中編
いったい、なにがどうなったらこうなるのだろう。
俺はタバコをふかしながら自問自答を繰り返していた。
背後ではシャワーの音。
今の俺はワンルームでの一人暮らしだから、シャワーを浴びているのは家族ではない。
当然、彼女でもない。友人でもない。
名前すら知らない、『子猫ちゃん』だ。
もちろん、『子猫ちゃん』といっても、文字通りの子猫ではない。
本当にシャワーを浴びる猫がいたならば、今頃俺はアイドルスターだ。
シャワーを浴びている『子猫ちゃん』の正体は、
今日であったばかりの、見ず知らずの『女子高生』だった。
笑えないジョークだと思いながら、俺はタバコをもみ消した。
こんな話、だれが信じるだろう。
今の状態を、だれが予想できるだろう。
俺はため息とともに、先ほどまでのやりとりを思い出していた。
―――――――――――――――――
「それで、やさしいおにいさんは、このずぶぬれの子猫ちゃんをこのまま放っておくつもりなの?」
あまりの言葉に驚いた俺は、思わず傘を手放してしまった。
冷たい雨のしずくが、無防備の俺に無常にも降り注ぐ。
なんなんだ、この女子高生は。
頭の中が真っ白になって、冷静に物事が考えられなくなる。
そんなとき、人間とはとても不思議なもので。
自分でも思ってもいないことを、
なにひとつ思案することも無く口にしてしまう。
このときの俺も、例外ではなかった。
「そうだなぁ。普通は家に連れ帰ってタオルで拭いてやって、
あったかいミルクを与えてあげるものだけどな」
ありがちなシチュエーション。
恋愛ドラマで男性のやさしさをかもし出すためのワンシーン。
そのとき、俺はそんなものを思い浮かべていたのであろう。
しかし、言った後でその言葉を冷静にかみ締めてみて、
改めて自分が言ったことの意味を理解した。
そして、愕然とした。
『そうだなぁ。普通は家に連れ帰ってタオルで拭いてやって、
あったかいミルクを与えてあげるものだけどな』
俺は、こともあろうに、
この女子高生を自分の部屋に誘っているではないか。
もちろん俺は、童貞ではない。
(ただし、初体験は21歳のときだったが)
もちろん、ナンパもした事はある。
(もちろん、成功したことはない)
彼女だっていた時期もある。
(もっとも、長くて6ヶ月で振られてしまっているが)
風俗もいったことはある。
(友人に連れられて2回だけ、であるが)
だが、それでも。
いくら俺が彼女イナイ暦2年の欲求不満だからといっても。
いくら相手がうら若きピチピチの女子高生だからといっても。
俺に、見ず知らずの女子高生を家に誘うような甲斐性は断じて無い。
ありえない。
いや、できない。
・・・勇気が、ない。
しかし、いまの俺の発言は、
俺のこれまでの26年間をまるごと否定するような内容だった。
そんな、自分自身の心の中で人生最大級の混乱の暴風雨が吹き荒れているときに、
その女子高生は、にっこりと笑うと、こともなげにこう言ってきた。
「それじゃあ、そのとおりにしてよね」
そして、気が付くと、俺は自宅でタバコを吸っていたというわけだ。
・・・女子高生を連れ込んで。
――――――――――――――――――――――
ガチャリ、と音がして、シャワールームのドアが開く気配がした。
その音に、なぜか俺は心臓が飛び出るほど驚いてしまった。
「あのー。やさしいおにいさん?」
「ん、なんだ」
奇跡的にも声が裏返っていないことを神に感謝しつつ、俺は冷静を装って返事を返した。
「あたし、制服がびしょぬれで着る服が無いんだけど・・・」
急にそんなことを言われても困る。
大体、彼女が2年もいない俺の部屋に女物の服があるわけがない。
第一、もしあったとしたら、俺はただの『変態』だ。
俺はしぶしぶ自分の洋服がしまわれたタンスから適当な服を見繕うと、
