のこと?」

「そうだよ。この前の木曜日」

 私が涙で濡れるしょっぱいパフェを食べた日です。

「勘違いしているようだけど、それ、俺の姉貴だ」

「……、は?」

 思わず首を傾げてしまいます。

「だから、絵本が見たっていう女の人。それ、俺の姉貴なんだよ」

「いや、いやいやいや。……え、ほんとに?」

「ほんとだって」

「でもでもっ。あの人、自分の胸を奥村君の腕に押し付けて誘惑していたし」

「ほんと、鬱陶しいやつだろ……」

 蔑むような目をして深いため息を零します。

「姉貴、大学生でさ。一昨日、オーストラリアから一年ぶりくらいに帰ってきたんだよ。そしたら、降りる駅間違えちゃったから迎えに来いって連絡よこしやがってよ」

 ちょっと待ってください。

 少しだけ、出来事を整理する時間をください。

 あの女性は奥村君のお姉さんだったわけですか。そして、そのお姉さんはオーストラリアに留学に行っていて、一昨日帰ってきたと。そして、久しぶりに電車に乗ったら降りる駅を間違えてしまった――つまり、私がいつも下車する駅で降りてしまった。だから弟である奥村君をお迎えのために呼び出したと。そういうわけでしょうか。

 確かにあの女性は高校生には見えませんでした。大学生だと言われて納得できます。

 そういえばスーパーで奥村兄弟と会ったとき、姉たんが帰ってくるとか言っていましたね……。

「まったく、帰って来て早々弟を奴隷扱いしやがって」

 と言うことはあれですか?

 私は自分で勝手に勘違いをしていたということでしょうか。

 奥村君の隣にいた女性を勝手に彼女だと思い込んで、自分は失恋してしまったのだと勘違いしていたわけですね。そして無駄に悩み、苦しみ、悲しみ、ハート君を傷つけ、愛衣たちに心配をさせてしまったわけですか。

 ああ……。私ったら、一体どこまでバカでマヌケなのでしょう。

「ふふっ」

 勝手に傷ついて、あたかも自分が悲しみのどん底に落とされたように錯覚して……。なんて呆れた話でしょう。自分がこんなにバカだとは思いもしませんでした。

 くだらなさ過ぎて、自分の情けなさに思わず笑ってしまうレベルです。

「あははははっ」

 笑いがこみあげてきます。

 悩んだ時間はなんだったのでしょう。

 流した涙はなんだったのでしょう。

 全部全部、ただ空回りしていただけではありませんか。これを笑わずしてどうします。

「お、おい。大丈夫か?」

 あまりに私が笑うものだから、奥村君が心配そうに尋ねてきます。

「うん、大丈夫」

 よし。だったら怖がることはもう何もないですよね。

 もう一度、しっかり私の気持ちを伝えましょう。私の想いを届けましょう。

 それが私の恋の形だから。

「奥村君、もう一度言います」

 告白は、誰にも邪魔できないその人だけのものだから。

「私はあなたのことが大好きです」

 奥村君への『好き』は最強だから。

「だから、私と付き合ってください」

 頭を下げる私。そんな私の頭に、奥村君の大きな手が乗せられます。そして、犬や猫を愛でるように優しくなでてくれました。

「俺も絵本のことが好きだ。だから、俺と付き合ってくれ」

「……はい、よろこんで」


 愛衣、ありがとう。愛衣があの時きつく叱ってくれたから、私は前に進むことができました。あの言葉、忘れないから。ずっとずっと胸にしまっておくからね。

 有希、ありがとう。くよくよしている私に喝を入れてくれたおかげで、私は気持ちを入れ替えることができました。痛かったけど、本当に助かりました。

 ハート君、ありがとう。私のためにいろいろしてくれて感謝しています。ハート君がいなかったら私、たぶん別の人生を歩んでいたと思います。そういえば、ショッピングモールに行く約束、まだ果たせてないよね? 絶対に行こうね!

