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オルフェウスの帰還  作者: 望都 光雄
7/7

大団円或いは永遠の繰り事

その髪

黄金色(こがねいろ)に輝きて

豊かに実り

大地を潤す

麦の穂に似る


その瞳

紺碧の空と海を

交互に映し出し

(いたずら)に見入る者の

魂を奪い去りぬ


白磁の如く

蒼白なる(はだえ)

柔らかく潤いに満ち

紅き血潮を運びし

血の道は(はだえ)の下で

蒼き流れをつくる


血潮が集いし

紅の唇よりは

甘き薫りと共に

妙なる楽の音に似た

言葉が流れる


我が竪琴の

奏でし調べに合わせ

しなやかなる體

軽やかに舞いし姿は

宛ら天女の如し


その最中

神に呪われて

地を這いし毒蛇

白く柔かなる内腿に

噛みつきけり


毒牙にかかりし我が妹

その場に倒れ伏す

我、内腿を露にし

白磁に付きし噛み傷に

口をつけ毒を吸出したり


然れど間に合わず

我が妹、息絶えたり

柔肌、忽ち強張り

血の気も失せたり

紅き唇、紫に染まりぬ


我、天を仰ぎて

運命を司る神に乞う

時を逆しまに回して

我が妹、蘇らせたまえ

さもなくば、我に死を


天、応えたまわず

水に流すも、

地に埋めるも

屍の腐肉と化するを

我、認めず


逸そ、灼熱の炎に

屍を投うじて

刹那の内に

焼きつくされるを望む

美しき面影のみ遺さんとす

ニンフの手助けにて

柩を造り

華の蓐に妹を寝かせる

その容姿が移ろう前に

己が脳裡に焼き付けり


野辺の送りの楽の音

大気に染み渡り

柩を担ぎしニンフの足取り粛々として

葬列、火山の火口に向かう

噴煙、蒼空を覆い

地の底より

炎の柱立ち上る

柩を降ろし

火口へと押し出したり


柩は炎の海に飲み込まれ

一瞬にして消え失せり

突然の俄か雨

大地に降り注ぎ

黙祷せし、我を打つ


妙なる調べと共に紡ぎだされるオルフェウスの言葉に、

そこかしこからすすり泣きが聞こえてくる。

玉座にある王と王妃も眼を潤ませていた。

「もうよい。わかった。汝の弾き語りを聴いて心を動かざる者は居るまい。」

ハーデースがそう言うと、オルフェウスは語り終えた。

「褒美として、今一度、その女を地上に連れ帰るを赦してつかわす。」

ハーデースの言葉で、玉座の前の恋人たちの右側に、

いつの間にか虚空より階段が現れた。

「その階段をひたすら昇って行けば、軈て地上に辿り着くであろう。

段数は全部で百八段ある。

オルフェウス、汝が女の手をひいて先に昇るのだ。」

オルフェウスは玉座に向かって頭を下げると、竪琴を背負い、

早速、ユリディースの手を取って階段の方に向かおうとした。

その背にハーデースが忠告の言葉を投げかける。

「但し、地上に戻るまでは決して後ろを振り返り、女の姿を見てはならぬ。

この禁を破れば、二人はたちどころに引き離されてしまうであろう。心せよ。」

「承知しております。」

オルフェウスは振り返らずに応えた。

階段の真下から上を見上げると、漆黒の闇の中に一筋の光が射している。

怖れることはない。

あの光に向かってゆっくりと昇ればよいのだ。

オルフェウスはユリディースの柔かな手の感触を確かめると、一段目に足をかけた。

此処からは決して後ろを振り向いてはならない。

昇るにつれて周囲の闇は濃くなり、件の光だけが足元を照らすのみとなった。

階段の両側に広がる闇の中には幾多の魂達が、この光景を固唾を飲んで見守っている。

前回は、段数を数えながら、足早に階段を駆け昇った。

階段が徐々に狭まっていくことを知らず、バランスを崩して、

つい、後ろを振り向いてしまったのだ。

その轍は決して踏まぬ。

オルフェウスは、無心に、ゆっくりと階段を昇っていった。

後、二三段昇れば事が成就すると思った矢先、オルフェウスの掌から

ユリディースの手の温もりが消えかかり、曖昧なものとなった。

「オルフェウス!貴方に抱き締められなければ、私の體は四散してしまう。

貴方の庇護が、温もりがなくば、私は一人、闇に連れ戻される!」

オルフェウスは手を固く握りしめた。

だが、更に背後からユリディースの意外な囁きが聞こえてきた。

「私はもうこれ以上行けない。私の體は地上の光には耐えられない。

光が私の骨も皮も溶かしてしまう!

貴方が持ち帰れるのは一握りの砂の塊だけよ!

