33
見上げれば満天の星。
木々の間を風が通り過ぎる音。
川のせせらぎ。
キジバトの鳴き声。
それは、記憶の中にある風景と同じだった。
見慣れ、歩き慣れた山道を躊躇う事無く登り始める。
子供の頃は舗装などされていない、獣道同然であった登山道は十年ほど前に行われた開発事業のおかげで立派に舗装され、転落防止の手摺やトイレに休憩所も設置されていた。
当時は思い出の場所を汚されたような気がして嫌いだったのだが、今になって思えば、年齢を重ねても、そう大した苦労なく、思い出の場所に来れるというのはそれはそれでいい事なのだと思える。
それに、山頂からの眺めは変わらない。
いや、高層のビルや高速道路の高架など、子どもの頃に見た景色とは幾分様変わりはしている。ただ、遠くに見える山や川の形に面影は有る。
このたいした自慢にもならない田舎の地方都市も自分と同じように、成長しているのだ。
だが、既に自分はこの街の成長を忘れている。
山頂にあるのは簡素なベンチと眺望の解説案内板、町内地図、双眼鏡。
その中の地図に視線を向ける。そこには市内の史跡や図書館、学校などが記されていた、のだろう。自分には、その殆どを読み解く事は出来ない。夜だからではない。地図を照らしてみても、目を凝らしてみても、近づいてみても。その輪郭はぼやけてしまう。
溜息を一つし、大きく深呼吸を続ける。
肺一杯に懐かしい空気を取り込むと、ベンチに座り込む。
既に、この自分の生まれ故郷の記憶はほとんどない。
いや、全ての記憶が無い訳ではない。街中を歩けば、道に迷う事は無い。どこそこの公園でよく遊んだ、などの記憶は持ち合わせている。
ただ、その公園の名前。遊んだ誰かの名前。駄菓子屋の名前。本屋の名前。小学生時代に名付けていた野良猫の名前。そういったものを失っているのだ。
勿論、それを失ったからといって何がどうなる訳でもない。
そもそも、失ったと気付くまで自分もその名前を忘れていたぐらいだ。
そんなものを失ったところで、自分にとっては大した影響はない。
なにせ、年齢も年齢だ。
忘れていない記憶を思い出す方が難しい。
だから、この程度か、だ。
初めて死を体験したときからそれは変わらない。
再び、溜息を吐く。
そして、そんな自分の記憶の事なんかよりも、考えなければいけない事は山ほどある。
なにせ、この世界には子供ばかりだ。それも、少し背伸びが出来る子供ばかり。
背伸びをしているからこそ、その殆どが前を、上を見ている。
自分たちが善意によって行動を起こせば必ずそれがどこかで実を結ぶと信じている。
それによって自体が悪化することを無意識のうちに視界から外している。彼らの最悪の想定は、最悪の想定ですらない。
社会とはそういうものだ。
最悪とは常に自分が想像しうる最悪の二歩先を軽々と飛び越える。
その最たるものが先ほどまで戦っていた〈虚実の悪魔〉だ。
結局、最後まで名前を読み取る事が出来なかったが、あれはどちらかというと自分たちと同じ部類なのではないか、と考える。
異界からの来訪者。
だって、そうだろう。
自分たちが地球から異世界にやってきたのだから、他の異世界からエルダーテイルにやってきた存在がいたとしても何ら不思議ではない。
そして、エルダーテイルのプレイヤーが〈大地人〉側の〈冒険者〉という枠に当てはまっている。
ならば、あれは〈モンスター〉側の〈レイドボス〉。
『――それは、違う』
自分しかいない筈の世界で唐突に声が聞こえ、ぐるりと世界が反転した。
■
岩塊が剥き出しの大地。
自信の記憶に一切存在しない大地。
今までも、ここに来たことはある。
むしろ、蘇生する際に、ここを通るのは一つの通過儀礼だ。
だが、気付けば自分の記憶の世界からここに来ていたのに対し、今回は誰かに呼ばれるようにしてここに来た。
そして、認識したからこそ分かる。
ここが、月――テストサーバなのだろうということが。
