後編
その言葉を、予想していなかったわけではない。
どちらかというと、誘ったらOKをもらえるかな。くらいに考えていた。
しかし現実のその言葉を耳にすると、
俺の頭からそんな色めきたった妄想は吹き飛んでいった。
「・・・エッチ・・・する?」
そう口にした彼女は、まるで少女から大人の女性に変身したかのように
その印象をがらりと変えた。
俺は、詩人でも口説き文句が上手なわけでもない。
だがその雰囲気の変化は、ある種独特なものがあった。
娼婦のような・・・でもない。
艶やかな・・・でもない。
強いて言うなら、そう、堕天使に出会ったかのような。
「・・・どうしたの?びっくりした?」
彼女の言葉に、我を失っていた俺は、急速に自分を取り戻していった。
そうだ、こういうときこそ考えなければならない。
だが、俺がまず考えたのは、『自分の財布の中身』についてだった。
やはり、俺は愚か者なのだろう。
「・・・俺は、金持ってないぞ」
口に出す俺は、愚か者のさらに上を行く『超愚か者』だ。
彼女は俺の言葉にくすっと笑うと、目を瞑りながら軽く首を左右に振った。
「そんなもの、いらないよ」
お金の心配がなくなったとき、次に俺が考えたのは『病気』のことだった。
もし彼女が「エンコー」はともかく、
いろいろと、その、『刹那的な恋』をしているのならば、
いわゆる『男女間の性行為でしか伝染しない病気』にかかっている可能性がある。
いくらかわいい子とエッチができるからといって
病気になってしまったのではたまらない。
だが、そんな俺の心を見透かすかのように、彼女は次の言葉をその口から紡ぎだした。
「あ、心配しなくても『性病』とかは持ってないと思うよ。
別にアソコが痒いわけでもないし、変なものができてることもないし」
「・・・おいおい、若い娘がそんな言葉を平気な口で・・・」
「あはは。なにオヤジくさいこと言ってるの」
オヤジくさい・・・
いくら古風な俺でも、この言葉には少しだけ傷付いてしまった。
さぁ、すべての問題はクリアーされた。
あとは目の前の女子高生をどう料理するかだけだ・・・
・・・・って、違うだろう!
俺は、危うく不条理な妄想へと突き進みそうになる自分の『野生』を、かろうじて制御した。
いかん、完全に彼女の手玉状態だ。
俺は、冷静さを取り戻すため、再びタバコに火をつけた。
冷静さを取り戻すための必要不可欠な儀式。
俺がどうしても手放すことのできない、魔法の棒。
このときばかりは、俺はこれまでの人生で禁煙に失敗していたことを神に感謝した。
一服しながら、俺はこの状況をどう料理するか考えた。
俺の頭の中でラッパを吹き鳴らす『天使』は
「あなたはとてもいいひと。こんな状況でエッチなんてしてはいけないわ」
と諭す。
逆に、黒くとがった尻尾を持つ『悪魔』は
「おまえ、『据え膳食わぬは男の恥』って言葉、知ってるか?」
と不条理に俺を責め立てる。
そんな、
天使と悪魔が俺の脳内で『聖戦』を繰り返しているとき、
業を煮やした彼女が、堕天使の笑みを浮かべながら俺にむかってこう囁いた。
「・・・もしかして、怖いの?」
俺がもし、普通の人間だったら。
この言葉できっと『堕ちて』いたことだろう。
だが、後にも先にも、今日の俺ほど、
「自分で自分が信じられない行動や発言を取る日」
は無かった。
その、極め付きが、この俺の次の言葉だった。
「・・・おまえ、なにいってるんだ?
この世界のどこに、自分が助けた子猫ちゃんとエッチする
鬼畜のような馬鹿がいるんだ?」
いや、いる。
ごろごろいる。
もう一度、同じシチュエーションになっていたら、
まちがいなく俺も『鬼畜』の一員になっていたことだろう。
彼女は、それまでの堕天使の微笑をその表情から消し去ると、
今度は、本当に、
拾われたばかりの子猫のような不思議そうな表情を浮かべた。
そして、ぷっと吹き出したかと思うと、次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。
憮然としている俺をよそに、彼女は笑いながら問いかけてきた。
「それで・・・それじゃああなたは、拾った子猫をどうするの?」
「そんなの決まってるだろう。
暖めて、朝までゆっくりと眠らせてやるんだよ」
こうなったら毒食らわば皿までだ。
きっと言葉の使い方が間違っているに違いないが、こうなったらもう後には引けない。
ここまで言っといてエッチなどしようものなら、
俺は『超愚か者』すらも通り越した、『救いようの無い愚か者』だ。
「分かったら、さっさと寝るんだ。子猫ちゃん」
もしこの話を友人にしたら、
お前もったいないことしたなぁ、とか。
お前ってほんと素直じゃないなぁ、とか。
お前いくじなしだなぁ、とか言われ、さんざん馬鹿にされることだろう。
無理やり彼女を布団に押し込みながら
(無論、変な意味ではなく文字通りの意味で、だが)
俺はそんなことを考えていた。
素直にベッドに横になった彼女は、
布団の中から顔だけをちょこんと出してこちらをじっと見ていた。
「・・・本当に、しなくてもいいの?」
「くどい」
頼むから、これ以上俺を揺さぶらないでくれ。
「・・・あなたって、本当に変わってる人ね。
今まで似たような状況になっても、そんな反応をする人はいなかった」
「・・・」
今までにこのような状況があった。
その言葉の意味する状況を、俺は想像してしまう。
「でも、勘違いしないでね。
あたしは『ウリ』とかやってるわけじゃないよ」
違うのか。
そうすると、単なる倫理観の違いだろうか。
「・・・いままでも、『好きじゃない相手とはできない』とかって
言う人にも出会ったことがあるよ。
あなたもそのタイプ?」
・・・どちらかというと、そのタイプだ。
でも、そんなオトコは風俗には行かない。
「・・・もしそうだったら、こういえばいい?