女子高生の姿を視界に入れないように注意しながらシャワールームの前に置いた。
女子高生が服を着ている間、俺はもう一度タバコに火をつけた。
紫煙をゆっくりと口から吐き出し、ニコチンが体内を掻きまわるうちに、
次第に冷静さを取り戻していく。
予測不能の出来事が発生したとき、人間にできる唯一のこと。
それは、『考えること』だ。
今の状況を正確に把握し、そして適切に対処するためには、なにを考えたら良いのか。
とりあえず俺は、彼女の素性について考えてみることにした。
制服を着ていることから、
おそらくは最初の予想通り女子高生なのだろう。
だとすると、年齢は16~18歳と思われる。
次に考えるのは、なぜあんな時間にあんな場所にいたのかだが、
これはいろいろなことが考えられる。
無難な線としては、友達と遊んで帰るところに、突然の雨が降り出した。
そしてお金も無く、帰るに帰れない状況になって、しかたなくあの場所で雨宿りしていた。
ふむ。我ながら無難なシチュエーションだ。
でも、そうすると、この女子高生がなぜ弁当をもらっただけで満足せず、
俺の家まで付いてきたのかの理由がわからなくなる。
そこで次に思い至ったのが、あまり自分でも好ましくない想定だが、
かなり正解の可能性が高い考えだった。
援助交際。略して『エンコー』
あえて説明するならば、それは女子高生が、自分の体を売る行為。
俺が知っている限りでは、この世界では
エンコーは、金持ちの変態オヤジが行う立派な犯罪だ。
誰がなんと言おうと、基本的に健全な青少年である俺には縁の無い世界。
だが、もしそれが今、俺の目の前にあるとしたら・・・
偶然にも、俺が声をかけてしまった相手がもしそうであるならば・・・
「・・・・・・さん」
「・・・いさん」
「おにいさん!」
3回目に呼ばれて、俺はようやく自分の真横に彼女が立っていることに気づいた。
驚きのあまり、ひっくり返りそうになる。
「おわっ、おま・・・いつのまに・・・」
「タバコ」
「・・・え?」
「タバコの灰、落ちたよ?」
「あっ」
どうやら俺は、タバコを吸っていたことも、ましてや彼女が近づいてくることさえも
わからないほど集中して考えていたらしい。
しかも、声をかけられた拍子にタバコの灰を床に落としてしまう始末。
「あーあ、床が汚れちゃったね」
女子高生はそばにあったティッシュを取ると、床に落ちたタバコの灰をそっと拾い上げた。
俺の視線が、自然と彼女の行動を追いかける。
そして、俺はこのときはじめて、
その女子高生の顔をじっくりと見たのだった。
茶色の髪はその長さは肩近くまである、いわゆるセミロングで
シャワーのせいでぺったりと頭にはりついている。
体つきは小柄で、おそらくは160cmも無いだろう。
まっすぐ立っても彼女の頭のてっぺんが、男性としては平均よりやや高い
180cmの俺のあごの下になんとか届く程度だ。
普段見慣れた俺の服を着ているその体は比較的華奢に見える。
だが、さすがに10代後半にもなると、女性の特徴である胸のふくらみを
十分に見て取ることができた。
そして、風呂上りで上気したその顔立ちは、
俺が暗がりで認識していたイメージよりもはるかにかわいかった。
俺の両手で包み込めそうなくらい小さな顔。
吸い込まれてしまいそうになるほど大きな二重の目。
まばたきをするたびにゆれうごきそうな長いまつげ。
その奥にある綺麗な瞳は薄く茶色がかっていて、
髪の色とよくマッチして神秘的な雰囲気をかもし出している。
化粧を落としたせいだろうか、
暗闇でもはっきりとしていた眉毛はかなり薄くなっていたが、
きちんと切りそろえてあり、少しも違和感を感じさせない。
肌の色は日焼けとは無縁と思えるほど透き通っていて、