今までも、この地を訪れた〈冒険者〉は多いはずだ。だが、テストサーバにサブアカウントを作成している日本人プレイヤーはそもそもその絶対数が少ないし、テストサーバは月である、などというのは公式回答ではない。たしか、アメリカのファンサイトで議論があった程度の事。
故に、この場所がテストサーバであり、月である。などという答えに辿り着く日本の〈冒険者〉はほとんどいない筈だ。
勿論、この事に気付いたとして、それを吹聴する利点もほとんど無い事から黙しているだけなのかもしれないが。
ふと、赴くままに岩浜を歩く。
すると、蜃気楼の様な儚い海が視界に飛び込んできた。
水面は空を映し、幻想の世界からくりぬかれたような、初めて見る光景。
その水面の際。
砂と水がせめぎ合うところに、一つの影が立っていた。
あれが、誰かは、不思議と理解している。
適当に歩いてきたつもりではあるが、実際のところ、あの影に引き寄せられるように歩いてきたのだろう。
『――ハジメマシテ、で良かったのだろうか』
「そうだな」
ぼやけた輪郭を持つその影は、丁寧な口調かつ何処か聞き慣れた声で言葉を投げ掛けてきた。
『まずは、感謝を』
「感謝されるようなことをした覚えはないけど」
『だろうな。それでも、私は、君とその仲間たちに感謝したいのだ』
「じゃ、ありがたく」
軽く言葉を返したあと、躊躇う事無くその影の隣に立ち、そして座り込む。
そのまま、水面を眺める。
プラネタリウムを上から眺めているような、幻想的な視界。
一分、二分と静かな時が流れる。
『――聞くまでもないが、これからどうするのだ』
傍らの影が、静寂を裂くように言葉を発した。
「そりゃ、戻るさ。あそこに」
頭上に輝くコバルトブルーの巨星を指さし、言う。
近頃薄くなってきた頭髪を数本抜き、それが搭乗チケットであるかのように影に見せる。
『やはり、か』
聞くまでもないと口にしていた以上、自分の答えは想定済みだったのだろう。
そして、やや輪郭を持ち始めた影は口を開く。
『私の話をしよう』
そして、影は語る。
自らが〈航界種〉と名乗る集団である事。
〈航界種〉は、さらに〈監察者〉と〈採取者〉に分かれる事。
自分たちは〈共感子〉という資源を求めて、気の遠くなる試行錯誤の果てに今回のチャンスを得たこと。
自分たちがこの世界で活動するには新たな器が必要であること。
〈監察者〉はこのゾーンに眠る中身が空の〈冒険者〉なるモノを拝借したこと。
〈採取者〉はこのゾーンに眠る中身が空の〈レイドボス〉なるモノを拝借したこと。
自らは〈採取者〉であること。
そして、〈レイドボス〉の器を得た際に――機能不全を起こしたこと。
つまり。
「あれは、暴走してたってことか?」
『それに近い。私は、器と重なった際に穴を開けてしまった。あのままでは、私は世界へと拡散し消えていただろう。故に、自らを消さない為に、減る以上の量の〈共感子〉を求めた。本来、それは私が使ってはいけないモノと知りながら』
「そんじゃ、今はどうなんだ? レイドボスの格好じゃなくなってるけど」
『私の器は破壊された。他ならぬ君の手で。だが――』
影はそこで僅かに言い淀む。
それは、どう説明すれば良いのか分からない、と言った風情で。
『片翼の天使ギルファー、君は一体何をした?』
その呟きには驚愕と畏怖が浮かぶ。
『器が無ければこの世界において存在を留めることは出来ない。今の君のように器が破壊されたとしても器そのものに修復機能が備わっていれば、修復に要する対価を支払えば問題は無い。だが、私が器とした〈レイドボス〉にはその機能は備わっていなかった。つまり、私は君に器を破壊された時点でこの世界から消滅していなければおかしいのだ』
「……消えてなくね?」
『そうだ。だからだ。だから、君は何をした。何故、私は君と繋がっているのだ』
その言葉にギルファーは疑問を抱く。
「繋がっているって、どういうことよ」
『……私の現在の〈器〉は〈片翼の天使ギルファー〉だ。少なくとも、そう認識している』