『あたし、あなたに一目ぼれしたんだ』って。どう?」
一瞬だけ、彼女にあの表情が戻ってきた。
俺を、下の世界へ誘うような『堕天使』の笑み。
だが、それでも。
俺は反応しなかった。
ただ黙って、彼女を見つめていただけだった。
本当は、なにも答えることができないだけだったのだが・・・
「・・・おにいさんって、なんにも聞かないし、なんにも答えてくれないのね」
俺はふっと笑っうと、彼女の頭をなでながらこう答えた。
「そりゃそうだ。家に連れ帰った子猫ちゃんに
素性なんか聞いても答えてくれるわけ無いだろう?
せいぜいこうやって・・・頭をなでてやるだけだ」
「ふふふ・・・きもちいい・・・」
彼女はまた、子猫の表情に戻ると、気持ちよさそうに目を瞑った。
ごろごろ、と、冗談交じりに猫なで声を発している。
「不思議だね、こんなことが気持ちいいなんて思えたの、初めてだよ」
最後に彼女はそう口にすると、
ゆっくりとまどろみの世界へと旅立っていった。
俺が本当に大変だったのは、このあとの時間だった。
これまで我慢していたとはいえ、このようなシチュエーションでじっとしていることに
若い男の『本能』が耐えられるだろうか。
俺はこの状況を打破するために、彼女の顔を一切見ないようにしながら、
冷蔵庫に入ったビールを3本も飲み干した。
ただでさ酒に弱い俺が、心身ともにへろへろの状態で、アルコールの力に勝てるわけが無い。
俺はめずらしくべろべろに酔っ払い、
気が付くとそのまま床で泥酔してしまっていた。
―――――――――――――――――――――――
翌朝。
俺は床に寝たまま目を覚ました。
奇跡的にも、目覚ましがなる1分前に目を覚ましていた。
身に付いた習慣というのは恐ろしいものだ。
暖房を付けたまま寝たおかげで、なんとか風邪は引かずに済んだようだ。
そして、なぜ自分が床で寝ることになったのか。
昨夜の状況を思い出すうちに、自然と俺の目はベッドに向かっていた。
・・・やはり、いた。
夢でもなんでもない。
まぎれもなく、一人の少女がすやすやと寝息を立て、俺のベッドでぐっすりと眠っていた。
俺は、とりあえずコーヒーを飲み、顔を洗って朝飯を食べ、食後の一服をする。
そして、おもむろに紙とペンと1万円札を取り出すと、ゆっくりとペンを走らせた。
『子猫ちゃんへ。
この1万円は、俺が置き忘れたものだ。
だから、無くなっていてもわからないし、
どうやって無くしたかも覚えていないだろう。
朝飯は、冷蔵庫のものを適当に食べてくれ。
いくら幼い子猫でも、それくらいはできるだろう?』
・・・我ながら本当にお人よしだ。
俺は、自分の取る行動に心の底からあきれながら、
いつものように会社に行くために家をでることにした。
―――――――――――――――――――――――
その日の俺はまったく仕事に手が付かなかったことは事実だった。
そして、俺にしてはめずらしく、就業の合図とともに会社を飛び出した。
別に期待をしていたわけじゃない。
本当は彼女がどうしてるか心配しているだけだ。
自分自身にそう一生懸命言い聞かせたが、本当の本心は俺が一番よく知っている。
ようやく自分の住むマンションについたとき、
外から見て部屋の電気が消えていることに気付いた。
まだ寝ているのか・・・
それとも、もういなくなってしまっているのか。
ほんのわずか、意味不明の期待を抱いたまま、俺は自分の部屋のドアを開けた。
鍵は、かかっていなかった。
部屋の中は薄暗く、俺はすぐに電気をつけることにした。
まず俺の視線が飛んだ先はベッドだった。
そこは既にもぬけの殻で、綺麗に整理されたベッドの上には
これまた綺麗に整理された、俺が彼女に貸した服が畳んで置いてあった。
次に俺が見たのは、部屋の壁だった。
かつて彼女のセーラー服が干してあった壁には、
今はただハンガーがかかっているだけだった。
そして、最後に見たのは、机の上だった。
朝、俺が書いたメモ書きはそのまま残っていた。
だが、一緒においてあった1万円札は、綺麗になくなっていた。
「・・・・・・・」
俺は途方にくれながら、自分が書いたメモ書きを手にとって見た。
よく見ると、そこには、自分が書いたもの以外の言葉が一言だけ書かれている。
その言葉は、こうだった。
『バーカ』
・・・それが、どういう意味なのか、俺にはわからない。
ただ、俺のほんのかすかな期待(あるいは妄想)が、音を立てて崩れたことだけは確かだった。
俺は、正真正銘の『お人よし』だったんだな。
このとき初めてそう、実感できた。
俺は、その紙をくちゃくちゃにすると、思いっきりゴミ箱に向かって投げつけた。
「くそー!!こんなことなら一発やっときゃよかったー!!」
俺の魂の叫びが、部屋の中にこだましたのだった。
・・・その夜の、俺の部屋のティッシュの使用量が
平常時の数倍行った事は、ここだけの秘密である。