思わず触りたくなるほどやわらかでやさしい印象を与えてくる。
そして、すこしぺちゃんこの鼻の下にはまるで雪の上に咲いた花のような
薄いピンク色の唇があり、その隙間から真っ白な歯が覗いていた。
・・・いや、正直『かわいい』などというレベルではない。
おそらく、俺が今までの人生で出会った女性の中でもトップ3に入るくらいの美少女だ。
そんなかわいい子が自分の部屋でシャワーを浴びて、
しかも自分の服に着替えて目の前に立っている。
あまりにも日常からかけ離れた情景にもかかわらず、
俺はじっと彼女に見蕩れてしまっていた。
彼女はタバコの灰を丁寧にティッシュでくるむと、近くにあったゴミ箱に放り込んだ。
そして、ゆっくりと振り返ると、今度はいまだに見蕩れたままの俺に向かって
おもむろに両手を前に突き出した。
「?」
一瞬、なにをしているのか理解できなかった。
首をひねる俺の姿に少しだけあきれた表情を見せながら、
彼女は先ほどよりもぐっと両手を突き出してこう言った。
「ミルク」
「へ?」
「ミルク、くれるんじゃなかったの?」
「あ、ああ。そうだったな。すまん」
なんで俺はあやまっているんだ。
そんなことを思いながらも、彼女の顔に見とれて動転していた俺は
言われるがままに冷蔵庫へ牛乳を取りに行った。
コップに牛乳を注ごうとして、俺はようやくここが自分の家であることを思い出した。
これではまるで俺は奴隷ではないか。
・・・冷静に考えると、頭に来る。
なんで、俺があいつのいいなりに働かなけりゃいけないんだ。
このまま素直に牛乳を渡すのはなんとなく癪に障る。
俺は食器置き場ににおいてあった小皿を一枚取り出すと
なみなみと牛乳を注ぎ込んだ。
そして、その小皿を彼女の前にぽんっと置くと、
驚いた顔で俺を見つめる彼女に対してここぞとばかりにこう言ってやった。
「お前、子猫ちゃんにミルクをやるなら小皿に決まってるだろう?」
ようやく一矢報いてやった。
俺は心の中でほくそ笑んだ。
だが、彼女はそんな俺をあざ笑うかのように、
俺の作戦をはるかに上回る反撃を開始し始めた。
なんと、目の前の小皿を見てぺろりと舌なめずりすると、
そのまま手も使わずにぺろぺろと牛乳を舐めはじめたのだ。
あげくの果てに、こうのたまった。
「おいしいにゃーん」
・・・俺の完敗だった。
牛乳をゆっくりと飲み干した後、
彼女は「いただきます」と小さな声を出して、先ほど俺が手渡した弁当を食べ始めた。
その姿を見て、それまで彼女の行動に釘付けになっていた俺も
ようやく腹が減っていたことを思い出して、
こういうときのためにストックしておいたカップラーメンを食べることにした。
ふーふー。ずるずる。
ぱくぱく。もぐもぐ。
ふーふー。ずるずる。
ぱくぱく。もぐもぐ。
「あーおいしかった。ごちそうさまでした」
「うむ、俺もごちそうさま」
俺はとりあえず食後の一服をしながら、
栄養を補給しようやく活動を再開した脳細胞をフルに活用して、
これからこの少女にどう対応するか考え始めた。
だが、このときも先手を打ったのは彼女のほうだった。
「・・・この服、やっぱり大きいね。ぶかぶかだ」
彼女の言葉にはっとなって俺はその姿をまじまじと観察してしまった。
自分が普段着ている服を異性が着る。
このことに、反応しない男性は存在するのだろうか。
ただでさえ、まともでない状況だ。
その姿を見るだけで、俺の心の奥底にある『野性の本能』が
激しく反応してしまったのは無理も無いことだと思う。
そんな俺の変化に彼女も気付いたのだろうか。
少し覗き込むような視線を俺に向けながら、
次のような言葉をそのつややかな唇から発したのだった。
「・・・エッチ・・・する?」
この日、何度目になるのかわからない強烈な衝撃が、
俺の全身を一気に突き抜けていった。