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パフェがしょっぱい木曜日  作者: 神戸こーせん
1/2

前編

〈表紙〉



『わたしはおひめさま

                     作・画   絵本叶えもと かなえ


 これは私が六歳の頃に書いた絵本です。

 下手くそな絵と、記号のような読めない文字が印象的です。

 当時、どんな気持ちでこの絵本を書いたのか分かりません。ですが、この絵本は今では大切な宝物です。

 なぜなら、この絵本がここまで私を導いてくれたのですから。



〈第一ページ〉ある日私は運命の王子様と出会いました



 時を高校一年生の学年末テスト直後に遡ります。

「かなえ~。ウチ、いろんな意味でテスト終わった~」

 テスト終了のチャイムの後、私のところに二人の女子生徒がやって来ました。クラスメイトで親友の野潟有希のがた ゆうき村上愛衣むらかみ あいです。

「おやおや、有希さんよ。その様子を見るからに、今回の出来もイマイチのようですな~」

 そう言った愛衣に、有希はムムッと頬を膨らませます。

「……そう言う愛衣はどうなのさ」

「有希、このアタシにテストの出来を聞くなんて愚問だよ。心配無用さ。計算上、赤点はちゃんと逃れている」

 愛衣は胸を張って自信満々で答えました。自信あり気に言うことでもないのですが黙っておきましょう。

 それにしても愛衣、その憎たらしいくらい大きく育った胸を突き出さないでください。もぎ取りますよ? ちなみに有希の胸も、愛衣には劣りますが結構大きく育っています。走ったら揺れるレベルです。ほんと、何を食べているのでしょうね?

 つまり、この三人の中で胸が小さい(ないと言っても過言でない)のは私だけです。……ちょっとなんですか、その目は。世の中には貧乳好きの人もいるって知っていますか?

「かなえはどうだった?」

「いつも通りって感じかな」

「この余裕……、流石は学年六位だわ。ウチとか愛衣からみると、かなえは遠い存在に思えてくるよ」

「ほんとよね。一緒に勉強して同じ勉強方法を採用しているのに、どうしてここまで差が出るのかアタシには皆目見当もつかないよ」

 私からしてみれば、同じ年頃の女の子なのに、どうしてここまで胸の成長率に差があるのか知りたいです。一度でいいから「最近肩こる~」とか言ってみたいものです。

「目標を立てればいいんじゃないかな?」

「「目標?」」

 愛衣と有希が首をかしげます。

「そう、目標。私の場合、万年六位だから、五位を目標にしているの。そうしたらやる気とか出るじゃない?」

 感心したように二人が頷きました。ついでに彼女たちの胸も小さく動きます。この二人、喧嘩でも売っているのでしょうか。

「ならウチは打倒、愛衣!」

「ならアタシは打倒、有希!」

 二人とも、掲げる目標のレベルが低すぎです。

「もう少し高い目標を掲げてみない? 学年順位の二桁に入るとか」

「「それ、グッドアイディア!」」

 愛衣と有希の次のテストの目標が定まりました。まあ、次のテストと言っても、来年度の一学期中間テストなのですが……。


 テスト最終日の放課後と言うのは、普段の放課後とは違う何かを感じます。テスト勉強から解放されたこの一時……幸せです。

 私と愛衣と有希は、駅の近くにあるファーストフード店に来ています。

 油で揚げられたポテトをかじります。ここを訪れるのはひと月ぶりくらいでしょうか。この絶妙な塩加減……最高です。

「かなえに目標を立てろって言われて思い出したんだけど~」

 不意に、ストローをくわえてオレンジジュースを飲んでいた愛衣が言いました。

「そう言えばアタシ、一年生の内に彼氏作るって目標立てていたんだった」

 ピクリと私と有希の耳が反応します。

 私たちは花の女子高生です。青春真っ盛りです。『恋』やら『彼氏』というフレーズには敏感になってしまうものです。

「それでどうだったんだ!? まさかウチらに黙って彼氏作ったの!?」

「あのさぁ有希、彼氏いたらこんな会話しないよね? 分かっていて言っているの? 殺すよ?」

 愛衣から殺気が放たれています。

「じょ……ジョークだよ、ジョーク。ほらっ、ここにいるみんな、彼氏いない同盟の同志なわけなんだし落ち着こうよ。ね?」

「まあ、今日のところは許しておいてあげる。それにしても、そろそろ高校生活が一年過ぎようとしているのに、彼氏どころか色恋沙汰一つにすら巡りあえていないってどうなのよ……」

「漫画とかドラマのようには行かないってことだね。かなえはどうなのさ」

「私も何もないよ」

「だよねぇ~。あ~あ、空から男の子が降って来たりしないかな~?」

「アニメの見すぎだぞ、愛衣」

 有希が愛衣を嗜めます。

 愛衣は大のアニメ好きです。

 私はアニメと言うと、青い猫型ロボットが出てくるものや、キャラクターの名前が海鮮づくしのものなどを想像します。ですが、愛衣の見ているアニメはそれとは少し違うそうです。そもそも放送時間が深夜だとか……。

 愛衣は中学時代にアニメにはまり、世に言うアニオタになったそうです。彼女に聞いたところによれば、ここ最近は三十分アニメを週に二十本くらいは見ているらしいです。暇なのですね。

 ちなみに漫画をよく読む有希は、アニメはほとんど見ないそうです。読む漫画は少女漫画から少年漫画、恋愛ものからバトルものギャグものまで様々だそうです。

「でもやっぱり彼氏ほしい」

 長い黒髪を弄りながら有希が言います。それに続けて、明るい茶色に染まったショートヘアの愛衣も言いました。

「アタシも~」

 彼氏……なかなかいい響きの言葉です。

 ぜひとも欲しいものですね。


 家に帰ってきた私は、ベッドに座って考えます。

 目の前にある本棚には、恋愛ものの少女漫画が半分近くを占めています。その漫画の背表紙を見て、思わずため息が漏れてしまいました。

 恋や彼氏という存在に憧れている私ですが、困ったことに実は男の子を本気で好きになったことがないのです。

 ちょっと気になるかな~ってくらいの子なら、小学生の時にいたのですが、なんとそれっきりです。

 別に男の子が嫌いってわけではありません。ただ、「付き合いたい」「一緒にいたい」と思ったことがまだないのです。

 私は奥手なのでしょうか。それとも、そのような特別な出会いがまだなのでしょうか。はたまた、男の子にそれほど興味を持てない性格なのでしょうか。

 そんなことなので、私は『恋い焦がれる』という言葉の意味を知らないでいるわけなのです。

「来年のクリスマスまでに好きな人、見つかるかなー……」

 有希や愛衣は、「誰でもいいから取りあえず付き合いたい。そんでもって青春を謳歌したい」とよく言います。

 私も誰かと付き合いたいと思う気持ちは一緒なのですが、誰でもいいというわけではありません。私は自分が好きになった人とだけお付き合いをしたいのです。

「まっ、そのうち見つかるでしょ」

 私は楽天的に考え、寝ることにしました。



 時とはあっという間に過ぎていくものです。

 学年末テストが終わり、迎えた春休みも光陰矢の如く過ぎ去りました。そして新学年になり高校二年生。有希と愛衣とはまた同じクラスです。

 まだまだ時は進み、気付けば高校二年生最初の定期試験(つまり一学期中間試験)が終わっていました。本当に時が過ぎるのはあっという間です。

 結局、あれから二か月ほど経過していますが、未だに好きな人とは出会えていません。もちろん彼氏もいません。

「やっぱ点数いいな、かなえ! 流石ウチらのエースだわ」

「エースじゃないでしょ、有希。かなえコーチでしょ」

 有希と愛衣がそんなことを言います。二人の点数は……聞かないでおきましょう。

「ねえ、二人とも。明日、順位貼り出しだったよね?」

「「そだよ~、興味ないけど」」

 感動を覚えるくらい見事に合っていました。

 今回のテストの結果には自信があります。もしかしたら、今回こそ学年五位を叩き出せたのではないのでしょうか。期待大です。



「こんばんは、叶ちゃん」

 その日――つまり水曜日の夜、私は夢の世界で声をかけられました。

 場所に見覚えはありません。白い机、白い椅子、白い本棚、白いカーテンと全体が白で構成されている広い空間です。

 声のした方に顔を向けると、そこには一冊の絵本が宙を浮いていました。

 その本だけ不思議と色がありました。とてもカラフルな表紙の絵本です。誰かの手作りでしょうか。絵がとても下手くそです。題名なんて文字というより記号ですね。

「それじゃあ、あの日の約束通り、叶ちゃんの物語を始めるね」

 真っ白な世界に浮かぶ、色彩のある絵本は言いました。

 一体何がどうなっているというのでしょうか。

 分かっていることは、ここが夢の世界だということ。そして、宙を浮く絵本が話しかけてきているということです。

「ねえ、私の物語って?」

 気になった私はそのように尋ねます。

 しかし、その答えが返ってくる前に私は目を覚ましてしまいました。



 変な夢を見た私は朝食を食べ、いつものように学校に向かいました。

 教室に入ります。有希と愛衣はまだ登校していないようです。

 自分の席にカバンを置き、椅子に座ります。

「……」

 そわそわします。

 それもそのはずです。今日は二年生になって初めてのテストの順位発表日なのです。

 今回の出来は今までとは違います。自慢ではありませんが、自分でもよくできたと思っています。学年トップとまでは言いませんが、学年五位までには入っているはずです。

 朝からずっとこの調子で、気持ちが落ち着きません。

 掲載時間は昼休みです。今から待ち遠しくて仕方がありません。


 午前の授業が終わり、昼食を食べ終えた私たちは、さっそく廊下にある掲示板に向かいました。

 掲示板前には早くも生徒たちが群がっていました。そんな場所に、大きな紙を持った先生がゆっくりと歩いてきます。言わずもがな、その紙こそ順位が掲載されている代物です。

 さてさて、ついにご対面の時がやってきました。

「…………」

 祈るようにして手を組み、目を固く閉じます。

 先生が順位表を掲示します。

 すると、私の耳に「おおっ!」や「うわ~」などといった、様々な声が届いてきました。

 私は恐る恐る目を開けます。

〈一位〉猪川謙吾いがわ けんご

〈二位〉田仲夏美たなか なつみ

〈三位〉山本博嗣やまもと ひろし

〈四位〉真崎杏里紗まさき ありさ

〈五位〉国重皐月くにしげ さつき

〈六位〉奥村憲太郎おくむら けんたろう

〈七位〉絵本叶

「……え?」

 言葉を失いました。

 これはどういうことでしょうか。私の目に映っているのは幻想か何かでしょうか。何かの間違いでしょうか。

 首をかしげることすら忘れてしまうほど呆気にとられています。

「あれ? かなえが七位?」

 そのように誰かが言いました。有希か愛衣のどちらかでしょうが、どちらか判断できないほど、今の私は物事を考えられない状態でした。

 トップ五の面子に変わりはありません。この一年間、常に上位五位にいた人たちばかりです。

 ということは、私だけが六位から降格したということです。

 でも、そんなことあり得ましょうか。今回のテストの出来は、私にとっての過去最高だったのです。それを、この奥村憲太郎という人に超えられたというのです。否定したくもなります。

「なんで……?」

 私は木曜日が嫌いです。

 木曜日なんて碌なことがありません。

 小学中学の時間割では、高確率で一週間の中で一番授業数が多い曜日です。次の日は金曜日なので学校があります。週に二回行われる全校集会があるため、朝も他の曜日より早く登校しなくてはいけません。お手伝いのゴミ捨てがあるのも木曜日です。

 他にも木曜日の嫌な理由を挙げようとしたらキリがありません。

 とにかく私は、一週間の中で一番木曜日が嫌いなのです。

 それに追い打ちをかけるようにしてこの結果です。もう木曜日なんてなくなってしまえばいいのです。

「憲太郎、念願の六位じゃねえか!」

「おうよ!」

 そんな会話が、人の垣根のどこからか聞こえてきました。

 奥村憲太郎とは一体どのような人なのでしょうか。せっかくの機会です。これを機にしっかりとその正体を確認しておきましょう。

 奥村憲太郎たる人物を探すために、きょろきょろと辺りを見渡します。しかし如何せん人が多すぎます。近くにいたはずの有希と愛衣とも逸れてしまっていました。

「なあ、絵本だよな?」

 ふと声をかけられました。振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っていました。私より頭一つ分以上身長が高いです。

 私は彼を見上げながら頷きます。

「そうだけど?」

 はて、この人は誰だったでしょうか。同じクラスということは分かるのですが、顔と名前が一致しません。

「奥村だよ」

 男子生徒はそう答えました。

 なんということでしょう。私から学年六位の座を奪い取った奥村憲太郎たる人物と、早くも会うことができました。

「えっと……俺のこと知らない?」

 頭をポリポリと掻きながら奥村君が尋ねてきます。

「同じクラスってことくらいしか……」

 素直に答えると奥村君は少し寂しそうな顔をしました。気のせいでしょうか?