 お母さん、お父さん、ありがとう。二人の間に生まれてよかったです。ようやく私も恋をすることを学びました。つらい思いもしました。でもそれ以上に喜びに満ち溢れています。二人のようにいつまでも仲のいい関係を築き上げていければいいなと思っています。

 そして奥村君、ありがとう。私の想いを受け取ってくれてありがとう。テストの順位発表の時、話しかけてきてくれてありがとう。傘を貸してくれてありがとう。RHの良さを共感してくれてありがとう。トロイメライを紹介してくれてありがとう。――私を好きになってくれて、ありがとう。


 ありったけの『ありがとう』をみんなに届けます。

 絵本叶。

 恋をして、生まれて初めての彼氏ができました。



「でもさ。そんなにお姉さんのことを好いていないんだったら、わざわざお迎えなんていかなかったらよかったのに」

 両者の告白を終え、見事カップルの関係になった私と奥村君。

 いつまでも照れている奥村君に質問をしました。

「まあそうなんだけどさ……」

「あ~。やっぱり怖いの?」

 私には兄弟姉妹がいないので分かりませんが、兄や姉のいる友達の話を聞くと、逆らうのを躊躇うそうですね。やはり仕返しが怖いようです。

「それもあるんだけど。今回はちょっと違うくてさ」

「と言いますと?」

「迎えに来てくれたらケーキおごってくれるっていうもんだからさ、つい……」

 思わず口に含んでいたアイスコーヒーを吹き出してしまうところでした。

 なんですか、その理由は。

 まさかこの人は、ケーキ一つで家族にいいように操られているのですか!?

「ケーキでお姉さんの言いなり!?」

「俺、ケーキとかアイスとかパンケーキとか、結構好きなんだよね。あんみつとかの和菓子も好きだけど。まあ、とにかく甘いものには目がないっていうかなんて言うか」

「はあ……」

「だから部活も放り出してお迎えに行ってしまいまして」

 大丈夫か、奥村君!

「次の日、監督にこっ酷く叱られました。ははは……」

 まさかケーキをおごってもらうためだけに、部活まで無断欠勤するとは。恐ろしいほど甘党ですね。

 私もかなりの甘党ですが、何かをサボってまで食べようとはしませんよ。……まあ昨日ズル休みした私が言える立場ではありませんが。

 でもそうですか。奥村君は洋菓子・和菓子問わず、甘いものが大好きなのですね。

 だったらいいところがあるじゃないですか。

「奥村君、パフェは好き?」

「もちろんだぜ」

「私、すっごく美味しいパフェのある店知っているんだ」

 人を魅了し、虜にし、幸せにする幻のパフェ。

「今度行ってみない?」

「行く! 絶対に行く!」

「じゃあ、最初のデートはそこに決定だね」

「おうよ!」

 奥村君と食べるあのパフェは、きっとすごく甘く、私たちに幸せなひと時を提供してくれることでしょう。



〈背表紙〉



 こうして、お姫様と王子様はいつまでも仲良く暮らしました。おしまい。


 私は絵本の続きを、そのような形で話を締めくくりました。子供のころの願いがようやく叶ったわけです。

 実体験を含めた十年に渡る超大作が今ここに完結したのです。これは売れること間違いありません。ベストセラーになって、本屋大賞を獲って、映画化してしまうかもしれませんね。

 あの日、ハート君と出会えていたから今の私がいるのです。シルクハットをかぶった十五センチほどの小さな妖精さん。ぬいぐるみのように可愛らしく、いつまでも抱きしめてあげたくなるようなあの子がいたから、私はこうしてこの絵本を完結させることができました。

 ありがとう、ハート君。

 私は嬉々と絵本を閉じます。

 そして背表紙に大きなハートマークを描き、その中にこのように記しました。


『恋ってすばらしい!』


〈おしまい〉

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