私の容姿を見られるのは今が最後よ。振り向いて、私を見てちょうだい!」

オルフェウスは思い出した。前回も彼女がそう言って誘惑したことを。

前回?

幾度めの前回だ?

抗い難い力が、無理矢理彼を振り向かせた。

半ば皮膚が溶け、肉が削げ落ちて骨が剥き出しになった

ユリディースの顔がそこにあった。

恋人の無惨な姿は、オルフェウスが胸に秘めてきた美しい面影を

打ち消してしまった。

此れは悪夢か?

悪夢は繰り返される。

幾度めの悪夢だ?

刹那、光の源より突風が吹き込み、ユリディースの姿は砂の像の如く消し飛んだ。

仕方なくオルフェウスは、一人、突風に吹かれながらも地上を目指した。

光の輪の中心部を行けば、地上に着くことはわかっている。

だが、中心部に紺碧の空は見えず、顕れたのは

太陽の黒点のような闇の一点であった。

光の中の闇は徐々に大きくなり、オルフェウスを飲み込んだ。

この一部始終を目撃していた観衆たちは「ブラボー!」と叫び、

闇の中に拍手の音が鳴り響いた。

「今回の公演も大成功でございますね。」

妃のペルセポネーはハーデースにそう囁いた。


オルフェウスは誰かに見詰められている気がして、恐る恐る眼を開けた。

蒼い瞳が気遣わしげに彼を伺っている。

視線をそらすと、楽園とはほど遠い分厚い雲に覆われた鈍色の空が眺められ、

荒波が岩に当たって砕け散る音が聞こえている。

「此処はどこ?」

オルフェウスは金髪を後ろに束ねた聡明な額と蒼い瞳を持つ少女に尋ねた。

「此処はトラキアのレスボス島よ。」

「君の名は?」

「サッフォー。」

「私はどうして此処に?

ユリディースは?私の故国は?」

サッフォーは細長い指で彼の髪を優しく撫で付けた。

「波間を漂いながら夢を見ていたのね。」

「波間?夢?其れよりも私を抱き抱えているのは重かろう。

もう大丈夫だ。起き上がれるよ。」

サッフォーは驚いたような表情で彼を見下ろした。

「やっぱりまだ夢を見ているのね。私は貝殻を拾いにこの海岸に来たの。

その時、浜辺に打ち上げられた貴方と竪琴を見つけたの。

今、私の腕の中にある竪琴と貴方の首を。」

「首?」

「少し前に、トラキアの本国で、冥界往還の秘儀を教えて貰えなかった為、

バッカスの巫女たちが貴方を殺し、八つ裂きにして海に棄てたという噂が流れたわ。

それは本当のことだったのね。貴方はもう、冥界往還の秘儀を行うことは出来ない。

だって、もう死んでしまったんだもの。

此れからは、私がその秘儀を受け継いで詩を書くわ。

必ず、オルフェウス、貴方を越える詩人になってみせる。」

サッフォーは、憧れの眼差しを今一度、オルフェウスの首に投げた。


水晶玉を通して、オルフェウスの記憶である、

この光景を眺めていたハーデースは、呟いた。

「死者として忘却の河を渡ったというに、未だにこの部分の記憶が残っているようだな。

カロンの奴め、しくじりおって。」

背後からペルセポネーが近づいて、王にしなだれかかり、耳許で囁いた。

「よいではありませぬか。生と死の間で、

微かな疑惑を抱えて苦悶するオルフェウスの表情がまた一段とそそりまする。」

「その苦悶は永遠に繰り返される。それを相手に強要するとは、

いやはや、女とは怖いものじゃな。」

ハーデースは、心の中で嘆息すると、早速、悲恋物語の再生に取り掛かった。


野づらを渡るそよ風が、頬を撫でてとおり過ぎる。

いつもと違い、風には香りがなかった。

朝日と共に目覚めた野の草花の香り、とりわけ、森に棲まうニンフたちの薄桃色の

なめらかな肌から匂い立つ甘い芳香が鼻腔を擽ることで、

私の意識は眠りの底から引き上げられるのだが、今朝はその香りがない。

昨日と違うことは、むしろ私にとって微かな希望を意味していたが、

ニンフの芳香を凌駕する、軽やかさの内に豊かななまめかしさを備えた匂いが

傍らから薫るわけではないらしい。

今朝も私の指は、愛しい女のしなやかな肢体に触れることがないのだった。

今、傍らにあるのは愛用の竪琴ばかりである。

草の褥から身を起こし、竪琴を爪弾いてみる。

大気の状態が不安定なせいか、心なしか音の響きに伸びがない。

微かに空気を振るわせる音の波に呼応して小鳥たちが囀ずりだすはずだが、

その気配もない。

やはり、昨日までとは何かが違う。

私は益々、あの世界に帰ってきたのではないかと感じて立ち上がった・・・・・・・


(完)


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