「そっか~、知らないか~。実は俺さ、万年学年七位だったんだよ。去年一年間、ずっと絵本の一つ下の順位だったんだ」

 そうだったのですか。自分の順位ばかりが気になって、一つ下は全然気にしていませんでした。

「ごめん。全然知らなかった」

「ううん、いいよいいよ。――でもまあ、そんなことだから、ずっと絵本に勝つことが目標だったんだよ」

 少し照れた様子で奥村君が頭を掻きました。

「……えっと、どうかしたか?」

 奥村君がそのように尋ねてきました。

 私としたことが、いつの間にか奥村君のことをまじまじと見つめてしまっていたようです。

「何でもないよ。それにしても悔しいなぁ~。まあ、次は六位の座奪い返すから」

「うひゃ~。お手柔らかに頼むぜ~?」

 どうしたのでしょうか。

 先ほどまでは六位から七位に転落したことで放心状態だったのに、今では次のテストに向けての高揚でいっぱいです。

 確かに悔しいことには悔しいのですが、奥村君と話していると、なぜかその悔しさが和らぐような気がするのです。

 どうしてなのでしょうね。私から六位の座を奪った奥村君からとてつもない好印象を感じます。それこそ、今まで感じたことのない感覚です。

「お~い、教室戻るぞ~」

 友達でしょうか。その声に彼は「おお、今行く」と言い返しました。

「んじゃ。また教室でな!」

 白い歯を見せて微笑むと、奥村君は人の垣根をかき分けていきました。

 奥村憲太郎――彼のことが少し気になりました。

 教室に戻った私は、いつもの二人に奥村君のことを尋ねます。

「奥村憲太郎? ああ、バレーボール部のやつでしょ?」

「ウチ、あいつと同じ中学だったけど、バレーで運動できるし勉強もできたから、女の子には結構人気だったよ」

 なるほど、中学時代は女の子にモテモテだったわけですか。

「でも結局、三年間ずっと彼女いなかったらしいけど」

 ふむふむ、彼女いた歴はなしですね。――って私ったら、一体なんてことを頭にメモしているのでしょうか。別にそんなことを知りたいために聞いたわけではないのに……。

「それにしても残念だったね」

「大丈夫。次、必ず奪い返すから」

「お~、こわいこわい」

 だって、このまま負けっぱなしというのも嫌じゃないですか。

 そう考えると、今回の順位降格はいい機会だったのかもしれません。奥村君という、切磋琢磨するライバルの存在を知ることができたのですから。

 久しぶりに熱くなってきました。

 いいでしょう、いいでしょうとも。ここに宣言しようではありませんか!

 私、絵本叶は次のテストで奥村憲太郎から六位の座を奪い返し、さらには念願の五位の座に登りつめて見せましょう!

 私は心の中で宣誓してみせるのでした。



「おかえりなさい。冷蔵庫におやつのドーナツがあるから食べていいわよ」

「はーい」

 家に帰るとお母さんが紅茶を淹れてくれました。

 お母さんは二十四歳の時に私を生みました。大学生時代に一目惚れした同い年のお父さんと結婚したそうです。どうやら結婚する前から夫婦カップルと周囲の人たちに言われていたらしく、超が付くほどのラブラブカップルだったそうです。

 お母さんはお酒を飲んで酔うと、お父さんとの惚気話をするのです。聞いているこっちが恥ずかしいくらいで、一緒にいるお父さんはいつも顔を赤くしてしまいます。私が言うのもなんですが、本当に仲のいい夫婦です。

 そんなお母さんは私の目標でもあります。

 お母さんは専業主婦として、びっくりするくらい要領よくテキパキとなんでもこなしてしまいます。料理、洗濯、掃除、子育てなどなど、専業主婦のスペシャリストと称しても過言ではないでしょう。なんと言っても、お父さんのお母さん――つまり私の父方のおばあちゃんに「こんなにできる嫁は他にはいない」と泣いて抱き着かれたくらいですから。

 私もお母さんのように、誰かに憧れてもらえるような人になりたいと思っています。

 あと、お母さんがお父さんのことを想っているように、相手のことを一心で好きでいられるような人になりたいとも思っています。

 そういう意味で、お母さんは私の最大の目標なのです。

 まあそんなことはさておき、冷蔵庫からドーナツを取り出した私は、お母さんの淹れてくれた紅茶を飲みながらブレイクタイムを迎えます。

「かなえ、どうかしたの?」

「ほえ?」

「なんだか、半分悔しそうで半分嬉しそうだから」

 確かに六位の座を奪われたことは悔しかったです。ですが嬉しいという感情には自分でも気が付きませんでした。もしかして私は、自分でも気付かないうちに、奥村君というライバルができたことを喜んでいたのでしょうか?

 流石は私の目標であるお母さんです。娘を見ただけでそんなところまで分かってしまうのでしょうか。勘だとしてもすごいです。

「うん、ちょっとね」

 そう言って、私はドーナツを頬張りながらテストにまつわる話を始めました。

 お母さんは頷きながら静かに聞いています。

「――というわけなの」

 話し終えた私は、残りの紅茶を飲み干します。

 そんな私を見ながら、お母さんはなぜかニヤニヤとしています。その表情は、お父さんとの惚気話をしている時に似ていて、とてもにこやかです。

「青春しているわねぇ」

「う~ん、どうなのかな~?」

 お母さんは、今日の私の体験を『青春』と位置付けました。それが正解なのか不正解なのか、私には分かりません。そもそも私自身、青春がなんなのかも知らないのです。

 一体、青春とはなんなのでしょうか。



 夜になりました。夕食を食べ、お風呂に入って、お気に入りのドラマを見て、ベッドに寝転がります。

 青春とはなんなのか。今日一日考えてみましたが、結局答えは分かりませんでした。

 恋をすること?

 スポーツに打ち込むこと?

 友達とバカ騒ぎすること?

 趣味に没頭すること?

 アルバイトをすること?

 いろいろ考えを巡らせてみましたが、答えを導くことはできませんでした。驚くほど難問です。


 気が付くと、私はまたこの空間にいました。机も椅子も本棚も、何もかもが真っ白な空間です。私の夢の世界です。

 そんな真っ白な世界で、その絵本は今晩も浮いていました。まるで青い空にぷかぷかと浮かぶ白い雲のようです。

 絵本には色があります。この世界において、唯一存在する色彩です。

 様々な色で描かれた絵本は、まるで子供が書いたように絵が下手でした。

「やあ、叶ちゃん。また会ったね」

 浮かぶ絵本が言いました。

「あなたは誰?」

 尋ねると、開いていた絵本がパタンと閉じられました。

 すると、なんとその絵本の陰から、掌に乗るくらいの可愛らしい羽の生えた小人が姿を現せたのです。

 背丈は十センチほどでしょうか。つぶらな瞳を持ち、子供っぽい顔つきをしている小人は、大きめの黒いシルクハットをかぶっていました。

 背中には二枚の羽が生えていて宙を飛んでいます。彼の小さな手は、先ほど閉じられた絵本を掴んでいます。

「なるほど、そういうことね」

 どうやら絵本は自身で浮くことはできないようです。

 おそらく、この可愛らしい小人が絵本を持って宙を飛んでいたのでしょう。ところが小人は体が小さいため絵本に隠れてしまい、私には絵本が飛んでいるように見えたわけです。

「しばらく見ないうちにずいぶん可愛くなったね、叶ちゃん」

 にっこりと笑みを浮かべながら小人は言います。

 それにしても、この小人は一体なんなのでしょうか。私にはさっぱり覚えがありません。久しぶりと言われても正直困ります。

「えっと……、ごめんなさい。あなたは誰なの?」

「ボクの名前はハートだよ」

 なるほど、この子はハートというそうです。覚えておきましょう。

 気になったので「ハート君は妖精なの?」という質問をすると、「そうだよ」と短く答えました。あ~、かわいい! 胸ポケットに入れて学校に連れていきたいくらいです。

「昨日、声をかけてきてくれたのもハート君だよね?」

 ハート君はコクリと頷きます。

「やっぱり! それでさ、昨日ハート君が言っていたことなんだけど、あれってどういう意味なの? 私の物語を始めるとかどうとか……」

「その質問には答えられないよ~。言っちゃったら物語を始めた意味がなくなるもん」

 はて、ハート君は何を言いたいのでしょう。物語を始めた意味がなくなる? 一体どういう意味なのでしょうか。とても気になります。

 でも、これ以上問い詰めても答えてくれないでしょうね。案外頑固な一面を持っていそうですし。

「まあ、そんな不安そうな顔をしないでよ。別に悪いことをしようとしているわけじゃないんだからさ」

 ハート君が無邪気に微笑みます。

「ただ約束通り、叶ちゃんのお願いを叶えてあげるだけだからさ」

 その言葉を聞いて、私は目を覚ましたのでした。

 謎が深まるばかりです。



〈第二ページ〉私は王子様のことをよく知るようになりました



 いつもより一本早い電車に乗ったおかげか、少し早く学校に到着しました。まだ有希も愛衣も来ていないようです。

 私は教卓に向かい、さりげなく座席表をのぞきます。すると、私から少し離れたところに奥村君の名前がありました。

「おはよっ、絵本!」

 突然背後から声をかけられ、体がビクンと震えてしまいました。振り返ると、そこには私を打ち負かした張本人の奥村君がいました。

「おはよ、奥村君。朝からびっくりするじゃない」

「おっと、それはごめんよ。別に脅かすつもりはなかったんだ」

 そんな奥村君の顔をじぃ~っと見つめると、「うそ、少し脅かそうと思っていました」と謝ります。別に真相を聞こうと思って見つめたわけではないのですが……。

「奥村君、朝ご飯はパンだったの?」

「おう、そうだけど? それがどうかしたか?」

「ううん、別に。ただ、ここにイチゴジャムが付いたままだから」

 私は仕草を交えて、奥村君の口の端にイチゴジャムが付いていることを教えてあげました。

「えっ! うそっ! まじかよっ!」

 瞬間、奥村君の顔がイチゴジャムのように赤く染まったのです。

 顔を真っ赤にしながら、ハンカチでイチゴジャムを拭っています。

 家を出てここに来るまでずっと、口の端にイチゴジャムを付けていたのでしょう。そりゃあ恥ずかしいですよね。

「あはははっ、言っちゃダメだよ、絵本さん」

 そんな彼の後ろからもう一人、男子生徒が声をかけてきました。この人は昨日、奥村君と一緒にいた人です、たぶん。

「せっかく黙っていたのにさ~。イチゴジャム付けて登校して授業受ける男子高校生とか面白いだろ?」

「お前、気付いていて言わなかったのかよ」

 ああ、思い出しました。

 この人とは去年も同じクラスだったのです。確か名前は田口秀明たぐち ひであきだったような気がします。ほとんど話したことがなかったのであまり覚えがありません。

「まあ、そう熱くなるなって、親友よ」

 田口君が奥村君の肩に腕を回して、耳元でごそごそと語り始めました。

「いいか、親友よ。お前は学年問わずたくさんの女の子からモテモテで、最低月に一度のペースで告白されているじゃん? テスト前には生徒会長に告白されたんだってな? そんなお前の友達やっているとな、たまには落とし穴に落としたくもなるんだよ。ほら、他人の不幸は蜜の味だって言うだろ?」

 私に聞こえないように小声で話しているつもりでしょうが、最初から全部聞こえていますよ、田口君。

 有希は、奥村君は中学時代モテモテだったと言っていましたが、どうやら現在進行形のようです。月に一度のペースで告白されるとか、漫画やドラマの世界の話だと思っていましたよ。このクラスの中にも、既に奥村君に告白した女子もいるのでしょうか……。

 それにしても、それだけたくさんの女の子から好かれていて、どうして誰とも付き合わないのでしょう。意中の人でもいるのでしょうか。それとも恋愛自体に興味がないのでしょうか。

 ……まあ、別にどうでもいいことです。奥村君がモテモテだからって、私とどのように関係があるのですか? はい、無関係です。

「覚えていろよ! 近いうちに必ず仕返ししてやるからな!」

 どこか子供っぽい発言です。とてもモテモテ男子高校生が放つ言葉とは思えません。しかし、違和感があまりないようにも感じます。これが奥村君の素なのでしょうか。

 そんなことを思いながら、ふと奥村君の横顔を見ました。すると、タイミングがいいのか悪いのか、奥村君もこっちを見て、目と目が合ってしまいました。

 こうやって男の子と目を合わしたことがほとんどないので、思わず息が詰まってしまいました。言葉を発しようにも口が動きません。

「あ……」

 奥村君が何かを言おうと口を開いたようですが、出てきた音は裏返っていました。女の子と目と目が合うことに慣れているであろう奥村君から、緊張の色が見えます。

「どうかしたか、憲太郎?」

「ああ、いや、なんでもねぇよ」

 凍った二人の間に田口君が声を投げかけてきました。

 その一声で私と奥村君は我を取り戻し、お互いに合わさっていた目線をそらします。グッジョブです、田口君。

「んじゃあな、絵本」

「うん」

 田口君を連れて奥本君が自分の席に向かいます。

「…………」

 胸のあたりが少しポカポカしています。

 このじんわりとした温もりは一体なんなのでしょう。



「ねえねえ、かなえ! この後暇かな?」

 終業のベルが鳴ると、愛衣と有希がこちらにすっ飛んできました。

 部活のある人たちはこれから部活動があるのですが、私たち三人は世に言う帰宅部なのでこのまま帰宅するだけです。

「まあ暇だけど。どうかしたの?」

「あのね、せっかくの金曜日だし、四月にオープンしたスイーツ屋に行かない?」

「噂によるとそこのパフェ、ボリュームがあってかなり美味しいらしいの! ほら、スイーツ好きのウチらとしては食べておかないとね」

 スイーツ屋が駅前に新しくオープンしたことは知っていましたが、まだ一度も行ったことがありません。確かにあそこのパフェはすごくおいしいと評判です。一度食べてみたいと前々から思っていました。

 絶品のパフェと聞かされて、スイーツ好きの私が行かないと言うとでも?