「意味がわからんぞ。じゃあ、あれか。俺はその器とやらを失ったのか?」
『いや、私と君とで〈片翼の天使ギルファー〉という〈器〉を共有してしまっている。それは確実だ。何故なら、今私が使用しているこの言葉は、君の内にある語彙から成るからだ』
「端的に頼む」
『答えを明確に提示させないで道筋を提示し相手に答えを考えさせるというのは君の個性だろう。多少の差異はあろうが、私もその影響を受けているのだから勘弁してほしい』
ため息交じりで肩を竦めるような素振りを見せる影に既視感を覚える。
輪郭の覚束ない影は、今では少しずつ、見覚えのある姿へと収束していく。
「それはもしかして肉体に中身が引っ張られてるってやつか」
『その通りだ。……話が逸れた。現状、私と君は一つの器に二つの中身が混じり合っている状態だ。私は、このような現象を知らないし、前の器に搭載されたシステムにもそのようなものは存在しなかった。ならば、君が何かしたのだろう? いや、端的に言おう。君が、最期に使ったアレの仕業だ』
〈道化の切り札〉。
片翼の天使ギルファーが開眼した〈口伝〉の一つ。
あれは、エルダーテイル時代にもあった、自らのHPとMPを減少させることで爆発的な攻撃力を得る、といった類の特技を更に一歩進めた代物。その両方を0とし、更にデスペナルティによる経験値の減少を増加させる事で超抜的な破壊力を得るもの。
おそらく、伝授すれば誰にでも容易に使用できるタイプの〈口伝〉だろう。
だが、これは禁技だ。
目先の力を得るために、自らの強さを減少させるものだからだ。
しかし、果たして本当にこの技の効果はそれだけなのだろうか。
実装当時は目も向けられなかった特技が後にマスクデータが発見されて見直されたり、新しいビルドの発見によって日の目を浴びたりなどと言うのはよくあった事だ。
ならば。
『狙った訳ではなく、偶然だった、と』
影の言葉に頷く。
『君の中にある語彙では表現が難しいが……。あれは〈共感子〉を〈器〉から剥離させ、更に最小単位にまで乖離させるモノではないかと思う』
「よくわからんねーけど、それって結構致命的?」
『致命どころではないな。即死だよ。私の存在はそこで消えていたはずだ。何故なら、私の〈器〉に蘇生するシステムは存在しないのだからな。故に、私は此処に来ることも無く、散っていなくてはおかしかいのだ』
「でも、此処にいる」
『その通りだ。〈冒険者〉という種族は蘇生の際に、幾許かの〈共感子〉を世界に還元する。君の中にある言葉で言うならば、僅かに記憶を失う。その、失われた幾許かの〈共感子〉の隙間に、私の〈共感子〉が入り込んだのだろう』
「あー……さっぱりわからん」
『それで良い。推測に推測を重ねるのは私も好きではない。――だが、このままでは蘇生できんぞ?』
一つ溜息を吐く。
目眩がする。
単純に情報量が多すぎる為だ。
目の前の影が、とりあえず自分とは異なる世界の知的生命体である事は理解した。
どちらかというと情報生命体とかそういった類だろう。
もしかしてこれは異星人とのファーストコンタクトなのではなかろうか。
ならば、お約束として指と指を突き合わせるべきか。
などということはどうでもいい。
大事なのは、蘇生できない、という言葉だ。
『解決策は簡単だ。私との繋がりを絶てばいい』
「どうやって?」
『一つの器に二人がいるから問題なのだ。ならば、器をもう一つ用意すればいいだけさ』
■
嫌な目覚めだ。
生きた心地がしない。
相変わらず、蘇生というものには全くと言っていいほど慣れない。
だが、そんな事よりも溜息を吐きたくなることが一つだ。
「や、おはよう。凄い情報量ね、これ」
目の前に立つ〈猫人族〉の女性〈冒険者〉。
名前は「セブン・フォウ」。
メイン職業は〈施療神官〉でサブ職業は〈祈る者〉。
顔立ちは〈猫人族〉であるが故に、元の顔は判別できないが、その立ち振る舞いや仕草には見覚えしかない。
「――セブン、でいいのか」
「えぇ。今後ともよろしくね、兄さん」