ハーデースとペルセポネー
頭が三つある冥界の番犬、ケルベロスの頭を依怙贔屓なきように撫でながら、
冥界の王ハーデースは目の前に置かれた水晶玉の中を覗き込んでいた。
水晶玉の中では、ユリディースが一糸纏わぬ姿で谷間の河原にできた湯溜まりで
湯浴みを楽しんでいる。
ハーデースはその均整のとれた肢体が湯煙の中から時折、浮かび上がるのを
食い入るように見詰めていた。
「又、覗き見で御座いますか?妾が戻った折りぐらいはお止めになっては如何です。
そのように情けない姿、妾は見たくはありません。」
ハーデースの背後からそんな女人の声が聞こえる。
金髪の長い髪を編み上げ、ハーデースと同じ黒い寛衣を纏った女神は、
爪を漆黒に染め抜いた細長い指で、背後から王の両目を覆った。
ハーデースは、立ち上がり、彼女の方を向くと、今しがた自分の両目を覆っていた
蒼白くしなやかな手に軽く口付けた。
「これはこれは麗しのペルセポネー様。御帰還で御座いましたか。」
ペルセポネーは、大地の女神、デーメーテールの娘である。
彼女はある時、水仙の花を摘もうとした刹那、地の底から現れたハーデースに拐かされた。
母デーメーテールは、この出来事をゼウスに訴え、一旦は娘を地上に連れ帰る。
しかし、ペルセポネーは既に冥界に於いてその地で実った石榴の実を食べさせられていたのだ。
冥界の食物を食べた者は何人と言えども冥界の住人たるべし。
この掟によって、彼女はハーデースの妃となり、一年の半分を冥界で過ごさねばならなくなった。
娘が手元から離れた時、豊穣の女神デーメーテールは嘆き悲しむ。
それが地上に於ける冬の季節に該当した。
「好色は生命の源、全能のゼウスも身をもって奨励されておろう。」
そう言いつつも、冥界の王は、半年だけの妃を抱き寄せると濃厚な接吻を与えた。
ペルセポネーの機嫌が幾分か良くなったことを確認したハーデースは語り継いだ。
「件のニンフめを留めているのは、我が好色の為ばかりではない。
妃も存じておろう、あの竪琴の名手にして詩人の若者が又も、この冥界に迷い込んできた。
わしは、この時を如何に待ちわびておったことか。
妃も覚えておろう。オルフェウスの事を。」
これには、ペルセポネーも目を輝かせた。
「確かに、はっきりと覚えております。みめ麗しい若者のバラッド。
妾も貴方にこの冥界に連れて来られた折りに、愛しい御方がいつか救いに来られると
期待しておりましたが、オルフェウスとユリディースの悲しき道行きは、
その妾の想いを再現したような心地にて感じ入った次第に御座います。」
ハーデースは彼女の元を離れると、再び水晶玉に見る入った。
「妃は実に運が良い。ユリディースの囚われたる魂が我が契約を
履行する様を見物できるのだからな。」
そう言うと、王はペルセポネーに、もう一つ別の水晶玉を覗くように勧めた。