 お小遣いも残りわずかですが、そのことをパフェと天秤にかけるなんて愚の骨頂です。

「もちろん行く!」

 そういうことで、私たちはおいしいパフェを食べに行くことになりました。


 スイーツ屋に到着した私たちは、さっそく席に座りメニュー表を広げます。そしてすぐに、噂に聞くパフェを発見しました。

 値段は七百五十円です。値が張るのが少々ネックですが、今日は豪快に行きましょう。口コミでも、七百五十円を払う価値があると絶賛ですし、たまにはこういうお金の使い方も悪くないでしょう。

 例のパフェを三つ頼みます。

 すると、ちょび髭の男性が注文を書き記していきます。白髪交じりの髪をオールバックにセットしているダンディなおじさんです。

 渋い声で注文内容を復唱すると、静かにカウンターに戻っていきました。

「うひゃ~、楽しみ~!」

 愛衣が腕を広げテーブルに伏せながら言いました。私も有希も同じ気持ちです。

 憧れのパフェがすぐそこに迫っているのです。

 厨房では、パフェの盛り付けが行われていることでしょう。ここからはその様子は見えませんが、想像するだけでも口元がにやけてしまいます。

 店は大きくもなく小さくもなく、ちょうどいい具合の広さです。

 仕事の休憩でしょうか。カウンターにはスーツ姿の男の人がコーヒーに舌鼓を打っています。その男の人の二つ隣の席では、おばあちゃんとおじいちゃんの老夫婦がおいしそうにイチゴのショートケーキを味わっていました。

 心安らぐ音楽が店内に流れ、とても落ち着きのある空間です。

「ウチ、こういうところに彼氏と来るのが夢なんだ~」

 有希が言いました。

 彼女の目線の先のテーブルには、一組の男女が向かい合って座っていました。服を見るからに、学校は違いますが、どちらも私たちと同じ高校生でしょう。

 ケーキセットを食べながら、仲睦まじく会話をしています。男の子の方は若干緊張しているように見えます。女の子が笑顔を見せるたびに分かりやすく動揺しています。

 それにしても憧れちゃいますね、ああいうの。おいしいケーキを食べて、好きな人とお話しできて、楽しい時間を共有する。一体、一石なん鳥なのでしょうか。

「きっとケーキのおいしさも倍増するんだろうね~」

 愛衣も羨ましそうな視線をそのカップルに向けます。

「そういえば、これ知ってる?」

 ふと思い出したように有希が言いました。

「実は、なっつんと猪川が付き合い始めたらしいの」

「ほんとに!?」

 有希の言葉に愛衣が引っ掛かりました。身を乗り出し、有希に詳細を尋ねます。その瞳は興味津々のご様子です。

 なっつんとは田仲夏美のことで、今回の中間試験で栄えある学年二位に君臨した女生徒さんです。ちなみに、猪川君は学年一位です。

「ウチも詳しくは知らないんだけど、テスト順位開示の後に、なっつんが猪川に告ったんだってさ」

「ほえ~。なっつん、猪川のことが好きだったのか~」

「まあ、なっつんと猪川は同じ中学だったからね。付き合いは長いわけだし、好きであっても不思議じゃないね」

 意外でした。クラスのみんなといるときはそんな素振りを見せることはなかったし、猪川君と話しているときも普通でしたから。

「まさか学年トップでカップルが成立するとはねぇ~。テストの順位が高いとそういうイベントも発生するのかな? ねえ、かなえ?」

 愛衣、なぜそこでこちらに話を振ってくるのですか?

「そんなのないよ、全然」

「そうかね~? ほら、今回奥村に順位を抜かれたじゃん? もしかしたら、あいつと何かあるかもよ?」

 何かあるとは、一体何があるのでしょうか。

 そもそも、テストの順位くらいで恋が芽生えるというのであれば、世界中の男女は彼氏彼女が欲しいなどと頭を抱えることもないでしょうに。

「奥村ね~。あいつ、誰か好きなやつでもいるのかな?」

 有希が机に肘をつきながら言います。

「あいつ、生徒会長にも告白されたらしいじゃん? でもその場で断ったらしいんだよ」

「うん。そういうのって、好きな人がいないとできないことだもんね。なんか心当たりとかあったりするの?」

 私はお冷を少しずつ飲みながら、愛衣と有希の会話を聞きます。

 愛衣と有希は中学時代に彼氏がいたので、この手の話は得意中の得意です。対して私は、今まで彼氏がいたことがないので、あまりコアな内容にはついていけないのです。

「う~ん……。でも、中学時代とは対応が変わったかも」

「どういうこと?」

「中学時代は、一旦考えさせてほしいって言っていたんだよ。それで後日断るってやつ。でも最近はその場で断っているんだよね」

「なるほど……。ということは、高校に入ってから何かしら心の変化があったのかもしれないわね」

「そうかも」

 そんな会話が繰り広げられている私たちのテーブルへ、三つのパフェが登場しました。

 高さは二十センチほどあるでしょうか。カップの中には、生クリームやらスポンジやらクランチやらコーンフレークやらがびっしりと詰め込まれています。上部にはイチゴやらバナナやらメロンやら、色とりどりのフルーツが豪快に盛ってあります。積み重ねられた生クリームには、なんとポッキーとショコラケーキが突き刺さっているではありませんか。

 私だけでなく有希や愛衣も、その神々しいパフェの姿を見て、ついつい言葉を失ってしまいました。

 先ほどまでの会話の内容さえ忘れてしまったくらいです。それほどにまで、目前のパフェは魅力的だったのです。

「これが噂に聞く」

「超絶美味の」

「デリシャスパフェ」

 三人で言葉を紡ぎ、パフェを眺めます。このままずっと眺めていてもいいくらいです。

 ごくりと、唾を飲み込みます。このパフェが来てから唾液の生産量がすごいのですが気のせいでしょうか。

「それでは」

「スプーンを手に」

「いざ尋常に」

 自分のパフェにスプーンを突き立て、見るからに濃厚な生クリームを掬い取ります。

「「「いっただっきまーす!!」」」

 ぱくりと生クリームを放り込みます。濃くて甘い生クリームが口の中に広がり、一瞬で私たちを幸せの楽園へと誘いました。

 生クリームに刺さったショコラケーキはそのまま食べるとほろ苦く、生クリームをつけることでおいしさが倍増します。

 採れたてのような新鮮な果物も、果汁とともにそれぞれの味をまき散らします。メロンはしっかりと味があって最高です。イチゴに似たラズベリーの甘酸っぱさもたまりません。

「くは~っ! ほんとにおいしぃ~。アタシ、こんなにおいしいパフェ食べたの初めてかも!」

 心底幸せそうな顔をして愛衣が言います。

「ウチもだよ~。このパフェを食べるために、これからテスト頑張ろっかな~」

 おいしさのあまり、有希の頬が緩んでいます。見ているこっちまでニヤニヤしてしまいそうです。

 それにしても、このおいしさは反則なのではないでしょうか。これを食べて笑顔にならないなんてことがあり得るでしょうか。いいえ、よっぽどスイーツが嫌いな人でない限り笑顔になってしまうはずです。

 このパフェのすばらしさは、絶妙な甘さや新鮮なフルーツだけではなく、ショコラケーキやクランチ、スポンジなど飽きがこないように工夫が施されているところです。

 それほどおいしく楽しいパフェだったので、私たちはあっという間に平らげてしまいました。高さ二十センチもあったのに……。

 食べ終わってから気付いたのですが、パフェを食べている最中は、誰一人として一言も話しをしていませんでした。

 人を一瞬で虜にしちゃうのだからパフェってすごいです。

 不意に携帯が振動します。メールを受信したそうです。送信者はお母さんでした。

 私は空になった容器にスプーンを入れて、メールを確認します。内容は、帰りに牛乳と卵を買ってきてほしいとのことです。

 そういえば今日は牛乳と卵が特価だと、朝のチラシで見ました。家計を支える上では、こういうセールをうまく利用することが大切なのでしょう。

 私は「りょうかい」と返信しました。

「さて、そろそろ行きますか?」

 最後に食べ終えた愛衣が言いました。私を含め、三人とも清々しい笑みを浮かべています。まあ、あのパフェを食べた後なのだから当然と言えば当然ですが。

 パフェの料金を支払い、お店を後にします。

 それから私は二人と別れて、安売りセールをしているスーパーに向かいました。

 セールの影響でしょうか、人がいつもより多い気がします。

 このスーパーは割と大きな規模を持ち、食料品以外にも薬や衣服などを取り扱ったりしています。たくさんの人が訪れるため駐車場は大きいのですが、それでも土日などの休日は車でいっぱいになります。

 スーパーに入ると軽快な音楽と歌が耳に届きました。その歌詞は、本日ポイント三倍デーということを歌っています。そういえばポイントカードを持ってきていませんでした。これは損をしてしまいましたね。

 入り口でカゴを取り、さっそく牛乳売り場に向かいます。

 と、その時でした。ドンと私の右足に衝撃が走ったのです。

 なんだろうと思いながら足元を見ると、小さな男の子が尻餅をついてこちらを見上げていたのです。なるほど、この子がぶつかってきたということなのでしょう。

「ごめんね? 大丈夫?」

 私が手を差し伸べると、男の子はこくりと頷いて私の手を取って起き上がりました。身長からして幼稚園児くらいでしょうか。

「こらっ、よう! だからあれだけ走るなって言っただろ!」

 そんな声が聞こえてきました。男の人の声です。

 黒縁眼鏡をかけていてとても若そうに見えるのですが、この子のお父さんでしょうか。……あ、どうにも違うようですね。肩にエナメルバッグを提げているあたり、私と同じ学生でしょう。ということは、この子のお兄さんですね。

「本当にすみません。ほらっ、葉も謝れ!」

「ごめん……なさい」

 お兄さんに言われて男の子が頭を下げます。涙声になっていたのは、お兄さんに強く言われたからでしょう。

「いえいえ。それよりケガはない?」

 そう言った時でした。

 お兄さんの動きがぴたりと止まったのです。はてさてどうかしたのでしょうか。

「なんだ、絵本だったのか」

 なんということでしょうか。突然お兄さんがそんなことを言いだしたのです。

「えっと……。どちら様ですか?」

「え? それマジで言っているのか? 俺だよ、俺」

 彼が黒縁眼鏡を外したところで、私はお兄さんの正体にようやく気付くことができました。

「奥村君って目が悪かったの?」

 そうです。現れた黒縁眼鏡のお兄さんは、あの奥村君だったのです。

「まあな。普段はバレーで運動するからコンタクトしているけど、俺、コンタクト基本嫌いだからさ」

 眼鏡ひとつでここまで雰囲気が変わるものでしょうか。その化けように少々驚いています。

「それで? 絵本は何しているんだ?」

「お遣いだよ。お母さんに牛乳と卵買ってくるように言われたの。奥村君は?」

「俺も似たようなもんだ。部活が終わって、葉を幼稚園に迎えに行って、食材の調達をするのが俺の日課なんだよ」

「へぇ~。部活やったり弟君のお迎え行ったり大変なんだね。将来、いい旦那さんになるんじゃない?」

「どうだろうな。ウチは両親共働きでさ、二人とも帰るのが遅いから、葉の面倒と飯作るのは俺の仕事なんだ」

「すごい! ご飯も作れるの!?」

 勉強ができて、バレーで活躍して、料理まで作れるとはなかなかに高スペックな人だ。そりゃあモテるわけだ。料理ができる男の子ってなんだか素敵でかっこいい。私も見習わないと!

