開幕へ
軀の線が露になる薄手の寛衣を纏ったユリディースは戸外へと飛び出した。
この世界は、彼女の眼差しによって構築される。
彼女が命の芽吹く春を想えば、僅かばかりの冷気を含んだそよ風が吹き出し、
白い無地の画布の上に色彩が散りばめられるように、菫やスイートピーなど
色とりどりの春の草花が萌え出る。
また、夏の熱狂と開放を望めば、忽ち空は紺碧に染まり、熱狂の後の涼やかさを
演出する為に白い入道雲を滲ませる。
槿などの夏の草花が一瞬にして咲き乱れる。
とりわけ、けばけばしい深紅の石榴の花は、彼女の好みとは程遠いが、
夏の景色には必ず割り込んでいた。
彼女があまり望まないにせよ、天高く鰯雲が遊泳する青空のもと、
涼やかな風を頬に感じ、鮮やかな紅葉を眺めることができる秋も、
灰色の空から徐々に降り積もる雪が地上を純白に変えてしまう冬景色も、
思うがままであり、日々、天地創造を楽しんでいるかのようであった。
だが、その節、彼女の前にはすでに道があり、風景が展開されていた。
野面を渡るそよ風が、頬を軽く撫でて通り過ぎる。
けれども、風には香りがなかった。
香りはユリディースが世界を創造する時に最も気を配る部分である。
この薄っぺらな世界は地上を愛し、其処に住まったことがある者ならば絶対に造らない世界だ。
ハーデース、冥界の王が介入して造らせた世界に違いなかった。
季節は春、頭上には輪郭のはっきりしない薄青い空が広がり、雲雀の囀ずりが聞こえる。
春の草花が、パステル調の色彩で描かれた森の小径を辿って行くと、
やがて目の前にエメラルド色の水を湛えた湖が姿をあらわす。
見上げると、湖に注ぎ込む小川の先には峻険な山々が聳え立っている。
山の中腹にはハーデースとペルセポネーが住まう白亜の宮殿が見えた。
湖に沿って歩き、向こう側の湖畔に辿り着くと、其処には菩提樹の大木が植わっているはずだ。
彼女は、そこまで記憶の糸を手繰り寄せると、総てハーデースの創作であることを悟った。
このような状況は、かつて一度だけあった。
忘れもしない、愛しいオルフェウスが死の危険を冒して私を冥界より連れ出そうと
生きながらにしてこの地を訪れた時だ。
彼が再び詩人の霊感を発揮し、私を求めてやって来たとでも。
無い血が騒ぎ、胸が痛んだが、実際には魂に少々の熱気が加えられたにすぎなかった。
只、永久に繰り返される一日の始まりと異なることだけは間違いなかった。
小鳥の囀ずりを伴奏に、懐かしい竪琴の旋律が森を満たし始めた。
反復される優しい旋律は、紛れもなく、彼女を愛撫した指先から紡ぎだされた言葉であり、
如何に冥界の王であっても真似の出来ぬことである。
してみれば、オルフェウスの冥界下りは偶然の成せる業だと彼女は思った。
白亜の宮殿の中で、額をつき付けて水晶玉を覗き込んでいた王と妃は、
竪琴の音色に聞き入っていたが、やがて、竪琴の音だけを抽出し、
音のヴォリュームを上げ、創造した世界に響かせた。
「開幕じゃ!」
ハーデースが声高らかにそう宣言した。