「あ、このことはみんな知らないから内緒な」

「このことって?」

「飯作っているってこと」

 へぇ~、奥村君が家庭的な人だってことはみんな知らないのか。ということは、知っているのは私だけってことなのかな。……なんか嬉しいカモ。

 あれ? 私、なんで今嬉しいって思ったんだろう……。

「でもどうして? 料理できるってすごいと思うよ?」

「たいしたことじゃねえよ。それに、秘密にできることは秘密にしておいた方が面白いだろ? 何かあったとき、『俺、料理できるんだぜ』って言ったらかっこいいじゃん?」

 無邪気な笑みを浮かべながら奥村君が言います。

 その考え、なんとなく分かる気がします。ギャップと言いますか、隠れた才能と言いますか、確かにそのようなものには憧れますから。

「そうだ。口止め料として、飯一緒に食うか?」

 料理の慣れた奥村君の作ったご飯を食べてみたいのですが、如何せん私はお遣いの途中です。それに今日の夕食は肉じゃがのようなので、私としては見逃せない献立だったりするのです。せっかくのお誘いなのですが、今回はお断りさせていただきましょう。

「ごめん。今日の夕食、肉じゃがだから。また今度でもいいかな?」

 お誘いを断られたというのに、なぜか奥村君は嬉しそうな顔をしています。

「そうか、それは仕方ねえな! 絵本、肉じゃがが好きなんだな」

 どうして奥村君はここまで嬉しそうにしているのでしょうか。不思議です。

「絵本の好物を聞けて良かったよ」

 はて、私の好物を聞いて何が良かったのでしょうか。

 奥村君、なんだか面白い人ですね。

「それじゃあ、また今度一緒に夕食食おうぜ。それまでに肉じゃがを作る特訓しておくからさ」

「うん。楽しみにしているね」

 奥村君が本気で言っているのか、はたまた冗談で言っているのか分からないけれど、少なくとも私は、冗談ではなく本当に楽しみにしています。ただ単純に、奥村君の作る料理が食べてみたくなったのです。

「そうだ。メアド交換しようよ」

 不意にポケットから携帯を取り出した奥村君がそう言いました。断る理由もなかったので、私も携帯を出してメールアドレスの交換をします。

 お父さん以外の男の人の連絡先が登録されるのは、これが初めてです。そのことを意識すると脈拍が高くなりました。ドクンドクンと脈打つ音が響いてきます。

 どうしたのでしょう、私。ただメールアドレスを交換しただけで、どうしてこれほど動揺するなんて。

「ありがとな、絵本」

「いえいえ、こちらこそありがと」

 アドレス帳に『奥村憲太郎』の名前が登録されました。

 その名前を見ていると、少し嬉しい気持ちになります。やはり、異性の連絡先をゲットするというのは嬉しいものですね。

「兄ちゃん、は~や~く~。姉たん帰って来ちゃうよ~」

 私たちの会話に退屈しだした奥村君の弟――葉君がお兄ちゃんを催促します。待ちくたびれて少々不満なのか、頬を膨らませて怒っているようです。ごめんね。

「姉たんが帰ってくるのは三日後くらいだからな、葉。葉もぐずり出したし先に帰るわ。それじゃあ絵本、また月曜日な」

「うん。またね」

 お互いに手を振り合い、私たちは別れました。

 それから牛乳二パックと卵一ケースをカゴに入れて、私もスーパーを後にしました。

 今日はなんだか色々あった一日だった気がします。

 イチゴジャムを口の端につけて奥村君が登校してきて、有希や愛衣と幸せになるパフェを食べて、スーパーで奥村君と会いました。そして奥村君に弟がいることや、料理ができることなど、たくさん奥村君のことを知りました。あと、こうしてメールアドレスも交換しましたし。

 ふと頬が熱くなります。

 パフェのこと以外、全部奥村君関係じゃないですか。はて、どうして私は奥村君のことばかりを思い出しているのでしょうか。

 奥村君とは、この前の試験の結果をきっかけに話し始めたくらいです。しかもそれは昨日の出来事なのです。それだというのに、この感じはなんなのでしょう。まるで、奥村君とはずっと前から知り合いだったような気がするのです。

 私はぶんぶんと首を振って邪念を追い払います。

 違います、そんなのではないのです。

 奥村君は私のライバル。次のテストで必ず六位の座を奪い返すだけの相手です。それ以上でもそれ以下でもありません。

 そうです。奥村君に抱くこの感じはライバル意識です、きっと。

 そのように自身を納得させた私は、パフェの味を思い出しながら部屋の明かりを消しました。

 明日は土曜日です。

 特に予定があるわけではありませんが、やはり休日というものは楽しみです。さて、明日は何をして過ごしましょう。



〈第三ページ〉王子様からお手紙が届きました



 平日と同じように目覚まし時計に起こされ、朝食を食べてから昨日出された宿題をしていた時でした。

 私の耳にある声が聞こえてきたのです。お父さんのものでもお母さんのものでもありません。

 でも、私はその声の正体を知っています。だからこそ、私は驚いたのです。なぜなら、私の考えている声の正体が、今ここにいるはずがないと分かっているからです。ですが、そいつはまた声をかけてくるのです。

「何しているの、叶ちゃん?」

 どうやら幻覚と幻聴が私を襲っているようです。

 手に持っていたシャーペンを手放す余裕すらありません。目前の現象に、ただ目を丸くして驚くばかりです。

「どうしてハート君がここにいるの?」

 そうなのです。夢の中で出会った小さな妖精――ハート君が、私の数学の課題を興味津々な様子でのぞき込んでいたのです。

 小さな体に大きめのシルクハットと羽が生えた妖精は、私の方を見るとにっこりとほほ笑みました。愛くるしい笑顔です。

「だって、叶ちゃんと夢の中でしか会えないなんて寂しいんだもん」

 寂しいんだもん、ではありません。

 これは問題です、大問題です。夢の住人であるはずのハート君が、現実世界に存在しているというのです。おかしいです、現実的ではありません、奇妙奇天烈摩訶不思議です。

「ちょっと待って。ちょっと待ってよ、ハート君。君は夢の世界の住人なんだよね?」

 そう尋ねると、ハート君は腕を組み、キメ顔でこう言ったのです。

「ふふふ、いつからボクを夢の住人だと錯覚していた」

 なんでしょう、このふてぶてしさ。窓から投げ捨ててやりましょうか。……いえいえ、今はそんなことをするより現状を知ることが大切です。

「でも変だよ。この世界に妖精なんていないし。もしかして私、今眠っているのかな?」

 白昼夢という言葉を聞いたことがあります。確か真昼に見る夢だとか。ええ、きっとそれです間違いありません。そうでなければハート君がここに存在する道理が通りません。

「ふふふ、いつからこの世界に妖精がいないと錯覚していた」

 流石にイラッときますね。

 ハート君の頬をつねると、「痛い痛い、ごめんなさいごめんなさい」と泣き叫びます。仕方がないですね、今回だけ許してあげましょう。

「それで、これは一体どういうことなの? どうして妖精で、しかも私の夢の世界にいたハート君が現実世界にいるの?」

 頬をつねることができたことから、ハート君の姿はホログラムなどではなく、実際に存在していることが分かります。ますます謎が深まるわけです。

「う~ん、どこから話したらいいのかな~」

 腕を組んで難しそうな顔をします。その表情もキュートですね。今すぐ抱きしめたいくらいです。基本、私は甘いものとかわいいものが大好きですから。

「まずは根本からだね」

 ハート君が人差し指を立てました。

「さっき叶ちゃんは『この世界に妖精なんていない』と言ったよね?」

 確かにそう言いました。

 妖精も魔法使いも天使も悪魔も幽霊も妖怪も、私はこの世界に存在しないと思っています。ロマンがないと言われるかもしれませんが、どうにもそういった類は本や漫画の世界の話と割り切ってしまうのです。

 私が頷くと、ハート君が静かに首を横に振りました。

「でも、それは違うんだよ。この世界に妖精は存在しているんだ。実際、ボクはここにいるだろう?」

「いやいやいや、そんなこと言われても信じられるわけないじゃん」

「まあ、無理に信じようとしなくていいよ。妖精はいるんだな~ってことを漠然と感じてくれれば」

 難解な数学の問題を解くよりも難しい難題を突き付けられているような感覚です。頭の処理速度が追い付いていません。

「ようするに、ハート君みたいな妖精がこの世界に存在するってことね?」

 納得したわけではありませんが、ここで悩んでいても仕方がないです。取りあえずハート君の言葉を受け入れることにしましょう。

「そういうことさ。妖精は神秘的な力を持っていてね、ボクは人間の夢に入ることができるんだ」

「妖精ってなんでもありなのね」

 そんな私のツッコミを無視して、ハート君は続けます。

「まあ本来なら夢の世界でしか人と接触しないんだけどね。ほら、こうして現実世界で接触すると人って懐疑的な目で見るじゃない? だから極力姿を見せないようにしているんだよ」

 まあ、普通は懐疑的な目で見られるでしょう。

「でもやっぱり、夢の中でしか会えないのは寂しいんだよね。だから会いに来ちゃった」

 きちゃった、じゃないですよ。まあ、かわいいから許しますけど。

「かなえ~、今からお父さんと買い物に行ってくるけど欲しいものある?」

 その時です。ドアを開けてお母さんが部屋に入ってきたのです。

 私はこの時ほど肝を冷やしたことはありません。心臓を冷たい手で掴まれたような感覚です。

 私は慌ててハート君を自分の背中に隠しました。

「どうかしたの?」

「ううん、なんでもないよ?」

「そう。で、何かある?」

「ううん、何もないよ。いってらっしゃい」

「分かったわ。お昼ごはん買ってくるから待っていてね」

「はーい」

 お母さんの姿がドアの向こうへ消えていきました。お母さんが階段を下りていく音が聞こえてから、ようやく安堵の息を吐くことができました。

「あぶなかった~」

「別に気にしなくてよかったのに」

「何言っているの。見つかったらいろいろ面倒じゃない」

「そんな心配は無用だよ。ボクが見えるのは今のところ叶ちゃんだけだからさ。お母さんにもお父さんにも、ボクの姿は見えないし声は聞こえないよ?」

「そうなの?」

「うん。これも妖精の特性ってやつだね」

 そういう特性があるのであれば初めに言っておいてほしいものです。慌てて損をしました。

「ねえねえ、何かして遊ぼうよ!」

「何かして遊ぼうって言われてもなぁ~」

 私は解きかけの数学の宿題を閉じます。

「叶ちゃん、ボクあれをやってみたい」

 そのように言いながら、ハート君が指差したのはジェンガでした。積み重なったブロックを崩さないように交代で抜いていく遊びで、倒した人が負けというものです。

「うん、別にいいけど」

 私は棚に置いてあったジェンガを取ります。

 随分と長いこと遊んでいなかったので、箱の上には埃が積もっていました。

 埃を払い、箱の中からブロックを取り出します。それをタワーのように高く積み上げ、ゲーム開始です。

「いい? 倒したらその人の負けだからね?」

「了解! それじゃあボクからやるね!」

 宙を舞って、ブロックを全身の力を使って引き抜きます。その後で私もブロックを引き抜きます。

 このゲーム、見た目はとても単純に見えますが、実際は頭脳バトルなのです。全体のバランスを考え、どこのブロックを抜けば倒れないかを考える。そして、ただそれだけではなく、どのようにブロックを抜いていけば相手のターンで倒すことができるのかも考える必要があるのです。ただがむしゃらにブロックを引き抜くのはジェンガの素人。玄人は、将棋やチェス同様、一手二手先を読むものなのです。

「あーっ!」

「はい、私の勝ち!」

 これでも昔はジェンガが得意だったのです。今ではめっきりやらなくなりましたが、子供の頃はよく友達やお父さんお母さんと遊んでいたものです。

 ブロックのタワーを崩してしまったハート君は、ぶうっと頬を膨らませています。ふてくされたハート君もかわいいね!

「もう一回やる!」

「いいけど私強いよ?」

 ブロックを積み上げ、第二ラウンドスタートです。

 ゲームが進むにつれて、私は生唾を飲み込むようになりました。ハート君が、私の思っていた以上にやり手だったのです。

 最初はただの素人だと思っていましたが、第二ラウンドになってから戦略的になったのです。

 早くもジェンガの醍醐味を知り得たというのでしょうか。いいでしょう。そっちがその気であればこちらも本気で行かせてもらいますよ! 久しぶりにジェンガ魂に火がつきました。

 ブロックがタワーから一つ、また一つと抜かれていきます。最初は立派だったタワーも随分とみすぼらしくなったものです。

「悪いわね、ハート君。これを取ったら私の勝ちも同然よ」

 将棋に王手、チェスにチェックメイトと決まり手があるように、ジェンガにも構造的理由から決めの一手があるのです。その一手を私が打つことができました。これで私の勝ちは決まったようなものです。

 そうして、決め手となるブロックに指を当てたその時、軽やかなメロディーが携帯から鳴り響いたのです。

 静かな部屋で突然鳴り出した音楽に驚いた私は、体を震わせます。すると、その振動がブロックに伝わってしまいました。必然、タワーが音を立てて崩れてしまいます。

「あーっ! せっかく勝てたのに~!」

 一体誰ですか。せっかくの私の勝利を奪い去ったメールの送信者は! 私は大変ご立腹ですよ!

 携帯を取り、メールの送信者を確認します。

 瞬間、言葉にできない衝撃が胸を打ちました。物理的なものではないのですが、結構響く衝撃です。鼓動がどんどん高鳴っていきます。

「誰からなの?」

 私は少し黙ってからハート君の問いかけに答えました。

「奥村憲太郎っていうクラスメイトだよ」

「男の子なの?」

「そうだよ。一昨日から仲良くなったんだ」

「……、へぇ~」

 タワーも崩れてちょうど切りが良かったので、メールの内容を確認します。

『おはよう! 別に用事があるってわけじゃないけど、ちょっとメールしたくなったから送ってみました』

 ほほう、なるほど。用事がないのにメールを送ってきたというのですか。そして私は、そのメールでハート君にジェンガで負けたというわけですか。

 まあいいでしょう。久しぶりにジェンガを楽しめたし、ハート君のかわいさに免じて許してあげますよ。今日の私は何かと寛大です。

『おはよ! 奥村君、部活じゃないの?』

 ポチポチっと携帯を操ってメールを返信します。すると、一分もしないうちに奥村君から返信が来ました。

『今週は日曜日なんだよね~。だから今日はゆっくりする日』

『そうなんだ~。私は基本、土日はゆっくりしているよ』

『へぇ~。ならテレビ見たりしているのか?』

『ううん。いつものように宿題してから、漫画読んだり買い物に行ったりしようかな~って考えている』

『宿題やるとか、絵本は真面目だな~』

『その真面目な子から六位の座を奪ったのは誰かな?』

『あはは~。すまんすまん』

『まあ、次のテストで絶対奪い返すからいいんだけど』

『だったら俺も奪われないようにしないとな!』

 他愛のないやり取りが繰り広げられます。本当にどうでもいいようなやり取りです。ですが、なんだか楽しいです。有希や愛衣としている時とは違う楽しさがあるのです。男の子とメールをするのが初めてのせいか、すごくわくわくします。

 それからしばらくやり取りをしていると、買い物に行っていたお母さんとお父さんが帰ってきました。

『ごめん。今からお昼ご飯なの』

『あ、もうそんな時間か。悪いな、朝っぱらから』

『ううん、楽しかったよ!』

『俺も楽しかった! それじゃあ、またな』

 こうして私と奥村君のメールのやり取りは終わりを迎えました。

「ハート君、ごめんね」

 放りっぱなしにしてしまったハート君に謝ります。

 一緒に遊びたくて私の前に現れたのに、ついついメールに夢中になってしまいました。本当にごめんなさい。

「いいよ、ボクのことは気にしないで。そんなことより、お母さんが呼んでいるよ?」

「うん、お昼ご飯の時間だからね。ハート君も一緒に行く?」

「いいの?」

「だって私以外には見えないんでしょ?」

 こくりとハート君が頷きます。

 私はそんなハート君を持ち上げ、肩に乗せます。片手に乗るほどの小さな体のハート君は、ぬいぐるみのように軽かったです。

 ハート君を肩に乗せて階段を降りると、テーブルには海鮮丼の器が三つ並べられていました。どうやら、買い物に行ったお店で北海道フェアという催し物があったそうです。

 ウニやイクラ、サーモンやカニのほぐし身などが盛られた色鮮やかな一品。とてもおいしそうです。早く食べましょう!

「おいしそう……」

 耳元でハート君が囁きました。

「ちょっと食べてみる?」

 人差し指をくわえ、羨ましそうに海鮮丼を見つめるハート君に尋ねます。するとハート君は、頭が取れるのではないかと思うくらい激しく頭を上下させます。

「それじゃあ、お母さんたちにばれないようにこっそり食べてね」

 再び頭を激しく上下に動かします。ほんと、かわいいな~。

 車を駐車させていたお父さんが部屋に入ってきました。私たちは椅子に座り手を合わせます。肩では同じようにハート君も手を合わせています。

「「「いただきます」」」

「いただきまーす」

 私たち三人と少し遅れてハート君が声を上げました。もちろん、ハート君の声はお母さんたちには聞こえていないし、姿も見えていません。

 私にだけ見えるハート君は、細かくきざまれたサーモンを口に放り込みました。頬をリスのようにふくらませたハート君が、満面の笑みでこちらを振り返ります。

「おいしい!」

 次にマグロ、ハマチ、イカ、カニのほぐし身、イクラと、ハート君は少しずつ食べていきます。

 彼は一口食べ物を口に放り込むたびに「おいしい」と笑顔で言います。その笑顔がとても愛おしくて、私はハート君を食べてみたくなりました。もちろん冗談ですよ?

 私も海鮮丼に箸を伸ばします。一口、二口と口に放り込み咀嚼します。

 ああ、なんておいしさなのでしょう。この海鮮丼、かなりお金がかかったのではないでしょうか。そう思うくらいおいしいのです。

 一口、また一口と箸を進めると、いつの間にか容器は空っぽになっていました。

「ごちそうさまでした」

 私とハート君は、名残惜しそうに空っぽになった容器を眺めそう言います。

 それからお母さんの淹れてくれた熱めの緑茶をすすります。私は猫舌なので、飲む前にはちゃんと息を吹きかけます。

 緑茶を飲み終えた私は席を立ちます。

 午前中、奥村君とのメールに集中してしまったため、宿題がまだ終わっていません。とりあえず昼からは、あの宿題を終わらすことから始めるとしましょう。

「そうだ、かなえ。あなた、明日の予定とかあるの?」

 自分の部屋に戻って残りの宿題をしようと台所から出ようとした私に、お母さんが声をかけました。

「ううん。別に特に用事はないけど?」

 振り向きながら私は答えます。

 お母さんは「そう。ならちょっと待って」と言って、広告の山を漁り始めます。

 お父さんは、お母さんがなんの広告を探しているのか分かっているようで、何も言わず静かに探し物をするお母さんを眺めます。

 やがて、「あったあった」と言いながら一枚の広告を引き抜きました。それは赤色や黄色など、様々な色で印刷された、どこにでもあるようなチラシです。

「明日ね、隣町のショッピングモールで創立五周年記念があるのよ。だから、かなえも一緒に行かない?」

 この町に住んでいて、隣町のショッピングモールを知らない者はいないでしょう。

 広大な土地を利用して建てられたそれは、ドーナツのように円状の構造をしており、様々なショップで構成されています。

 建物は三階建てで、一階分だけでも、何も見ずにぐるりと一周するだけでも軽く十分から十五分はかかります。二階にはフードコートがありますが、お昼になるといつも満席状態です。

 そんなわけなので、すべての店を一日で見て回ることはなかなかに困難です。私の場合は、いろいろ見て回るのではなく、立ち寄る店を先に決めて徘徊するようにしています。そっちの方が断然効率がいいですから。

 もちろん、それだけ広いのですから、迷子の数も半端じゃありません。最低でも二時間に一回は迷子案内のアナウンスが店内に流れます。

 そういう私も、初めて行った時はすぐに迷子になってしまいましたが……。あの頃の私は少し頑固でお姉さんぶっていたので、店内放送で名前を呼ばれることだけは頑なに拒み、迷子センターには行こうともしませんでした。おかげでお母さんたちの方が迷子センターに行ってしまいました。今では良き思い出です。

 それからもう五年も経つわけですか。時が流れるというのは些か寂しいですね。

「ん~。それじゃあ、久しぶりに行ってみようかな~」

 本屋やCDショップをぶらぶらするのもいいでしょう。ああ、夏物の服を見てみるのもいいですね。

 お昼ご飯を食べて宿題を片してから買い物に行こうと考えていましたが、予定変更です。

 明日ショッピングモールに行くのであれば、わざわざ今日行く必要なんてないですし。まあ、自転車でそこら辺を徘徊するというのもアリですが。

「叶ちゃん。ショッピングモールって?」

 部屋に戻ると、早速ハート君が尋ねてきました。私は食後の休憩として、ショッピングモールのことを大まかに説明します。

 私の説明を聞いている間、ハート君の瞳は宝石のようにキラキラと輝いていました。

「ボクもそこ行きたい!」

 ハート君が私の腕を掴んでそう言います。もちろん私は最初からそのつもりでしたので、首を縦に振ります。

 しかしハート君は、「やったー」と無邪気に喜ぶことはしませんでした。私の腕を掴む彼の手がビクンと震えたのです。

「ごめん、叶ちゃん。やっぱりボク、行けないや」

 とても落ち込んだ表情を見せています。まるで太陽が厚い雲に覆い隠されてしまったような……。

 私はそんなハート君に理由を聞かないで、元気付けることにしました。こんな悲しそうな表情はハート君に似合いません。

「だったらお土産を買ってきてあげるよ」

「えっ、ほんとに!?」

「ほんと」

「やった! やったー! ありがとう、叶ちゃん!」

 踊るようにハート君が喜びます。妖精ってみんな、このように感情が豊かなのでしょうか。――気になります。

 お昼ご飯の様子を見るからに、ハート君はどうにも食べることが好きなようです。シュークリームやプリンなんかを買ってあげましょう。


 結局この日は、外に買い物に出ることもなく、漫画を読んだりハート君とゲームをしたりして静かに過ごしました。



 とても残念です。

 叶ちゃんの話を聞く限りでは、ショッピングモールなる場所はさぞ楽しい施設なのでしょう。是が非でも足を運んでみたかったです。

 ご紹介が遅れました。ボクは案内人のハート・アークションです。叶ちゃんにはハート君と呼ばれています。しがない妖精です。

 なになに? 案内人とはなんだ、って?

 お教えいたしましょう。案内人とは、人の願いを叶えるため、物語を構築し、潤滑に進めていく者たちのことです。

 えっ、お前たちに人の願いが叶えられるのかって?

 もちろんです。ボクたちは妖精ですよ。人の願いを叶えるなんて造作もないことです。

 でも、ボクたちが願いを叶えるだけでは人は努力しなくなるでしょ? だからボクたちは、願いを叶えるための道筋を案内しているのです。あくまで自助努力を促し、自分で願いを叶えさせるという方針です。

 ボクが今回ショッピングモールに行くのを断った理由もそこにあります。

 ボクたちはあくまで、案内人としてその人の物語を潤滑に進めるだけです。つまり、ボクが変に介入して物語の流れが変わってしまっては元も子もないわけです。

 その言い方はまるで、明日、物語に進行があるようなものいいじゃないかって?

 さあ~、どうでしょうか。そのことに対してボクは何も言えません。業務機密ですから。

 それにしても、叶ちゃんって本当に優しいですね。ボクが突然行かないと言った理由をあえて聞かなかったり、お土産を買ってきてあげると言ってくれたり。

 ボクは叶ちゃんの案内人で本当に幸せです。



〈第四ページ〉街に出ると王子様の家族と会いました



 日曜日です。

 私は今、お父さんの運転する車の後部座席に座っています。助手席には、いつもはしないお化粧をしたお母さんがいます。

 車の向かう先は、五年前に建てられたショッピングモールです。食料品や衣料品、アクセサリーショップにスポーツ用品店など、様々な店が立ち並ぶ場所です。

 あそこに行くのはしばらくぶりなので、とても楽しみです。

「それじゃあ、かなえ。お昼ご飯の時間に二階のフードコートに集合でいい?」

 お母さんが振り向きながら尋ねます。

 出発する前に決めたことのおさらいです。

 仲のいいお母さんとお父さんはショッピング(もといデート?)を楽しみ、私は私で自分の買い物を楽しみます。久しぶりのショッピングです。さて、何を買いましょうか。

 この買い物に、ハート君は同伴していません。私は一緒に行くつもりだったのですが、残念だけど行けないと断りを入れられてしまいました。とても残念そうな顔をしていました。きっと何か理由でもあるのでしょう。約束通りお土産を買って帰ってあげましょう。

 家を出発して一時間ほど経ったでしょうか。私たち絵本家御一行は、ようやく目的地であるショッピングモールに到着しました。

 朝早くに家を出発したというのに、駐車場には多くの車が駐車しています。

 巨大なショッピングモールには、来客数のことを考慮した広大な駐車場があります。夏休みになると、その広大な駐車場も満車になるのですから驚きです。一体どこから湧いてきているのでしょう。

 モール内に足を踏み入れると、店内はすでに多くの客でにぎわっていました。たまに聞こえてくる店内アナウンスが、まるでバックグラウンドミュージック扱いです。

「それじゃあ、まあ後でね~」

 そう言いながら、お母さんとお父さんは仲良く腕を組んで人ごみの中に消えていきました。あの年で腕を組むとはなかなか痛々しいですが、羨ましくもあります。

 私は未だにデートというものを体験したことがありません。私もいずれ、ああやって腕を組み、あるいは手をつないで歩いたりするのでしょうか?

 そんなことを考えながら、一件目にCDショップを選び、足を運びました。

 テスト開始二日前くらいに、一押しのアーティストが新しくアルバムを出したのです。テスト期間だったので我慢していましたが、これでようやく手に入れることができます。

 ぶらぶらと店内を歩き、お目当ての物を発見しました。

「…………ふふ」

 思わずにやけてしまいました。

 仕方がありませんよ。初回限定版だけではなく、先着限定のポスターまで残っていたのですから。これはなかなかラッキーな出来事です。

 店員さんが袋にアルバムとポスターを入れてくれます。

 持ってきていた手カバンに入れようと考えていたのですが、ポスターがあるため断念します。家に帰ったら、さっそく壁にはりましょう。

 それにしてもよい買い物をしました。ここに来て本当に良かったです。もしかして私ってラッキーガールなのでしょうか。

 時間は有限です。ポスターを今すぐ広げたいのは山々ですが、私は次の目的地へ向かうことにします。

 次の目的地は本屋さんです。集めているコミックが新刊を出したので、こちらも手に入れなければなりません。

 少女ものと少年ものの二つです。基本私はなんでも読みます。少年向けだろうが少女向けだろうが、おもしろければなんでもオッケーです。

 これ以上手荷物を増やしたくなかったので、本類は持参してきた手カバンに入れます。

 家に帰ってまずポスターをはって漫画を読み、晩御飯を食べてから音楽を楽しみます。なかなか有意義な時間ですね。

 さて、次はどうしましょうか。

 ハート君へのお土産は、帰る直前の方がいいですね。早めに買って形が崩れたりしては台無しですから。

 そうですね……。それではアクセサリーショップにでも顔をのぞかせるとしましょう。特に買いたい物があるわけではありませんが、見ていると目を奪われるような物に出会えるかもしれません。

 そんな時です。

「パパぁ~? ママぁ~? どこぉ~?」

 そんな声が私の耳に届いてきました。

 私はきょろきょろと辺りを見渡しますが、声を出しているような子は見つかりません。

 それもそのはず、人が多すぎるのです。子供の体なんて、人ごみに隠れてしまって見えなくなってしまいます。

「パ~パァ~っ、マ~マァ~っ」

 声に不安の色が混じります。両親を強く求めるように、語尾がやや強調されます。

 しかしすぐに、涙ぐむように声は弱みを見せ始めます。声に震えが生じ、今にも泣きだしそうな勢いです。

 私はその子を探し始めました。どうやら本格的に迷子になったようです。

 人ごみをかき分け、声のする方へと進んでいきます。

「ねえ、君、もしかして迷子になったの?」

 声をかけた時には、その子はすでに目を真っ赤にして、今にも泣きだしそうでした。唇が固く閉じられ、ぷるぷると震えています。

 私の質問に男の子は小さく頷きます。

 それにしてもこの子、どこかで見た覚えがありますね。

「名前はなんて言うのかな?」

「……奥村、葉」

 先ほどの疑問の答えが返ってきました。

 そうでした。どこかで見た覚えがあると思えば、この子は奥村君の弟さんでした。二日ほど前に、近くのスーパーで会った子です。

「そっか。それじゃあ私と一緒にお母さんたちを探そうか」

 葉君は再び小さく頷きました。

 誰かに声をかけられて少し安心したのか、葉君は溢れかけていた涙を拭い去ります。強張っていた体も緩んでいます。ただ、どうやら私が誰なのかは、まだ判別できていないようです。

 私が手を差し出すと、葉君はきゅっとその手を掴みました。温かくて小さな手です。私はその手を握り返します。

「葉君のお父さ~ん、お母さ~ん。どちらですか~?」

「パパーッ、ママーッ!」

 私と葉君は、声を出しながら葉君の両親を探します。歩いて向かっている方向は、迷子センターです。

 迷子センターに向かいながら声を出して探すという手法はなかなか効率的です。途中で見つかればそれでよし。もし見つからなくても迷子センターで呼び出してもらえば問題解決です。

「葉っ!」

 そんな時、女性の声が聞こえてきました。

 ふとそちらに目を向けると、血相を変えた女性がこちらに向かって駆け寄ってくるではありませんか。その後ろからは男の人も駆け寄ってきます。年齢を見るからに、おそらく葉君の両親でしょう。

「ママっ!」

 葉君が、駆け寄ってきた女性――彼のお母さんに抱き付きました。お母さんとお父さんに会えてホッとしたのか、葉君はぐずり始めます。

「すみません。ウチの息子がお世話になってしまったようで……」

 あとからやってきた葉君のお父さんが言います。そこら中を探しまくったのか、額には汗が吹き出し、息はゼエゼエと荒れています。

「いえいえ」

 私は微笑みながら答えます。

「本当にありがとうございます。ほら、葉も言いなさい」

 お母さんの方も頭を下げます。とてもきれいな人です。

 そういえばこの二人は、葉君の両親であるとともに、奥村君の両親でもあるわけですね。クラスメイトの両親と会うというのはなんだか緊張します。

 昨日のメールによれば、今日、奥村君は部活があるということなので、ここにはいないのでしょう。

 お母さんに頭を押さえられた葉君は、言われた通りぺこりと頭を下げました。

「ありがとうございました、叶お姉ちゃん」

「いえいえ、どういたしま…………叶お姉ちゃん!?」

 喉を詰まらせてしまい、途中から声が出なくなってしまいました。

 今、葉君はなんと言いましたか? 私のことを叶お姉ちゃんと言いませんでしたか?

 これは一体どういうことでしょうか。私は葉君に自分の名前を言った覚えはこれっぽっちもないのですが……。

 どうして葉君が私の名前を知っているのでしょう。

「あら、葉。このお姉ちゃんのことを知っているの?」

「うん。この前、スーパーで会った!」

 はい、確かに会いました。でもあの時は名前を言わなかったはずです。

「叶お姉ちゃんは、兄ちゃんのクラスメイトなんだって。ご飯を食べているときに、兄ちゃんがいろいろ教えてくれたんだ!」

 なるほど、そういうことですか。原因は奥村君だったわけですね。

「あと、兄ちゃんのカノジョだって言ってた!」

 瞬間、ドサッと足元で物が落ちる音がしました。

 それまでかかっていた腕の負荷がなくなっています。足元に目を向けると、手カバンとCDアルバムの入った袋が落ちています。

 あ、落としちゃった。

 大好きなアーティストのポスターを落としたというのにこの反応です。先ほどの葉君の言葉がよほど衝撃的だったようです。

「えっと……」

 葉君のお母さんが気まずそうにこちらを見ます。

 落とした荷物を拾う私の頭の思考能力は停止しています。耳まで真っ赤になっていることぐらい、鏡を見ずとも容易に分かります。

「憲太郎にはもったいないくらい可愛らしい彼女さんですこと」

 ちょっと、ちょっとちょっと! ちょっと待ってください! 私は奥村君の彼女とかそういうものじゃなくて、ただのクラスメイトですから友達ですから!

「い、いいえ、違いますよ。ただのクラスメイトです!」

 ああ、私ったら、何をそこまで動揺しているのでしょう。何もないのなら……ただのクラスメイトなら、こんなに慌てることなんてないでしょうに。逆に不審がられるではありませんか。

「もしかして、君が絵本さん?」

 今度はお父さんが尋ねてきます。

「ええ、そうですが……」

「なるほど、やっぱり」

 ちょっとそこ、自己完結しないでください。私にもちゃんと説明してくださいよ。

「最近、憲太郎がよく話をするんだよ。テストでずっと七位で、六位の女の子に勝ちたいとか、その女の子に今回ようやく勝てたとか。それも随分と嬉しそうに」

 お父さんは歯を見せて微笑み、指を立てます。

「つまり、そういうことなんだろ?」

「ちょっとアンタ。そういうことは野暮ってもんだよ!」

「おっと、すまんすまん」

「ごめんね、絵本さん。これまであの子に彼女ができたことなかったから。これからも仲良くしてあげてね?」

「だっ、だから彼女じゃありませんって!」

 ほわわわわぁ……。

 顔が熱くなります。本当に顔で茶を沸かせるのではないでしょうか。

 奥村憲太郎! あなたの言動のせいで私は今、とてつもない羞恥と動揺に見舞われていますよ! 一体絶対どうしてくれるというのですか!

 これはもうパフェ奢り決定ですね!

「…………?」

 ところで。

 どうして。

 なぜ、私はこんなにも動揺しているのでしょうか。

 奥村君がただのクラスメイトであれば……ただの友達であればここまで動揺する必要はないはずです。テストのライバルということが、ここまで動揺する材料になっているのでしょうか。

 分かりません。

 奥村君は友達でライバルです。それなのに、どうしてこんなにも顔が熱くなって、緊張してしまうのでしょうか。

 不思議です。


「これ、とってもおいしい!」

 手に乗るほど小さな妖精のハート君が最高の笑顔を見せます。

 彼の手には大きなシュークリームが掴まれており、とろとろのカスタードクリームとふわふわの生クリームが、口の周りにべっとりとついています。

 私はティッシュでそれを拭ってあげます。

「喜んでくれてよかった」

「うん、ありがとう!」

 本当にうれしそうでなによりです。無邪気にシュークリームをかぶりつくハート君、とってもかわいいです。

「今度は一緒に行こうね?」

「うん!」

 私はハート君と指切りげんまをしたのでした。



 どうも、案内人のハート・アークションです。

 叶ちゃんの買ってきてくれたシュークリームはとてもおいしかったです。カスタードクリームと生クリームのダブルクリームが素晴らしいです。

 そんなことより、はい。やっぱりボクは行かなくて正解でしたね。

 ボクの予想通り、叶ちゃんの物語に進展があったようですから。もしもあそこにボクがいたら、その結果は変わっていたかもしれません。

 ショッピングモールに行けなかったのは残念ですが、これも叶ちゃんのためです。

 今度は一緒に行こうね、叶ちゃん。



〈第五ページ〉王子様が照れました



「かなえ、やばいよ」

 学校に到着して、席に着いた私にさっそく有希と愛衣が声をかけてきました。

「どうしたの、二人とも……」

 身を乗り出してこちらに訴えかけてくるので、私は身をやや後ろに引きます。

「今日何曜日だと思う?」

「えっと、月曜日だけど?」

 有希の問いかけに答えると、今度は愛衣が質問をしてきます。

「月曜日の四時間目と言えば?」

 私は少し考えます。

 月曜日の四時間目は物理です。実のところ、私は物理が得意ではありません。公式が多いし、考え方も難しい、これが何に役立つんだって感じがします。

「物理だよね? 確かに私も嫌いだけど、血相を変えるほどのこと?」

「何を言っているのだよ、かなえ! ウチらが焦っているのは、物理の課題が手つかずだってことなんだよ!」

「そうだよ! かなえならもちろんやっているよね? いつものように見せて!」

 二人がぐっと顔を近づけてきて言います。

「いつものようにってアンタたち……。ちょっとは自分でやろうとしたら?」

「やろうとはしたんだよ!」

「そうだよ。アタシたちだって成長しているんだよ。日進月歩さ!」

 そう言った有希と愛衣は、自分たちのプリントを取り出して私の前に突き出します。

「「名前は書いた!」」

 大きなおっぱいを持つ二人は、胸をドンと張ります。プリントには彼女たちの名前がしっかりと書かれています。

 最初の頃なんか、名前すら書いてなかったですものね。それに比べれば、確かに少しは成長しているようです。ほんのちょっぴりですが。

「来週は見せないからね」

「「ありがとうございます、女神様!」」

 調子のいいことを言って、有希と愛衣は私のプリント写しに専念します。

 その集中力は半端ではなく、声をかけても少しも反応しません。私でも驚くほどの集中力です。

 彼女たちだってやろうと思えばやれるはずです。ただやらないだけです。

「いい? 来週は絶対に見せないからね」

 私はもう一度念を押したのでした。


 四時間目、物理の授業は階段教室と呼ばれる特別教室で行われます。

 二人一組の机が階段状に設置されている教室です。漫画やドラマで出てくる大学の講義室のようなものです。黒板は二枚あり、それらを上下させます。

 座席は男女混ぜ混ぜの出席番号順です。なので、同性同士の席があったり、そうでない席があったりします。ちなみに私の隣は女の子ですが、今日はお休みです。

 チャイムが鳴って担当教師が部屋にやってきます。頭のてっぺんがきれいに禿げた先生で、みんなからはツルテンという愛称で呼ばれています。

「起立!」

 日直が言うと同時に、生徒たちが一斉に立ち上がります。

「礼!」

 一礼して、気怠そうに「お願いします」と言ってから着席します。

「はいはい、よろしく。それじゃあ早速、宿題を回収するぞ。ほら、いつものように後ろから送ってこ~い」

 私は後ろから回ってきたプリントを受け取り、前の席の子に渡します。

 宿題を回収し終えるとさっそく授業開始です。ここからは苦汁をなめる時間が五十分も続きます。

 前も言いましたが、私は物理が好きではないです。言いきってしまえば嫌いです。木曜日と同じくらい嫌いです。

 私は根っからの文系なのかもしれません。問題を解くときの考え方と言いますか、応用力と言いますか、そういうものが私には欠けているような気がします。

 どうしてそういう考え方ができるのだろう。どうしてそこでその公式が出てくるのだろう。――物理はなかなか私を困らせてくれます。

 ツルテンが魔方陣を描くように公式を書いていき、呪文を唱えるように教科書を読み上げていきます。

 ノートを書くだけで精いっぱいで、授業の内容が把握できていません。頭がパンクしてしまいそうです。逆にこの授業を理解している人なんているのでしょうか。

 その時、私の背中をつんつんと突く感覚がありました。振り向くと、奥村君がこちらを見下ろしていました。名前の順番から奥村君は私の後です。

 彼は持っているペンをくるりと回します。なるほど、そのペンで私を突いたのですね。

「なに?」

「いや、別に。ただ退屈だったからさ」

 退屈だからって理由で人をペンで突かないでください。

 まあでも、退屈という言葉には賛同します。私も『分からない』を通り越して、『退屈』の領域に達していますから。

「そういえば、なんかごめんな」

 思い出したように奥村君がそんなことを言いました。私から六位の座を奪ったことを謝っているのでしょうか。

「昨日、うちの家族が迷惑をかけたようだからさ。その、いろいろと……」

 目をそらした奥村君の頬がわずかに紅潮します。

「昨日……。ああ、あれね」

 思い出した私も顔が熱くなります。

 ちょっと照れた奥村君をからかおうとしたのに、これじゃあ私もからかわれてしまいますね。

 でも仕方がないですよ。クラスメイトの両親にあんなことを突然言われたら、照れちゃうのも至極当然でしょう。

 というか、そうなったのも全部奥村君に原因があるのではないですか? 奥村君が葉君や両親に私のことを言わなければよかったのですよ。

「奥村君、葉君たちに私のことを話したらしいね?」

 尋ねると、奥村君はさらに照れてしまいました。

 あれ? 今って照れるところ?

「ご、ごめん。話したくて仕方がなくってつい……」

「ふ~ん。それでカノジョだって言ったの?」

 再び尋ねます。

「えっ! なんでそんなことまで」

「子供ってすごく素直なんだよね~」

「葉かっ!」

 奥村君はもはや照れているというレベルではなさそうです。顔を熟れたトマトのように真っ赤にして机に突っ伏します。

 と、私も結構強気でいますが結構やばいです。心臓は先ほどからドキドキバクバクと叫んでいます。

 辛うじて奥村君と話せていますが、今すぐにでも外に出てトイレで頭を冷やしたいくらいです。

「お~い、そこの二人。ちゃんと聞いているか~? テストに出るぞ~」

 ツルテンが私たちを注意します。

「ちゃんと聞いていますよ、先生」

 私は黒板に向き直り、ノートを取り始めました。

 どうしてこんなにも胸が苦しいのでしょうか。

 この感じは一体なんなのでしょう。

 ただでさえ分からない物理の授業が、今日はさらに分かりませんでした。


「かなえが注意されるなんて珍しいよね」

「うんうん。どうかしたの?」

 お昼ご飯を食べながら、有希と愛衣が尋ねてきました。

「別に。ちょっと気を抜いていたら運悪く怒られただけだよ」

 ははは……と笑いながら言います。奥村君としゃべっていてそっちに集中していたなんて言えるはずがありません。

「そう。だったらいいんだけど」

「熱でもあるのかと思ったよ」

 なんて心優しい友達なのでしょう。

 そんな彼女たちには申し訳ありませんが、このことは私の内にしまっておきましょう。この感覚がなんなのか、私一人で答えを導き出したいのです。



〈第六ページ〉王子様に負けました



 翌日、火曜日の最後の授業と言えば数学です。

 先ほどは、私は根っからの文系と言いましたが、数学は結構得意です。理由は簡単、物理と違って単純だからです。

 物理は問題文を読み、あれこれ試行して、どの公式を当てはめてどのように解いていくかを考えなければなりません。それに比べて数学は、使う公式も解き方もある程度定まっています。余裕です。

 物理を迷路と例えるのであれば、数学はパズルでしょうか。例えが分かりにくいかもしれませんが、とりあえず物理より断然分かりやすいってことです。

 さて、そんな数学の時間ですが、この授業には毎回恒例の小テストがあります。

 前回の授業内容の復習を兼ねた演習プリントを解くのです。一見簡単そうにも聞こえますが、復讐をしていなければほとんど解けません。

 そのために昨日の夜、ちゃんとノートを見直してきました。

「それでは、始め!」

 合図と同時に、生徒たちが一斉にプリントにシャーペンを走らせます。

 名前を書き、一問目に目を向けます。昨日の夜、復習をしていて正解でした。同じような問題があります。

 二問目、三問目へと解き進んでいきます。順調です。この調子でいけば、今回も満点でしょうか。

「はい、そこまで。答え配るから隣のやつと交換して採点しろ~」

 先生が終了の合図を投げかけます。予定時間十五分きっちりです。

 私たちは筆をおき、隣の人と交換します。赤ペンに持ち替え、配られた模擬解答と見比べながら採点をしていきます。

 採点結果が返ってきました。

「…………あら」

 つまらないミスをして減点になってしまいました。

 私は本当に凡ミスが多いです。後で見返してびっくりするくらいです。これさえなければ、定期試験でももう少し良い点数が取れると思うのですが……。

 そんな時です。

「奥村君、また満点だよ~」

 そんな一言が、私の耳に届きました。

 今、奥村君が満点と言いましたか? 私の聞き間違いではないですよね?

 ついつい気になってしまった私は、奥村君の方に顔を向けます。すると奥村君は、不敵に微笑みながら満点の小テストをこちらに見せつけてきました。多分鼻で笑っているのでしょう。なんだかムカつきます。

 なるほど、そういうことですか。あなたはそういう態度をとるのですね。いいでしょう。次の小テストでは絶対に勝って見せますから覚えておきなさい!

 なんということでしょう。この私が定期テストだけではなく、小テストでも奥村君に敗北してしまったというのです。

 これは緊急事態です。気を抜くことなんてできません。次のテストで木端微塵にしてあげます。

 そうです。

 私はまだ本気を出していないだけ。私と奥村君の戦いはまだまだこれからです!



〈第七ページ〉王子様はとても優しい人です



 奥村君のことを優しい人だなと思ったのは、その次の日――水曜日のことです。

 曜日に『水』とあるからでしょうか。外では強めの雨が降っています。

 昼食の時間から天候が崩れ始め、一時間もしないうちにご覧の大雨です。朝はあれだけ晴れていたというのに、なんの嫌がらせでしょう。

「あーあ、降ってきたなー」

「だねー。傘持ってきていて正解」

 外の景色を見ながら、有希と愛衣がつぶやきます。

 さて、ここで困ったことが一つあります。実は私、本日傘を持ってきていないのです。先ほどカバンを確認しましたが、折り畳み傘すら持ってくるのを忘れてしまいました。情けない話です。朝の天気予報さえしっかり見ていれば……。

 音を立てて降る雨を見て、私は深いため息をつきます。

 この様子だと、待っていてもやんでくれそうにありません。やんだとしても、いつのことになるのやら……。

 仕方がありません。先生に頼んで貸してもらいましょう。人生初の傘レンタルです。

「どしたの?」

 ゆっくりと立ち上がった私に、有希が尋ねます。

「傘、忘れたんだ。だから借りに行こうと思って」

「借りに行くってどこに?」

「学校のやつだよ」

「ならウチと一緒に入ればいいよ」

 そう言ってくれるのはありがたいのですが、有希や愛衣とは駅までは一緒なのですが、それから別々になってしまいます。最寄りの駅から家への帰り道のことを考えると、傘を借りる必要があるのです。

「ありがとう。でも、駅から家までの間に濡れちゃうからさ」

「あ、そっか。なんかごめんね」

「ううん。気を使ってくれてありがとね」

 教室を出て職員室に向かいます。廊下を進み、階段を下りていきます。

「絵本!」

 ふと、階段を半分降りた私に声がかかりました。振り向くと、そこには息を荒らした奥村君がいました。

 そんなに慌ててどうしたのでしょうか。

「傘、忘れたんだろ?」

 はて、奥村君には言った覚えはありませんが……。ああ、先ほどの会話を聞いていたのですね。

「うん、そうだけど?」

 そのことがどうかしたのでしょうか。

 突然の大雨です。私のように天気予報を見なかった愚か者が学校の傘を借りようとしているはずです。レンタル傘がなくなる前に、早く職員室に行きたいのですが……。

「ほらっ、これ」

 奥村君が長い棒のようなものを投げます。

 私はそれを受け取ります。それは紛れもない傘でした。黒に白いストライプが入った、いかにも男性向けの傘です。

「えっと……、なにこれ?」

「? 傘だけど?」

 それくらい見れば分かりますよ。どうして奥村君が私に傘を投げてきたのかを聞いているのですが。おちょくっているのですか?

「これ、貸してくれるの?」

「ああ、そのつもりで渡したんだが」

「え、でも、これ奥村君の傘でしょ? 奥村君の分がなくなるじゃん」

「大丈夫だ。ちゃんと折り畳み傘持ってきているからさ。どこぞの絵本と違ってな」

 むむむ、なんて言い方でしょう。

 定期試験と小テストで勝ったぐらいでいい気にならない方がいいですよ。すぐにその立場をぐるんとひっくり返して見せますから覚悟しておくべきです。

 ですが、これはありがたいことです。わざわざ職員室に行く手間が省かれました。奥村君には感謝です。

 奥村君は、おそらく根っこから優しい人なのでしょう。

 今まではあまり接したことがなかったから分かりませんでしたが、きっとそうなのでしょう。女の子たちは、そんな奥村君に惹かれるのではないでしょうか。勉強ができる、スポーツができるだけではなく、そういう一面も女の子を魅了させるのです。

「あ……ありがと」

「おうっ! いいってことよ」

 奥村君がニッと笑います。まるでハート君のような子供っぽい笑みです。

「それじゃあ、また明日!」

「うん。じゃあね」

 別れの挨拶をして、奥村君は教室の方へと走っていきました。これから部活なのでしょう。今度、練習の風景でも見に行ってみましょうか。

 そんなことを思いながら教室に戻ります。室内に奥村君の姿はすでにありません。

「お帰り。あ、傘借りられたんだ」

「うん」

「おお~。結構かっこいいじゃん」

「いいでしょ~」

 奥村君に借りたということは内緒にしておきましょう。私はなぜかそんなことを思っていたのでした。

「よしっ。それじゃあ帰りますか!」

 こうして私は、奥村君の傘をさして雨の中家に帰ったのでした。

 奥村君の傘は、いつも私の使っている傘よりもずっと大きくて、途中で何回か街路樹や電信柱にぶつけてしまいました。

 ごめんなさい、奥村君。



「おい、憲太郎。お前、傘どうしたんだよ」

 部活動が終わって帰ろうとしたとき、親友の田口秀明が声をかけてきた。

「あー。実は忘れちまったんだよね。ほら、朝はあれだけ晴れていただろ」

 嘘をつく。

 ちゃんと持ってきていた。でもその傘は今、あの子が……絵本叶が使っている。傘を忘れたという彼女に貸してあげたのだ。

「まあ確かに晴れていたけどさ。てか、天気予報くらい見ろよ」

「今日はちょっと寝坊してな。見る暇なかったんだよ」

 そして、実は絵本にも嘘をついてしまっている。

 折り畳み傘なんて持ってきていない。でもあの時、俺は絵本に自分の傘を貸してやろうと思った。

 いや、それは口実だ。俺はただ、絵本と話す機会が欲しかっただけなのだ。

「仕方ねえな。大変不本意だが、今日は俺の傘に入れてやるよ」

「秀明と相合傘か……」

「露骨に嫌そうな顔するな! 俺だって嫌なんだよ!? けど試合も近いし、風邪なんてひかれちゃあ困るだろ?」

 なるほど。こいつの言うことも一理ある。今年は俺も秀明もメンバー入りしている。風邪なんてひいたら洒落にならない。

「んじゃ、お言葉に甘えてありがたく」

「てめっ! 半分以上入ってくんな!」

「……何照れてんだ? 気持ち悪いぞ」

「お前、やっぱり濡れて帰るか?」

 雨が降る。

 俺にはまだ、絵本と相合傘をする勇気がなかった。



〈第八ページ〉王子様が風邪をひいてしまいました



「それじゃあ、今日の休みは奥村だけだな」

 朝のホームルームで担任がそんなことを言いました。どうやら風邪をひいてしまったらしいです。

 私は愕然としました。

 奥村君が風邪をひいてしまったのは、昨日の雨に濡れてしまったからでしょう。そして昨日の雨に濡れたのは、私に傘を貸してくれたからです。

 奥村君は折り畳み傘を持っているから心配ないと言っていましたが、あれはきっと優しい嘘だったのでしょう。

 私のために奥村君は自分の傘を差し出し、そして雨に濡れて風邪をひいてしまった。奥村君が休みなのは誰でもない、私のせいです。

 やっぱり木曜日は私に嫌な思いをさせます。だから私は木曜日が嫌いなのです。

 昨日、奥村君の申し立てをきちんと断り、学校の傘を借りていればこんなことにはならなかったはずです。

 傘立てに突き刺さった奥村君の傘に目を向けます。返そうと思って持ってきたのです。その黒地に白いラインの入った傘を見やり、私はある考えを思いつきました。

「ねえ、田口君。ちょっといい?」

「おう」

 私は田口君を階段の踊り場へと呼び出します。田口君の顔が少々にやけて見えるのは気のせいですよね。

「これ、他の誰にも言わないでほしいんだけど……」

「おう。誰にも言わねえよ」

 田口君はとてもにこやかです。まるで夏の太陽のようですね。

「実は奥村君のことなんだけど」

 奥村君の名前を聞いた瞬間、田口君の表情に雲がかかりました。言葉通りの無表情になります。

「また憲太郎かよ~」

 はあ~っと深いため息をつきます。

「で、あいつがどうしたんだ?」

「実は、今日奥村君が休んでいるのは私のせいっていうかなんて言うか……」

「はあ? 別に絵本は関係ないだろ」

 即答されます。だから私は、彼に昨日の出来事を話します。

 私が傘を忘れたこと。傘を借りに行こうとしたら奥村君が貸してくれると言ってくれたこと。奥村君の予備があるという言葉に甘えてしまったこと。その結果、奥村君が風邪をひいてしまったこと。

「ちょっと待て。それじゃあなんだ。憲太郎が絵本に自分の傘を貸したってことか?」

「うん、そうだけど。それがどうかした?」

「い、いや。……あいつがねぇ」

 何か思うところがあるのか、田口君が顎に手を当てて考え事をします。今の会話で悩むところなんてあったでしょうか。

「それでお願いがあるんだけど」

「…………」

「田口君?」

「ああ、すまん。で、なんだ?」

 どうにも気になることがあるようで、田口君は考え事に集中してしまっていたようです。

「実は借りた傘を返すついでにお詫びをしたいと思って……。それで、田口君なら奥村君の住所を知っているんじゃないかな~って思って……」

「知っているけど、わざわざ返しに行く必要なんてないだろ? どうせまた学校に来るんだし」

 最初はそのつもりでした。ですが、私が原因で奥村君を苦しめているとなれば話は別です。

 そんな私の気持ちを察したのか、田口君が携帯を取り出します。

「ほら。これがあいつの住所だ」

 流石は田口君です。感謝します。

 私は表示された奥村君の住所を携帯のメモ帳に書き込んでいきました。


 放課後、私は奥村君の傘を持って、彼の家へと向かいます。

 田口君に教えてもらった住所を地図検索すると、意外と私の家と距離は離れていませんでした。

「青色の家ってこれだよね?」

 あそこは住宅が多いから青い家を探すように田口君に言われていました。おかげで迷うことなく、割とすんなり奥村君宅を見つけることができました。

 石でできた表札には『奥村』と彫られています。

 ここで間違いないと確信した私は、チャイムを鳴らします。反応がありません。

 もう一度チャイムを鳴らします。――しかし応答は何もありません。

 そこで私はあることを思い出します。奥村君の両親は共働きです。帰ってくるのが遅い両親に代わって、奥村君は弟の葉君のお迎えや、晩御飯を作っているのでした。

 つまり、今この家には奥村君しかいないということになります。その奥村君は風邪で寝込んでいます。反応がないのは当たり前です。

 やはり傘を返すのは学校での方がいいですね。

 そう思った私は、奥村君宅に背を向けます。

 その時です。

「あら。あなたは確か、絵本さん」

 少し離れたところにスーツ姿の女性が立っていました。彼女の片手にはスーパー袋が、もう片方には男の子の手が握られています。

 男の子は私を見るなり、「かなえ姉ちゃんだ!」と言います。声をかけてきたのは、奥村君のお母さんと弟の葉君です。

 お母さんの姿を見るに、仕事帰りのようです。おそらく、息子である奥村君が風邪のため、早めに退勤して葉君のお迎えと晩御飯の材料を買ってきたのでしょう。

「どうかしたの?」

 優しい声でお母さんが尋ねてきます。スーツ姿がとてもお似合いです。

「お久しぶりです。えっと……その、傘を返そうと思って」

「傘?」

 私は田口君に話した時と同じように、奥村君のお母さんにも昨日の事の流れを話しました。できるだけ忠実に、詳細に、お詫びの念を込めて。

 すると、話を聞き終えた彼女はころころと笑って見せます。

「絵本さんって結構面白いのね」

「は、はあ……」

「普通、わざわざ家まで返しに来ようと思わないもの」

 それ、田口君にも言われました。私ってやっぱりどこかおかしいのでしょうか。

「でも、その様子だと本当にあなたたちは付き合ってはいないようね」

 不敵な笑みを浮かべながら、いやらしく私を見ます。

 ふふふ、その手にはもう乗りませんよ。

「だから言っているじゃないですか……」

「ほんと面白い子ね。憲太郎の近くにいた女の子で、あなたのようなタイプの子は初めてよ。……ちょっと待っていて。今あの子、起こしてくるから」

「いえいえ、それはいいです。せっかく療養しているのに、起こしたら治りかけている風邪をこじらせてしまうかもしれませんから」

「そう。……せっかくだし上がっていく?」

 そのようなお誘いを受けましたが、私は丁重にお断りします。

 お母さんは少し残念そうな顔をしましたが、「それじゃあ、また憲太郎と一緒に来なさいな」と笑って言ってくれました。

 私は曖昧な返事をして、傘を手渡しました。

 それからお母さんと葉君と別れ、自分の家へと足を進めました。


 家に着くと、携帯のランプが点滅していました。手を洗い、うがいをしてからベッドに寝転がり、携帯を操作します。

 メールを一件受信していました。宛名は奥村君です。メールを開けます。

『傘、ありがとな』

 私はポチポチとボタンを操作し、文章を打ち込みます。

『こちらこそありがとう。私のせいでごめんね。ゆっくり休んでください』

『おう! ありがとな!』

 メールを打てるくらいには元気なようです。少し安心しました。



〈第九ページ〉王子様は風邪をこじらしたようです



 翌日の金曜日も、奥村君は学校を休みました。

 先生が言うには、どうやら風邪をこじらせてしまったようです。

 大丈夫でしょうか……。

 ちょっと心配です。



〈第十ページ〉私は本当の好きを見つけました



 ライジング・ホープメンズ――。

 私のお気に入りのアーティストの一つです。四人の男性グループが作り出すメロディーは、聞く人を魅了させる力を持っています。

 ノリのいい曲を歌い、聞いていると思わず口ずさみたくなるような歌ばかりです。その軽快さや爽快さから、よくアニメの主題歌やドラマの主題歌、コマーシャルの挿入歌に使われたりします。

 悩んでいるときに聞くと気持ちが晴れ、元気な時に聞くと踊りだしたくなる。そんな歌を歌う彼らが私は大好きです。

 彼らのすごさは、軽快な曲ばかりだけではありません。しんみりとしたバラード調の曲でも、聞いている人をその世界に引き込んでしまいます。私は恋を歌った歌はあまり好きではありませんが、ライジング・ホープメンズの曲は別腹です。

 先週の日曜日、ショッピングモールで買ったアルバムも、このアーティストのものです。あの時ついてきたポスターは、すっかり私の部屋に馴染んでいます。

「いらっしゃいませー」

 店に入ると、店員さんがアナウンスのように言います。

 土曜日、私は自転車に乗って駅の近くにあるビデオレンタル店に来ました。ハート君も一緒に行こうと誘ったのですが、今日も断られてしまいました。なぜでしょうかね。

 今日、ビデオレンタル店に来た目的は特にありません。ただ、暇つぶしのための映画やCDを借りようと思っただけです。

 まずは映画コーナーに向かいます。私はホラー以外であればなんでも見ます。最近はサスペンスにはまっています。少し前はアクションでした。

 どちらかというと私は洋画派です。アクション映画となると、邦画はどこか物足りないのです。迫力に欠けると言いますかなんと言いますか……。

 面白そうなタイトルを見つけ、パッケージの裏を確認します。あらすじなどを見るためです。

 あ、これは去年あたりに公開されていたものですね。絶対に見たいとは思っていたのですが、結局見に行くタイミングを逃してしまいました。

 落ちこぼれのボディーガードが大統領を護衛するという話です。ありきたりと言えばありきたりですが、話によるとボディーガードと大統領が、敵に襲われながらもコメディのような笑える会話をすると評判です。

 ジャンル分けするとアクションですね。

「それ、面白そうだよな」

 突然声をかけられて体がビクンと震えました。もう少しで商品を落としてしまうところでした。一体誰ですか、背後から声をかけてくる人は!

 振り向くと奥村君がいました。

 部活帰りなのでしょうか。ジャージに身を纏い、大きなエナメルバッグを肩に下げていました。奥村君は片手を上げ、よ! とあいさつします。

「なんだ、奥村君か……」

「おいおい、なんだってなんだよ」

「別に……。そういえば風邪はもう治ったの? 金曜日も休んでいたようだけど」

「おうよ! ご覧のとおりピンピンしているぜ」

 奥村君は自分の胸に拳を当て、完全復活したことを表現します。

「あ、そうだ。言い忘れていたけど、ごめんね」

「? なんの話だ?」

「ほら。私が奥村君の傘を……」

「はい、やめ」

 言いかけた私を、奥村君が胸の前で腕をクロスさせて制止させます。

「あれは俺がしたくてしたの。だから謝られたって困るわけよ。それに、謝るのは俺の方かもしれないしな」

 どういうこと? と言うように、私は首をかしげます。

「ほら。俺が休んだのを、絵本は自分のせいだって思ってしまったんだろ? だったら謝るのは心配をかけた俺の方なんだ。絵本がそのことで謝るってなら俺も謝らなくちゃいけない。だから、今回は相殺ってことだ」

 なるほど、奥村君らしい優しい展開ですね。そういう考え、私は好きです。それにしても、どこまでお人好しなのでしょうね。

「……別にそんなに心配してなかったけど?」

 面白そうなので、少し奥村君をからかってみます。

「え、マジで!? もしかして俺の勘違い? 恥ずかしいっ!」

 想像以上の反応を見せてもらいました。ごちそうさまです。

「ちょっと絵本? 何笑っているんだよ」

「ううん。思った以上に反応が面白かったからつい……あははっ、ごめん」

「なんだよ、からかっていたのか」

「だからごめんってば~」

 不思議です。疑問です。

 こうして奥村君と話していると、とても楽しいのです。わくわくではなく、ドキドキという意味の楽しいです。

 うまく言葉にできませんが、こう、胸が温かくなるような気持になるのです。

「……」

 またです。

 また、私の心臓が音を立てて始めました。ドッドッドッと、外に聞こえてしまいそうな音を鳴らしながら、私の胸を苦しめます。

 息がうまくできません。

 奥村君の顔を真正面から見ることができなくなります。

 顔が、体が熱いです。

「おい、絵本? どうかしたのか?」

 やめてください、奥村君。今の私に声をかけないでください。

 奥村君の声を聞いただけで、胸の締め付けが強くなってしまうのです。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる!」

 私はその場から立ち去り、トイレに逃げ込みます。

 洗面所に取り付けられた鏡に映る自分を見つめます。顔は、まるで熱があるのではないかというくらい赤くなっています。心臓は今もなお、ドキドキし続けています。

「これって……」

 いつからでしょうか。私が奥村君のことを気にするようになったのは……。

 どうしてでしょうか。私が奥村君のことを意識するようになったのは……。

 分かりません。

 奥村君との出会いは、あのテスト発表のときです。あの時、私は奥村君をライバル視するようになりました。でも、その時はただの友達で、ただのライバルという関係にあったはずです。

 それがいつの間にか、このような感情へと進化していたのです。

「私、もしかして……」

 違う。

 奥村君はそんなものではありません。ただの友達です。ただのクラスメイトです。ただのライバルです。優しくて、ちょっとボケていて、弟思いで……。

「ああ、そっか」

 そこまで考えて、私は答えを見つけました。

 今まで私を悩ませていた難しすぎる問題の答えです。長いこと悩みました。でも、ようやく導き出せたようです。

 つまり私は――。

「私、奥村君のことが好きになっていたんだ」

 いつから好きになったのか考えることがどうでもよくなりました。

 これが好きになるということなのですね。

 これが恋をするということなのですね。

「好き、か……」

 言葉にすると気持ちが楽になりました。

 破裂しそうな勢いで叫びをあげていた心臓もすっかりと落ち着き、顔の色も元に戻っています。

 顔を一度洗い、すっきりした顔でトイレから出ます。

 すると、奥村君が私の置いて行ったDVDを持って待っていてくれました。本当に優しい人ですね。

「これ、借りたいんだったら置いて行ったらダメだろ。トイレ行っている時に借りられたらどうするんだよ」

「そうだね。ありがとう」

 私は彼の手からDVDを受け取ります。指と指が触れましたが、以前のような感覚はありません。自分の気持ちに気付けたからでしょうか。

「本当に大丈夫か?」

「うん、大丈夫だよ。わざわざ待っていてくれたんだね。ありがと」

「ああ、別にそのことはどうでもいいんだけどさ」

 カウンターでお金を支払い、商品を受け取ります。

「奥村君も何か借りに来たんだよね? 待っとくよ」

「え? あ、いや、俺の用事はもう終わったんだ」

 そう言う奥村君の両手には何も握られていません。

「もしかしてレンタル中だったの?」

「まあなー。せっかく借りに来たのに残念だよ」

 言いながら、奥村君が顔をCDエリアに向けられます。気になって彼の目線をたどってみると、そこにはとあるアーティストのアルバムのコーナーがありました。

「もしかして奥村君が借りたかったやつってライジング・ホープメンズのアルバムだったりする?」

「え? ああ、そうだけど。毎週来ているのに、いつも在庫がないんだよ」

 へぇー、なるほど。

 奥村君もライジング・ホープメンズのファンだったのですか。これはなんという巡り合わせでしょうか。

 これを機に、ぐっと距離が近づいたりするのではないでしょうか!?

 奥村君のことが好きと判明した以上、私は手を抜きません。がつがつと肉食系女子で行きます! 好きなもの、好きな人には全力疾走です。

「私、ライジング・ホープメンズの最新アルバム持っているけど貸してあげようか?」

「え、それホント!? 貸して貸してっ!」

 想像以上の食いつきです。

「てか、絵本もRH好きだったんだな!」

 RHとはライジング・ホープメンズの略称です。

「大ファンだよ。まさか奥村君もそうだとは思わなかったけど」

「そうか? 結構コアなファンだぜ?」

 ああ、楽しいですね。

 好きと気付いたばかりの奥村君と、自分の好きなアーティストについて語り合っている。本当に楽しいひと時です。

「そうだ絵本。お前、明日暇か?」

「明日? 別に用事はないけど?」

「だったら映画見に行かない? ドラゴンズっていうアニメ映画なんだけど、それの主題歌を担当しているのがRHなんだよ!」

「あ、それ知ってる! RHの最新曲だよね!」

 映画のコマーシャルで少しだけ聞きましたが、なかなかいい曲です。胸が熱くなるような曲で、あの映画にぴったりではないでしょうか。早くフルで聞いてみたいと思っていたところです。

「どう? 流石に俺一人だと行きにくくてさ」

「うん、いいよ! 行こうよ、明日!」

 それから私たちは、ドラゴンズの上映場所と時間を調べ、集合場所と時間を確認しあいました。

「それじゃあ、また明日」

「うん、バイバイ!」

 予定を立てた私たちは、互いに手を振りあって別れました。

 ああ、すごく気持ちがいいです。



 言った。

 言ってしまった。

 ついに、流れで絵本を映画に誘ってしまった。

 心臓がバクバクと悲鳴を上げている。ありえないほど緊張した。自分でも驚くくらい頭が真っ白だ。

 ビデオレンタル店で絵本を見かけたときは運命的なものを感じた。これは声をかけなければならないと思った。

 そして、声をかけてみた。話していて再認識させられる。やっぱり俺は、絵本のことが好きなのだと。

 入学当初は気にもしなかった。でも、テストを重ねるごとに、いつも俺の一つ上の順位にいる絵本のことを意識するようになっていった。

 やがて俺は、絵本にライバルとは別の感情を持ち始めていた。

 気付いた時には好きになっていた。

「やっと、スタート地点に来たんだ」

 初めてだ。初めて俺は、女の子を好きになったんだ。

 俺――奥村憲太郎はここに宣言しよう。

 この気持ちをきちんと伝えるまで絶対に諦めない、と。


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